🌈85)─2─花見の桜は短命な日本固有種ソメイヨシノである。~No.149 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 国の天然記念物に指定されている「日本三大桜」。
山梨県の山高神代桜  約1800歳
岐阜県根尾谷淡墨桜 約1500歳
福島県三春滝桜   約1000歳
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 FAQ・桜の豆知識 | 公益財団法人日本花の会
 海外からきた桜の品種ってあるの?
 回答
 あります。
 解説
 海外、特にヨーロッパはサクラの育種が行われています。‘オカメ’や‘アーコレード’、‘ピンクパーフェクション’などはその代表品種です。‘アメリカ’からは‘ピンククラウド’という品種が導入されています。これからも増えることでしょう。
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 じゃらんニュース
 日本には現在、600種類以上の桜があるといわれています。分類方法の違いもあって、正確には数え切れないレベルです。
 そんなたくさんの桜も、元をたどれば11種の「基本野生種」から生まれています。自然交配で生まれたものだけで100種以上あり、古くから園芸品種の育成も盛んです。
 もとの基本野生種とは、
 ヤマザクラ(山桜)、オオヤマザクラ(大山桜)、カスミザクラ(霞桜)、オオシマザクラ(大島桜)、エドヒガン(江戸彼岸)、チョウジザクラ(丁字桜)、マメザクラ(豆桜)、タカネザクラ(高嶺桜)、ミヤマザクラ(深山桜)、クマノザクラ(熊野桜)、カンヒザクラ(寒緋桜)
の11種。
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 2021年3月16日 ウエザーニュース「そのソメイヨシノの樹齢は?
 見極めはつぼみの付き方
 日本の桜の代名詞と言ってもいい存在となったソメイヨシノ。なぜ、こんなにもソメイヨシノが日本中に植えられたのか。
 それは、成長スピードが早いことが要因の一つとなっています。
 ソメイヨシノの樹齢を知る意味
 他の桜に比べて成長スピードが早いソメイヨシノは、お花見の名所を作るのにうってつけの品種です。ただ、成長スピードが早いといえども、ある樹齢に達すると成長は鈍化します。
 植えられた場所の条件によって違いはありますが、おおよそ樹齢30年〜40年で枝や幹の成長がゆっくりになります。
 それでも生き続けますが、その様子は人にたとえると青年期から壮年期、老齢期へと変化していきます。
 ソメイヨシノは寿命が60年とも70年ともいわれますが、動物のようにおおよその寿命があるわけではありませんが、樹齢が50年を超えてくると老木の域に入り、花の咲く時期が若い頃に比べてわずかに早くなる傾向があります。
 その理由は、若い木は枝葉の成長にエネルギーを注ぐ割合が高く、花は二の次になるからです。
 そのため、桜の開花予想をする上では、木(ソメイヨシノ)の年齢を知ることも考慮しないといけません。
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 まいどなニュース
 ソメイヨシノは短命って本当?「いや、それは誤解です」 京都の植物園で古い桜が次々「再生中」 
 堤 冬樹
 多くの人でにぎわいを見せてい今年の桜のシーズン。京都府立植物園京都市左京区)では近年、老齢化したり、災害で倒れたりしたソメイヨシノの再生に力を入れている。同園の専門家は「ソメイヨシノの寿命は短いと思われがちだが、それは誤解です」と強調する。
 樹齢70年ほどとみられるソメイヨシノ。幹の大半は朽ちているが、幹から新たに出た不定根が根付き、枝を伸ばすほど成長している(3月6日、京都市左京区・府立植物園)
樹齢70年ほどとみられるソメイヨシノ。幹の大半は朽ちているが、幹から新たに出た不定根が根付き、枝を伸ばすほど成長している(3月6日、京都市左京区・府立植物園)
 同園によると、ソメイヨシノは成長が早く、一斉に華やかに咲くことなどから、戦後、京都市を含め各地で広く植えられた。
 一方で腐朽菌が入って腐りやすく、植栽から50~60年たつと古木化が進行。倒壊の危険性などもあり、伐採を余儀なくされる木は多い。
 だが同園では、幹が朽ちてぼろぼろになったり、空洞になったりしても切らず、再生を試みている。樹木医の中井貞さん(52)は「芽をふいたり、根を伸ばしたりする生命力の強さもソメイヨシノの特徴。幹や枝を更新しながら、同じ個体として長く生き続けられる」と指摘する。
 実際、どう再生させているのだろうか。例えば、冬場の施肥。そばに鴨川が流れる同園の土壌はもともと石が多く、水分や養分が抜けやすいという。その分、油かすや牛ふんをまぜた有機肥料をたっぷり与えている。
 木々の周囲に大量の落ち葉を敷き詰めているのもそう。園内で出た落ち葉で、やがて分解されて土壌の栄養になる。アスファルト舗装された市街地では難しく、広い園ならではの方法だ。植物を堆肥化した土もふんだんに活用している。
 さらに、根を傷めずに圧縮空気で土をほぐす「エアースコップ」による土壌改良を10年ほど前から定期的に続け、発根を促している。
 ソメイヨシノの朽ちた幹をよく見ると、「不定根」と呼ばれる細かな根がたくさん出ているのが分かる。腐った幹を養分にして伸び、細い竹筒や塩ビ管を使って人為的に地面まで誘導することも。しっかりと根付き、数年かけて新たな幹に育った姿も確認できる。
 こうして同園では、戦前からの古木を含めソメイヨシノ約20本が活力を取り戻している。2018年の台風21号で根元から倒れた木からも若々しい枝が伸び、今年も花を咲かせた。
 2018年の台風21号禍で根元から倒れたが、立て起こして、幹から新たな枝が伸びているソメイヨシノ。周囲には落ち葉が敷かれている(3月6日、京都市左京区・府立植物園)
 中井さんは「きちんと手を加えてあげれば、その分応えてくれるのでやりがいがある。ソメイヨシノ本来の生命力を後押しし、来園者に見てもらうことが、広い土地や技術がある植物園の役割と考えている」と話す。
 京都府立植物園で最も古いとされるソメイヨシノ。周辺の地面で土壌改良を施している(3月6日、京都市左京区・府立植物園)
 この春、桜の美しい花だけでなく、それを支える幹や根元にも注目してみてはどうだろう。
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 2022年4月5日 ニューズウィーク日本版「満開の桜が見られなくなる? 60年寿命説、地球温暖化──花見に迫る危機とは
 桜の花見
 桜の名所に見られる密集した'染井吉野'は傷みやすい? y-studio-iStock
 <平安時代から続いてきた桜を愛でる春の宴は、'染井吉野'の寿命の問題と気温上昇のために近い将来できなくなるかもしれない>
 コロナ禍の影響で花見の宴会ができなくなってから、3回目の桜の季節になりました。開花を伝える桜前線は3月末までに東京や金沢まで北上し、長野や新潟、東北、北海道を残すところになりました。
 今年の桜は、全国で平年よりも2~4日程度早い開花日(各地の標本木で5~6輪以上の花が開いた状態となった最初の日)でした。ちなみに満開日は、東京では開花のおよそ7日後で、標本木の約80%以上のつぼみが開いた最初の日を指します。
 東京の標本木は靖国神社にあり、2020年と21年は観測史上1、2位となる最も早い開花日でした。今年は昨年よりは6日遅いものの、平年より4日早い開花となりました。
 花見の起源は奈良時代、桜の観賞は平安時代から
花見は、四季の変化に富む日本で春の訪れを愛でる伝統的な行事です。
 起源は、奈良時代の貴族が中国から伝来した梅の花を観賞したことにあると言い伝えられます。かつては、日本に古来からある桜よりも、中国産の珍しい花である梅を愛でて宴を開くことが一般的でした。
 現在の元号「令和」の由来は、日本最古の歌集である『万葉集』であると知られています。巻五には約千三百年前に詠まれた「梅花の歌三十二首」が収められており、序文である「初春の令月にして気淑(よ)く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」から引用されました。この序文は、「梅花の宴」を開いた当時の大宰府長官、大伴旅人が認(したた)めたものです。
 万葉集には桜を詠んだ歌も収録されていますが、桜の花見が始まったのは平安時代と考えられています。『日本後紀』には、嵯峨天皇弘仁3年(812年)に京都の神泉苑で「花宴之節(かえんのせち)」を催したと書かれています。記録に残る最古の「桜の花見」です。
 平安時代中期には、桜の花見はさらに一般的になります。文学作品でも「源氏物語」には宮中で桜を愛でて宴を開く様子が描かれ、「古今和歌集」には桜の名所として吉野が登場します。三万本あると言われる吉野の桜は、ほとんどが日本固有種である野生のヤマザクラです。
 鎌倉時代になると、花見は武士や町人にも広まり、寺社などにも桜が植えられるようになりました。源頼朝室町時代足利将軍家も花見を行った記録がありますが、戦国時代や安土桃山時代になると大々的な花見の宴を開く武将が現れます。特に盛大だったのは、豊臣秀吉が文禄3年(1594年)2月27日(新暦4月17日)に開いた「吉野の花見」です。総勢5千人の参加者には徳川家康前田利家伊達政宗らの武将や茶人、連歌師らが含まれており、吉水院(吉水神社)を本陣として5日間開催されました。
いっぽう、庶民の間でも、桜は古くから特別な花でした。農民たちは桜の開花時期を農作業を始める目安にしたり、咲き方で豊作・凶作を占ったりするなど、生活に根差した樹木として大切に扱ってきました。
 江戸時代になると都市部の町民文化が発展し、花見は桜を愛でる風雅な行事というよりも酒盛りを楽しむ娯楽として広がります。植木職人によって桜の交配や改良も盛んに行われるようになり、江戸時代末期には、エドヒガンとオオシマザクラを掛け合わせた(種間雑種の)ソメイヨシノが誕生します。
 日本中の'染井吉野'がクローン
 ソメイヨシノは、花とともに赤色の葉をつけるヤマザクラとは異なり、花の時期には葉をつけません。花は大きく、成長スピードは速く、枝が横に大きく広がって見た目が華やかなため、明治時代以降に急速に広まります。現在は、本州の桜の名所に植えられている品種は、ほとんどがソメイヨシノかつ'染井吉野'です。カタカナのソメイヨシノオオシマザクラエドヒガンの種間雑種全体の名称で、漢字の'染井吉野'は日本全国に接ぎ木で広がった特定の栽培品種を指します。つまり、日本中の'染井吉野'は同じ遺伝子構成(クローン)です。
 近年は、「'染井吉野'60年説」などとともに「桜の名所の危機」も話題になることがあります。
 成長が速い'染井吉野'は年輪が疎になりがちで、樹木の強度が低いにもかかわらず横に広がります。風を受ける面積が大きいため台風などで折れやすく、折れたところから腐食してしまうことが多いです。
 さらに、桜の名所作りのために密集して植えられやすいので、樹木1本について本来必要な光、水、養分が得られる面積を与えられなかったり、多くの花見客に根元は踏みつけられて傷を負ったりしがちです。
 しかも、もともと病気に弱い品種にもかかわらず全てがクローンなので、カビが原因の「てんぐ巣病」などが起きると近くの'染井吉野'全体に病気が広がり、一気に枯死するおそれがあります。
 '染井吉野'は樹齢30-40年が樹勢のピークで、50年を超えると幹の内部が腐り、およそ60年で寿命を迎えるという説があります。
 かつては「桜切るバカ、梅切らぬバカ」という言い伝えがあり、枝の切り口からの腐食を防ぐために、桜は剪定しないことが常識でした。けれど、東北屈指の桜の名所である弘前城では、1960年頃から同じバラ科樹木であるリンゴの栽培技術を応用して、積極的に城内の桜を剪定しました。すると、300本以上の樹齢100年を超える'染井吉野'が今も古木が花を咲かせ、樹勢を保つことに成功しました。剪定だけでなく、土の入れ替えや肥料の与え方にも工夫した「弘前方式」は全国に伝わり、寿命を延ばした'染井吉野'も各地にあります。
 いっぽう、樹齢60年近くなった'染井吉野'から、病気に強い後継品種の桜への植え替えをする自治体もあります。
 東京都国立市のさくら通り(全長1.8キロ)には、1960年代に約180本の'染井吉野'が植えられましたが、2010年頃からてんぐ巣病などによって幹が空洞になったり、強風で倒木したりするものが目立ち始めました。市は2013年から、てんぐ巣病になりにくい桜の品種「ジンダイアケボノ」に植え替えを進めました。
 桜の名所づくりを進める公益財団法人「日本花の会」は、これまでに200万本以上の'染井吉野'の苗木を提供してきましたが、最近は病気に強いジンダイアケボノとコマツオトメへの植え替えを推奨しています。
 2100年には、九州から東北までいっせいに開花する?
 桜の名所の危機の原因は、樹木の寿命だけではありません。九州では、すでに地球温暖化による暖冬の影響で、開花が遅れたり満開まで時間がかかったりする年があります。
 桜の花芽(蕾)は前年の夏に作られ、冬の前に成長を止めて休眠状態になります。その後、冬に一定期間の低温(概ね3℃から10℃前後)にさらされると休眠から目覚め(休眠打破)、そこからは気温の上昇とともに成長します。休眠打破のために必要な低温期間が足りないと、開花はかえって遅れます。そのため、2020年以降、九州では3年連続で北部から南部に桜前線が進む逆転現象が起きています。
 さらに近年は、「満開までに時間がかかる」現象もみられるようになりました。満開の定義は標準木の80%の花が一斉に咲いている状態なので、休眠打破がうまく進まないと花芽の生長の個体差が顕著になって、なかなか80%に達しない状況に陥ると考えられています。
 九州大学名誉教授の伊藤久徳氏は、2009年の地球温暖化シナリオを使って2100年までの桜の開花についてシミュレートしました。その結果、日本周辺の平均気温を平均で2~3℃程度高く設定すると、東北地方で桜の開花が今より2〜3週間早まり、九州などでは1〜2週間遅くなる──すなわち、3月末に九州から東北まで、'染井吉野'がいっせいに開花するという計算になりました。
 さらに、種子島や鹿児島の一部では'染井吉野'は開花せず、九州南部や四国南西部、長崎、静岡などでは一本の木で開花がダラダラと続いて満開にならないという結果が出ました。
 2100年に日本人は花見をできるのでしょうか。地球温暖化を軽減し、あるいは桜の休眠打破をもコントロールできるようになって、平安時代から変わらぬ春の宴を開いていることを期待しましょう。
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 2013年1月8日 さくら雑学事典「その2・百花繚乱 桜の種類について
 世界の桜
 桜の自生種は主に東アジアに分布しています。植物学上の分類によれば、中華人民共和国には33種があります。一方、日本には、分類のしかたにもよりますが10種の桜があるに過ぎません。
 東アジアではこの他、ヒマラヤ周辺に3種類の野生種があります。
東アジア以外では、ヨーロッパから西シベリアにかけて3種、北米に2種あります。
 よく、桜の発祥は日本であるとか、ヒマラヤ桜の多いネパールであるといった説が出ますが、北半球に広く分布しているため、どこが発祥というのははっきり分かってはいません。
 一方、栽培品種がもっとも多いのは日本です。日本には、野生種と栽培品種とを含めて約350種類の桜があります。その数は、新しい種類が発見されたり、交配種が作り出されたりして年々増えています。(名前がきちんと付けられていないものはものすごくたくさんあるはずです。)
 世界でもっとも桜を愛しているのは日本人だと言われることがよくありますが、確かにその通りだと納得する種類の多さですね。
 さて、上記通り北半球に広く分布していますので、日本以外で桜が見られる場所はたくさんあります。
 日本で一番多い桜は?
 それは皆さんの予想通り染井吉野です。
 染井吉野。花付きのよさと、葉が出る前に花が咲くのが特徴。江戸時代後期に売り出され、あっという間に日本各地を覆いました。
 2004年5月8日に、北海道森町 青葉が丘公園で撮影。
 今では、全国の桜の名所のうち約8割が染井吉野を植えていると言われています。
 また、全国に100万本程度あると言われています。
 染井吉野は本州から北海道の南部(道南)まで広く植栽されています。ただし、沖縄と、北海道の広い地域では育ちません。
 染井吉野は、薄いピンク色をしたやや大き目の花が枝にびっしりつきます。花が咲くと他の桜よりも華麗に見えます。この染井吉野オオシマザクラエドヒガンの雑種です。
染井吉野は、江戸時代の末期に染井村(現在の東京都豊島区駒込)の植木屋が売り出したと伝えられています。染井吉野の誕生は謎とされています。
 私は、植木屋(4代目伊藤伊兵衛政武などの説あり)がかけ合わせで作り出したという説が有力なように思っています。(偶然発見したとすれば、オオシマザクラエドヒガンの植生が唯一重なる伊豆半島ということになりますが、江戸時代の伊豆は道が整備されていないため、たとえ染井吉野が誕生していても発見される可能性が低いそうです。)
 ところで、染井吉野奈良県吉野地方とは全く関係がなかったにも関わらず、その植木屋はこの桜を「吉野桜」と名づけて売り出しました。
 植木屋は、桜の名所にちなんだ名前をつけて、たくさん苗を売ろうとしたのかも知れません。言ってみれば、吉野という「ブランド」をちょっと借りたということでしょう。
明治に入って、「吉野桜」という名前のままだと本家吉野のヤマザクラとまぎらわしいということで、改めて「染井吉野」と命名されました。
 さて、染井吉野はなぜ今の日本にたくさん普及したのでしょうか。
 それは、染井吉野がいくつかの長所を持っていたからと考えられます。
 染井吉野は、先に花が咲き、後から葉が開きます。桜の種類によっては花と葉がほぼ同時に開くものもありますが、染井吉野のように花が先のほうが見ばえがするため評判がいいのです。
 また、染井吉野の花は少し大き目で、花付きもよく、見た目が豪華です。
更に、成長が早くて10年も経てば立派な木になり、他の桜に比較すると若いうちから花を付けます。
 これらの長所を持っていたため、染井吉野は明治に入ってから、全国の城跡や公園、学校、道路沿い(そして残念なことですが軍事施設にも)などに植えられ、急速に普及していったのです。
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 2022年4月14日 「桜って・・・知っていますか?
 桜前線が到来し、桜の花びらが満開になっております。
 昨年の春に入社し2度目の桜の季節、今までより少しばかり心に余裕があるようで、現場に出て周りを見渡すと、桜の美しさに目が奪われる今日この頃です。
 皆様はいかがお過ごしでしょうか。さいたま市見沼区の長谷川電気です。
 いつもブログを書くときは、業務的な事を書いてしまうので、心地よい春の日差しを受け、趣旨を変えて業務以外のことを書いてみようと思います。
 日本の花【桜】ですが、公園やお庭など今では身近で誰もが知っている花ですが、どんな花?と調べることは、なかなかないのではないでしょうか。
 サクラはヨーロッパ・西シベリア、日本、中国、米国・カナダなど、主に北半球の温帯に広範囲に自生しています。
 歴史的に日本文化に馴染みの深い植物で、その変異しやすい特質から特に日本で花見目的に多くの栽培品種が作出されてきました。
 このうち観賞用として最も多く植えられているのがソメイヨシノで、鑑賞用としてカンザンなど日本由来の多くの栽培品種が世界各国に寄贈されて各地に根付いていて、もともと英語では桜の花のことを「Cherry blossom」と呼ぶのが一般的ですが、日本文化の影響から「Sakura」と呼ばれることも多くなってきているそうです。
 そんな日本の花【桜】ですが、もともとは日本になく、中国から来た説があるんですよ。
 1975年に日本で出版された桜の専門書「桜大鑑」。その中に、「桜の原産地は中国で、日本の桜は中国のヒマラヤ山脈から伝来した。
 その時期は唐の時代だった」との記述があるそうです。
 しかし一番馴染みのあるソメイヨシノは、日本の園芸品種で、江戸時代後期に日本固有種のオオシマサクラとエドヒガンを改良した「吉野桜」が誕生したとされています。
 この吉野桜は、現在の東京都豊島区にあった「染井村」で、植木職人の手によって作られたといわれており、奈良県にある吉野の山桜と区別するため、のちに「ソメイヨシノ」と呼ばれるようになったのが、現在のソメイヨシノの始まりとされています。【諸説あり】
 染井村の植木職人「GoodJob」ですね。
 そういえば、「さくら」という名前の由来や語源については多くの説があり、どれも未だに「これが正しい説」という確証はないみたいです。
 ですので、その中から比較的認知度が高いものをいくつかご紹介します。
 ◎古事記日本書紀に登場する「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」が由来とする説。
 富士山の上空から桜の種を蒔いたという逸話があり、「さくや→さくら」に変化したと考えられています。
 ◎桜は「豊作をもたらす田んぼの神様が宿る木」と考えられていたとする説。
 「さ」は稲の精霊、「くら」は稲の精霊が降臨する場所を指す古語で、このふたつが組み合わさって「さくら」となったと言われています。
 ◎「咲く」という動詞に「彼ら・彼女ら」など複数を表す接尾語「ら」がついて 「咲く+ら=さくら」になったとする説。
 小さな花が一斉に花開く様子から出た説と言われています。
 ◎「咲麗(さきうら)」とは、読んで字のごとく「花が麗うららかに咲く様子」を表す言葉です。麗らかに咲く花の代表格と考えられていたのかもしれません。
 う~~ん、どれも素敵で捨てがたい由来ですね。
 鮮やかに咲き誇り可憐に散る姿が美しい、そんな姿に日本人は惹かれているのではと感じさせる【桜】、来年も穏やかな気持ちで見ることができる様に、仕事を頑張ろうと思うこの頃です。
 電気工事・高圧工事は埼玉県さいたま市の株式会社長谷川電気へ
 株式会社長谷川電気
 〒337-0026
 埼玉県さいたま市見沼区染谷1344-1
 TEL:090-1440-5910
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2023.08.25
 2023年8月25日 銘木総研 編集部「特集
 日本人と桜
 満開のソメイヨシノ 写真提供: PIXTA
 日本人の多くが愛して止まない樹木のひとつといえば、春の訪れを告げる「桜」でしょうか。ようやく本格的に楽しめるようになったお花見しかり、もちろん主に愛でられるのはその愛らしくも華やかで、儚い桜の「花」ですが、日本人が何故それほどまでに桜に惹かれるのか、日本人にとって「桜」とは何なのか。あらためて考察してみました。

 目次
 梅から桜へ ~日本人はいつから桜を好きになったのか お花見の始まり~
 桜と日本人~日本人はなぜ桜に惹かれるのか~
 桜と日本文化 ~アート・食、日本文化の中の桜~

 梅から桜へ ~日本人はいつから桜を好きになったのか お花見の始まり~
 梅から桜へ 愛でる花が代わる
 山梨県新倉山浅間公園より桜と富士を望む 写真提供: PIXTA
 平安時代まで、日本人にとって「特別な花」といえば、弥生時代(※)中国から渡来したと言われる『梅』でした。8世紀に中国との交易の中で、薬用の「烏梅(うばい)」(梅干の一種)が輸入された際、梅の種や苗も輸入され、その後日本で栽培され始めたようです。
 いずれにしても舶来ということで、当時はとても高価かつ有用な植物として必然的に都の中に植えて管理していました。山桜が野生であるのに対して、梅は人間の手によって栽培されたのです。 また、実用性だけでなく、春になると他の植物よりも早く花を咲かせる「百花の魁(さきがけ)」である梅は、鶯と組み合わせて春の訪れを告げる花として尊ばれていました。
 『万葉集』では「梅」が「桜」の3倍(119首)の数も歌に詠まれていたように、奈良時代の貴族は梅を好み、鑑賞しており、当時の花見と言えば梅の花が主流だったのです。しかしこれは、決して桜が好まれていなかったわけではなく、当時の日本人にとって桜が神聖な木として扱われていたためだとも考えられます。
 例えば、「桜=サクラ」の語源は、天つ神のニニギのミコトと木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の婚姻神話で、春に里にやってくる稲(サ)の神が憑依する座(クラ)を合わせて「サクラ」という説。さらに、富士山頂から花の種を蒔き花を咲かせたとされる、「木花之開耶姫(コノハナノサクヤビメ)」の「さくや」をとったという説など諸説あります。
 その後、894年の遣唐使廃止と、いわゆる「国風文化」の発展とともに、日本に自生していた『桜』を特に好むようになっていったのだと思われます。
 平安時代に編纂された『古今和歌集』で詠まれた花は、梅が約18首、桜が約70首。『万葉集』とはその数を逆転しました。
 主役交代のひとつのきっかけは、平安「三筆」の一人・嵯峨天皇(786~842年)が牛車で行幸の際、京都・東山の「地主神社」の満開の桜に心を奪われ、あまりの美しさに二度、三度と車を引き返しては見事に咲く花を眺めた(このことから「御車返しの桜」とも呼ばれる)とあります。そして御所の庭の「左近の梅」が桜に植え替えられ、雛飾りでお馴染みの、現在の「左近の桜」「右近の橘」の姿になったのだとか。
 桜と日本人~日本人はなぜ桜に惹かれるのか~
 お花見の始まりは嵯峨天皇から
 歌川広重「浪速名所図会・安井天神山花見」(国立国会図書館蔵)
 平安時代初期の史書日本後紀(にほんこうき)』には、嵯峨天皇弘仁3年2月12日(812年3月28日)に京都の寺院・神泉苑(しんせんえん)にて「花宴の節(かえんのせち)」を催したとあり、これが記録に残る最初の「桜の花見」と考えられています。
 その後、「桜の花見」は貴族の間で流行し、天長8(831)年からは宮中で天皇主催の春の恒例行事として取り入れられたそうです。その様子は平安時代中期の『源氏物語』第八帖、「花宴(はなのえん)」にも描かれています。
 そして、安土桃山時代になると、豊臣秀吉による大がかりな花見が世をにぎわせました。
 文禄3(1594)年の「吉野の花見」は、大坂から千本もの桜を移植した吉野の山に、徳川家康前田利家伊達政宗など有力武将ら五千人を招き、5日間も行ったというかつてない盛大なスケールだったことが記録されています。 花見の習慣が庶民にまで広まったのは、江戸時代のこと。8代将軍徳川吉宗は、浅草や飛鳥山に桜を植えさせ、庶民の行楽を奨励しました。
 さらに吉宗は、5代将軍綱吉の時代に「生類憐みの令」で禁止された「鷹狩」を復活させました。その際、農民たちの収益が上がるようにと、鷹狩の場所に桜を植えさせ、花見客が訪れるよう取り計らったのだとか。
 花見にお弁当やお酒がつきものとなったのもこの頃から。花見は千年以上の歴史を超えて現代に生きる日本文化といえます。
 日本人の精神性と深く結びついた「桜」
 花筏〜桜の花びらが川面いちめんに 写真提供: PIXTA
 世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
 これは平安時代初期に書かれた『伊勢物語』の主人公・在原業平が、桜によって心が乱されることを詠嘆した歌。
 ひさかたの ひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ
 これは『小倉百人一首』で紀友則が桜の花の盛りの短さを惜しんで詠んだ歌。
 花の色はうつりにけりな いたづらに わが身世にふるながめせしまに
 同じく『小倉百人一首』で、美貌で名高い小野小町が衰えゆく容色を桜に重ねて詠んだもの。
 ねがはくは 花のしたにて春死なん そのきさらぎのもちづきのころ
 これは桜の名所・吉野に通いつめ、桜へ想いを託す歌を数多く残した西行が、死ぬその時まで桜を愛でていたいと切望した歌。
 これほどまでに日本人が桜を好きな理由のひとつに、桜は春の訪れを象徴する花であること。
 四季がはっきりしている日本では、寒さが厳しい我慢の「冬」が終わり、様々な物事が「はじまり」を迎える「春」は待ち遠しく、うきうきと心躍る季節です。
 もうひとつの理由は、日本人特有の滅びの美学というか、「美しくも儚い花」であること。
 何ヶ月も前からずっと、桜の満開を心待ちにしていたにも関わらず、その爛漫と美しい桜は2週間程度で儚く散ってしまいます。
 特に一斉に咲いて一斉に散る「ソメイヨシノ」が主流になると、満開から花吹雪、花絨毯、花筏へと短い間にその姿は移り変わり、その無常さ、名残惜しさゆえに、より深く心惹かれるのでしょう。
 桜と日本文化 ~アート・食、日本文化の中の桜~
 日本人は芸術、食と「桜」を貪欲に楽しむ
 関東風桜餅 写真提供: PIXTA
 そんなに愛する桜ですから、日本人は、和歌はもちろん、浮世絵、日本画、洋画、工芸品、唱歌、流行歌から、和菓子やケーキなど食にまで「桜」を素材にした数々のものを生み出して楽しんでいます。
 大正生まれの日本画家、菊池芳文は、桜を消えゆくものの美しさと重ね合わせ、桜の儚い美しさに吉野という土地に刻まれた歴史をにじませた6曲1双の傑作屏風絵、「小雨ふる吉野」(東京国立近代美術館蔵)を描きました。
 海外の作家ですが、日本でも個展が開かれた現代アートの巨匠、イギリスのダミアン・ハーストは「桜とは美と生と死にまつわるものである」と語り、「生と死」、「過剰と脆弱性」という彼のテーマを桜に託した連作「桜=Cherry Blossoms」を発表しています。
 「桜を食べる」ことで言えば、関東風桜餅「長命寺」の元祖は、長命寺の門番・山本新六が、享保2(1717)年、門前に「山本屋」を創業して売り出したのが始まりで、もとは墓参の人をもてなした手製の菓子であったそうです。
 おはぎでお馴染みの道明寺粉で出来た関西風の桜餅「道明寺」は、関東風桜餅の人気にあやかり、大坂・北堀江の土佐屋が天保(1830〜1844)頃に作ったのではないかと言われます。
 本記事は、
 ~日本の名木と伝承を明日に紡ぐ~
 銘木総研の広報誌「木魂ッ子」vol.17
 にも掲載されています!
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