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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
今年の桜は散るが、来年の桜は春になるとまた咲く。
日本の桜は、お花見のどんちゃん騒ぎの宴会ではなく、日本の文化・宗教・芸能、死生観・人生観の源流の一つである。
つまり、桜に対する認識は日本人と中国人・韓国人・朝鮮人とは全然違う。
桜は、天皇と靖国神社に通じている。
その意味で、反宗教無神論を語る現代の日本人と昔の日本人とでは桜の見方、接し方が違う。
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日本民族は、西行(隠遁僧侶)・在原業平(都落ち歌人)・松尾芭蕉(俳聖)・葛飾北斎(絵師)など一途に我が道を極める為に全国を流浪する偉人や旅をする賢人が好きで、彼等が愛したモノに憧れを抱く。
その意味で、日本民族は定住者ではなかった。
日本民族は、海の民・舟の民であった数万年前のヤポネシア人(旧石器人)や縄文人(日本土人)の遺伝子を受け継いでいる。
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2024年2月21日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「日本人はなぜ桜が好きなのか――「世捨て人」西行も執着を捨てられなかった「桜への熱愛」
桜はもともと日本列島に自生していた
日本人が桜を愛好するようになったのは平安時代に入ってからといわれている。そして、その人気に拍車をかけたのが、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した歌人・西行(1118-1190)である。
【写真を見る】“自分が死ぬ日”を歌で予言 願い通りの死を遂げた「伝説の歌人」
西行歌集研究の第一人者・寺澤行忠さんの新刊『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)には、西行の桜への熱愛ぶりが紹介されている。同書から一部を再編集してお届けしよう。
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桜の名所として知られる奈良県・吉野山
桜はもともと日本列島に自生していたものであるが、特に吉野山には、他の山より多く山桜が自生していた。
7世紀の末に活動し、後に修験道(しゅげんどう)の祖と言われた役小角(えんのしょうかく)は、仏教を好み、呪術をよくして、葛城山(かつらぎさん)に入って苦行を積み、吉野の金峯山(きんぶせん)、大峰などを開いた。そして金峯山寺をつくり、桜の木に蔵王権現(ざおうごんげん)の像を刻んで奉ったという。以来桜は神木として吉野に寄進されることも多くなり、そのこともあずかって、吉野は今日のような桜の名所となっていったのである。
春の花といえば、『万葉集』では多くの場合梅の花であるが、平安朝になると、桜の花を指すようになった。平安朝の貴族たちは桜の花を愛し、桜の季節には花見もしばしば行われた。勅撰集の春の部には、桜を詠む歌が多く採られている。ただこの時代の桜に対する愛好や花見の習慣は、あくまで上流階級、貴族の世界のものであった。一般の民衆が桜を愛好する風習は、まだなかったのである。
西行も若いころから桜をとりわけ愛し、殊に桜の名所である吉野にはしばしば花見に訪れ、庵を結んではしばし滞在し、桜を愛(め)でた。
「おしなべて花の盛りになりにけり 山の端ごとにかゝる白雲」(世はすべて桜の花盛りになったことだ。山の端ごとに白雲がかかっている)
「なべてならぬ四方の山辺の花はみな 吉野よりこそ種はとりけめ」(並々でなく美しく咲いている四方の山辺の花は皆、吉野から種をとったのであろうか)
「たぐひなき花をし枝に咲かすれば 桜に並ぶ木ぞなかりける」(比類のない美しい花を枝に咲かせるので、桜に比べられる木はないことだ)
桜の花の季節の到来を心からよろこび、あらゆる花の中でも桜に並ぶものはなく、吉野こそその根源の地だとする。「おしなべて」の詠では、桜の花を「白雲」に見立てている。山々を遠望し、その山々に桜が咲き競っていることを詠むいわゆる「丈の高い」歌で、「御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)」に自選し、『千載集』にも採られているが、勅撰集の中にあっても、少しの違和感もない秀歌である。
桜への執着心を捨てられなかった西行
「花に染む心のいかで残りけむ 捨て果ててきと思ふわが身に」(この俗世をすっかり捨てきってきたと思うわが身に、どうして桜の花に執着する心が、残っていたのであろうか)
出家は、すべての現世的欲望を断ち切ることである。だから桜の花に執着する心も放擲(ほうてき)したはずなのに、花を愛でる心は、依然として強く残っている。「花に染む」の歌は、さてどうしたものか、という自問である。花に対する執着心に困惑しながらも、そのような自分をどこかで肯定するのである。この歌は『千載集』入集歌でもある。
「身を分けて見ぬ梢なく尽くさばや よろづの山の花の盛りを」(この身をいくつにでも分けて、あらゆる山の桜の花盛りを、見つくしたいものだ)
「ながむとて花にもいたく馴れぬれば 散る別れこそ悲しかりけれ」(桜を眺めて、たいそう慣れ親しんできたので、いよいよ散って別れるとなると、まことに悲しいことだ)
身を分けてでも、花という花を見つくしたいと願い、いよいよ散るとなると、その別れがつらいという。これらの歌にみられる花に対する熱愛ぶりは、尋常一様ではない。このことは、同時代の他の歌人たちの歌と比較してみれば、ただちに了解しうることであろう。ここまでくると、花も人格を持った人間と同じである。というより、西行においては桜の花はほとんど恋人にも等しい存在であった。
このような性向は、天性の資質と言ってもよいものであろう。すなわちひたすら美を憧憬(しょうけい)し、遥か遠くに思いを馳せる、いわば浪漫的精神とでも呼んでよいものは、生涯を貫く西行の重要な性格の一部をなしている。
その憧憬の対象となる美の中でも、桜は最も象徴的なものである。あまりにも強い執着ぶりに、それは若き日に遂げ得なかった恋の、無意識の代償行為なのかとさえ思われるほどである。がしかし、出家後の単調な山里での修行生活の中で、長くつらい冬を過ごして、春を迎え、匂うばかりの色鮮やかな桜花を待ち迎える喜びが、生来の桜の花に対する偏愛の傾向をさらに助長したであろうことは、想像に難くない。そうした出家後の生活様式も、花に対する熱愛と無関係ではないであろう。
「花の下にて春死なむ」の影響
「願はくは花の下にて春死なむ」――どうすれば西行のように清々しく生きられるのか。出家の背景、秀歌の創作秘話、漂泊の旅の意味、桜への熱愛、無常を乗り越えた「道」の思想、定家との意外な関係、芭蕉への影響……偉才の知られざる素顔に迫る。西行一筋60年、西行歌集研究の第一人者がその魅力を語り尽くす決定版 『西行 歌と旅と人生』
西行は「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」(出来ることなら、生涯愛してやまなかった桜花舞い落ちる木の下で、2月15日の釈迦入寂〈にゅうじゃく〉の日に、この世の生を終えたい)という歌を詠み、実際に、その願い通りの死を遂げた。
そのことに人々はいたく感動し、その事実が西行を主人公とするいくつかの説話文学を生むことにもなった。そうした説話類が広く読まれ、西行の桜を詠む歌が人々に広く愛唱されたことも大いにあずかって、日本人の中に桜を愛好する気風が次第に広く形成されていくことになったのである。
桜を愛好する風は、平安朝以来貴族文学の世界では認められることであり、その後の風潮も、ひとり西行の力によるものではむろんない。けれどもそれが武士の世界にまで及び、さらに広く、日本人全体の国民性にまで定着する上で、西行の与えた影響は少なからざるものがあった。
※本記事は、寺澤行忠『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。
デイリー新潮編集部
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日本民族文化における自然観とは、縄文時代以来、自然と人間が対立しない、自然との繋がりを大切に文化である。
それを体現しているのが、自然物をご神体とする神社である。
日本民族の美意識は、「わび、さび、簡素」だけではなく、濃くて派手な縄文系、シンプルで慎(つつ)ましい弥生系、統一された形式としての古墳系が複雑に絡んでいる。
それを、体現しているのが神社のしめ縄である。
それは、「全てが、控えめにして微妙に混じり合っている」という事である。
谷崎潤一郎「言い難いところ」(『陰翳礼讃{いんえいらいさん}』)
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日本文化とは、唯一人の生き方を理想として孤独・孤立・無縁、わび・さび、捨てて所有しないを求める、「何も無い所」に時間と空間を超越し無限の広がりを潜ませる文化である。
それが、日本人が好む「色即是空、空即是色」である。
日本文化は、中国文化や朝鮮文化とは異質な独立した特殊な民族的伝統文化である。
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日本の宗教とは、虚空・虚無という理想の境地に入る為に自己や自我など自分の存在を肯定も否定もせず、ただただ「はかなく無にして消し去る=漠として死を見詰める」事である。
それ故に、日本文化や日本の宗教は男が独占していた。
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日本民族の伝統的精神文化は宮仕えする男性の悲哀として、行基、西行、一休、鴨長明、兼好法師、芭蕉、葛飾北斎など世捨て人・遁走者、隠者・隠遁者・遁世者、隠居、孤独人・孤立人・無縁人への、求道者として一人になりたい、極める為に一人で生きたいという憧れである。
如何なる時も、オンリーワンとしてナンバーワンとして我一人である。
そして日本で女人禁制や女性立ち入り禁止が多いのは、宗教的社会的人類的民族的な理由によるジェンダー差別・女性差別・性差別ではなく、精神力が弱い日本人男性による煩わしい女性の拘束・束縛からの逃避願望である。
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女性は、子供を産み、子供を育て、末代まで子孫を増やしていく、つまり「命を喜びを持って育み、有を生みだす」存在である。
日本における女性差別は、「死を見詰めて無を求める男」と「命を生み有りに生き甲斐を感じる女」、ここから生まれた。
つまり、男尊女卑と一口で言っても現代と昔とは全然違う。
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日本民族中心神話において、最高神は天皇の祖先神である女性神の天照大神で、主要な神の多くも女子神である。
日本民族は、あまた多くの女性神に抱かれながら日本列島で生きてきた。
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日本民族は、旧石器時代・縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
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田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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