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武士は、松を好み、椿を嫌った。
武士道は、桜ではない。
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日本の天守閣には桜が生えるが、城に桜を植え始めたのは明治からで江戸時代にはない。
武士は、虚飾を嫌い実用と見栄を重視していた。
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2015年4月4日 東洋経済ONLINE「驚愕!大名が建てた「食べられる城」とは?
植物を戦いに利用した武士の知恵
稲垣 栄洋 : 静岡大学農学部教授
加藤清正が築城した熊本城は、「食べられる城」だった!?(写真:kazukiatuko / Imasia)
戦国武将にとって、植物は、ただ鑑賞したり、愛でたりするだけのものではなかった。植物は食糧や薬剤にもなり、木材にもなり、時には武器にもなった。
たとえば、日本の城にはよく松が植えられていて、美しい景観を造り出している。だが、この松とて単なる飾りではない。実は、松には優れた実用性があったのである。
今回は、新刊『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』を上梓した稲垣栄洋氏に、武将たちがいかに植物を巧みに利用してきたかを解説していただいた。
戦国の世から江戸時代における、植物と武士の知られざる関係を描いた、これまでにない驚きの日本史!
美しい天守閣を持つ日本の城には、多くの工夫が凝らされている。特に、植物の使い方は絶妙である。
その代表が、多くの城に植えられている松だ。凛と立つ天守閣に、豪快な枝ぶりの松の木は実によく似合う。
松は常緑樹で、冬でも青々と葉を茂らせている。その強靭な生命力が縁起がいいとされ、好んで城に植えられた。「松竹梅」「松に鶴」と言われるように、最高の縁起物として尊ばれてきたのだ。
また、松は常緑樹といっても、葉がまったく落ちないわけではない。いっぺんに落ちないだけで、少しずつ順繰りに葉を落としているのである。落ちた葉を見てみると、2本ひと組となっている。これが「夫婦和合」のシンボルとされたのだ。
とにかく、めでたいことこの上ない松なのだが、松は実用的な植物としても大いに利用されたのである。
城では、敵が攻めてきたときには籠城戦となる。敵に補給路は絶たれてしまうから、城の中には、つねに食糧や飲料を備えておかなければならない。だから城主は城の中に井戸を掘り、十分な食糧を蓄えた。
実は、松はいざというとき、非常食にもなったのである。
松が食糧になるのかと驚かれるかもしれないが、松の皮をむくと白い薄皮がある。この薄皮が、脂肪分やタンパク質を含んでいるのだ。薄皮をうすでついて、水にさらしてアクを抜き、乾かして粉にする。この粉を米と混ぜると餅になる。これを「松皮餅」という。
このように、松は観賞用としても軍事用としても、非常に優れた植物だったのだ。
奇想天外な「食べられる城」
江戸の太平の世になっても、九州にはまだ火種がくすぶっていた。徳川の仮想敵国である薩摩島津家があったからである。
もともとは豊臣の家臣でありながら、関ヶ原の戦いで東軍についた黒田長政は、福岡藩の初代藩主となり、福岡城を居城とした。この福岡城には、多聞櫓(たもんやぐら)という櫓があった。櫓は「矢倉」とも書くとおり、武器庫の役目を果たしていた。
よく工夫してあると感じるのは、この櫓の壁が、竹を編んで造られていることである。竹は戦の際に、矢とすることができるからだ。さらに驚くべきは、矢を結んでいるのがひもではなく、干したワラビなのである。ワラビはいざというとき食糧になる。
このような工夫を極めたのが、熊本城である。築城したのは、虎退治で有名な加藤清正。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで大活躍した、賤ヶ岳七本槍のひとりである。
清正はもともと、豊臣秀吉の家臣であったが、秀吉の没後には家康の家臣となり、島津を抑えるために隣国の肥後(現・熊本)に居城を構えた。
熊本城は堅固なことで知られる。江戸時代は攻められることはなかったが、明治になって西南戦争が起きると、政府軍の拠点となっていた熊本城は西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻を受けた。しかし、隆盛はついに熊本城を落城させることはできなかった。
隆盛は思わず、「わしは官軍に負けたのではなく、清正公に負けたのだ」と嘆息したと言われる。
この熊本城が、なんと「食べられる城」なのだ。たとえば、城内に敷かれている畳。普通なら、畳の芯にはわらを使うのだが、なんとサトイモの茎が使われている。サトイモの茎は保存食になるからだ。
また、土壁のつなぎにもサトイモの茎が使われているほか、壁にはカンピョウが塗り込んであると言われる。
まさしく食べられる城だ。
清正は、朝鮮出兵の際、厳しい籠城生活を体験したので、これだけ念入りに糧食の準備をしたのである。
梅干しは戦になくてはならぬ万能薬
毎年、梅の花の季節になると、大勢の人が水戸の偕楽園に押しかける。偕楽園は1842年、水戸藩主の徳川斉昭によって造園された。
だが、梅の木は単なる観賞用ではない。軍事目的もあったのである。梅干しに含まれる塩分やクエン酸には、疲れをいやす効果がある。戦のさなかには、のどが渇いても水を飲めないことがあった。そのようなとき、梅干しをなめるとだ液が分泌され、渇きを潤すことができたのだ。
また、梅干しには食中毒を予防する効果もある。それだけではない。梅酢はケガをしたときの殺菌、消毒用としても用いられた。
まさに梅干しは万能薬である。だから、戦国大名は、積極的に城に梅を植えたのである。
忍者は薬草のオーソリティ
忍者のルーツは、聖徳太子の時代にまでさかのぼると言われている。戦国時代になると、忍者による諜報活動は必要不可欠となった。
忍者は山中に忍び、ゲリラ戦を戦い抜いた。山中を根城とする忍者に、植物の知識はなくてはならないものだった。植物を食糧とするのはもちろんのこと、薬草としても使い、敵を倒す毒も植物から抽出した。いわば、忍者は植物のオーソリティと言えるのだ。
忍者の中には、その名も「草」と呼ばれる者もいた。敵方の地で一般人になりきって暮らし、諜報活動を行った。だが、努力も空しく、情報収集が必要ないときもあった。そのようなとき、「草」は、ひとりの住人として、まさに1本の雑草のように生涯を終えたのである。
歴史の影には、このような忍者の存在もあったのを覚えておきたい。
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2019年5月5日・12日号 サンデー毎日「読んでたどる歴史 本郷和人
『桜狂の譜』 今橋理子 青幻舎
儚く咲く美しさに取り憑かれた絵師たち
高校の古文で習った。平安時代以来、『山』といえば比叡山延暦寺、『寺』は三井寺。同様に『花』というのは桜のことで、日本人は古来、桜をこよなく愛してきたのだと。
ぼくは最近、この常識に疑問を抱いている。というのは町の名前。近世、各地の大名は新しい城下町を形成し、それが現在の県庁所在地や県内有力都市へと繋がる。大名は開発した町に名を付けるが、このときに松山・高松・松江・浜松・松本・松代・松坂・若松など、『松』の字が多く用いられるのに対し、『桜』は使われていないのだ。
徳川家康の旧姓である『松平』の一字 を、という意図もあるだろうが、お城の屏風に好んで描かれる松(赤穂浪士事件の『江戸城・松の廊下』はこれに由来する)も考慮すると、武士は松が好きだったのではないか。はらりと潔く散る桜より、常に緑を絶やさぬ松。お家の安泰と永続を願う武士は、貴族の価値観とは別に、積極的に松を選んでいるように思うのだ。
このことを念頭に置いて本書を繙(ひもと)くと、また違う『桜』を見ることができる。『桜が咲くのは日本だけ』と信じ、取り憑かれたように桜を描き続けた画家がいた。〝畸人(きじん)〟三熊思孝(1730~94)。著者は彼の事績を掘り起こし、博物学的な視点も取り入れて桜を描き続けた彼とその周囲の人々を『三熊派』と名付けた。本書は彼らの画業を丹念に紹介しながら、その意義を的確に教えてくれる。とても美しく仕上がっていて、本書を肴(さかな)に杯を傾ければ、いつでも花見が楽しめる。
三熊派は残念ながら絶えてしまうが、彼らの業績があったからこそ、文化人発の桜への愛情は武士や庶民にも浸透し、本当の意味での桜好きな日本人が出現してくるのではないか」
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雑学倶楽部
城にはなぜ松の木が多いか<雑学倶楽部>
その場がど~んともりあがる雑学の本
相手の気をひく雑学<第1章>
松は昔、美観、風致というより、栄養食、非常食として利用されていました。松葉は殺菌力があることでも知られていますが、とくに葉緑素やビタミン、ミネラルも含まれて、食べるほうに重きをおいていました。
中国には松の葉や実、樹脂だけを食べて仙人になった、などという話もあるくらいです。日本でも、古くから松の葉や皮は凶作のときに食用にしてきました。
松の荒い皮を取り除き、白い部分の生皮を臼でついて水に浸し、密閉しておくと、やがて苦みや臭みが抜けます。その汁を皮でこして干すと粉ができるので、その粉を麦の粉などに混ぜて餅をつくりました。こうして手間をかけて、だんごや香煎もつくって食べました。すべては飢饉対策の知恵です。
江戸時代の農民を苦しめた近世の3大飢饉といわれる享保17年(1732)、天明2年(1782)、天保4年(1833)のときには、街道の松並木が丸裸にされたほどだといいます。想像しただけでも恐ろしい光景です。
ことに戦国時代では、城を大軍に幾日も包囲され、城に立てこもって抗戦することもしばしばです。城ですから、死守を覚悟で戦うわけですが、相手は城内の食糧がなくなるのを待つ持久戦法できます。いわゆる兵糧攻めという戦法ですが、そのとき役立つのが松の木なのです。
非常事態に備えて、蓄えた梅干し、みそなどがなくなり、庭木、草、茎、根も食べ、最後に城の美観も兼ねた松の木に手が伸びることになるのです。
「講談社+α文庫」所収
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日本では、四季折々、如何なる場所に行っても、多種多様な花が咲き誇る。
日本民族日本人は、品種改良で、花の交配を繰り返しながら新しい品種の花を作っていた。
その代表が、染井吉野(ソメイヨシノ)である。
日本文化は、花文化である。
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軍部は桜を利用した。
ウィキペディア
日本では国花が法定されておらず、天皇や皇室の象徴する花は菊であるが、サクラは多くの公的機関でシンボルとして用いられており、「事実上の国花」のような扱いを受けている。旧日本軍(陸軍・海軍)が桜の意匠を徽章などに積極的に使用しており、これは自衛隊(陸自・海自・空自)でも同様である。
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桜は、民族主義と国粋主義の源泉り、軍国主義を強力に支えていた。
日本人と桜が深く結びついたのは、昭和前期の軍国主義教育による。
つまり、同期の桜や靖国神社の桜という愛国心教育である。
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反戦平和主義者は、桜を好戦的な花として否定すべきである。
旭日旗を戦犯旗と糾弾する者は、桜を戦犯の花として告発し有罪を宣告するべきである。
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天皇・皇室は、菊と桐である。
「坊主憎ければ袈裟も憎い」的にいれば、天皇・皇室が嫌いならば菊や桐も嫌いになるべきである。
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2020年1月11日・18日号 週刊現代「戦国時代「兵糧攻め」の兵士たちを生かした、驚きの食べ物
最強の非常食?
週刊現代講談社
月曜・水曜発売プロフィール
なぜ生き延びたのか
「腹が減っては、戦はできぬ」という諺さながら、城をめぐる戦いは、食糧をめぐる戦いといっても過言ではない。百姓から天下人まで上りつめた豊臣秀吉も、城内への食糧の輸送経路を遮断し、飢餓状態に追い込む「兵糧攻め」が得意だったことで知られている。
姫路城(Photo by gettyimages)
豊臣秀吉が指揮をとった戦い「第二次鳥取城攻め」(1581年)は、別名「鳥取の飢え殺し」と呼ばれる。周辺の商人から米を高値で買い占めて補給ルートを完全に絶ち、4ヵ月にわたって飢餓地獄を続けた。
開城後、空腹のあまり、配給の米を食べた兵士が次々と胃痙攣を起こし、半数以上が死亡したという悲惨な記録も残っているほどだ。
それにしても、城内にある食糧は1ヵ月程度で底を突いたはずなのだが、その後、閉じ込められた者たちはどうやって飢えを凌いだのか。
実は、城には食糧以外の非常食が用意されている。それが、周囲に植えられている松だ。松には、樹脂を多く含む皮があり、それを剥くと、白い薄皮が付いている。この薄皮は脂肪やたんぱく質を多く含んでいるため、非常食として重宝された。
もちろん、調理をして美味しく頂くこともできる。皮を臼でついた後、水に浸してアクを抜き、乾かして餅にした「松皮餅」は栄養価が高く、腹持ちもよいと戦国時代に人気の軽食だった。
江戸時代に農民を苦しめた「近世の3大飢饉」でも、飢えに苦しんだ農民たちによって街道の松並木が丸裸にされた。古人たちは松を食べて生き延びてきたのだ。
松の実力はそれだけではない。松の脂分は燃料にもなるうえ、傷ついた兵士の止血薬にも利用することができる。また、松は極寒の冬にも葉を枯らすことがない。ときには雪を積もらせながら、緑の葉を茂らせている。
だからこそ、そんな松に古人たちは強靭な生命力を感じていたのだろう。「松竹梅」や「松に鶴」というように、昔から不老長寿のシンボルと称えられてきたのだ。
松はただ、美しい城に彩りを添えているだけではなかった。(細貝)」
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AERAdot.
武将が家紋に使わなかった「桜」 由来に隠された理由とは
連載「あなたの知らない神社仏閣の世界」
今年も桜の季節がやってきた。今年は東京の桜が一番乗りで開花。東京が一番に開花するのは実に9年ぶりで、例年ならトップで開花宣言をしていた九州や名古屋地方では、開花まで少し足踏みしているようだ。
●奈良時代は梅が花見の主役
初春から春にかけて咲く梅や桜だが、似ているようで実は歴史を紐解くとずいぶんと扱いの違う木なのだ。
梅の実は3000 年以上前から中国で薬として用いられてきた。これが飛鳥時代、薬として日本に渡来したと伝わっている。奈良時代になると梅の木が愛でられるようになり、貴族などの間では梅を育てることが一種のステータスになっていたようだ。梅の木は人の手を借りなければ、美しく育たないためである。奈良時代までは、花と言えば梅を指す、というくらいの人気ぶりで、和歌などでも盛んに詠まれている。ちなみに、梅を「ウメ」と発音するのは、中国語の読み「メイ」が変化したものなのだという。
●桜がスターになるのは平安時代以降
平安時代に墾田開発が盛んになると、稲作地の造成とともに桜の木が大事にされるようになっていった。これは、桜の開花と稲作の種まきの季節との関係によるものではないかと考えられている。今でも各地に残された木に、「田植えサクラ」や「種まきサクラ」といった名前がつけられていることからも、そのことが推測できる。
当時愛でられていた桜は、主に寿命の長い山桜や江戸彼岸で、山梨県にある樹齢2000年とも言われる神代桜(じんだいざくら)は、今も多くの観光客をひき寄せている。
神代桜の歴史に、日本武尊や日蓮など神や仏が関わってくるように、日本における「サクラ」は常に神さまと隣り合わせの花なのである。
●桜は神さまの名前から
これは、「サクラ」という名前にも大きく関係している。
春に咲き、田植えの時期を教えてくれる花の名を「サクラ」と呼ぶ由来にはいくつかの説がある。由来がはっきりしている梅とは対照的だ。
もっとも広く伝わっているのは、富士山の神さま「木花開耶姫(このはなさくやびめ)」の名前に由来する説である。さまざまな神話を持つ神さまである木花開耶姫だが、仕事のひとつに富士山の上空から、種を蒔き花を咲かせるというものがある。この花こそが「サクラ」なのだ。「さくやびめ」の「さくや」が「サクラ」となったという。他にも、田の神さまを意味する「サ」の居る場所(御座/みくら)という説もある。
いずれにせよ、種まき、田植えの時期を桜が知らせる役目を担っていることを意味する説が多い。
●ニニギの選択からサクラの儚さが
神話の話になるが、木花開耶姫は瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の妻である。瓊瓊杵命は、伊勢神宮の神さま・天照大神の孫神であり、皇室の祖先とされている。この瓊瓊杵命、木花開耶姫をめとる際に姉神・磐長姫(いわながひめ)も一緒にと提案されるも、美しかった木花開耶姫だけを選び、醜かった磐長姫を二柱の父神・大山祇神(おおやまつみのみこと)に送り返してしまう。これに対し父神は激怒、「磐長姫はあなたの命が石のように永遠でいられるように願ってのこと。これを送り返したことであなたの命は木花開耶姫のようにはかなく短いものとなるでしょう」と告げる。
瓊瓊杵命の子孫である人間たちに寿命があり、美しいサクラの花がすぐに散ってしまう理由もここにあるというわけだ。
戦国武将が使っていた家紋は無数にあるが、この中にこれほど愛されている桜をモチーフにしたものがひとつもないのだ。100種以上の家紋の図版に用いられている梅とは、扱いがずいぶん異なる。「短命」や「儚さ」といったイメージが家督に関しては相応しくなかったのだろう。
にもかかわらず、サクラには日本人の心に訴えるものがある。なにしろ、一番好まれている「ソメイヨシノ」は、自生もできず短命で、もっとも儚いサクラなのだから。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)
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TOPコラム花と草木のお役立ち情報昔は桜より梅が人気?花見の歴史の知られざる変遷を紹介
昔は桜より梅が人気?花見の歴史の知られざる変遷を紹介
作成日:2016.03.11 最終更新日:2016年3月11日 カテゴリー:花と草木のお役立ち情報
春本番になり、桜が見ごろになる頃の行楽といえば花見ですよね。シートを広げて場所取りをし、満開の桜の下でご馳走を食べる人々の姿をあちらこちらで見かけます。
有名な花見スポットといえば、奈良県の吉野山をはじめ、東京の上野恩賜公園、または目黒の川沿いの桜などが有名でしょう。毎年大勢の人が押し寄せ、夜桜見物もまた一興として楽しまれています。
そんな現代の春の風物詩でもある花見ですが、その歴史はかなり古くにさかのぼります。
奈良時代には、すでに花見の原型が始まっていたとされます。
この記事では、日本で古くから続く花見文化の変遷を、時代ごとに紹介します。
時代によってその楽しみ方は異なり、花見は為政者の趣向によって変化を遂げてきました。
その歴史を知ると、花見がより楽しくなるでしょう。
目次
1章 奈良時代-花鑑賞とは梅のこと-
2章 平安時代 -桜ブームの到来-
3章 鎌倉~安土桃山時代 -花見の浸透-
4章 江戸時代 -花見の定着-
5章 明治~現代 -ソメイヨシノが全国に-
6章 最後に
1章 奈良時代 -花鑑賞とは梅のこと-
現代の花見の根底となる習慣は、奈良時代に形作られたといわれています。
桜より梅が人気
現代では、花見で愛でる花といえばもちろん桜のことですよね。桜は日本人に古くから愛されてきた花であり、春を象徴する花です。
でも、実は奈良時代は桜より好かれた花があったんですよ。
それは梅です。奈良時代の花鑑賞といえば、梅をさしていました。貴族たちの間では造園する際、梅を入れることが定番となったようです。
当時、日本は遣唐使を介した中国との交易が盛んでした。中国文化、物品も多く日本に伝わり、その中の1つに梅があったのです。香立つその花は珍重され、桜よりも人気がありました。
その人気ぶりをうかがえるのが、『万葉集』に詠まれた梅の数です。桜を詠んだ歌は43首に対し、梅を詠んだ歌は110首。梅は桜の倍以上詠まれているのです。
花見の始まりは奈良時代にあり
こうして貴族を中心に好まれ、愛されてきた梅。当時の貴族の優雅な風習といえば、「歌を詠む事」でした。中国からやってきた梅を見ながら、歌を詠む会を開きました。これが現在の花見の原型になったといわれています。
桜は神聖な木
梅の人気が高かったといっても、人々が桜に興味がなかったというわけではありません。
というのも、そもそも日本人にとって桜は古来より大切な存在でした。
それは「サクラ」という名前の由来といわれる説からもわかります。
「サ」は田の神様、「クラ」は神様の座る場所を意味しているという説です。つまり、「サクラ」は神様が山から下りてきた時に一旦留まる依代(よりしろ)とされていました。
そのため、桜が咲くことは「神様が山から下りてきた証」と考えられ、皆で集まり、お酒や食べ物をお供えしていたとされます。
また、当時の人は桜の開花状況を見て、田植えの時期を決めていました。
美しい桜の花が咲く時期を、田植えに適切な時期と考えていたようです。
当時、桜は鑑賞するというより、神様が宿る神聖な木であり、祭る対象となっていたのですね。
2章 平安時代 -桜ブームの到来-
時は変わって平安時代になると梅と桜の人気が逆転します。
遣唐使の廃止で桜ブーム来たる
学問の神様と言われる菅原道真が遣唐使を廃止したのは、894年のことでした。遣唐使の廃止により、日本独自の文化が発展していったともいわれています。
これを契機に日本古来の文化や、美徳に人々が注目し始めたのかも知れませんね。この時を境に、花といえば「梅」ではなく「桜」を指すようになっていきました。
桜ブーム到来は、和歌にも表れています。平安初期に作成された『古今和歌集』には、梅を詠んだ歌は18首程度に対し、桜を詠んだ歌は70首となっています。平安時代に、一気に梅と桜の人気が逆転したことがうかがえますね。
紀友則はこのような歌を詠んでいます。
「久方の ひかりのどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ」
現代語訳すると、「こんなにも日の光がのどかな春の日に、どうして桜の花だけは散っていってしまうのだろうか」といったところ。
原文の歌には「花」としかありませんが、この言葉だけで当時は桜をさしていました。その意味においても、桜は他の花に比べても特別な存在だったのでしょう。
桜のヒットメーカーは誰?
記録に残る日本初の花見は、嵯峨天皇が主催しました。
『日本後記』によると、812年、神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したと記されています。
このときにはすでに、花見の対象は梅ではなく桜になっていたと考えられます。その理由の1つとして、嵯峨天皇の桜好きが挙げられるでしょう。嵯峨天皇は地主神社の桜を大変気に入り、それ以来毎年、地主神社に桜を献上させていたといわれています。
831年からは、花見が天皇主催の定例行事となり、その様子は『源氏物語』にも窺い知ることが出来ます。
こうして、天皇主催の花見を通し、貴族の間に桜の鑑賞が急速に広がっていきました。この時代に書かれた日本最古の庭園書『作庭書』にも、「庭には花(桜)の木を植えるべし」と書かれています。
花見の花といえば桜、という認識が定着したのは平安時代といえるでしょう。
3章 鎌倉~安土桃山時代 -花見の浸透-
歴史上、盛大な花見が初めて行われたのは安土桃山時代です。
武士階級にも広まり出した鎌倉時代
鎌倉~室町時代になると、貴族の風習としての花見が、武士や一部地域でも行われるようになりました。一般階級に開かれて行ったのは、鎌倉時代以降といわれています。
その様子を端的に示す資料として、吉田兼好の『徒然草』が挙げられます。第137段では貴族と田舎者の花見の仕方が比較されています。
貴族が桜を上品に愛でるのに対し、上京したばかりの田舎者は、桜の下で酒を飲みながら連歌を楽しみ、どんちゃん騒ぎのようなふるまいだったと、対照的に書かれています。
一方、鎌倉・室町・安土桃山時代は戦の時代でもありました。桜の命は短く、あっという間に散ってしまう様は縁起が悪いと、もいたようです。
宴会型の花見の始まりは安土桃山時代
安土桃山時代は、戦国武将の織田信長や豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代です。
この時代を通して、花見は徐々に盛大に行われるようになります。特に、豊臣秀吉が行った「吉野の花見」や「醍醐の花見」は有名です。
「吉野の花見」は、秀吉が繁栄を謳歌していた絶頂期である1594年に開かれました。大阪より運んだ1000本の桜が植えられ、5000人が召喚されたといわれていますから、その盛大さは想像を超えるものがありますね。
徳川家康、前田利家、伊達政宗といった、当時の有力な武将も多く呼ばれていました。記録によると、この花見は5日間続き、本陣がおかれた吉水神社では連日のように茶会、歌の会、能の会が開かれたといいます。
しかも、各武将は変装するなど、現代でいうコスプレをして楽しんだといわれています。秀吉も大はしゃぎしたといい、まさにお祭り騒ぎですね。
また、1598年には「醍醐の花見」が開かれています。
1300人を召し仕えて開催されたといわれていますから、派手好きな秀吉の性格と、変わらない花見好きがうかがえますね。
この盛大な花見から、花見が宴会行事として定着していったと考えられます。
また、花見人気に押されてか、京都の寺社や山々に桜が植えられ始めたのは、この頃といわれています。
花見団子の由来
花見といえば、花見団子、桜餅などの甘い食べ物が思い浮かびますよね。
花見のときに甘味が食べられるようになったのは、「醍醐の花見」です。この花見の際、全国から名産品や甘物が集められた事がきっかけといわれています。
以降、甘い物が花見には欠かせない食べ物として認知されるようになりました。
ちなみに、花見団子といえば、桜色、白、緑の3色。この色にも意味があるんですよ。
桜色は「春」の桜、白は「冬」の雪、緑はよもぎで「夏」の予兆を示唆します。「秋」がないので、「飽きがこない」とされています。紅白で縁起が良く、緑が邪気を払ってくれると、めでたい席に重宝されたのです。
花見団子の由来がわかると、「昔の人も、こうやって桜を楽しんだのか」と、花見が何倍も楽しくなりそうですね。
4章 江戸時代 -花見の定着-
江戸時代になると、一般庶民も花見を楽しむようになりました。
8代将軍吉宗の政策
3代将軍徳川家光は、徳川家の菩薩寺となる寛永寺に、多くの吉野の桜を植えたことで有名です。これが、江戸に吉野の桜がきた最初といわれています。
しかしながら、寛永寺は格式ある名所。この場所で一般の庶民が花見をすることは当然許されません。
庶民が花見をする場所を作ったのは、8代将軍の吉宗でした。1720年に浅草(墨田川堤)や飛鳥山に大規模な桜の植樹を行い、庶民が桜を楽しむ場を提供したのです。
それだけではありません。農村部に積極的な桜の植樹を促進し、東京の桜の見どころの基礎を築いたとされています。
農村に桜の名所が作られると、花見客による農民の収入が増えることを見越した策でした。
吉宗は庶民が文化や武芸に触れることを奨励していました。これが、吉宗が名君といわれる所以でしょう。
庶民の為の花見文化の誕生
5章 明治~現代 -ソメイヨシノが全国に-
ソメイヨシノの誕生
江戸の末期になると、桜の新しい品種が作られます。それこそ、ソメイヨシノでした。
江戸時代の末期に、染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋によって、「大島桜」と「江戸彼岸桜」を交配してつくられた桜です。桜の名所として有名な「吉野」にあやかって、「染井吉野」と名付けられました。
花が大振りで香りのよい「大島桜」と、花が咲いたあとに葉が出てくるという「江戸彼岸桜」。それぞれの桜の特徴を取り入れました。
接ぎ木で増えるので、成長スピードも速く、学校、沿道、公園など、様々な場所に植樹され、瞬く間に日本全国に広がっていきました。
ソメイヨシノの寿命問題
現代における花見の桜は8割がソメイヨシノです。ただし、ソメイヨシノは寿命が短く、およそ60年といわれています。
全国のソメイヨシノは戦前に植えられたものも少なくないため、多くのソメイヨシノが寿命を迎えているという問題が起きています。そのため、植え替えが急務となっています。
6章最後に
花見の歴史について紹介しました。参考になりましたか?
古来より日本人に大切にされてきた桜。時代の流行に押され、奈良時代には「梅」が主流となった時もありました。しかし平安時代以降~現代まで、桜が春の定番として認識されています。
今も昔も、日本人はパッと花を咲かせ、潔く散っていく桜に何とも言えない情緒を感じるのは変わらないでしょう。
花見の歴史を知る事で、今年の花見を2倍も3倍も楽しめるのではないでしょうか。
「こうして歴史は引き継がれていくのだな」と、今年の花見は一層、感慨深いものとなりそうです。
提供・はな物語
こちらの記事は、プリザーブドフラワー専門店・はな物語の提供でお送りしました。
記事の内容は参考になりましたか?
花見の歴史を調べる一助になれば幸いです。
季節を問わず草花を生活に取り入れると、心も安らぎますよね。
インテリアとして飾る花なら、美しい姿を長くとどめるプリザーブドフラワーもおすすめです。
ぜひ、サイトもご覧になってみてくださいね。
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庶民(百姓や町人)の木は、桜である。
武士の木は、松である。
公家の木は、梅である。
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江戸時代には武士道は存在しなかった。
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武士は、目の前で起きている事実・事柄・事象・事件を重んじてその場で対処する、現実主義者であり、合理主義者であり、論理主義者である。
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城や大名庭園の樹木には、松が多く桜は少なかった。
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大名屋敷・武家屋敷の屏風に、好んで描かれるのは松である。
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江戸時代の武士とは、武を貴ぶ戦闘集団ではなく、貧困階層に近い安月給で公益的仕事を強要される民間団体職員であった。
武士社会とは、イジメ・意地悪・嫌がらせが横行する絶望的ブラック社会であった。
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日本民族日本人は、花鳥風月プラス虫の音そして苔と良い菌を愛し、それを民族文化・伝統芸能へと昇華していた。
日本列島の自然環境や居住空間には、心を鎮め精神を穏やかにする1/fゆらぎ、マイナス・イオンが満ち満ちていた。
蕾から花が咲き、咲き誇って花弁が散り、枝に萼(がく)が残り、散った花びらが絨毯のように広がる。
ひとひらの花びらも、数多くの花弁も、葉桜も、花も葉もない枯れ枝ださえも・・・日本民族の感性を揺さぶり涙を誘う。
人としての日本人と中国人や朝鮮人の感動はにているが、民族としての日本の感性と中国や朝鮮の感性とは違う。
花に注ぐ涙は、日本人の涙と中国人・朝鮮人の涙とでは異なる。
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日本では、四季折々、如何なる場所に行っても、多種多様な花が咲き誇る。
日本民族日本人は、品種改良で、花の交配を繰り返しながら新しい品種の花を作っていた。
その代表が、染井吉野(ソメイヨシノ)である。
日本文化は、花文化である。
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韓国は、誇れる文化芸能が乏しいだけに、ソメイヨシノの原産地を済州島と主張しているが傲岸無比の常識・教養なき「バカ」な話である。
同様に、武士・サムライは日本だけに存在して、中国や朝鮮には存在しなかった。
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日本が桜の国になったのは、庶民(百姓や町人)が花見で楽しめるようにした第8代将軍徳川吉宗の時代からである。
落語に「長屋の花見」という噺がある。
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平安前期頃までは、桜よりも梅が好まれていた。
菅原道真は梅を愛で、西行法師を桜を好んだ。
仏教寺院は、竹や楓など艶やかな花を咲かせない樹木を好んでいた。
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菅原道真「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」『拾遺和歌集』
菅原氏は、中流の貴族。父は菅原是善、母は伴氏。菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人のとき土師(はじ)氏より氏を改めたもの。
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西行法師「何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」
(解釈:願いが叶うならば、何とか桜の下で春に死にたいものだ。しかも草木の萌え出ずる如月(陰暦二月)の満月の頃がい い)
「よし野山さくらが枝に雲散りて花おそげなる年にもあるかな」
(解釈:吉野山の桜の枝に掛かっていた雲が散ってみれば、さっきまで、桜が咲いていたように見えたが、実は咲いてはいな かったのだ。花の咲くのが遅い年であることだなあ)
「ながむとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」
(解釈:ずっと花を眺めているせいか、花に情が移ってしまい、花たちと散り分かれてゆくのが悲しく思われることだ)
「雪と見てかげに桜の乱るれば花の笠着る春の夜の月」
(解釈:雪が降っているのかと思ってみれば夜桜が風に吹かれて舞っているのであった。桜の彼方には、春の月が花の笠を着 ているように見えた)
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一休「花は桜木 人は武士」
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武田信玄「たちならぶかひこそなけれ桜花 松にちとせの色はならはで
(解釈:立ち並んで咲いている桜も、千年も変わらぬ松と比べるとはかない)
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本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」
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武士とは、殺し合う職業であったが命は惜しく、人であり家族があれば、殺されるのは真っ平ご免で何としても生き残りたかった。
武士道と云ふは「死ぬ事と見付けたり」と「死ぬ覚悟」を説き、名誉の為、体面の為、武士の一分の為、家名の為に、見苦しく無様に惨めに生きるのではなく、潔くアッサリ死ぬ事こそ武士の本懐・男の本懐と讃えていた。
武士は、大地にしっかりと根を張り、荒れ地や岩場などの過酷な環境でも、大岩を割ってでも育つ松に惚れ込んでいた。
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武士は、月を見ながら酒を飲むが、桜を見ながら酒を飲む事は少ない。
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