✨3)─3・D─第一次大戦の激戦地で平和主義者の昭和天皇(20歳)が漏らした厭戦的お言葉。~No.12   

   ・   ・   ・    
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 軍国日本の歴史的人道貢献とは。
 昭和天皇A級戦犯である東条英機松岡洋右松井石根らは、ソ連・国際共産主義勢力のポーランド侵略から逃げてきた数万人のポーランドユダヤ人を保護し、ナチス・ドイツゲシュタポと日本人の反ユダヤ派、親ドイツ派の上海ホロコーストを阻止しユダヤ人難民数万人を敗戦後まで守り続けた。
 A級戦犯達は、靖国神社の祭神として祀られている。
 靖国神社の心・志・精神とは、人道貢献と平和貢献の事である。
   ・   ・   ・    
 2024年5月11日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「第一次大戦の激戦地で20歳の昭和天皇が漏らした言葉…。今こそ戦争を知る必読5冊
 学術文庫で読む20世紀の戦争
 21世紀の現在も、世界には戦火が絶えない。この100年余りの人類の戦争は、大量破壊兵器の開発と国民の総動員によって、より大きな惨劇を引き起こし、不幸と不安を生み出し続けている――。あらためてこの8月、20世紀の戦場の現実を描き出した5冊を、講談社学術文庫のなかから紹介しよう。
 第二次世界大戦の序曲、ノモンハン事件
 1939年、モンゴルと旧満州国の国境地帯で日本軍とソ連軍が衝突したのが、「ノモンハン事件」だ。戦闘は4ヵ月におよび、日ソ双方ともに約1万人の戦死者を出すなど、「事件」どころか「戦争」と言っていい激戦だった。にもかかわらず、戦闘の実態は謎に包まれ、その勝敗すら長く論議が続いていた。
 しかし、1990年代以降、ようやくソ連側の資料が大量に公開され始めた。日ソ双方の史料を徹底的に精査し、この事件の全体像を明らかにしたのが、先月、学術文庫版が刊行された秦郁彦氏の労作『明と暗のノモンハン戦史』である。毎日出版文化賞を受賞したノモンハン研究の決定版だ。
 本書によれば、人的損害については、ソ連軍が日本軍を上回ったのは確実で、戦後信じられてきた「日本軍の大惨敗」「人的損害はソ連の2倍以上」という見方は修正が必要という。といっても、「引き分け説」や「日本勝利説」には著者はこうクギを刺す。
 〈戦闘の勝敗は被害統計だけではなく、目的達成度や政治的影響など総合的な見地から論じる必要がある。〉(『明と暗のノモンハン戦史』p.18)
 〈全体像をつかむには、統計的処理だけでは足りない。指揮統率、情勢判断、将兵の能力や士気のように、数字では表現できない無形要素もあわせて考量せねばならないが、第一次史料を封印していた旧ソ連時代には望みようもなかった。〉(同書p.20)
 詳細なデータと統計資料、地図などをまじえて戦闘の全貌を冷徹に解明する本書には、戦場の理不尽や軍隊という組織の冷酷さも、リアルな肉声で描かれている。
 たとえば激戦地のひとつ「フイ高地」の5日間におよぶ攻防戦。ソ連軍の砲撃は1分間に200発を超え、不眠不休で水も糧食も尽き、通信も途絶えるなかで、支隊長の井置栄一中佐は「無為に全滅するよりは、再起をはかれ」と兵たちに戦線離脱を命令する。しかし、この判断が「無断撤退」ととがめられ、翌月の停戦直後、軍法会議も経ずに、井置は自決を強要される。
 自決した井置中佐は「戦死」と認められず、靖国神社に祀られることもなかった。
 〈井置中佐にはありとあらゆる不運が振りかかったかのようだが、救いはあった。「後世の史家」たちが、そろって井置支隊の戦闘に高い評価を与えているからだ。(ソ連の将軍の)ジューコフは、井置が「われわれが想像した以上に頑強な抵抗をした」ので手こずり、指揮官のシェフニコフ大佐を解任し、手許の全予備兵力を追加投入した。〉(『明と暗のノモンハン戦史』p.378)
 〈20倍以上の兵力と雨注する砲弾を浴びながら5日間も抵抗した奮戦ぶりを、(アメリカの軍事史家)クックス博士は「ジューコフが指揮官であったら井置に勲章を授けていただろう優秀な指揮官」と最大級の讃辞を呈している。〉(同書p.379)
 大本営の調査によれば、兵の総数759人のうち、戦死者は182人、負傷者は183人にのぼった「フイ高地攻防戦」の約1週間後、実質的に「ノモンハン」の戦闘は終わった。
 日本陸軍にとって「初めての敗北」となったノモンハンの経験は、教訓として生かされることはなく、2年半後には日本は米英に宣戦布告し、破滅への道を進むことになる。
 「もし生きて帰ったら、踏みにじってやる」
 ノモンハン事件は当時、戦場も交戦相手も違うにもかかわらず、「支那事変」すなわち日中戦争の一環と位置付けられていた。1937年、北京郊外の盧溝橋事件をきっかけに全面化した「宣戦布告なき戦争」である。
 では、日中戦争とは何だったのか? 何度となく問われてきたこの問題に、「戦争が日本社会の変容に及ぼした影響」を明らかにすることで答えていこうとするのが、『日中戦争 前線と銃後』(井上寿一著、2018年刊)である。
 著者の井上氏は、『終戦後史 1945-1955』『昭和の戦争』など多くの著作があるが、2007年初刊の本書(原題は『日中戦争下の日本』講談社選書メチエ)を、みずからの「代表作」であると「文庫版まえがき」に記している。
 占領した中国の町に入る日本軍。photo/gettyimages
 〈労働者が、農民が、女性が、子どもが、誰もが戦争に協力した。侵略戦争に協力した以上、国民は皆、加害者である。他方で国民は、被害者でもあった。(中略)それでも日中戦争下の国民が、一方的な被害者意識を持つことはなかった。(中略)ましてや加害者意識を持つこともなく、戦争に協力することで、政治的、経済的、社会的地位の上昇をめざした。〉(『日中戦争』p.17-18)
 本書には、古川ロッパ火野葦平林芙美子小林秀雄ほか、多くの兵隊と「銃後の国民」が登場する。彼らの著作や回想から、「なぜ、戦線は際限なく拡大したのか」「なぜ、国民は協力したのか」を探っていく。興味深いのは、前線と銃後の意識の断層と、帰還兵が抱いた銃後の社会での疎外感だ。
 〈彼らの不信は、想像を絶する過酷な戦場で、一挙に爆発する。(中略)ノモンハン事件のさなか、絶望的な戦闘をつづけながら、ある兵士は呪詛の言葉を書き付けた。「驚くことを忘れた都会人、知性の名の下にお茶ばかり飲む都会人、――どうやら私にはもうこれらの人とは縁があっても、用事はなさそうである。だが、若し生きて帰ったらちきしょう、足で踏みにじってやる」〉(同書p51)
 中国戦線の兵士たちのなかには、日中間に共通する貧困と「アジア的後進性」を発見し、占領地中国を侮蔑するどころか、うらやましく思う感情を抱いた者もいた。一見して「汚い。いとも浅ましいとも哀れだとも」思える働く中国女性の姿に、「大地に生きる者の逞しい、尊い姿に遂に頭が下がる」と記した兵士もいる(同書p.75)。
 そして著者は、戦争を体験していない世代にとっての戦争責任とは何かを考察する。
アメリ海兵隊員が見た「恐るべき無駄」
 1944年秋のペリリュー島攻略戦と1945年春の沖縄上陸戦。太平洋戦争の二つの激戦に、アメリ海兵隊の一歩兵として参加し、のちに大学教授となった著者の体験記が、『ペリリュー・沖縄戦記』(ユージン・B・スレッジ著/伊藤真・曽田和子訳、2008年刊)である。
 泥とウジ虫と血糊にまみれた戦場は、「栄光ある戦争」にはほど遠い。そのなかで日常の感受性が失われた自らの姿をも率直に描いた、内省的かつ迫真のノンフィクションだ。
 ペリリュー島に上陸してまもなく、著者は友人オズワルドの戦死にショックを受ける。
 〈人間の苦しみを少しでも癒すために脳の神秘に挑みたいと、オズワルドは脳外科医を志していた。その明晰な頭脳が、ちっぽけな金属の塊によって無惨にも破壊されてしまったのだ。こんな無駄があっていいものか。国民の最も優秀な人材を台なしにしてしまうとは。組織的な狂気とも言うべき戦争は、なんと矛盾した企てだろうか。〉(『ペリリュー・沖縄戦記』p.132)
 しかし、こうした当たり前の感覚が、連日の戦闘のなかで失われていく。ある時、戦闘の止んだ現場で仲間たちと話すうち、隣に座っていた兵士が――
 〈左手に珊瑚のかけらを一掴み握り、日本の機関銃射手の、吹き飛ばされた頭頂部めがけて右手で放っている。うまく当たるたびに、むごたらしい傷口に溜まった雨水がボチャリと跳ねるかすかな音が聞こえた。何気ない感じで珊瑚のかけらを放っているところは、故郷の泥道にできた水たまりに少年が小石を投げて遊んでいるのを思わせた。〉(同書p.195)
 〈ふと気がつくと、周囲に倒れている日本兵の死体のいくつかの口元から金歯が覗いて光っていた。(中略)死体の一つのとりわけよく光る金歯に誘われて、はずしてみようかという気になり、ケイバーを取り出してかがみ込んだ。〉(同書p.195)
 このとき著者は友人に止められ、死体の金歯を取ることはしなかったが、自分が正常な感覚を失っていくのを友人が押しとどめてくれたのだと気づいたのは、戦後になってからだった。
 本書の最後に著者は〈戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である。戦闘は、それに耐えることを余儀なくされた人間に、ぬぐいがたい傷跡を残す。〉(同書p.466)と記す。
 また、本書の巻末に解説を寄せた保阪正康氏は、こう評している。
 〈私は幾つかのこうした体験記にふれてきたが、本書はそのなかでもきわめてレベルの高い記録だと思う。〉(同書p.472)
 〈日本軍の将校、下士官、兵士からこのような内省的な作品が書かれなかったことに、私は改めて複雑な思いをもったのである。〉(同書p.476)
 ペリリュー島に上陸するアメリ海兵隊。photo/gettyimages
 「三度、焦土に立った人」昭和天皇と戦争
 日本近代史の中の戦争を研究する加藤陽子氏の『昭和天皇と戦争の世紀』(「天皇の歴史」第8巻、2018年刊)は、昭和天皇の生涯を戦争とのかかわりを中心にたどった力作だ。
 昭和天皇は、その前半生に三度、焦土に立った経験がある。一度目は、皇太子時代に訪問したヨーロッパで見た第一次世界大戦後の荒野であり、二度目は摂政として目にした関東大震災後の東京であり、三度目は天皇として体験した戦争末期の空襲による焦土である。
 ヨーロッパ訪問は、1921年、皇太子20歳の年に行われた。後年、「あの旅行の体験は、その後の私に非常に役立っていると思う」(1970年9月16日の記者会見)と語るほど、昭和天皇自身にとって大事な思い出である。
 〈6月22日、一行はパリ東駅を発し、25日まで3日間のフランス戦跡訪問の旅に出ている。フランス政府は、ペタン元帥を案内役として格別の配慮を払った。ペタンは、フランスの東北の関門、ヴェルダンの地で、16年2月から9月まで、ドイツ皇太子ウィルヘルムが率いる独軍の正面攻撃をくいとめた名将に他ならない。ヴェルダンは大戦における最大の激戦地として知られる。〉(『昭和天皇と戦争の世紀』p.27-28)
 〈ヴェルダンの戦場は広漠たるもので、午前9時から午後5時まで自動車で疾駆したものの、それでも見ることのできたのはそのごく一部に過ぎなかったという。(中略)『御外遊記』の記述によれば、戦跡を見た皇太子は「戦争というものは実にひどいものだ」とつぶやいたという。〉(同書p.28)
 みずからの即位以前から、昭和天皇は総力戦の悲惨さをよく知っていたのだ。その昭和天皇自身は、その後の日本の戦争にどのように向きあってきたのか――。
 即位の礼の年(1928年)に起こった張作霖爆殺事件、続く満州事変、二・二六事件日中戦争、日米開戦、そして終戦詔書。丹念な検証から見えてくるのは、時に懊悩しながら意思を表明し、「歴史の動力」となっていく天皇の姿である。
 〈個々の戦争指導の点で、作戦への下問という形式をとった、天皇による統帥部批判は、なかなか要点を衝いたものとなっていった。いわく、37年8月、戦面を華北に狭く限定し逐次兵力投入をおこなう参謀本部の作戦への批判、あるいは、42年8月、東部ニューギニア作戦に当初は航空部隊を派遣しようとしなかった参謀本部への批判、(中略)天皇は確実に大元帥としての力をつけ、統帥部の輔翼を超える判断を下すこともあった。〉(同書p.20)
 日米開戦に向けて緊迫する1941年9月、外交と戦争準備を並行的に行うのではなく、外交を優先させよと述べていた天皇は、ある覚悟をもって御前会議に臨む。
 〈天皇が最後の抵抗をたしかに試みた場が、9月6日の御前会議だったのは間違いない。天皇は、(中略)懐中から明治天皇の御製「四方(よも)の海皆同胞(はらから)と思う世に など波風のたちさわぐらむ」を記した紙を取り出して読み上げ、「朕はこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せんと努めて居るものである」と結んだ。(中略)軍自らが儀礼空間で何度も奉体してきた明治天皇の言葉をまさに用いつつ、軍を批判し、再考を促したことの意味は重い。しかし、それでもなお、陸海軍による必死の説得工作により、天皇は説得されてしまった。〉(同書p.348-349)
 なお2011年初刊の本書は、学術文庫版では、〈天皇にとっての「敗戦」と「占領」〉さらに〈昭和の戦争と平成の天皇〉をめぐって大幅な加筆がなされている。
 人類は、「空からの攻撃」を開始した!
 20世紀の戦場の光景を一変させたのは、何といっても航空機だった。1903年ライト兄弟が有人動力飛行に成功して以来、アメリカで育まれてきた「空の文化」が、「空爆」という悪夢に取り憑かれていく過程を描いたのが『空の帝国 アメリカの20世紀(興亡の世界史)』(生井英考著、2018年)である。
 「空からの攻撃」は、戦闘員だけでなく一般の民間人も否応なく巻き込む無差別爆撃となる。1937年のドイツ軍によるゲルニカ爆撃、1938年に始まる日本軍の重慶爆撃、1945年の連合軍によるドレスデン爆撃、さらに日本全土への空襲――。
 しかし、もちろん航空機は、最初から「無差別爆撃」のために開発されたわけではない。むしろ発明当初から、戦時国際法は非戦闘員への爆撃を禁止していたのである。
 すでにライト兄弟の飛行成功の4年前、1899年のハーグ万国平和会議では、毒ガスなどと並んで空からのあらゆる手段による爆発物の投下を禁ずる全面的な爆撃禁止宣言を採択している。この時点で、飛行船からの爆撃が現実的な可能性を持っていたからだ。
 しかし、1907年の第2回ハーグ会議では、再び民間人への空爆禁止宣言が採択されたものの、署名したのは英・米など15ヵ国のみで、日本など17ヵ国は署名を拒否。1911年のイタリア‐トルコ戦争と第一次大戦を経て、国際法の世界は次第に、いかなる条件をつけて無差別爆撃を容認するか、その妥協の歴史を描き始める。
 たとえば、1922年に米・英・仏・伊・蘭・日の6ヵ国を集めたハーグの法律家委員会では空爆の是非が具体的な条件を含めて議論され、「ハーグ空戦法規」が提案された。しかしその内容は――、
 〈一般市民を直接の爆撃目標としたり意図的に無差別の爆撃をおこなうことを禁止するとしながらも、軍事目標に対する爆撃は容認し、それに付随して起こる「誤爆」については特に規制しないとすることによって、戦略爆撃を合法化するとともに無差別爆撃の禁止を事実上形骸化するものだった。〉(『空の帝国 アメリカの20世紀』p.175-176)
 しかも結局、この空戦法規すら、国際法として成立しないままに終わったのである。
 もともと爆撃は、意図の有無にかかわらず無差別になるほかない性質を持っている。にもかかわらず軍事目標主義を掲げるのは、「爆撃機は狙ったところに爆弾を落とせるものだという一般的な思いこみ」があるからなのだ。
 そして太平洋戦争の末期、1944年末頃から本格化した日本本土への空襲は、悪名高いカーティス・ルメイが導入した戦術によって大幅に密度を増す。「絨毯爆撃」という通称そのままの激しい焼夷弾攻撃が、日本各地の都市部を一面の焼け野原にしたのである。しかもこうした無差別爆撃は、一方で「見えない戦争」と化していく。
 〈多くの爆撃隊員の回想を見るまでもなく、高度2000メートル以上からおこなわれる爆撃は、その高みゆえに地上の惨劇を抽象化し、どこか非現実的な眺望としがちな傾向を持っている。かつての戦争と違って高度に機械化された現代の戦争では、攻撃する側とされる側の経験があまりにも大きな非対称を描き、敵味方の双方にとってお互いを見えない存在としてしまうのである。〉(同書p.205)
 「ミス原爆」(左)と、原爆実験成功の祝賀会(右)。Vicki Goldberg,Power of Photographyより
 その最たるものが、広島・長崎に投下された原爆であり、戦後のアメリカ社会に生まれた「核兵器が平和をもたらす」という主張だろう。原爆の実態を知らないアメリ大衆社会はキノコ雲をポップなイメージとして消費した。たとえば、1957年には「ミス原爆」が登場し、1946年のビキニ環礁での原爆実験成功の祝賀会では、テーブル上のケーキと海軍提督夫人の帽子がキノコ雲をかたどっていた。
 その後もアメリカは、ヘリコプターを多用したベトナム戦争、宇宙空間を視野に入れてスター・ウォーズ計画と呼ばれた戦略防衛構想、ニンテンドー・ウォーの異名を生んだ湾岸戦争の「ピンポイント爆撃」などで空の覇権を握るが、2001年9月11日、予期せぬ「本土攻撃」に社会を根底から揺さぶられることになる。
 なお、2006年初刊の本書は、学術文庫版では、ドローン(無人機)が飛び交う「21世紀の空」をめぐって大幅な加筆がなされている。
 ※『明と暗のノモンハン戦史』の著者・秦郁彦氏のインタビューは〈ノモンハン事件ウクライナ戦争、80年を隔てた旧ソ連軍の共通点とは?〉で、ノモンハン事件での将校たちの自決については〈現場指揮官に自決を強要! 初めての「敗北」で露呈した軍幹部の「将器」と無責任。〉で読むことができます。
   ・   ・   ・   


 日本を襲う陰謀論、文化マルクス主義者(リベラル左派)の陰謀、中国共産党媚中派)の陰謀、レーニンの亡霊(レーニン崇拝者)。
   ・   ・   ・   
 ソ連コミンテルンの27年テーズ、32年テーゼ。
 日本国内に潜む、反宗教無神論・反天皇反民族反日マルクス主義エセ保守。
   ・   ・  ・   
 昭和天皇「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまう。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだ日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はない。そのためなら、自分はどうなっても構わない」(1945年8月10日聖断)
 天皇にとって民(日本民族)は「大御宝(おおみたから)」である。
   ・   ・   ・   
 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
   ・   ・   ・    
 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
 昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズムボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
   ・   ・   ・   
 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
   ・   ・   ・   
 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
   ・   ・   ・   
 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
   ・   ・   ・   
 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
   ・   ・   ・   
 保守は一つではなく、正統保守・エセ保守・自称保守・その他と幾つもある。
 現代日本では、急速に新保守の守旧派が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
   ・   ・   ・