🏞94)─6・A─宝島事件。文政7(1824)年7月。〜No.358 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸時代後期。徳川幕府は、現代日本が理解できない程の外圧に晒されたが、世界情勢をオランダから仕入れ、外圧に負ける事なく逃げる事なく対応してきた。
 当時の日本人は、平和ボケした無能に近い現代の日本人とは違い、天下泰平の上で安眠していたわけではなかった。
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 薩摩藩儒教に染まっていた日本人とっての外敵は、アヘン戦争を通じて南のイギリスであった。
 徳川幕府儒教に染まらなかった日本人にとっての外敵は、露寇事件を通じて北のロシアであった。
 現代の歴史教育は、勝者である明治新政府を正当化する前者を採用し、敗者である徳川幕府の弁明を抹殺し、近代日本の専守防衛の積極的自衛戦争を否定している。
 明治維新による近代化は、西洋列強の日本侵略から如何にして、神国日本・日本天皇日本民族を守るかという体制選択であった。
 つまり、「やむにやまれず」としての究極な軍国主義化であった。
 が、世界はそれを「平和に対する犯罪」であると認定している。
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 戦国時代、日本は中世キリスト教会・イエズス会伝道所群による宗教侵略を受けていた。
 明治新政府キリスト教の日本侵略から神国日本・日本天皇・日本国・日本民族を守る為に無宗教の「国家神道」新設した。
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 2024年6月28日 YAHOO!JAPANニュース 南日本新聞「牛を奪ったイギリス船員と薩摩藩士が銃撃戦に…200年前の「宝島事件」、黎明館が関連資料を展示
 宝島に向かう武士が掲げた島津義弘の馬印。朝鮮出兵で使ったと書かれている=鹿児島市の黎明館
 江戸時代に宝島(十島村)で起きた「宝島事件」から今年で200年を迎え、鹿児島市の黎明館で関連資料を展示している。突然上陸してきた英国船員が牛を強奪し、藩の役人らと銃撃戦を展開。薩摩藩に軍事的な緊張をもたらした。同館は「薩摩がいち早く近代化を目指す原動力となった出来事。多くの人に知ってほしい」としている。
 【写真】十島村の各島の位置を地図で確認する
 事件が起こったのは、文政7(1824)年7月。ペリーが来航する約30年前だ。宝島沖に英国の捕鯨船が来航し、複数の船員が上陸。島で飼われていた牛を要求したが、島の役人らが断ると発砲し、牛を強奪した。島の役人らも応戦して船員1人を鉄砲で撃ち殺した。
 黎明館で展示中の「宝島外国船入港記録」には「『いぎりす』という言葉だけは分かった」などと事件の経緯が報告されている。船員たちが手ぶりで牛を求める様子や、野菜を与えると一度は喜んで船に戻ったことなどが記されている。一方、戦闘が始まると「鉄砲をしきりに撃ち」「本船よりは大砲をおびただしく発射」とあり、緊張感が伝わる内容だ。
 事件は薩摩藩に大きな衝撃を与えた。英国船の再来を恐れ、宝島に軍勢派遣を決定。事件翌月に島津権五郎を大将にした約30人の部隊と、その家来や水夫らが出陣した。同館の崎山健文主任学芸専門員は「島原の乱(1637~38年)以来、約200年ぶりの出陣。武士、民衆にとって初めての経験だった」と解説する。
 同館に展示する絵図には、馬に乗った武士、弓矢ややりなどの武器のほか、島津義弘の馬印も描かれている。朝鮮出兵の際に使った金色の「唐団扇」だという。崎山さんは「戦意高揚を図ろうと戦国時代に活躍した義弘の武勇にあやかったのは興味深い」と話す。城下は隊列を一目見ようと「見物人群集」というありさまだった。
 国内では同じ時期、水戸藩でも英国船員が来航する「大津浜事件」が発生。危機感を抱いた幕府は翌年、オランダ、中国以外の外国船は砲撃で追い返すよう命じる異国船打払令を発令した。崎山さんは「資料を通して、当時の様子に思いをはせてほしい。対外戦争が起こるかもしれないという緊迫感は相当なものだったはず」と話した。
 南日本新聞 | 鹿児島
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 鹿児島商工会議所
 2014年8月 イギリス坂(鹿児島郡十島村宝島)
 名前がまず魅力的な宝島だが、歴史の教科書にも登場する重大な事件が江戸時代の後期に発生している。
 文政7(1824)年7月8日、イギリス船が宝島沖に停泊、乗員が小舟に乗り換えて島に上陸し、藩の在番役人を訪ねた。
 交渉の目的は、島の牛をわけてもらうこと。当時の日本人には牛肉を食する習慣はなく、島民にとっての牛は農耕用であり、貴重な労働力であった。よってこの要望は断わられ、乗員は船に引き返した。
 しかし数日後、今度は武装して島に上陸し牛1頭を射殺、さらに数頭を生け捕りにして、船着き場まで運んでいく。そこで島の役人との間で銃撃戦となり、藩庁から派遣されていた吉村九郎がイギリス人一人を射殺する事態となった。
 イギリス側は死体をそのままにして帰船し、船も宝島から離れていった。これを宝島事件と呼ぶ。
 この一連の出来事はすぐさま藩へ報告され、さらに幕府にも通達された。
 この事件もきっかけのひとつとなり、幕府は文政8(1825)年に異国船打払令を発令し、外圧に備える体制を整えることになる。薩摩藩もしかりで、藩主島津斉興は、海岸防備を強化して、異国船の到来に備える体制をとるようになる。
 まさに、その後の外国船の日本近海への到来と圧力を予見させるような出来事であったが、宝島では、この銃撃戦が繰り広げられた坂道が今でもイギリス坂と呼ばれ、日本の歴史にも影響を及ぼした出来事を静かに伝えてくれている。
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 ウィキペディア
 宝島
 島内からは多くの土器が出土しており、下層部からは縄文後期のころのものとみられる宇宿下層式土器や八重山式土器、上層部からは弥生中期のころと見られる須玖式土器が出土している。
 宝島という地名は江戸期より見え、薩摩国川辺郡のうちの村名であったとあるが、薩摩藩の直轄領であったため、郷には属さず、藩の船奉行の支配下に置かれていた。宝島の村には小宝島も含まれていた。口之島や中之島と同様に津口番所、異国船番所、異国船遠見番所が設置され、城下より在番が派遣されていた。村高は「薩藩政要録」では395石余であった。
 宝島事件
 文政7年(1824年)8月、イギリス船(捕鯨船)が来島し、島民に牛を譲渡するように要求したが、在番および郡司が拒否したため、20名から30名程度のイギリス人が島に上陸し牛3頭を略奪した。この事件で横目の吉村九助が在番所でイギリス人1名を射殺、流人であった本田助之丞と田尻後藤兵衛の2名の武士も争いに参加したとある。本田助之丞は文化朋党事件により遠島に処されている。射殺された船員は塩漬けにされた。この事件が1つの要因となり、翌年の文政8年(1825年)には異国船打払令が出された。 この事件の顛末を吉村昭が短編小説『牛』で描いている。島にはこの事件に由来したイギリス坂という地名が存在する。
 「吐噶喇列島#沿革」も参照
 行政区分の変遷は吐噶喇列島に準じるが、1952年(昭和27年)の本土復帰時に、小宝島の領域が大字宝島から分立され、大字小宝島となった。
 なお、17世紀後半のイギリスの海賊、キャプテンキッドがこの島に財宝を隠したという言い伝えがある。
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 大津浜事件(おおつはまじけん)は、文政7年5月28日(1824年6月24日)に水戸藩領の大津(現在の茨城県北茨城市大津町)の浜にイギリス人12人が上陸し、水戸藩が尋問した後、彼らを船に帰した事件。文政8年(1825年)の異国船打払令の一因となった。
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