⚔65)─2─地方の大名達は天災と闘い自腹を切り無償で被災者・弱者達を助けていた。~No.268 

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 江戸時代が、「パックス゠トクガワ」として260年間天下泰平で過ごせたのには理由があった。
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 南こうせつ「日本人は気遣いの民族だから、お互いに互いを思いやって、社会がまわっている。」
 福岡伸一「人助けが遺伝子を活性化させる」
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 2021年9月19日 JCAST会社ウォッチ
 気になるビジネス本
 江戸時代の大名は災害が起こると、財政を傾けてまで領民を守った!【防災を知る一冊】
 9月1日は「防災の日」。1923(大正12)年9月1日に関東大震災が起きてから、もうすぐ100年になろうとしている。また、近年は9月に大型台風が上陸したり、長雨が続いたりして、各地で風水害も発生している。9月は防災、自然災害、気候変動、地球温暖化をテーマにした本を随時、紹介していこう。
 地震や台風などの自然災害は毎年のように甚大な被害をもたらしているが、江戸時代も事情は同じだった。社会制度が今とは異なる当時、地方の行政機関である藩は、どのようにして被災者を救ったのか――。
 有能な為政者は藩財政を傾けてまで、金銭給付や食料配布、建材支給、無償の医師派遣を迅速に行い、さらには犠牲者鎮魂の儀式まで催していたという。三重大学副学長の歴史家がお膝元の藤堂藩を中心にその実相を読み解いたのが、本書「災害とたたかう大名たち」(KADOKAWA)である。
 「災害とたたかう大名たち」(藤田達生著)KADOKAWA
 大名は災害とどう戦ったのか!?(写真は、藤堂高虎像)
 藩の年間収入を上回る金を領民に
 著者の藤田達生さんは、三重大学副学長で教育学部・大学院地域イノベーション学研究科教授。「藤堂高虎論」「信長革命」などの著書がある。
 藤堂藩は、伊勢・伊賀などで32万石を有する大藩だった。嘉永7年(1854)6月15日に阪神・淡路大震災と同規模の安政伊賀地震が発生した。災害対応の記録が詳細に残っており、災害時の被災者支援は手厚かったことがわかる。
 伊賀領における死者数は597人、負傷者は965人、全壊家屋2028軒、半壊家屋4357軒(藩士分を除く)という被害だった。
 地震当日、上野町人に対して仮小屋を安全な場所に設置することが許可され、資材と食料が給与され、町や村に対して被害調査がなされた。翌16日には、最低限の避難場所の確保と、震災の被害状況の第一報が江戸の藩主へ伝達された。
 その後も死者1人につき米1俵が渡され、全壊した家には町方では1軒につき金2両(26万円)と米4俵、郷方では1軒につき金3両(39万円)と米1俵が渡されるなど、手厚く保護された。
 安政伊賀地震において藤堂藩が伊賀領の領民に渡した金の総額は2万5643両(約33億円)にも上った。藩の年間全収入は3万5600両(約46億円)だったから、その72%に相当する莫大な支出だった。ほかにも伊勢領などがあったから、優に年間収入を超えたと予想される。幕府から2万両を借りたことがわかっているので、借金をしてまで藩士や領民の生活復興を優先した、と藤田さんは評価している。
 なぜ藩は領民を保護したのか?
 幕藩体制の根本理念は、天下の領知権(国土領有権)を、天から天下人や将軍が預かり、彼らが器量に応じて領知権を諸大名に預ける、という「預治思想」にあった、と解説する。
 天下統一後、諸大名は戦国時代とは違い地方社会に君臨する王ではなく、官僚として国務の一翼を担う存在と位置づけられた。このことを象徴する次のような文章がある。
 「全国の大名家の中には、江戸時代を通じて10回以上も国替を経験した家があることが知られている。それが可能だったのも、城郭や武家屋敷が公儀(幕府)からの預かり物として位置づけられていたことによる。つまり城郭から武家屋敷に至るまでが、『官舎』として管理されていたのである」
 藤堂藩では城郭や武家屋敷はもとより、町人屋敷に加えて百姓家屋までが管理されていた。「田畑は公儀の物」あるいは「公田」という理解だった。したがって、災害がおこれば、困っている百姓を救済するのは当然の使命だった。
 領地領民を守り藩主との信頼関係を構築することこそ、支配の安定化に不可欠と認識したからだ。だが、それが次第に揺らいでいく。
 「預治思想」に基づく幕藩体制において、定期的な移動である参勤交代や、不定期ではあるが国替や役職の移動が基本にあった。しかし、さまざまな災害が続き、その復旧に莫大な費用がかかると移動が妨げられた。
 災害が続き藩は自立、幕末へ
 藩の財政が苦しくなると、幕府に借金をしたが、天明年間(1781~89)移行、幕府は深刻な財政危機によって、例外はあったが基本的に借金を受け付けなくなっていた。その結果、西国の外様大藩(薩摩藩長州藩など)を中心に藩の自立化が進められた。
 藩財政の立て直しのために特産品の専売化などを進めて、雄藩化が図られていった。国替や参勤交代も十全には行われなくなっていった。権威が低下した幕府に代わって朝廷との結びつきが意識された。こうして幕末を招いたのだ。
 「災害時こそ大名にとって支配の正当性を演出する絶好の機会」と藤田さんは書いている。災害時の生活保障の手厚さが、日常における両者の信頼関係の強化につながり、ひいては年貢の安定的な確保をもたらしたからだ。
 しかし、うち続く災害によってこれが守られず、一揆や打ちこわしが頻発し、やがて江戸幕府は崩壊した。
 コロナ禍の現在、災害から民を守れないと見切られた国はどうなるのだろうか。政治の機能不全がポストコロナ時代の歴史の転換をもたらすかもしれない、と藤田さんは書いている。
 ひと握りの特権層だけが優遇され、「新自由主義」が生み出した格差による国民の分断が進んでいる。江戸時代の大名がすべて藤堂藩のように手厚く領民を保護した訳ではないが、基本は同じだろう。江戸の大名たちの立派さを知るにつけ、現代の為政者はなすべきことを行っているのか、という不信感が募る。(渡辺淳悦)
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 「災害とたたかう大名たち」
 藤田達生
 KADOKAWA
 1870円(税込)
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 昔の日本人は、人種差別傾向が強くなっている現代日本人とは違う。
2024-11-03
☱24〕─1─日本の悪しき病根。危機に瀕した日本社会が弱者に向けた凄惨な暴力。~No.57No.58 
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 日本民族は、性善説として生まれ付き〝バカ〟が付くほどお人好しで、神道の慈愛と仏教の慈悲から困っている人を助ける事は人としての道でるとして生きていた。
 日本人は、自然による災害や海難事故が発生すれば、二次災害で自分が死ぬ危険性を恐れず日本人であれ外国人であれ、たとえ敵であっても関係なく無償で被害者・遭難者を助けていた。
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 数万年前の旧石器時代縄文時代から、日本列島には人種差別は存在しなかった。
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 日本には、下層民による階級闘争としてのマルクス主義人民革命は起きなかったし、奇跡や恩寵をもたらす全知全能の絶対神による一神教ユダヤ教キリスト教イスラム教・他)などは役に立たなかった。
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 天下泰平の江戸時代、日本全国で連続複合災害が多発し、数千人から数万人が犠牲となり、十数万人から数十万人が被災者として村を放棄して町や都市に流れ込み、餓死や病死など二次被害に襲われて行き倒れとして死亡した。
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 徳川幕府や諸大名は、財政に関係なく、如何なる赤字おも覚悟で、無償で被災した人々を身分、地位、職業、貧富、家柄、出自、地域に関係なく、たとえ賤民(非人・えた)や罪人であろうとも見捨てる事なく全員を等しく平等・公平に救済していた。
 そこには、人間的宗教的社会的な如何なる偏見や差別も存在しなかった。
 寺院は哀れな犠牲者を悔いなく成仏するように弔い、神社は八百万の神々の怒りを鎮めて被災民の救済を祈った。
 自然災害の被災者は、保護され救済されていた。
 財政赤字となった幕府や諸大名は、庶民に重税を課さず、地場産業を発展させる事で現金収入の得ようと殖産に務め、食糧の安定供給の為に新田開発を行い地産地消に努めた。
 その意味で、江戸時代は他者との差別化を図る為の破壊的イノベーションと継続発展的リノベーションが盛んな時代でもあった。
 その為に、中国の古典書物と長崎からオランダを通じて西洋の最新情報を積極的に取り入れていた。
 江戸時代は、閉鎖的に停滞した遅れた時代ではなかった。
 日本から朝鮮や中国に逃げ出す被災民・避難民は、誰一人としていなかった。
 日本の崩壊を食い止めていたのは、神話物語を正統とする男系父系天皇であった。
 それゆえに、誰も天皇を打倒して自分が天皇に即位しようとする野心家はいなかった。それが、「象徴」と言う本当の意味である。
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 歴史的事実として、関東大震災の時に発生した日本人・朝鮮人・中国人の惨殺と同じ事件は、何時の時代でも、日本全国で起きていない。
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 天皇神話、天照大神の神勅。
 第16代仁徳天皇神話。
 第45代聖武天皇光明皇后物語。
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 亀の子
 「大御宝(おおみたから)を鎮(しず)むべし」
 2022/07/06
 「国家」の中で支え合う「大御宝」~この国の歴史が庶民によってつくられたのと同時に、この国は庶民が安心して暮らせることを目的として建てられたものです。そのことは、初代の神武天皇が即位されたときに、宣言されています。『大御宝(おおみたから)を鎮むべし」と。
 「大御宝」とは、『日本書紀』では漢字で「元元」と書いています。
 漢文では単なる「人々」という意味ですが、我が国では大和言葉で「おおみたから」と読ませたのです。したがって、日本の「庶民」は、「大御宝」と考えられていたのです。そして、その「大御宝」が「鎮むべし」、安心して暮らせるようにしよう。と神武天皇が即位の際に宣言されています。
 続いて神武天皇は、「八紘一宇(はっこういちう)~「八紘(あめのしたを(おおひて・宇・いえにせむこと、又良からずや」と述べておられます。
 「大御宝」といっても、個人が国家に頼り切って安楽な生活をする「福祉国家」を目指したのではありません。一家の中で、祖父母、両親、兄弟から幼児まで、それぞれ処を得て、一家全体のために支え合う、それを「大御宝」の理想の姿とされたのです。日本語の「国家」には、わざわざ「家」の宇を添えられています。国とは家と同じようなものと見なした先人たちの国家観が、「国家」というたった一つの言葉からも窺(うかが)えます。国史小名木義行(国史啓蒙家ねずさん)は、外国語でこういう表現はありませんと言われています。では、現代日本は国民を「大御宝」として大切にしているか?
 まるで、今の時代は、「大御宝を鎮むべし」とは、反対の方向に行っているように思えます。この「大御宝を鎮むべし」をいかに実現するかを考えれば、「希望のかたち」が見えてきます。高齢化そのものは長寿という、おめでたいことなのです。そして、お年寄りの幸福とは、何歳になっても、元気で仕事をしたり、社会の為に役立って、自分なりの居場所を持てることです。
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 2021年9月10日 日経 BizGateリポート/経営
 「災害が災害を招く」江戸期に学ぶコロナ時代のヒント
 藤田達生・三重大副学長に聞く
 「城作りの名人」といわれた藤堂藩初代藩主・藤堂高虎が築いた伊賀上野城三重県伊賀市、8月)
 新型コロナウイルスの感染拡大だけでなく、台風の水害など予期できない困難が国内を襲っている。実は江戸時代も災害など困難の連続に直面していた。「天下太平」のイメージとは裏腹に地震、火事、疫病、干ばつ、水害と、徳川幕府と全国の各藩は災害対策に忙しかった。将軍家のお膝元である江戸の街は優れた減災・救済システムを確立し、さらに一歩進んだ復旧対策を構築した有力藩もあったという。ウィズコロナ時代におけるマネジメントのコツは、日本の近世にあるかもしれない。藤堂藩(現三重県)の復興対策について、三重大学藤田達生副学長に聞いた。
――新型コロナウイルスの対策を巡り、ワクチン接種などで政府と地方自治体のすれ違いが表面化しました。
 「江戸時代は、合戦という最悪の人災こそなくなったものの、自然災害が相次ぎました。東アジアの天候不順が冷害や干ばつを招き、『寛永の大飢饉(ききん、1641年)』の引き金となったという研究があります。享保の飢饉(1731年)や天明の飢饉(1782年)の原因には虫害が指摘されています。人々の衛生状態が悪化すると、疫病の流行につながりました。災害が災害を招くのです。大地震でも町や村が倒壊し社会が荒廃します。安政江戸地震1855年)の後にはコレラが流行しました」
 徳川幕府が作った「災害救済マニュアル」
――江戸期は慶長地震(1605年)に始まって元禄、宝永、安政など各地で十数回の大地震を経験し、飢饉は「江戸の4大飢饉」など大小合わせ百数十回に及ぶといわれます。江戸の街は火事も多く「大火」と記録されるものだけで約50回。江戸城天守閣や本丸御殿が焼失したケースもありました。
 「徳川幕府は減災・復興対策をシステム化させていきました。被災した人々を収容する仮小屋の設置、粥の炊き出しなどの『御救い』です。復興に向けては金銭・米の拠出や貸借も行いました。近隣大名や旗本に加え寺社・大商人など民間からの支援体制も整備していきます。いわば『救済マニュアル』を作成したのです。江戸時代後期に地震や火事が頻発しましたが、スピーディーに対策を講じました」
――幕府は火消し組の制度化、放火への厳罰化、大名屋敷や寺社を移転しての火よけ地・広小路の確保、瓦葺(かわらぶき)や土蔵造りの採用による不燃化などを推進しました。減災対策が法整備や都市計画に及んだのですね。
 「幕府は被災した大名らに対しても無利子で貸し出す『拝借金』などで支援しました。ただ江戸後期には幕府自体が逼迫(ひっぱく)し、大名は将軍からの財政出動を当てにできなくなりました。各藩は独自の対策を構築する必要に迫られました」
 「そのときに手本となったのが、参勤交代先の江戸で実体験した復旧システムでした。参勤交代はもともと大名に対するけん制策だったのですが、中央の先進的なノウハウを各地に普及させる効果もあったのです」
 江戸期にあった医師の無料派遣、心のケア
――伊賀・藤堂藩(現三重県)の復興対策を最先端のケースのひとつと分析していますね。32万石という大藩で、遠隔地の外様大名が多い中では例外的に京都に近接し、幕府と信頼関係がありました。安政伊賀地震1854年)はマグニチュード7.2の直下型地震で、死傷者は1500人を超え全・半倒壊家屋は約6400軒とされます。
 オンライン取材を受ける藤田達生・三重大副学長
 「藤堂藩は被災当日、城下の火除け地に仮小屋の設置を許可し、玄米粥の炊き出しや味噌を配給しました。この時代は、まず領民からの訴えがあってから動き出すのが通例でしたが、待たずに救済対策を始めました。雨露をしのぐ竹や渋皮も支給しました。江戸を倣って、町民による火消しシステムなどは、すでに導入していました。情報収集も迅速で、被災翌日には被害状況をまとめた第一報を江戸藩邸の藩主に送っています。町や村に1人1日玄米2合の『御救米』を配給し、家屋の被害を受けた者には別途追加しました。藩主の指示を受けて金銭も配給しました。医師の無料派遣も行いました」
 「幕府の救済対策は、金銭と米穀の支給が基本でした。一方、藤堂藩は民家の再建も援助し、建築には被災した人々を当てて当面の失業対策としました。肝心なのは人々の心のケアも手掛けたことです。1年後に犠牲者への供養、法要を藩が執り行っています。疫病が流行したときには薬を配布したり、町人総出の練り踊りも開催し、藩主が現場で観覧し褒賞金を与えました。政治の見える化ですね」
――復興費用はどれくらいだったのでしょうか。
 「領民に対する金銭の支給だけで約2万5000両と、藤堂藩の1年間の収入の7割を超えました。全体では優に年収を超えたでしょう。財政破綻を半ば覚悟した支援でした。当面の不足分は京・大坂などの豪商からの借り入れなどに頼りました。幕末に各藩の財政がひっぱくした原因は、よく消費経済の発展による藩主らの奢侈(しゃし)に求められます。しかしこうした復興経費も藩政を圧迫したのです」

「先進的な藤堂藩以外で、ユニークな復旧対策を講じた大名に善光寺地震(1847年)の松代藩(10万石)・真田幸貫がいます。マグニチュード7.4の直下型地震で死傷者が約5000人。地震による直接的な被害のほかに、犀川の決壊で約6500軒に泥水が流入しました。仮小屋と御救小屋の設置、スピーディーな被害状況の把握は藤堂藩と同じですが、真田幸貫は絵師を派遣して詳細な被害絵図を作成させました。被災した善光寺の参拝客も領民・領民以外の区別無く救済措置を取りました。ちょうど7年に1度のご本尊開帳の年に当たっていて各地からの参拝が多かったのです。災害後を見据えた処置でした」
――災害を受けた各藩の財政立て直しはどうしたのでしょうか。
 「災害とたたかう大名たち」(角川選書)。合戦という最悪の人災はなくなったが江戸期の大名は災害対策に駆け回った
 「まず殖産興業です。藤堂藩では空き地や河川堤にウルシ・コウゾなどを植林し、武家屋敷などでミカンや柿の果実栽培、藩有林でシイタケの商品化、養蚕業の奨励などを進めました。人材を育成し、士気を高めるための藩校も設立しました。すべてが順調だったわけではありません。急速な改革は革新派と守旧派の対立を生み、農民にも変化を強いることから一揆も起きました」
 「節約だけではダメ。第1次産業の奨励だけでも足らないということです。ただ、災害対策を契機とした幕府からの経済的な独立が、思想的な自立につながった面は見逃せません」
 (聞き手は松本治人)
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 開催期間:2024年12月2日(月)~6日(金)
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 2021年2月26日 人間文化研究機構
 No.061 - 「近世江戸は災害都市だった! 連続複合災害について考える」(大手町アカデミア✕人間文化研究機構一般講演会)開催報告
 「近世江戸は災害都市だった! 連続複合災害について考える」(大手町アカデミア✕人間文化研究機構一般講演会)開催報告
 今冬(2020-2021)、大雪に見舞われた多くの地域と比べて、荒れた天気の少なかった東京。実は、江戸時代、東京(江戸)は災害に見舞われることの多かった災害都市であったことをご存じだったでしょうか。災害歴史学を研究している国文学研究資料館教授の渡辺浩一先生によれば、江戸では、火災は1年に2回程度、水害は約3年に一度、感染症は頻回していたそうです。江戸で頻発するこうした災害に対して幕府はどのような対策を打ち出していたのでしょうか。2020年12月16日(水)、大手町アカデミアと人間文化研究機構が共催する一般講演会「近世江戸は災害都市だった! 連続複合災害について考える」(オンライン)において、渡辺先生が当時の社会情勢や災害の規模などを比較しながら、江戸幕府が打ち出したさまざまな災害対策を紐解きました。
 1603年から200年近く続いた江戸時代。渡辺先生によれば、その中でも1780年代の天明期と1850年代の安政期は、短い期間の間に災害が集中した連続複合災害の時期と位置付けられるそうです。天明期の連続複合災害は、1783年の浅間山の噴火に始まり、感染症の流行や大火、水害、そして1791年の高潮と、10年弱の間に江戸は数々の災害に見舞われました。一方、安政期の連続複合災害は、1854年から1858年の間に3度の大火、台風、地震コレラの流行が次々と江戸で起きました。こうした連続複合災害について、天明期と安政期とでは、幕府が打ち出した対策には大きな違いがみられると渡辺先生は説明します。天明期の対応は直接的で民意を無視した強権的なものであった一方で、安政期の対応はそれまでに整備された災害対策を踏襲するにとどまり、新しい施策の議論はなされたものの結果的に実行することができなかったと、渡辺先生は評価しています。
 1855年安政地震後の江戸の様子。地震の後に火災が起こっている様子が見られる。本所天神川堤(江東区横川三丁目付近)より江戸を望んだ様子。右手が上野方面。左側が深川方面。(『安政見聞誌』より、国立公文書館デジタルアーカイブ
 たとえば、幕府が天明期に行った飢餓対策として、町会所(まちかいしょ)の設置があります。町会所では、平時にあらかじめお米やお金を備蓄しておきます。そして、災害時の救済措置の一環として、備蓄したお米やお金を被災者に配ります。また、町会所の備蓄品の使用に関わる手続きを簡素化することで、より素早くかつ多くの被災者を救済できる仕組みを整えました。さらに、水害の影響を抑える目的で、隅田川内造成地の撤去や海沿いの町の移転などを積極的に行いました。海沿いの深川洲崎の移転については、反対する声も幕府に寄せられましたが、幕府は黙殺したようです。これらの対応は、のちに寛政改革として知られる改革の一環として幕府が取り組んだものです。他方、安政期には、たとえば、江戸に全国の産物を集荷・販売する産物会所の設置が検討されました。しかし、協議と構想だけにとどまりました。また、軍事訓練施設の維持費を確保するために、幕府が繁華街に有していた土地を町人(利用者)に買い取らせる施策も試みました。しかし、こちらも買取られた土地の数は予定の3分の1にも満たず、結果的には挫折したようです。
 中央の緑の草原部分が1791年(寛政3年)の高潮によって流された場所。幕府は高潮対策として、この草原部分での人の居住を禁止した。(洲崎弁才天境内全図 安藤広重『江戸名所百景』より、国会図書館デジタルコレクション)
 このように連続複合災害に対する江戸幕府の対策は、その時代時代によって異なっていました。こうした違いの背景の一つに安政期は諸外国との貿易も始まる時期と重なり、軍事改革も進める必要があったことから、災害対策よりも軍事改革が優先されたことが影響していると渡辺先生は見ています。
 このオンライン講演会には、定員100名のところ、300名近くの参加申し込みがあり、イベント開始前から高い関心が寄せられました。またイベント当日は、子どもと一緒に親子で参加した方や歴史に詳しい参加者もおり、幅広い層が渡辺先生とともに江戸時代の複合災害と幕府の災害対策について考えました。当日の講演や質疑応答の様子は人間文化研究機構YouTubeチャンネルからご覧いただけます。
 (文:高祖歩美)
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