⚔65)─3─江戸時代の御恩と奉公とは、徳川幕府の無利子の拝借金。田沼意次の失敗。~No.269 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸時代とは、長崎から流入する西洋の舶来を好む破壊的イノベーションと古の伝統を重んずる継続的イノベーションが車の両輪として動いていた時代であった。
 成功もあれば、失敗もあったが、時代は立ち止まる事なく進んでいた。
 江戸時代は人口微増期で、1600年の江戸開府では約1,227万人だったのが260年後の大政奉還が行われた1867年には約3,455万人に増えていた。
 江戸時代に全国で頻発していた天災・飢饉・疫病・大火では、災害死では数千人から数十万人が死亡し、関連死では数千人から数万人が死亡していた。
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 御恩と奉公とは、中世の日本において、主に武士の主従関係を構成した要素・概念。中世の武士間の主従関係は、決して片務的なものではなく、主人・従者が相互に利益を与え合う互恵的な関係で成り立っていた。ここで、主人が従者へ与えた利益(領地)を御恩といい、従者が主人へ与えた利益(主人のために戦う)を奉公といった。平安時代中期~後期から武士層に「御恩と奉公」の関係が徐々に形成されていたが、本格的に「御恩と奉公」が成立したのは、源頼朝が関東武士の盟主=鎌倉殿となってからである。以降、御恩と奉公の関係性は、鎌倉幕府の成立基盤として機能し続け、その後の室町幕府江戸幕府にも引き継がれた。
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 金の切れ目は縁の切れ目 {金銭によって成り立った関係は金が尽きれば絶えてしまう。}
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 徳川幕府は全国の鉱山と長崎の出島を独占し貨幣を鋳造して金融を支配していたが、徳川宗家は天領という直轄地を持った大大名であり、その領地は他の大名同様に天災や大火で甚大な被害を受けた被災者でもあった。
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 田沼意次は、頻発す天災・飢饉・大火が幕府財政を悪化させた為に財政を再建するべく、災害で甚大な被害を受け経済難に陥った大名を救済する資金を無利子で貸し付ける「拝借金」制度(災害救助法・災害対策費・地方交付金)を停止して諸大名を切り捨て、株仲間(業界団体)や会所(豪商・会社)の豪商達から上納金・運上金・冥加金(政治献金企業献金・賄賂)を要求し、さらに百姓や町人から御用金(増税)を取り立てようとした。
 田沼意次蝦夷地開発開墾計画、印旛沼干拓工事などの大規模公共事業は、地方の大名や貧しい庶民を犠牲にしても幕府の利益のみを追求する幕府第一主義の積極的財政出動であった。つまり、時代を切り開く広い視野での先見性がなく、庶民を含めた歴史観・国家観さえ持っていなかった。そこが、田沼意次の限界であった。
 田沼意次は組織の論理として災害復興をリスクとして大名や庶民救済を後回した為に、歴史に切り捨てられたのであって、世襲守旧派の陰謀で失脚させられのでもなく、型破りな重商主義的改革者として早く生まれて失敗したのではない。
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 はいしゃく‐きん【拝借金】
 〘 名詞 〙
 ① 拝借した金銭。
[初出の実例]「拝借金は返せないけれども」(出典:家族会議(1935)〈横光利一〉)
 ② 江戸時代、武家などが幕府から金を借りること。また、その金。
[初出の実例]「うるしのはいしゃく金百両かりたる人あり」(出典:咄本・かの子ばなし(1690)上)
 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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 世界大百科事典(旧版)内の拝借金の言及
 【貸付金】より
…貸付銀ともいい,正しくは御貸付金という。〈貸付金〉は利殖を目的としているが,幕府貸出金のうちには,このほか幕府が純粋に救済を目的として恩貸した〈拝借金〉と,不時の立替えを幕府が行う〈立替金〉とがあった。これら3種の貸出金はその目的からいって,貸付金は利付貸し,拝借金と立替金とは無利息貸しを原則とした。…
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 拝借金とは、江戸幕府が財政支援のために、大名・旗本などに無利子で貸与した金銭。
 幕府による恩恵とする位置付けから恩貸とも呼ばれた。
 概要
 記録で確認できる最古の例は大坂冬の陣の時のことであり、当時江戸城の普請が進行中であったことから、普請と軍役の二重負担に配慮して支給されたものと考えられている。
 加賀藩には3万両、仙台藩には1万5千両、西国の姫路藩和歌山藩佐賀藩には銀200貫目が貸与されたとされている。
 その後も火災や水害などを理由としてしばしば拝借金が貸与された。特に明暦の大火においては被災した大名家に対して石高に応じて10ヵ年返済の拝借金が認められている。
 貸与例
 拝借金が貸与される例として居城の罹災や領内の災害・凶作、勅使や朝鮮通信使への接待などの幕命による御用遂行、転封、幕府の役職就任(京都所司代大坂城代遠国奉行など)などが挙げられる。
 また、御三家などの将軍家親族や老中・若年寄京都所司代歴任者に対しては基準が緩かった様である。
 また、江戸時代後期には旗本・御家人の生活窮乏を救うために拝借金が行われたほか、寺社・宿場町・米価などの維持のために非武士に対しても行われることがあった(米価の場合は札差・米問屋が対象となる)。
 幕末
 幕末になると、海防などの軍備増強や経済混乱に対する救済策としても行われた。江戸時代後期には幕府自体の財政難を理由に拝借金の基準が厳しくなり拠出の抑制が行われたが、それでも天保13年(1842年)暮れには拝借金残高がほぼ12万両に達していた。
 拝借金は幕藩体制維持のためには必要な措置であったが、同時に幕府財政を悪化させる要因の1つになったのである。
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 三島市郷土資料館
 歴史の小箱
 (第313号)三島宿 借金とその返済 (平成26年6月1日号)
 開催中の企画展「三島宿を支えた人々 三島問屋場・町役場文書から」に合わせ、江戸時代、三島宿の中心的な施設であった問屋場に残された資料を紹介します。  
 江戸時代の宿場は幕府や諸大名の公的な人やモノの輸送を無料または低額の料金で請負う義務がありました。そのため宿場の財政は常に苦しく、幕府から拝借金(借金)をすることも度々でした。 また、三島宿は強い西風のために大火になりやすく、その復興のために借金をすることもありました。  
 下の写真は、三島宿が幕府から借金をした際の経緯を記したものです。  
 乍恐以書付奉願候御事おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそうろう 享保2年
 元禄七年(一六九四)、三島宿は大火に見舞われ、その復興資金として元禄十年に拝借金千両が代官より渡されました。大火から三年かかっており、そのあいだ宿場はずいぶん困窮していたようです。  
 この時、七五〇両は家屋の再建などのために使い、残りの二五〇両は代官が預かり近隣の村々へ貸付けて利殖(利子・利益によって財産をふやすこと)し、元金千両に戻すことになりました。元金二五〇両を年利十五%で貸付けていけば複利計算で十年後には約四倍になり、千両に達する計算です。  
 拝借金を使い切らずに、一部を基金として利殖を行うなどしっかりした返済計画を立てています。しかし、実際にはその後、宿場の資金難を切り抜けるために元利金を取り崩すなど、計画通りには進みませんでした。  
 それでも、十六年目の正徳三年(一七一三)には元利金一一三六両となり、目標の千両を超えました。
 これ以後、年十五%の利息は助成金として宿場に渡されるはずでした。(宿場ではそのように認識していたようです。)しかし、その後、五年間助成金は渡されませんでした。そのため、正徳三年から享保元年(一七一六)まで四年間の利息分を助成金として受け取りたいとして、享保二年、代官に対し訴えを起こしています。  
 この文書からはその後のことはわかりませんが、四年間も助成金が交付されなかったことから単なる事務的な手違いではなく、代官側では千両たまった時点で返済金として受け取った、という認識だったのかもしれません。
 【平成26年 広報みしま 6月1日号 掲載記事】
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 港区のあゆみ
江戸の勧化
 勧化(かんげ)とは、僧が仏寺や仏像を造営するために信者に寄付を勧めて集めることで、勧進(かんじん)ともいう。中世には寺社の再建、修復費用を募るために盛んに行われたが、近世では幕府の寺社に対する重要な助成策として位置付いていた。
 一八世紀になると、幕府も財政難から寺社への直接的な助成が困難になってきていた。幕府はそれまで有力寺社や徳川家と由緒の深い寺社に対し、直接資金援助を行う拝領金や、低利融資の拝借金を許可してきたが、それに代わる自助努力を求めるようになる。そこで、幕府の許認可という「管理」と「恩恵」のもとに自助努力を求める手法として登場したのが、開帳、勧化、御免富(ごめんとみ)などの興行である。
 一八世紀初頭以降、町名主の支配町を単位として、その周知から集金に至る流れがシステム化されていき、老中の許可状をもとに、特定の国内を数年間勧化することを許可された御免勧化の場合は、年番名主ごとに町年寄を経て町奉行所に納められていた。そして幕末期には町をその規模に応じて大、中、小とランク分けし、それまで「志次第」としていた町ごとの集金高を固定化させる傾向が顕著になっていった。
 このことは御免勧化が後述の御免富のように集金高の試算が可能となったことを意味し、天保一三年(一八四二)に御免富(後述)が廃止され、幕府による助成策の選択肢が狭められたなかでは、貴重な手法として位置付けられていた。しかし、その実態は、町単位では少額であるばかりでなく、集金のためには旅費など付随費用がかかり、少なくとも江戸の町方での集金はそれほど効率のよいものではなかった。また、請負人の存在が指摘されているように、一部の御免勧化では御免富に類似した請負構造(後述)が存在していたと考えられるのである。こうして助成システムが形骸化された御免勧化は、末端の町の構成員に義務的な負担となって現れた。多くは分割で支払うほどに彼らを疲弊させていったのである。
 一方、相対勧化(あいたいかんげ)には寺社奉行所が許可状を発行する助成策として明和三年(一七六六)以降行われたものと、氏子町、門前町、檀家、講組織などを中心に私的に行われるものとがあった。前者は九〇日と短い期間江戸市中を巡行するもので、老中の許可状が発行されず、御免勧化のような強制力がないため、寺社にとってはあまり効率のよい集金方法ではなかった。また、相対勧化は祭礼や法会などで通常に関わる者を主な対象としていることを考えれば、二重の負担を強いることになったわけである。
 このように、勧化を江戸市中との関係性のなかで捉えるならば、一八世紀後半以降、江戸市中には様々な種類の勧化が入り混じっており、町方を経済的に疲弊させていった点が指摘できよう。それとともに、勧化で巡る者たちが町方に一時的な旅宿を構え、市中を巡行する実態は、修験者、願人、行人、虚無僧など宗教者の把握に手を焼いていた町奉行所の取り締まりの観点からも、危惧する要素を孕(はら)んでいたことがわかる。そして、何よりも寺社側にとっても大きな助成効果を生まないことが多く、御免富における影富(かげとみ)(後述)や、開帳における奉納物、見世物などのように、町人社会において際立った文化を生み出すこともなかったのである。
 
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 KAKEN
 幕末・維新期の権力関係一軍役動員と拝借金・貸付金を中心に
 研究機関 埼玉大学
 研究代表者 森田 武 埼玉大学, 教育学部, 教授 (30008726) 
 研究期間 (年度) 1996 – 1997
 研究概要
 本研究の概要は以下のとうりである。
 幕末期の幕藩権力関係および明治初期の維新政権と藩権力の関係について、次の観点と内容に関する研究をおこなった。
 1.幕藩権力関係を公儀の「御恩」としての知行権と藩権力の「奉公」としての軍役の観点から、まず幕末期の公儀知行権の特質を検討した。そのうち加封は、(1)外様大名に対する新潟の外警強化・転嫁、政治的引き付けや、(2)幕閣などの昇進を内容とすること、除封は、(1)井伊政権による一橋派若年寄の処罰、(2)井伊政権、久世・安藤政権担当者の処罰、(3)家臣の天狗党の乱加担に対する処罰、(4)禁門の変の責任を理由とする長州藩の処罰を内容とすること、つまり幕末の政治的潮流と対抗が除封の特質となっていることを明らかにした。
 2.幕府の軍役動員については江戸湾警衛について検討し、江戸湾陸地・台場の警衛の推移の特質として、公儀および関東旧付庸藩を主体・中核とし、外様大名へ拡大していったことと軍役奉仕の内容と矛盾を川越藩二本松藩などについて検討した。そこにも幕末の政治的対抗の反映がみられることを明らかにした。
 3.幕藩権力のなかで、公儀の義務であり、「恩貸」として機能した公儀拝借金の性格は、弘化期以降、譜代大名の幕府の役職就任、譜代・外様大名への軍役動員、政治的対抗にかわる貸し付けに変化することを明らかにした。
 4.明治元年から二年にかけての明治政府の金札石高割貸し付けについて、諸藩は藩権力の維持と軍事動員・武備確保のための恩貸として認識し、天皇政府を幕府=公儀に代る「公」権力として位置づけたことを明らかにした。
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 屋根の学校 石州瓦工業組合
 石州瓦のあれこれ 石州瓦物語 8代将軍 徳川吉宗の瓦葺き奨励策
 瓦屋根は江戸が栄えた寛永年間(1624~1643年)、町家に相当多くなったと言われますが、高価なため一部階級での使用に限られていました。
 『瓦は高価なもの。贅沢はいけない。』という禁止令が出されたこともあったようです。
 ところが、享保5年(1720年)一転して瓦葺きが奨励されるようになります。徳川幕府は、10年年賦の拝借金制度を武士だけでなく、一般庶民にまで運用し瓦葺きを奨励します。
 時の将軍吉宗は、瓦葺きの屋根を防火、類焼を防ぐ切り札として考え、江戸の町を初め多くの城下町の防火対策を進めたのです。ちなみに町火消し「いろは48組」が生まれたのも、竜怒水という消防ポンプ、さらには町の要所要所に類焼を防ぐ空き地や樹木地帯を設けたのも吉宗、江戸町奉行大岡越前守に差配させています。
 増加する瓦製造業 江戸後期
 瓦葺きの奨励策、桟瓦の発明による瓦施工費のコストダウンなどによって、瓦葺き工事は増加の一途をたどります。当然のことに、瓦製造業者も増加します。江戸も後期の頃です。
 ちなみに、当時、江戸、京、大坂の町家は殆どが瓦葺きになっていますが、京はもっぱら桟瓦葺き、大坂は本葺きと地域性が現れています。
 多様化する瓦の生産 登り窯の釉薬瓦 だるま窯のいぶし瓦
 江戸時代も後期になると、いぶし瓦がだるま窯で生産される一方で、登り窯による釉薬瓦の生産が、主に日本海沿岸で始まります。いずれも耐寒性に優れた、赤褐色の瓦という特徴をうたい文句にしていました。
 石州瓦もその一つですが、耐寒性の高い釉薬瓦が日本海沿岸に広まるきっかけの一つに石州瓦の存在があったとする説もあります。
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 週刊長野
 「むし倉日記」を読む
 15 湛水湖対策 ~幕府に拝借金願いを出す~
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 岩倉山の崩壊による湛水湖がどうなるかということは、その上下流に住む人々の重大な関心事だった。特に下流川中島の住民はもちろん、松代藩の為政者にとっては藩の命運がかかる問題だった。
 戦々恐々、夜も眠れずとは、このことである。一代の先覚者、佐久間修理(象山)の建言があったり、藩によって犀口を中心とした流水の防護策が進められたりした。
 佐久間が建言した方策は、せき止めの大岩に縦、横、深さ各8尺(約2.4メートル)の大穴を開け、中に地雷火を仕掛けて岩を焼き砕けばよかろうというものだった。
 しかし、一穴へ仕掛ける地雷の費用が莫大で、とてもできる相談ではなかった。ことに10丁(約1キロ)にわたる幾つもの穴を掘るための石工の費用は、いかばかりか思いやられた。その費用をもって掘り割っても、どのくらいの効果があろうかということで、この案は実現しなかった。
 また、ある人は破砕機で岩を打ち砕いたらどうかと言ったが、その響きでまた山崩れが起きるのでは―というやりとりも交わされた。
 一説によると松代藩は、大損害を修復するには莫大な費用を要するので、寛保の満水の例に倣って幕府に拝借金願いを出した。
 これを意訳要約すると、以下の内容である。
 「城内をはじめご家来衆・城下町などがものすごい破損で手をつけられないので、寛保満水の先例に倣い御拝借金をお願い申し上げます。状況は過日お届け申し上げましたように、今までなかったような大地震があり、城内の櫓一カ所がつぶれ、櫓門・囲塀や住居などが大破損しました。その上、所々地面が地震で裂け、溝ができました。城下町においても潰家、破損所、死亡者が続出し、そのほか領内の村々の被害も多大であります。
 どうかこの実情をあわれみ、格別の御憐悲金(ごれんびきん=御救金)二万両をご拝借願いたく、この段お願い申し上げます。四月十二日」
 (2014年4月5日号掲載)
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 愛媛県立図書館
 享保の大飢饉において松山藩では5,000人の餓死者が出て、幕府から1万2千両の拝借金が出たが、その使い道を知りたい。
 回答
 【資料1】
 「第二章 藩政の展開(中予)の「第一節 松山藩」、「四 享保の大飢饉松山藩の惨状」に「この時松山藩の借入した拝借金が、いかに使用されたかについては、いろいろな疑問を生ずる。それは、この当時執政の衝にあった奥平藤左衛門が翌一八年九月五日に、ついに役儀召放され、久万山へ蟄居を命じられたことであって、この当時の藩庁の記録によると、藤左衛門の罪籍の一つとして、大坂において受け取った幕府の拝借金を平野屋五兵衛へ残らず渡したことをあげ、不調法の至りと評している(山内家記)点である。したがって、この時の拝借金の使途ならびにその結果が時宜を得なかったことは明らかである。ところが、この間に政治問題が介在しているから、この史料によって直ちに拝借金が救済策に使用されず、ことごとく他に流用されたと断ずることは、軽率のそしりを免れないであろう。」とある。
 【資料2】
 「第一章 社会事業の創始」「第一節 近代以前の慈善救済」の中の「享保の飢饉と伊予諸藩の救済策」には、今治藩が「豪商・豪農などからの臨時御用金や幕府からの拝借金を資金に大坂・尾道などで米穀を買い付け、救済に当てている」のに対し、松山藩は「幕府からの拝借金一万二千両が救済にために使用されず、当時執政の要職ににあった奥平藤左衛門から大坂の豪商平野屋五兵衛に残らず渡すという不始末があった。奥平藤左衛門は享保十八年九月五日、役儀召放しとなり、久万山へ蟄居を命じられた」とある。
また、「享保の飢饉における伊予各藩の主な救済策」として松山藩が行ったものとしては、
○救助米給与、1日1人(3勺6才→5勺→1合)
○蔵改め・米蔵封印などによる米の領外流失防止
○塩・味噌・大根・麦・ひじき・あらめ・糠などの賑給
○貢租免除、負債の免除
○米穀払い下げによる米価騰貴防止
○野菜・蕎麦などの栽培自由化
藩士に対する人数扶持の実施
 が挙げられていた。
 【資料1】と【資料2】より、松山藩は幕府からの拝借金が大坂の豪商の手に渡ってしまい、救済のために使用されなかったということが考えられるが【資料1】の「この間に政治問題が介在しているから、この史料によって直ちに拝借金が救済策に使用されず、ことごとく他に流用されたと断ずることは、軽率のそしりを免れないであろう」という記述もあることから、断定はできないものと思われる。
 参考資料
 【資料1】『愛媛県史 近世 上』 愛媛県史編さん委員会/編 愛媛県 1986 <当館請求記号:K200-31>
 【資料2】『愛媛県史 社会経済5 社会』 愛媛県史編さん委員会/編 愛媛県 1988 <当館請求記号:K200-31>
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