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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2024-03-16
〖目次〗貼り付ける記事。:皇位継承と人口激減の原因はアメリカ大統領の敵意であった。令和6年版。
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27年テーゼ。三十二年テーゼ。
日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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2024年11月21日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「「われこそが天皇」 大量発生した「自称・天皇」たち GHQが注目し『ライフ』誌にも取り上げられた熊沢天皇の正体とは
マッカーサー元帥像
「熊沢天皇」をご存じだろうか? 敗戦後の混乱の中、南朝の末裔として名乗りをあげ、『ライフ』誌や『ニューズウィーク』誌にも取り上げられた「自称・天皇」である。これは天皇家への信頼を低下させるための「GHQの陰謀」と言われることもあるが、彼自身はなにを求めていたのだろうか? 書籍『日本史 不適切にもほどがある話』(堀江宏樹著/三笠書房)より一部を抜粋・再編集し、戦後の日本で皇位継承を求めて奔走した熊沢天皇について紹介する。
■ 終戦直後に現われた「熊沢天皇」はGHQの陰謀だったのか?
第二次世界大戦後の日本各地で、約20人もの自称・天皇が出現していたことはご存じだろうか。これは戦前にはなかった「言論の自由」の登場と、敗戦によって皇室の人気と権威が一気に揺らいだことの証明だといえる。
怪しげな自称・天皇たちの中で「大本命」とされたのが、いわゆる「熊沢(くまざわ)天皇」こと熊沢寛道(ひろみち)であった。
もともと天皇家の歴史は「万世一系」──古代から現代までの約2000年間、男系相続によって受け継がれてきた。戦後、「天皇」を自称する輩が、まるで雨後の筍のように発生する原因となったのは、14世紀半ばの約57年間に相当する「南北朝時代」である。
■『ライフ』『ニューズウィーク』誌にも登場した熊沢天皇
南北朝時代の日本には、南朝と北朝という二つの皇室があった。文字どおりの乱世ゆえに、皇室関係者でさえ経歴が確かではないケースも多々あり、偽の系図をつくる素材としてはもってこいだったのだ。
そして江戸時代には富裕な商人や農村の地主の間で、貧しきインテリの代表格だった神社の神主などに依頼し、自分たちの家系を高貴な血統の末裔に仕立て上げることが流行した。その時に悪用されたのが、歴史の空白地点ともいえる南北朝時代である。
先祖の気まぐれでつくられた偽の系図や、血統を保証する偽の文物が家宝として、しかもそれなりの期間受け継がれていった結果、それを子孫たちが「真実」として信じ込んでしまうケースがありえたのである。ある意味、彼らも詐欺の「被害者」ではあったのだが、熊沢天皇はその中でも最強格の自称・天皇であった。
敗戦の翌年にあたる昭和21(1946)年のお正月に、昭和天皇による「人間宣言」が行なわれた。その直後の1月18日、熊沢天皇が英字新聞『Pacific Stars and Stripes』において鮮烈なデビューを遂げている。
「星条旗」を意味するこの日刊新聞は全編英語で、日本と韓国で無料配布されていたアメリカ軍の機関紙であった。熊沢天皇の登場は、国民の天皇家に対する信頼をさらに低下させるべく、GHQによって周到に計画された「陰謀」だったともいわれる。
同年中にアメリカの有名写真雑誌『ライフ』誌にも2ページにおよぶ写真入りの熊沢のインタビュー記事が掲載され、他にも『ニューズウィーク』誌に「皇位要求者」との見出しで、熊沢天皇の記事が掲載された。
■われこそは「南朝の正統後継者」という根拠
南朝の正統後継者を自称する熊沢天皇こと、熊沢寛道は当時56歳。すでに頭は禿げ上がり、現代人の目には70代にも見える風貌で、名古屋市千種区内の洋品雑貨屋「日の出や」で店主をしていた。
熊沢家は愛知県が本拠地の資産家一族で、総本家、本家、分家などに細分されていた。しかも同じ熊沢一族なのに、各家によって家紋がまるで違っている。
愛知県・一宮市の時之島という地域の熊沢家は二つあり、「上(かみ)の熊沢」の紋はなんと徳川家と同じ「葵」。そして「下(しも)の熊沢」の紋はさらに驚いたことに、「十六弁の菊」だった(大野芳『天皇の暗号』)。
ただし、「十六弁の菊」とはいえ、天皇家の御紋は八重の十六弁の菊なので正確には違っている。熊沢家がいつからこれらの御紋を使っているのかについては、筆者が調査した限りでは不明だったが、なかなか奇妙な事態だといえよう。
熊沢寛道は、熊沢分家の出身だったが、複数存在する本家の一つの当主だった熊沢大然(ひろしか)に実子がおらず、その養子に迎えられていた。そして、養父・大然の「民間から皇族へ」という野望を引き継いでしまったようだ。
戦前の大日本帝国時代には、朝鮮や琉球の王族が日本の皇族と同等に扱われる例があった。熊沢大然は、熊沢家に伝わる家系図のとおり、自分たちは「南朝」の直系子孫(現在の天皇家は「北朝」の直系子孫)なのだから、われわれも「皇族」もしくは「準皇族」的な存在にしてもらえるのではないかという野望を抱いていた。
そこで明治39(1906)年、お手製の「調査書」を添付した「皇統認定の請願書」を、広橋賢光(ひろはし・まさみつ)伯爵など複数の華族たちの推薦文と共に、帝国古蹟調査会なる団体に提出したのである。
その請願書は明治天皇の側近で、内大臣の徳大寺実則(とくだいじ・さねつね)の手に渡るところまではいったのだが、そこで黙殺されてしまった。少なくとも史料上はそうなる。
しかし、熊沢大然はあきらめられず、大正元(1912)年に請願書をもう一度提出し、再び却下された後の大正4(1915)年、突然倒れて帰らぬ人となった。
これらの運動に巨額を費やした大然には、ただでは引き下がれないという思いがあったのだろう。「貴家(熊沢家)を南朝の正統と、帝国古蹟調査会と明治天皇ご本人が認めた」という徳大寺実則からの伝言があったなどと、養子に迎えた寛道(のちの熊沢天皇)には語っていたらしい。
■共犯者か? 被害者か?「GHQの手のひら返し」
もちろん熊沢大然の発言にはなんの証拠もないのだが、戦後のドサクサに自称・天皇として全世界デビューを遂げた寛道にとっては、疑いようのない「真実」だったのだろう。天皇家の権威が揺らいだ今ならば、養父の悲願を叶えられるかもしれないという一縷の望みを抱いて登場を果たしたといえるのだ。
そして一時はGHQからも注目されたのだが、「成功」は本当に瞬間的なものだった。系図だけでなく、熊沢家に代々伝わる「南朝の御神宝」も寺に預けていたが盗難されたとか、すべての主張がアヤフヤだったからだ。
昭和21(1946)年から昭和29(1954)年にかけて、昭和天皇は全国津々浦々を巡幸し、敗戦にうちひしがれた人々を励まして回った。
この時の民衆の姿を見て、いかに天皇という存在が日本人から必要とされているかを痛感したGHQは、天皇制廃止や天皇家の交代はあってはならないことだと認め、熊沢家の主張も完全に退けられてしまったのである。
しかし、あきらめきれない熊沢天皇の迷走はその後も続いた。先祖が南朝に仕える武士だったと自称する吉田長蔵(よしだ・ちょうぞう)という人物の売名に使われ、昭和天皇を天皇不適格者として裁判所に訴えて却下されたことまであったが、その行為によって熊沢天皇こそがハリボテの偽天皇であることが日本中に伝わり、嘲笑の的となった。
晩年になっても熊沢天皇の主張は揺らがず、昭和32(1957)年から翌年頃には、天皇を退位して法皇になると宣言し、出家してもいないのに大延(だいえん)法皇を名乗った。
しかしその生活は、東京・池袋や練馬などのマッサージ師夫婦の家に転がり込んで世話してもらうしかない窮状が続いていた。地元・愛知ではもちろん、一家で移住した大阪でさえ暮らせなくなり、家族からも見捨てられてしまったので、66歳以降は東京にて単身で生活せざるをえなくなったのだと思われる。
昭和41(1966)年6月11日、板橋の宗教施設で亡くなった時には、『週刊サンケイ』(昭和41年7月4日号)などに熊沢天皇の死亡記事は掲載されたが、大きなニュースにはならなかった。あまりに不条理な76年の人生であった。
※画像キャプション:歴史人編集部
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現代においても昔においても、天皇制度を廃絶し、正統男系父系天皇家を消滅させようとする反天皇反日本勢力が国内外に存在していた。
敗戦利得者は反天皇反民族反日的日本人で、彼らの系譜がエセ保守とリベラル左派そして過激派であり、彼らはメディアと教育界に深く根を張っている。
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神話物語を唯一の正統性とする血統・世襲の男系父系天皇を護るのは、少数派の正統保守だけである。
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アメリカ、GHQ、リベラル派ユダヤ人ニューディーラーは天皇制度廃絶と皇室消滅させるべく仕組んだ、日本国憲法、改正皇室典範、皇籍剥奪の皇籍離脱、天皇家私財没収の皇室経済法、保守派の公職追放。
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天皇制度廃絶・皇室消滅陰謀論
第一弾 人間宣言。
第二弾 戦後版皇室典範、日本国憲法。
刑法改正、大逆罪・不敬罪の廃止。死刑反対。
天皇・皇族・皇室を護る特別法はなく、あるのは一般的な名誉毀損罪のみで、被害者として加害者に対して告訴する事ができるが、原則的にできない。
メディアによる皇室報道は、本当は少なく、嘘や捏造・歪曲が多い。
第三弾 皇籍剥奪=皇籍離脱=皇族追放。
第四弾 皇室私有資産没収。
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GHQは、旧日本軍が戦時中に民間から接収した宝石や貴金属、現金が隠匿資産として民間企業経営者や右翼を通じて保守的政治家に流れるのを摘発する為に東京地検特捜部を組織した。
その結果、芦田均内閣は昭和電工疑獄事件で総辞職した。
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国連の敵国条項。
国連とは、日本と戦った連合国である。
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2018年 天皇家の資産、皇室費は100億円。
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天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲、万世一系の男系父系天皇制度である。
天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲で万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
現代日本の国民世論の80%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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オランダ調査会社は2021年に国際世論調査を発表「国の為に戦うか?」、日本人は13.2%で79カ国中最低だった。
「僕らは〝在日日本人〟でありたい。日本危機の時はさっさと亡命する」
寸土を失う者は全土を失う。
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2024-07-27
💍47)─1─17~19歳「皇室に関心ない」55%でさらに増加している。〜No.161
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サイゾーウーマンコラム日本のアウト皇室史ニセ天皇、ついに歴史の表舞台へ!?
コラム 【連載】堀江宏樹に聞く! 日本の“アウト”皇室史!!
ニセ天皇、米国を騒がす! 「LIFE」「ニューズウィーク」登場で、皇室は大ピンチ!【日本のアウト皇室史】
2020/06/06 17:00
日本のアウト皇室史
皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「天皇」のエピソードを教えてもらいます!
終戦直後の日本人にとって、ある意味、天皇以上のカリスマだったマッカーサー元帥。「マッカーサー元帥記念館」、俗称「マッカーサー神社」を建立しようと秩父宮(昭和天皇の弟)らも一時期、尽力していたほどだった。しかしその計画は「日本人は12歳の少年のようなものだ」というマッカーサーの失言で頓挫する(Getty Imagesより)
――前回に引き続き今回も、稀代の“ニセ”天皇、熊沢寛道についてお話をうかがいます。ニセ北朝の子孫である明治天皇が、天皇家の正統は北朝ではなく南朝だと宣言してしまった明治末期。南朝の正統後継者を(家系図はちょっと怪しいけれど)自称する熊沢一族は、このチャンスをモノにすることができたのでしょうか?
堀江宏樹(以下、堀江) それについては、のちの熊沢天皇こと熊沢寛道が自身の「回顧録」で、面白いことを書いています。
前回も触れましたが、明治末期、要約すれば「南朝の子孫であるわれわれを特別扱いしてください」という請願を政府に行った熊沢大然(くまざわ・ひろしか)には、「貴家(=熊沢家)を南朝の正統と、帝国古跡調査会と明治天皇ご本人が認めた」などと内大臣・徳大寺実則(とくだいじ・さねつね)からの伝言が、届けられたというのです。それも、内大臣府に勤める書記官・宮本基氏なる人物から届けられたとまで具体的に書かれています。……ただ、これ、熊沢寛道ひとりしか言っていないことなのですね(笑)。つまりアリバイというか確証が取れないのです。
――つまり、ウソということですか……?
堀江 はい。ウソだと思います。ちなみに内大臣が熊沢家の正統性を当時の宮中関係者が確信した理由の中には、熊沢家に代々伝わる、”南朝の御神宝”の存在があったというのです
――なんですかそれ?
堀江 「回顧録」では”御神宝”と呼ばれているのですが、熊沢寛道の主張によれば、ある寺に預け、そこで大事に守り伝えていたものなのだそうです。しかし寛道の祖父の代に、ある人物の謀略によって盗まれ、水戸の竹内家に保管されることになってしまった、というのです。
この水戸の竹内家、オカルト好きな方々には有名なファミリーですね。「キリストの遺書」とか色々お持ちだったとされています。キリストの遺書は、第二次世界大戦の空襲で燃えてしまって、今は写ししかなくなっていたのですけども。
――ものすごく怪しい話になってきましたね(笑)。
堀江 ウソがウソを呼ぶ例ですね。しかし熊沢寛道によれば、熊沢家の待遇問題……つまり、皇族になるとか、場合によっては天皇位を譲られるとか、そういう話が宮中で検討され始めたそうですよ。しかしその矢先、明治天皇が崩御なさったので、話がウヤムヤになってしまったというのです。あくまで熊沢寛道の主張ですけどね。まぁ、実際のところは徳大寺侍従長がすべてを見抜き、彼のところで熊沢家からの請願書はストップしたのではないかと僕は考えます。
ちなみに、熊沢大然はそれでも凝りず、大正元年(1912年)にも請願書をもう一度出しています。その時も、はかばかしい成果はありませんでしたが、大正4年(1915年)、熊沢大然は突然倒れ、帰らぬ人となってしまったのでした。大然の意志を引き継いだのが「熊沢天皇」こと熊沢寛道だったのです。
――ついに熊沢寛道が、熊沢家の代表として国と渡り合うときが来たのですね……。
堀江 いやいや、そうなるにはまだ時間があります(笑)。熊沢一族を取り巻く環境は急速に悪化していました。まず華族までを巻き込んだ請願書提出運動などによって、資金繰りが悪化したのでしょう。さらには、当局から危険人物として監視されはじめてしまったということもありました。
ちなみに熊沢寛道が、熊沢大然の養子になったのは明治41年(1908年)のこと。同時期に、しかも何度も請願書を送りつけてきたのは熊沢一族の中で、熊沢大然だけではありませんでした。
たとえば熊沢大然の実弟・与十三郎(彼は熊沢一族内で分家、その当主となっていた)も、大正14年(1925年)に内大臣府宛てに「天皇家と同じ菊の御紋を使いたいのだが、許可してくれませんか」というような手紙を送りつけ、それに内大臣府が「当府(=内大臣府)に於て回答すべき限に非ざる」という文面の手紙で回答したことがありました。
冷静に読んで、「ウチが答えるべき問題ではない(=出直せ)」ということで、否定しか感じられない文面ですが、「NOとは言われていないので、可能性はあるんだ!!」と熊沢家の面々は喜び、これは内々の許可では? お墨付きを得たのでは? と受け取ってさえいたようです。
――女子から曖昧な断られ方をしても、気づけない男子みたいな……。しかし、こういうストーキングみたいな迫り方をされても、お役人は困りますよね。
堀江 まぁ、いろいろあって、熊沢寛道自身は第二次世界大戦後まで、具体的な行動を起こすことはありませんでした。要するに時代が悪いし、資金もなかったのでしょう。そして、敗戦を迎えます。
GHQの一言で、アメリカの雑誌が熊沢天皇を掲載し……
――戦後、日本の政治形態はガラッと変わってしまいましたね。
堀江 ここでついに、熊沢寛道が歴史の表舞台に現れる時がやってきました。熊沢寛道はなんと駐日アメリカ軍のトップである、ダグラス・マッカーサーに手紙を書いて、日本を敗北させた北朝である現皇室に代わり、熊沢家による南朝の再興を請願しているのです! そして自分はその南朝の天皇にふさわしい、と。彼は「天皇の戦争責任」を追及することにしたようですね。残念ながら、あるいは当然ながら、マッカーサーおよびGHQは熊沢寛道の熱意を無視し続けました。
ところがGHQの誰かが、来日中のアメリカの有名写真雑誌「LIFE」の記者の誰かにポロッと「天皇を自称するヤツがいるんだよ~」的な情報を漏らしてしまったようです。来日中のアメリカ人記者たちは熊沢寛道の雑貨屋を訪問、写真撮影とインタビューを試みたのでした。彼にとっては「報われた」と感じた瞬間だったことでしょう。
「LIFE」には2ページの写真入りのインタビュー記事が載りました。ほかにも「ニューズウィーク」(1946年11月4日号)には「皇位要求者」との見出しで、熊沢天皇の記事が載りました。いずれも英文です。
面白いことにその直後、熊沢の主張を無視し続けてきたGHQの態度が激変したのでした。熊沢のもとには、「本当にあなたは南朝の正統後継者なのか?」というGHQの使者が来訪しています。GHQは天皇の地位と伝統を戦後日本でどう扱ったらいいのかを、悩んでいました。下手すれば天皇制はなくなっていたかもしれない、皇室にとっては危機の時期ですね。GHQの中では、天皇家の交代という可能性もあった……ということですね。
熊沢天皇のチャンスは、皇室のピンチです。皇室はどうやってこの未曾有の危機を乗り越えたのでしょうか。次回につづきます。
堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)
1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『眠れなくなるほど怖い世界史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。
最終更新:2020/06/23 16:06
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文春オンライン
昭和事件史
「オレが天皇」「いやワシが…」続々現れた“自称天皇”…“南朝最後の天皇の系譜を継ぐ男”とは何だったのか
“戦争は北朝と軍閥がやったことだから…”「熊沢天皇」事件 #1
小池 新小池 新2021/12/05
NHK番組の「ファミリーヒストリー」や「自分史ブーム」から家族のルーツ探し、家系図への関心が高まっている。
伝統や系譜に対する意識は誰にもあるのだろうが、その“頂点”に位置するのは現天皇で126代とされる天皇・皇室。だが、敗戦直後は天皇制が大きく揺さぶられた時期だった。
東京裁判に代表される戦争責任の問題、新しく制定される憲法との絡み、そして最大のカギは日本占領に当たった連合国軍と、その実質的な主体であるアメリカ政府の意向。複雑で微妙な状況の中に一石を投じたのが、当時幾人も登場した自称天皇たち、中でも熊沢寛道の「熊沢天皇」だった。
国内外のメディアに取り上げられて一時は“時代の寵児”に。しかし、庶民の関心は長続きせず、徐々にピエロのような存在に。忘れ去られる中でひっそり世を去った。
戦後の混乱期に登場し、一瞬怪しい光を放って消えた彼は一体何だったのか。皇室存続をめぐる論議や皇族の女性の結婚に過剰な興味が示されるいま、その意味を考えてみる。「熊澤」という表記も見られるが、本人が著書などで「熊沢」を使っているので、新聞の見出し以外はそれに従う。今回も差別語・不快語が登場。敬称を略させてもらう。
「別の“天皇”がいま登場した」
問題が世に知られるきっかけは、日本と朝鮮半島向けのアメリカ軍準機関紙「Stars and Stripes Pacific」(星条旗紙太平洋版)の記事だった。敗戦から約5か月後、1946(昭和21)年が明けて間もない1月18日付1面の題字の上に「Pretender Claims Hirohito’s Throne」の大文字。「僭称者(王位を自称する者)がヒロヒトの皇位を要求」とでも訳すのだろうか。
第一報となった「Stars and Stripes Pacific」の記事
主見出しは「56歳老商店主が真の元首の血統と発言」。「ピーター・グロツキー軍曹・記者」の署名がある記事は冒頭、次のようだった。
{【東京】別の“天皇”がいま登場した。日本の皇位の血統は554年前の革命で破壊されたと主張。長身、上品で、現在は戦禍の日本の街の郊外でつつましく商店主をしているクマザワ・ヒロミチが、自分を皇位に就けて“歴史的不正”を根絶するようマッカーサー元帥に請願した。
彼の店の裏側の質素な住居を訪れたアメリカとイギリスの4人の記者によると、56歳の熊沢は、山のような歴史文書と陵墓、神社、宝物のリストやその他、彼の主張を裏付ける証拠を所持している。
1カ月以上前に提出されたという請願は、彼の主張を実証する文書、宝物は現在、ヒロヒト天皇、皇室、そして故近衛(文麿)公爵が所有しているとした。
「タイム」「ライフ」誌のリチャード・ローターバック、「ロンドン・デーリー・テレグラフ」のコーネリアス・ライアン、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」のフランク・ケリー、「ボルチモア・サン」のロバート・コクレーン、そして「ライフ」のカメラマン、アルフレッド・アイゼンスタッドが取材に訪れた時、少数の側近から“ヒロミチ天皇”と呼ばれている彼は、天皇以外厳禁されている16弁の菊の紋章をつけた着物を着ていた。}
グロツキーは5人のうちの誰かから話を聞き、「Stars and Stripes Pacific」は東京発行のため、結果的に他の新聞や雑誌より早く掲載されたのだろう。マッカーサー元帥は、占領軍のトップの連合国軍総司令官。
ー文春オンライン へようこそ
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「熊沢天皇」にGHQは…
昭和天皇(右)とマッカーサー
それに対してGHQはどこまで真剣に対応しようとしたのか。
「熊沢天皇始末記(上)」によれば、ケーディス元GHQ民政局次長は、著者の秦郁彦氏への手紙で「ユーモアの領域で理解していて、本気で討議したことはなかった」と述べたという。「『占領軍が熊沢を後押ししている』とか『裕仁天皇との人気競争をやらせている』といったたぐいの話は、根拠の乏しい臆説にすぎなかった……」と同書は書く。
また、「熊沢天皇」の出現が一斉に報じられた直後の1946年1月25日、マッカーサー元帥は東京裁判での天皇の扱いについて有名な電報をアイゼンハワー陸軍参謀長(のちアメリカ大統領)に送っている。
「天皇を起訴すれば、間違いなく日本人の間に激しい動揺を起こすであろうし、その反響は計り知れないものがある。まず、占領軍を大幅に増大することが絶対に必要となってくる。それには最小限100万の軍隊が必要となろうし、その軍隊を無期限に駐屯させなければならないような事態も十分あり得る」(古関彰一「新憲法の誕生」)
思うに、「熊沢天皇」が登場した段階で、既にマッカーサーは、昭和天皇の存続と、東京裁判での不訴追を決意し、さらに新憲法での象徴天皇制さえも想定していたのではないか。
それを日本政府に伝えず、天皇制が依然として危機にあると思わせておく方が占領政策上は得策だ。「熊沢天皇」は、そうした占領行政のために天皇を利用しようとするマッカーサー=GHQの思惑に使われたのではないか。あるいは、熊沢本人は自分につながる後南朝の血統を公認してもらうことが望みだったのかもしれない。それが取り巻きにあおられおだてられたうえ、乗っかったメディアに「天皇から皇位を奪おうとする『天皇』」などとはやし立てられてその気になった。国民も半ばコメディーを見る気分でからかった――。そんな気がする。GHQとメディアに踊らされたピエロだったとは言いすぎか。
晩年の「熊沢天皇」(「週刊現代」より)
川島高峰「敗戦 占領軍への50万通の手紙」は、敗戦後の国民が天皇と天皇制をどう捉えていたかを手紙などを通して考察している。その中で次のように述べている。
「天皇の人間宣言という後見があったにせよ、戦後日本人がこれほど天皇制を前向きに議論しようとした時期はなかった。一般に天皇制擁護が多数を形成していたが、単に多数であるということ自体では、この問題の解決にはならなかったのである。この意味では、天皇制問題に関するマスメディアの議題設定の仕方、つまり、国民の何パーセントが天皇制を支持しているかという報道の仕方にも問題があった」
「熊沢天皇」問題も同じだ。もっと本質的な論議をすべき機会だったのに……。それからちょうど70年。宮家長女の結婚騒動を見ていると、そうしたメディアの体質はそれほど変わっていないと思えてならない。
【参考文献】
▽熊沢寛道「南朝と足利天皇血統秘史 万世一系はいづこ」 三秘同心会 1962年
▽玉川信明編「エロスを介して眺めた天皇は夢まぼろしの華である」 社会評論社 1990年
▽森茂暁「闇の歴史、後南朝」 角川選書 1997年
▽丸山照雄ら「戦後史の天皇 総解説」 自由国民社 1986年
▽古関彰一「新憲法の誕生」 中央公論社 1989年
▽川島高峰「敗戦 占領軍への50万通の手紙」 読売新聞社 1998年
▽吉田長蔵「新天皇論」 千代田書院 1952年
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ウィキペディア
熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年〈明治22年〉12月18日 - 1966年〈昭和41年〉6月11日)は、日本の皇位僭称者。大延天皇、または熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
自称天皇
戦前は皇位や皇族を僭称することは不敬罪として処罰対象であったが、GHQ体制下で取締りが弱くなった戦後の一時期、皇位継承者を自称する者たちが各地に出現し、世間の耳目を集めた。熊沢はこれら「自称天皇」の代表的存在である。
熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする。また、足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際に西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだと述べている。
その姓は熊野宮の「熊」と奥州の地名・沢邑の「沢」をとって、熊沢姓を名乗ったとある。彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている。
生涯
熊沢寛道は幼名を金三郎といい、「金さ」と呼ばれた。実父の弥三郎は農業を営んでおり、寛道は三男であった。愛知県内の小学校を卒業後、1910年(明治43年)に徴兵によって豊橋騎兵連隊に入伍し、1913年(大正2年)浄土宗西山派立専門学寮に入寮し、卒業後、聖峰中学校に通いつつ、浄土宗西山派の布教僧となったが、1931年(昭和6年)に還俗。同年に、名古屋市で洋品雑貨商を開業。
既に明治時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父・熊沢大然(くまざわ ひろしか)より、「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育った。養父は自身が後亀山天皇の直系子孫だとして明治政府に上奏、戦前にも上奏したが、ことごとく無視されたという。
1920年(大正9年)、養父の死後、熊沢は南朝の天皇としてひそかに即位したとされる。養父の後を引き継ぎ、自分が天皇であるとして上申書を要人(近衛文麿、東條英機、荒木貞夫、徳富蘇峰など)や明治神宮に送り続けていた[4]。また、熊沢は1935年(昭和10年)前後で、葛尾天皇らと共に福島県双葉郡浪江町・大堀村辺りで後南朝の埋蔵金発掘をしている。
1945年(昭和20年)、名古屋市千種区内で雑貨商を営んでいた熊沢は、戦災で店を失い、廃業を余儀なくされる。同年、日本が連合国の占領下に入った後、11月にGHQのマッカーサー総司令官あてに請願書を送った。その嘆願書が丸の内郵船ビル総司令部翻訳課の担当中尉と親しい雑誌『ライフ』記者の目に止まった。
翌1946年(昭和21年)1月、アメリカの記者5名とGHQ将校が5時間取材し、その記事は『ライフ』、AP通信、ロイターなどで報道され、日本の新聞各社が彼を熊沢天皇と呼んで取り上げたため、熊沢は一躍有名人となった。彼に取り巻き利益を得ようと集まった支持者は、熊沢のために資金や公邸を提供した。また、熊沢のほか、南朝の天皇を自称する者が数名現れた。
政府当局はこの頃、熊沢天皇の調査を行っているが、それは天皇制批判の自由、言論の自由に対し、不敬罪の適用、天皇制護持を図る当局の態度を示すものであった。しかし、結局のところ熊沢に対して不敬罪の起訴は出来なかったが、その後、1946年(昭和21年)5月19日のプラカード事件では松島松太郎を不敬罪で起訴している。
勢いづいた熊沢は、1946年(昭和21年)5月政治団体「南朝奉戴国民同盟」を設立し、全国各地を遊説して南朝の正系が自分であることを説き、昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。体制派の歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢に次第に冷ややかになっていった。
情勢を打開すべく、1947年(昭和22年)3月に政治団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、同年10月に正皇党を結成して、党首として選挙で候補者を立てるが失敗した。
なお、この選挙の際、熊沢は有名な竹内文書について、信雅王が先祖から伝承した品や宝物としていたものが盗まれたものだと主張した。これは熊沢の支持者の吉田長蔵が福島県双葉郡葛尾村にある光福寺(後の観福寺)という南朝方の寺から明治中期に虚無僧の斎藤慈教により盗まれた宝を、1920年(大正9年)に天津教の竹内巨麿が古物商から買い取ったと言ったことによる。
1951年(昭和26年)1月、東京地方裁判所に「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」と訴えたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却された(「皇位不適格訴訟」)。
同年9月、サンフランシスコ講和条約が締結されると、人々の熊沢への関心も次第に薄れていった。その後も、折に触れ週刊誌や同人誌のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、映画の幕間のアトラクションに登場して、南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。
1957年(昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙では天皇廃止論を主張したという理由で日本共産党の神山茂夫の支持を表明した。
1966年(昭和41年)6月11日、東坂下の志村橋外科病院にて膵癌のため死去。晩年は池袋の人世横丁に間借りし、著書『日本史の誤りを正す』の編纂に専念していた。
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