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イザベラ・ルーシー・バード
(Isabella Lucy Bird, 1831年10月15日 - 1904年10月7日)は、19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家、写真家、ナチュラリスト。
ファニー・ジェーン・バトラー(英語版)と共同で、インドのジャンムー・カシミール州シュリーナガルにジョン・ビショップ記念病院を設立した。バードは女性として最初に英国地理学会特別会員に選出された。
1881年(明治14年)に妹の侍医であったジョン・ビショップと結婚し、イザベラ・バード・ビショップ(Isabella Bird Bishop)、ビショップ夫人とも称された。
日本横断旅行
1878年(明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉を供とし、東京を起点に日光から新潟県へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した。多くの行程は伊藤と2人での旅だったが、所々で現地ガイドなどを伴うこともあった。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。
これらの体験を、1880年(明治13年)、"Unbeaten Tracks in Japan" 2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。この中で、英国公使ハリー・パークス、後に明治学院を設立するヘボン博士(ジェームス・カーティス・ヘボン)、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫妻(新島襄・新島八重)らを訪問、面会した記述も含まれている。
1881年にビショップ博士と結婚。その後、1885年(明治18年)に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される。本書は明治期の外来人の視点を通して日本を知る貴重な文献である。特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況を詳らかに紹介したほぼ唯一の文献である。
その後
1886年に夫が死去。医療伝道を目的に1889年よりインドからペルシャ、チベットへ旅する。
1893年、世界各地の辺地旅行記の出版などの功績が認められてヴィクトリア女王に謁見。英国地理学会特別会員となる。1894年、カナダ経由で清国、日本、朝鮮を旅し、1897年までに、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、1898年に旅行記"Korea and Her Neighbours"(『朝鮮紀行』)を、翌1899年に『中国奥地紀行』を出版した。
ディーン墓地のイザベラ・バードの墓碑
1901年には半年間モロッコを旅し[8]、中国への再度の旅行を計画していたが、1904年に73歳の誕生日を前にしてエディンバラで死去した。同地のディーン墓地に埋葬されている。
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2023年11月21日 日経BP日経BOOKプラス「滝田洋一の「古典に学ぶ現代世界」
『イザベラ・バードの日本紀行』明治11年にタイムスリップ
英国人女性探検家、イザベラ・バードが1878年(明治11年)に東北や北海道を旅した記録『イザベラ・バードの日本紀行』には、当時アジアの新興国だった日本が生々しく描かれている。蚊とのみの大群、白人女性への突き刺すような好奇心、貧しいながらも穏やかな暮らし、急速な文明開化による物質主義。私たちの自画像を再確認する上でも欠かせぬ古典である。
明治11年の日本を踏破
米国人女性文化人類学者、ルース・ベネディクトによる日本文化論『菊と刀』( 「『菊と刀』義理と人情と誠実と…日本人の行動の『型』を読む」 参照)が記されたのが77年前の1946年(昭和21年)。さらにその70年近く前の1878年(明治11年)の日本はどんな姿だったのだろうか。1868年の明治維新からわずか10年後の日本を、首都東京ばかりでなく日光から新潟、山形、青森をたどり、蝦夷(えぞ)と呼ばれた北海道まで踏破した記録がある。
著者はイザベラ・バード(1831~1904年)。英国人女性探検家である。1880年に英国で出版された『Unbeaten Tracks in Japan』(邦訳 『イザベラ・バードの日本紀行(上)(下)』 時岡敬子訳/講談社学術文庫)は、徳川時代から大きな体制転換を遂げて、世界の舞台の片隅に姿を現したアジアの新興国に対する英国人の好奇心にあふれている。同時に今日の私たちを150年前に無理なくタイムスリップさせる優れた歴史旅行書でもある。
『イザベラ・バードの日本紀行(上)(下)』(イザベラ・バード著)
蚊とのみの大群が襲う
まず驚かされるのは蚊とのみの大群である。日光を出た頃から宿泊先で旅支度を解くと、畳から湧き出るようなのみの群れが襲ってきて、おちおち眠りにつけない。従者に持参させた簡易ベッドに横たわるが、登ってくるのみを防ぐのに一苦労である。蚊の群れも同様である。
安眠を妨げるのはそればかりではない。障子の破れ目からのぞく、目、目、目。初めて見る西洋人。白人女性に対して旅人たちや住民たちは突き刺すような好奇心を注ぐ。著者バードはプライバシーなど存在しないことに、いささか音を上げる。
彼女が旅先に近づくと、その情報がパッと耳打ちされ、一目見たさの見物人の人だかりができる。その数は数百人から、時に数千人。私たち日本人の持つ珍しいもの好きが浮かび上がる。ビックリする人数なのに、やじ馬たちは騒ぎを起こしたりせず、辛抱強く見つめる。バードが半ばあきれ、半ば感心したこの辺りの雰囲気は、今もあまり変わっていまい。
初めて見る西洋人女性を、明治維新後10年目の私たちは、正直にしかも丁重にもてなしている。旅の荷物を馬で運ぶ際に、その馬を引く馬子たち。彼らは規定の金額以上の料金を吹っかけようとしないし、落とし物があると前の宿場に取りに戻り、その分の心付けも受け取ろうとしない。この辺りは好感を持ってたびたび記されている。
貧しくとも穏やかな暮らし
蚊やのみの大群からうかがえるように、当時の日本の地方に住む人たちの生活水準は高くない。衣類が裸同然の人たちもいるし、食事は質素で肉類が供せられることは少なく、住まいの換気は悪く囲炉裏(いろり)やかまどの煙がくすぶっている。それでも親たちは子どもに愛情を注ぎ、穏やかな暮らしを営む人たちから旅人が危害を加えられることがない。
山の向こう、川の向こうはどうなっているのか。バードが、地図には載っていない先を尋ねても、住民たちから返ってくる答えは要領を得ない。何か隠しているというより、道なき道を踏破中の地方では、峠の向こうに行ったことのない人たちが多いのだ。貧しいながらも穏やかな暮らしを育んだのは、他ならぬこうしたミクロコスモス(小さな世間)なのである。
旅の雰囲気は、津軽海峡を渡り、北海道に到着するとガラリと変わる。雄大な北海道の自然に抱かれて、バードの気持ちも筆運びも伸びやかになっていく。本書が民俗学的にも貴重なのは、アイヌ民族の集落に飛び込み、そこで一緒に生活した記録を残していることだろう。
アイヌの人たちを「未開」と記す部分は、今日の「ポリティカル・コレクトネス(政治的公正)」に反するかもしれない。だが、バードが記すアイヌの人たちの姿は素朴で実直そのものだ。商品取引ではなく、贈与と物々交換に基づく生活がそこにある。なまじ文明に接することで、アイヌ民族の生活の良さが失われることを惜しむ筆致が漂っている。
急速な文明開化に本書は目を見張っている。例えば1871年に東京と大阪の間で開通した郵便路線。「モデルとなったイギリスの郵便にある程度匹敵するくらい」という。1880年の本書刊行時の記述である。電信も信頼性と効率性から「高い讃辞に値する」。海運力は大躍進し、三菱汽船は管理、料理、設備全般について「イギリスの第一級航路にひけをとらない」。
何よりも目を見張るのは「人々を教育しようとする政府の努力」である。1877年時点ですでに初等学校が全国に2万5459校、教師が5万9825名に上っている。著者は訪問先の貧しい村々で子どもたちの教育に情熱を傾ける人々に出会う。「知的な熱情、熱意に富んだ受容力、賞賛に値する品行、まじめな自制心、従順さ、懸命なうえ持続する学習意欲」。これこそが、坂の上の雲を目指す明治日本だった。
バードのまなざしは賞賛ばかりではない。西洋式の文化の受容を急ぐあまり、少なからぬ副作用が生じかねないことも見逃さない。「一部の高等教育機関が、手作業を軽蔑する口ばかり達者でうわべだけの半可通の数を増やし」たりすまいか。この疑問符は近代の日本の行く先を占ったようでもあり、今日も通じているようでもある。
無宗教な人々
何よりも今日まで通じる指摘は、「日本人はわたしがこれまで出会ったなかで最も無宗教な人々である」との部分かもしれない。旅先で出会った知識人を自認する人たちに宗教のことを尋ねると、師範学校の教頭からは鼻先でせせら笑うようにこんな答えが返ってくる。「わたしたちは無宗教です。学識のある者ならみな宗教などいんちきであることは知っていますよ」。そんな経験を重ねるにつれて、バードは確信を深めていく。
「まぎれもない物質主義的精神」。それは「頭脳の教育と活性化が人の特性とほとんど関係なく行われる」世の中であり、「人間性のゆがみや矮小(わいしょう)化が必ず起きるに違いない点は要注意である」。この指摘は150年近い時空を超えている。リアルな自画像を再確認する上でも本書は捨て置けまい。
著者紹介
滝田 洋一
名古屋外国語大学特任教授、日本経済新聞客員編集委員
1981年、慶応大学法学研究科修士課程修了。同年、日本経済新聞社入社。金融部、チューリヒ支局、経済部編集委員、論説副委員長、米州総局編集委員などを経て現職。2008年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『通貨を読む<第4版>』『金利を読む』『コロナクライシス』ほか多数。…詳細を見る
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2024年11月16日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「日本はロシアの属国」「日本には奴隷制がある」…19世紀のイギリス人が、日本に抱いていた「驚きのイメージ」
19世紀の日本、その「驚きの姿」
日本はいったい、世界のなかでどのような立ち位置を占めているのか。
世界情勢が混乱するなか、こうした問題について考える機会が増えた人も多いかもしれません。
日本が世界に占める位置を、歴史的な視点をもって考えるうえで非常に役に立つのが、『イザベラ・バードの日本紀行』という本です。
『イザベラ・バードの日本紀行』の書影
イザベラ・バードは、1831年生まれのイギリス人。オーストラリアや朝鮮などさまざまな国を旅し、旅行作家となりました。
彼女は1878年、47歳のときに日本を訪れています。北海道をはじめ、いくつかの土地を旅しますが、その様子をあざやかにつづったのが、この『イザベラ・バードの日本紀行』なのです。
イザベラ・バードの肖像画〔PHOTO〕WikimediaCommons
19世紀の後半、日本はどのような姿をしていたのか、それはイギリスという「文明国」「先進国」からやってきた女性の目にはどのように映ったのか、そこからは、明治日本とイギリスのどのような関係が見えるのか……本書はさまざまなことをおしえてくれます。
たとえば、本書の「序章」で、彼女は同時代のイギリス人が日本にたいしてどのようなイメージ、あるいは偏見をもっているのかを指摘しつつ、実際には日本はそのような国ではないと言います。興味深いのは、その「イメージ」「偏見」の中身。そこからは、19世紀後半の日英関係の一端が垣間見えます。
本書より引用します(読みやすさのため、改行を編集しています)。
〈「ハリー・パークス卿は日本の総督でいらっしゃるの?」と尋ねたのはある将官夫人であるし、「日本が奴隷制度を廃止する見込みはまったくありませんかね?」と言ったのはある地方都市選出の下院議員であったし、「日本の総督は終身官でしたっけ?」と訊いたのはある州選出の下院議員であった。
インドで官職に就いているある紳士はもうひとりの紳士とこんな会話をかわした。ふたりとも文官試験に備えて猛勉強をしてまだ二年とたっていないのである。「日本はいまロシアの領土だったっけ?」「そうだよ。二、三年前に清国が割譲して、見返りになにかをもらったんだ」。
また同じ話題で、ある高位の陸軍将校は日本はロシアに属しているのみならず、アジア大陸にあると主張し、地図を見せられるまで自分のまちがいを認めようとはしなかった。最後のふたつの誤りはおそらく数年前に日本が小さな諸島と引き換えにサハリンをロシアに譲ったことを曖昧に覚えていて、そこから生じたものと思われる。
ハリー・パークス卿が日本の総督なのではとか、日本は清の属国であるとか、日本人はカトリック教徒であるとか、キリスト教は禁じられているとか、日本内陸の住民は野蛮人であるとか、気候は熱帯性であるとかいう憶測はわたし自身、学識ある人々から幾度となく聞かされているし、新聞には同じように奇怪な誤解が頻繁に登場している。
その国を旅するか、その国と戦争するか、あるいはその国を植民地にするかでもしないかぎり、わたしたちの得る情報がまずもって豊富でもなければ正確でもないのはまさしく本当である。〉
〈また昔の旅行者のもたらした多分に空想の混じった報告、長期にわたる謎めいた鎖国、この一一年間に息をもつかさぬ速度でつぎつぎと起きた変化のせいで、わたしたちの日本に関する知識はことさら混乱してしまっている〉
植民地、属国、野蛮……。こうしたイメージが渦巻くなか、明治日本は「先進国」にキャッチアップするべく模索をつづけていた。当時の日本のエリートが抱いた焦燥が見えてくるようです。
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さらに【つづき】「1878年5月、日本にやってきたイギリス人が「日本の姿を見て、最初に感動したこと」」では、バードの日本上陸時の様子についてくわしく見ていきます。
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11月16日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「1878年5月、日本にやってきたイギリス人が「日本の姿を見て、最初に感動したこと」
日本のなにに感動するのか?
日本はいったい、世界のなかでどのような立ち位置を占めているのか。
世界情勢が混乱するなか、こうした問題について考える機会が増えた人も多いかもしれません。
日本が世界に占める位置を、歴史的な視点をもって考えるうえで非常に役に立つのが、『イザベラ・バードの日本紀行』という本です。
『イザベラ・バードの日本紀行』の書影
イザベラ・バードは、1831年生まれのイギリス人。オーストラリアや朝鮮などさまざまな国を旅し、旅行作家となりました。
彼女は1878年、47歳のときに日本を訪れています。北海道をはじめ、いくつかの土地を旅しますが、その様子をあざやかにつづったのが、この『イザベラ・バードの日本紀行』なのです。
19世紀の後半、日本はどのような姿をしていたのか、それはイギリスという「文明国」「先進国」からやってきた女性の目にはどのように映ったのか、そこからは、明治日本とイギリスのどのような関係が見えるのか……本書はさまざまなことをおしえてくれます。
たとえば、バードが日本に着き、船でゆっくりと「江戸湾」を北上する場面。バードが見た風景と、彼女の心の動きは、非常に印象的です。同書より引用します(読みやすさのため、改行を編集しています)。
〈日本の海岸線はほかよりずっと魅力的だとはいえ、その色にも形にも意表を突くところはまったくありませんでした。木々に覆われた、切れ込みの深い山々が水辺からきれぎれにそびえ立ち、軒の深い灰色の人家が谷間の口のあたりに集まっています。そしてイギリスの芝生のような鮮やかな緑の棚田が、上方に鬱蒼とつづく森のあいだをすばらしい高さまで上がっているのです。
海沿いの人口の多さはとても印象的で、いたるところにある入江にも漁船がいっぱいいます。五時間のうちにすれちがった漁船の数は何百ではきかず、何千隻にもなります。海岸線も海も色が淡く、船も淡い色をしています。船体が白木で、帆は純白のズック地なのです。
ときおり船尾の高い帆掛け船が幽霊船のようにふらふらと通りすぎていき、シティ・オブ・トーキョー号は三角形状の群れになった四角い白帆の漁船団を粉砕してしまわないよう、スピードを下げ、なにもかもがどんよりと灰色で単調ななかを何時間も航行しつづけました。
甲板じゅうで歓声があがっていたものの、わたしにはずっと探しても富士山が見えなかったのですが、ふと陸ではなく空を見上げると、予想していたよりはるか高いところに、てっぺんを切った純白の巨大な円錐が見えました。海抜一万三〇八〇フィート[約三九八七メートル]のこの山はとても淡いブルーの空を背に、海面の高さからとても青白い、光り輝くカーブを描いてそびえ立ち、その麓も中腹も淡いグレーのもやにかすんでいます。それはすばらしい幻想のような眺めで、いかにも幻想らしくまもなく消えてしまいました。〉
〈やはり円錐形の雪山であるトリスタン・ダクーナ山はべつとして、これほどその高さと威容を損なうものが付近にも遠くにもなにひとつない、孤高の山は見たことがありません。日本人にとっては聖なる山であり、飽くことなく芸術作品の題材とするほど大切にしているのもふしぎはありません。最初目にしたとき、この山はほぼ五〇マイル[約八〇キロ]のところにありました。
空気も海も動きがなく、もやは静止し、薄墨色の雲が青みがかった空にゆったりと浮かび、水面に映った漁船の白帆はほとんど揺れもしません。なにもかもが淡くかすかで青白く、わたしたちの船が乱れ狂う泡を残してどかどかと騒々しく進んでいくのは、眠れる東洋に乱暴に侵入するようなものでした〉
富士山の美しさが洋の東西を問わず人の心を惹きつけることが印象的なのにくわえ、「眠れる東洋に乱暴に侵入する」という表現からは、バードが日本の「開化」についてややネガティブな意見をもっているのかなと思わされ、当時の一人のイギリス人の視線として興味深いものがあります。
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さらに【つづき】「「日本はロシアの属国」「日本には奴隷制がある」…19世紀のイギリス人が、日本に抱いていた「驚きのイメージ」」の記事では、バードの同時代のイギリス人たちが、日本にたいしてどのようなイメージや偏見をもっていたのかをくわしく紹介しています。
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映画・スペック「生と死を峻別する事に意味はない。
他者が認ずれば死者とて生命を持ち、
他者が認ずる事なければ生者とて死者の如し」
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西行法師「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(伊勢神宮参拝して)
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イザベラ・バード「わたしは死んだ過去の時代の霊魂が私の背後に近づいてくる、と感じた」(伊勢神宮参宮して)
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H・P・ラヴクラフト「人類の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である」
人類は、恐怖に打ち勝つ為と真理を究める為に宗教を編み出した。
最強の恐怖とは「死」であり、究極の真理とは「生」である。
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