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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
甚大な自然災害が発生すれば、一次被害で数千人から数十万人が死亡し、二次被害として関連死で数千人から数万人が死亡した。
日本民族は、数万年前の旧石器時代・縄文時代から恐怖の自然災害と共に生きてきた。
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日本人被災民は、日本国内を移動して逃げ回ったが、日本を捨てて難民として中国大陸や朝鮮半島に逃亡する者は一人もいなかった。
生きるか死ぬかの切羽詰まった日本人被災民は、偏見と差別で中国や朝鮮を頼る事がなかった。
中国や朝鮮から数多くの難民や被災者が、日本に逃げてきて住み着き、帰化人として忠誠と愛国を誓った。
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山川出版社
寛永の飢饉(かんえいのききん)
1642年(寛永19)を中心に全国的な被害をもたらした飢饉。1640年西日本での牛の大量死を端緒に,翌年から43年にかけて全国に凶作・飢饉が広がった。その自然的原因は牛死以外にも,旱魃(かんばつ)・洪水・冷害など地域によりさまざまだが,「取りからし」の表現にみられるように,領主層の収奪がそれに拍車をかけた面も指摘される。江戸幕府は42年大名・旗本に対し,国元・知行地での対策を命じるとともに,東日本と西日本にわけてそれぞれ飢饉対策のための担当役人をおいた。これら飢饉への対応の経験は,その後の幕藩領主層による農政の転換に大きな影響を与えた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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現代の日本人、特に高学歴出身は政治的エリートと進歩的インテリ達には、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がない。
現代日本人は、歴史が嫌いである。
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関東大震災で起きた日本人・朝鮮人・中国人惨殺事件は、あくまでも関東大震災における特異的な事例で、「単一性の強い」日本民族の数千年にわたる災害史では被災者・弱者・賤民(えた・非人)・外国人を殺害した例は存在しない。
もし今後、関東大震災における惨殺事件が起きる時は日本における「単一性が崩壊」した時である。
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長禄3(1459)~寛正2(1461)年 長禄・寛正の大飢饉。天候不順・飢饉が日本全国を襲って大飢饉が発生した。
京都には貧民・被災民が溢れ、最初の2か月で8万2,000人が餓死者や病死者が発生した。当時の京都の住民は約10万人。
後土御門天皇は将軍の足利義政に被災者救済を申し込んだが、足利義政は対応を家臣に任せて東山文化に没頭して責任から逃げた。
応仁1(1467)年~文明(1477)年 応仁文明の乱。
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江戸時代が、「パックス゠トクガワ」として260年間天下泰平で過ごせたのには理由があった。
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南こうせつ「日本人は気遣いの民族だから、お互いに互いを思いやって、社会がまわっている。」
福岡伸一「人助けが遺伝子を活性化させる」
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徳川幕府や諸大名の支統治理念。
「百姓は生かさず殺さず」
「百姓と胡麻(ごま)の油は、絞れば絞るほど出るものなり」(『慶安の御触書』、1649年)であった。
『論語』泰伯 「民は由(よ)らしむべし、知らしむべからず」(為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民にわからせる必要はない)。
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武田信玄「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
{人と人の信頼は城や石垣よりも強固なものであり大切であり、人は情けをかけると味方になるが、権力で押さえつけると必ず反発を生むだけである}
徳川家康は、武田信玄を学んでいた。
徳川家光は、祖父徳川家康を尊敬していた。
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幕府や大名は、親孝行者、子沢山の夫婦、善業をした者を讃えた。
それを文書化したのが「教育勅語」であった。
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日本民族の美学「弱きを助け強きを挫く(よわきをたすけつよきをくじく)」
{弱い者を救い、横暴な者をこらしめる}
自分より弱い者(女性、子供、障害者、老人,)をイジメは男の恥。
女性や子供を泣かすは男の恥。
日本民族は、「恥を知る」民族であった。
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苦しいのはお互い様。助け合うのは人の道。武士は相身互い。
因果応報。善因善果。悪因悪果。
御天道様は、何から何までお見通し。
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徳川幕府による土木工事は、小田原・後北条氏の関東領地経営を手本としていた。
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寛永19(1642)年 寛永の飢饉で、餓死者数は5万人から10万人。
徳川時代の被災者救済策と被災地復興策は、徳川家光と小堀遠州ら幕臣が基本方針を定めて諸藩に広めた。
人災である大火と天災である自然災害が発生すれば、幕府と大名は被災者・弱者に対して自腹と無償で「炊き出し」を行い「救い小屋」を建てて収容した。
その対策は、現代でも引き継がれている。
徳川幕府や諸大名は、現代日本のように、中国、朝鮮、東南アジアから食糧を緊急輸入すると言う発想はなかった。
天皇と神社は八百万の神々に祈り、葬式仏教の寺院は犠牲者が「怨霊」として祟りを起こさないようにする為に丁重に弔った。
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寛永14~15(1637~38)年 島原天草農民一揆。幕府軍は、籠城していた老若男女約3万7,000人を見せしめにする為に虐殺した。
寛永の飢饉は、キリシタン弾圧や島原天草農民一揆に対するキリスト教の唯一絶対神による天罰ではなかった。
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日本の人口は、1600年代の江戸時代では約1,227万人で明治元(1868)年では3,455万8,781人に増えていた。
江戸時代の、前期は大開墾による食糧増産で人口が急増する人口爆発時代であった、後期は人口がほとんど増えない停滞時代であった。
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徳川幕府や諸大名は、財政に関係なく、如何なる赤字おも覚悟で、無償で被災した人々を身分、地位、職業、貧富、家柄、出自、地域に関係なく、たとえ賤民(非人・えた)や罪人であろうとも見捨てる事なく全員を等しく平等・公平に救済していた。
そこには、人間的宗教的社会的な如何なる偏見や差別も存在しなかった。
寺院は哀れな犠牲者を悔いなく成仏するように弔い、神社は八百万の神々の怒りを鎮めて被災民の救済を祈った。
自然災害の被災者は、保護され救済されていた。
財政赤字となった幕府や諸大名は、庶民に重税を課さず、地場産業を発展させる事で現金収入の得ようと殖産に務め、食糧の安定供給の為に新田開発を行い地産地消に努めた。
その意味で、江戸時代は他者との差別化を図る為の破壊的イノベーションと継続発展的リノベーションが盛んな時代でもあった。
その為に、中国の古典書物と長崎からオランダを通じて西洋の最新情報を積極的に取り入れていた。
江戸時代は、閉鎖的に停滞した遅れた時代ではなかった。
日本から朝鮮や中国に逃げ出す被災民・避難民は、誰一人としていなかった。
日本の崩壊を食い止めていたのは、神話物語を正統とする男系父系天皇であった。
それゆえに、誰も天皇を打倒して自分が天皇に即位しようとする野心家はいなかった。それが、「象徴」と言う本当の意味である。
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2022年1月26日 読売新聞オンライン「 遠い国の大噴火に翻弄された日本…その時、指導者たちはどう動いたか
飢饉対策で指導力を発揮した家光
江戸時代にも、日本は何度も飢饉に見舞われた。1631年にはイタリアのベスビオ火山、40年にはフィリピン・ミンダナオ島のパーカー火山が噴火し、日本では寛永の飢饉が発生している。ともにVEIは5で巨大噴火ではないが、他にもVEI4クラスの噴火が重なったことで大量の硫酸エアロゾルが放出された。寛永17年(1640年)には蝦夷駒ヶ岳が噴火し、東北や北陸で大凶作が起きている。
徳川家光(堺市博物館蔵)
飢饉に直面した3代将軍の徳川家光(1604~51)は、義政とは真逆に高い政治力を発揮する。参勤交代で江戸にいた西国大名に「 撫民(ぶみん)に努めよ」と帰国を許し、各地の城主や江戸町奉行、大坂町奉行を江戸城に呼んで凶作の理由についてじかにヒアリングを行い、評定衆に対策の策定を指示した。20回以上の飢餓対策会議が開かれ、決まった対策は諸大名に伝えられ、庶民には高札で公表されたという。
農民には、年貢は不正なくきちんと納めること、ふだん通り耕作に精を出すことなど、いつも通り働くことが命じられた。町民には質素倹約を求め、酒造禁止令や粉食品禁止令が出された。大名には普請などの使役に農民を使わないことなど、領民の負担軽減を求めている。幕府や大名から庶民まで、みなができることをする「共助」が対策の柱といえる。一方で、大名の領地の没収や身分の 剥奪(はくだつ) は影を潜めた。田家さんは前掲書のなかで、「江戸幕府の統治思想という意味で、寛永の飢饉は転換点であった」と分析している。
渡辺華山『荒歳流民救恤図』(国立国会図書館蔵)
江戸時代の飢饉では天明3年(1783年)から5年以上続いた天明の大飢饉が有名だ。この時の冷害は同年の浅間山の噴火(VEI=4)と思っている人が多いが、この年にはアイスランドのラキ火山も噴火しており、気候変動に与えた影響はより大きかったという説もある。
義政を反面教師に
今回のトンガ海底火山の噴火で放出された硫黄分は、人工衛星のデータ解析では約40万トンと、日本に冷夏をもたらした平成3年(1991年)のフィリピン・ピナツボ火山噴火の50分の1程度にとどまるという。少なくとも500万トンの放出がなければ地球規模の気候変動は起きないとされ、影響は限定的との見方が出ている。
だが、噴火がこのまま収まる保証はない。トンガの噴火では爆発の衝撃で火山島が消滅し、海底にカルデラができていることが確認されている。このまま収まってくれたとしても、大規模噴火は地球上のどこで、いつ起きても不思議はない。1257年に有史以来最大の巨大噴火を起こしたとされるタンボラ火山は、1815年にもVEI7クラスの巨大噴火を起こしているし、鬼界カルデラでは現在も火山活動が続いており、海底には巨大な溶岩ドームが形成されている。何度放出されても火山のエネルギーは尽きることはないのだ。
かつては遠い国での火山噴火を知るすべはなかったが、日蓮は宗教の教えから先の危機を見通し、徳川家光は詳細なデータ収集によって危機を乗り切ろうとした。22日未明には日向灘を震源とする最大震度5強の地震があり、どこか落ち着かない日々が続くが、今は人工衛星などによる観測網と、先人が積み上げてきた科学や防災の知識がある。なすすべなし、とあきらめた足利義政を反面教師にして、世界的な観測網を宝の持ち腐れにしてはならない。
*富士山の火山災害については、以前に このコラム でも取り上げた。あわせてお読みいただきたい。
主要参考文献
田家康『気候で読み解く日本の歴史 異常気象との攻防1400年』(2013、日本経済新聞出版社)
池谷浩『火山災害 人と火山の共存をめざして』(2003、中公新書)
丸山 淳一( まるやま・じゅんいち )
読売新聞調査研究本部総務。経済部、論説委員、経済部長、熊本県民テレビ報道局長、BS日テレ「深層NEWS」キャスター、読売新聞編集委員などを経て2020年6月より現職。経済部では金融、通商、自動車業界などを担当。東日本大震災と熊本地震で災害報道の最前線も経験した。1962年5月生まれ。小学5年生で大河ドラマ「国盗り物語」で高橋英樹さん演じる織田信長を見て大好きになり、城や寺社、古戦場巡りや歴史書を読みあさり続けている
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全国の飢饉状況 - 長野市誌 第四巻 歴史編 近世2
目次 / 第九章 水害と諸災害 / 第二節 凶作と飢饉 / 二 江戸期における飢饉
寛永十八年から二十年(一六四一~四三)の飢饉は、江戸時代最初の全国的な飢饉として知られる。寛永十八年の凶作は、西日本一帯では旱魃(かんばつ)の影響が大きかったし、東日本では霖雨(りんう)(長雨)・冷害からくる影響が大きかった。翌十九年の凶作は、全国的に大雨・洪水による被害が大きく、二年続きの複合型異常気象が寛永飢饉につながったと考えられる。この時期は幕藩国家の成立期であり、幕府・諸藩主による過度の年貢・諸役の賦課が百姓の疲弊を慢性化させており、これが寛永飢饉を深刻化させたと思われる。また、寛永飢饉は幕府・藩などの対応原則-祭礼・仏事や男女の衣類の倹約令、酒造禁止令、本田畑(ほんでんばた)に煙草・木綿の栽培禁止令など-がつくりあげられた飢饉としても重要である。
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2024年8月24日 茶の美「秋季講演会『寛永の大飢饉と、遠州江戸四年詰の茶』~遠州の危機管理~
『寛永の大飢饉と、遠州江戸四年詰の茶』
~遠州の危機管理~
◆主催:公益財団法人 小堀遠州顕彰会
小堀遠州は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名である。今日では「遠州流茶道の祖」としてその名を知られており、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れ「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げた。この講演会では、小堀遠州研究の第一人者である深谷信子氏をお招きして、伏見奉行・上方郡代であった遠州が、何故、江戸で寛永の大飢饉の対策奉行となったのか、そのような危機的状況における小堀遠州の幕閣としての働きと、お茶との関係をドラマチックにご講演頂き、遠州の危機管理能力について考察して頂きたいと思います。
【講師】深谷 信子 氏 (茶道史研究家・文学博士)
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2021年1月8日 遠州流茶道「東海道旅日記「下りの記」 遠州の江戸詰四年
遠州公の「下りの記」は神無月、10月の8日から始まります。
そしてこの寛永19年10月に遠州公は江戸の飢饉対策奉行となっています。
「公の事しげくに…」と記されていた背景にはこのお役目があったのでしょうか。
この年、寛永の大飢饉がおこり全国的な飢饉にみまわれます。
農民たちは作物の育たない田畑を手放し、身売りや江戸へ流入し、飢えに苦しむ人々であふれていました。
その対応に追われていた幕府は、知恵伊豆と言われていた松平伊豆守信綱を中心に、畿内の農村掌握の第一人者であった遠州公も連日評定所にて協議を行いました。
このとき、将軍に茶道指南を請われたともいわれ、この先4年間江戸にとどまることとなり、俗に「遠州4年詰め」と呼ばれています。
この飢饉対策の対応のため動く幕閣や、江戸に参集していた各地の大名に遠州公の茶が広まるきっかけともなるのでした。
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日本史事典.com
【寛永の大飢饉とは】わかりやすく解説!!原因や影響(死者数)・その後の対策など
「寛永の大飢饉」といえば江戸期に起こった飢饉のうちの1つとして思い浮かぶ人は多いと思われます。
ではその飢饉はどんなものだったかと聞かれると中々細かくは説明できないかもしれません。
そこで、今回はこの「寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)」について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次 [閉じる]
1 寛永の大飢饉とは?
2 寛永の大飢饉の原因
①社会的困窮
②労働力の低下
③小氷期と江戸期の気候
④火山の噴火と東北の凶作
⑤全国規模の自然災害
3 寛永の大飢饉の状況
①農民の逃亡
②大規模リストラ
③地獄絵図
4 寛永の大飢饉への対応
①幕府の対策
②領民への直接指示
5 寛永の大飢饉の影響
①政治の方針転換
②百姓成立(ひゃくしょうなりたち)
6 まとめ
寛永の大飢饉とは?
寛永の大飢饉とは、江戸時代初期の1642年(寛永19年)~1643年(寛永20年)に起きた飢饉のことです。
飢饉とは天候不順や異常気象、虫害などの自然災害や社会的影響などで食糧不足に陥り、人々が飢え苦しむ現象のこと。
寛永の大飢饉は、江戸初期の飢饉の中でも最大のものだったと言われており、全国でおおよそ5~10万人が餓死したと言われています。
また、江戸初期に幕府の政治は【武断政治】から【文治政治】へ方針転換しますが、この転換にも大きな影響を与えたとされています。
寛永の大飢饉の原因
江戸初期最大の飢饉とされる「寛永の大飢饉」ですが、その原因も一つではありませんでした。
いろんな要因が重なり合った結果とされていますが、その要因についてみていきましょう。
①社会的困窮
江戸初期は幕府による幕藩体制の確立過程の中、支配体制に力技で組み敷かれていく武士は勿論ですが、その武士により支配される農民達にも多くの負担が課せられました。
農民たちの多くは疲弊した状態になっていたのです。
そのような中、1937年に国内最大の内乱である島原の乱が起きます。
【寛永の大飢饉とは】わかりやすく解説!!原因や影響(死者数)・その後の対策など
【島原の乱とは】簡単にわかりやすく解説!!原因や背景・内容・その後など
日本の歴史上最大規模の一揆と言われる島原の乱。 この乱は日本のその後の鎖国政策に大きな影響を与えました。 今回はそんな『島原の乱』がなぜ起こったのか、時代背景やその後など、わかりやすく解説ていきます。 島原の乱とは (島原の乱図屏風 引用元) 島原の乱とは、1637年(寛永14年)から...
これはキリシタンによる一揆として宗教的な要素が有名ではありますが、実は過酷な取り立てを行う領主への農民たちの不満が起こした反乱としての側面も大きかったのです。
さらにこの乱の鎮圧のために各地の農民が駆り出されたことで、農民たちの苦しみはより強まります。
②労働力の低下
1938年(寛永15年)九州で牛疫(ぎゅうえき)というウイルス性の牛の病気が発生し、西日本を中心に流行してしまいます。
伝染力が強くまた致死率も80%を超えるこの病を発病した牛は5~6日で高熱と酷い下痢等で死亡したとされます。
貴重な農耕のための労働力を担っていた牛が減少し、農作業への影響が出てきてしまうのです。
ちなみに、この家畜法定伝染病は、日本では明治期を最後に現在は発生していません。
③小氷期と江戸期の気候
近年各地で猛暑や洪水など異常気象からの自然災害が起こり、私達も他人ごとではない状態ですね。
人の排出するCO2などによる地球温暖化の問題などは以前からも言われていますが、そのような人為的要素以外にも、実は地球規模で気候は周期的に変動しているそうです。
地球は氷河が発達するほど全体的に寒冷化する『氷期』とその間の温暖な『間氷期』とを繰り返しています。
この温暖な気候の間にいろんな命が芽吹きますが、この『間氷期』の中でも、太陽活動の低下などにより寒冷化する時期があり、これを『小氷期』というそうです。
実は江戸期はこの時期にあたり、全体的に寒冷な気候だったということです。
当時はヒーターなどもない時代ですし、寒さを凌ぐのは非常に大変だったと思われますが、寒冷な気候が農作物にどのような影響を与えるかは想像に容易いですね。
④火山の噴火と東北の凶作
1640年(寛永17年)6月には北海道の蝦夷駒ケ岳が噴火しました。
火山噴火による降灰は農作物の発育不良や品質不良、さらには土壌汚染までおこし以後の農作物生育にも悪影響を与えました。
その結果東北地方を中心に大凶作になったのです。
⑤全国規模の自然災害
翌1641年には夏に西日本で日照りによる干ばつに見舞われますが、反して秋には大雨となった上、東日本では長雨と冷風の影響で冷害もおこります。
さらにイナゴなどと推測されるような虫害もあり、これらの全国的な自然災害は翌年にまで続く農作物の不作を招き、この不作が大きな飢饉へと繋がっていったのです。
寛永の大飢饉の状況
①農民の逃亡
不作に苦しむ農民の多くは田畑を捨て、逃亡していきました。
それがさらに田畑の荒廃を招き、農作物を育てることのできない荒れ地が広がるという悪循環になっていったのです。
しかし一生懸命育てた米が天候不順や災害で収穫できず、それでも年貢の取り立てが行われてしまえば、そりゃ逃げるしかないな~というのは非常に分かりますね。
②大規模リストラ
農民が逃げて年貢が入らないと困るのは武士も同じです。
幕府は勿論各藩の財政は年貢米が入らないことで非常に苦しくなっていきます。
財政が苦しいということは、経費を抑える必要があるということ、つまり人件費の節約も検討されてしまいます。
各藩で大規模なリストラも行われ、各地に牢人が増えていきました。
また、この時期財政困窮以外にも幕府による【武断政治】のためにお家取り潰しなどが数多くあり、仕える藩がなくなった為に必然的に牢人となってしまう武士も多くいたのです。
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【武断政治とは】わかりやすく解説!!文治政治になった理由&違い!
初期の江戸幕府で行われていた武断政治。 大名たちを武力で統制した政治です。そして武断政治の次に登場するのが文治政治です。 今回は文治政治へ転換した理由にも触れながら、『武断政治』についてわかりやすく解説していきます。 武断政治とは (徳川家康 出典:Wikipedia) 武断政治(ぶだん...
③地獄絵図
食べるものが無く飢えに苦しむ様はいろんな書物に残っているようですが、飢餓状態であるということは人でなくなる状態なのかというくらいに悲惨な内容もあります。
貧しいゆえの身売りなどは普通に行われ、飢餓から逃れる手段の一つともなっていたようです。
東北の村などでは逃亡の際に足手まといになるということで、未就学児くらいの子を川に溺死させたりしたそうです。
また京都でも屍が路上に積み上げられ、軒下には赤子が捨てられ、餓死した子供などは犬に食べられていた…等の記録もあるようです。
現実かと疑うくらいに恐ろしい、まさに地獄絵図のようだったのです。
現在の飽食時代からは考えも及ばないでしょうが、過去の日本では頻繁に起こったことだったのです。今目の前の食事を大切にしていきたいものですね。
寛永の大飢饉への対応
(徳川家光 出典:Wikipedia)
①幕府の対策
飢餓の影響が明らかになると、時の将軍徳川家光は諸大名に対して、領国の飢餓対策を指示します。
この時譜代大名も領国に戻ったので、以後譜代大名も参勤交代をするようになったそうです。
餓死者も増加し、逃亡者が都会に集中してくるようになると、身元が分かるものに関しては諸藩へ引き渡していきました。
さらに、一人1日5合を基本として支給していた玄米などの扶持米(ふちまい)を米不足への対処のために各大名から江戸に集めたりしました。
②領民への直接指示
幕府は大名への指示以外にも、領民たちへの直接の命令を下します。
倹約令は勿論のこと、身売りの禁止や、米作りへ専念してもらうために米以外(タバコなど)の栽培禁止、雑穀を使用する食品の製造販売の禁止や災害被害にあった人々を助ける救済小屋の設置など、様々な具体的な策を出していったのです。
1643年には田畑永代売買禁止令を発布し、農民の農地離れを何とか食い止めようともしました。
【寛永の大飢饉とは】わかりやすく解説!!原因や影響(死者数)・その後の対策など
【田畑永代売買禁止令とは】簡単にわかりやすく解説!!目的や内容・その後(廃止と解禁)
江戸時代初期、幕府は農民に対して自分の田畑を売買することを禁止しました。 これがいわゆる田畑永代売買禁止令です。 今回は、『田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。 田畑永代売買禁止令とは? 田畑永代売買禁止令とは、1643年...
寛永の大飢饉の影響
①政治の方針転換
先の島原の乱、この大飢饉、さらに将軍の代替わりに起こった由井正雪の乱などを通して、幕府は武力や厳しい刑罰などで治めていく【武断政治】の限界を感じます。
【寛永の大飢饉とは】わかりやすく解説!!原因や影響(死者数)・その後の対策など
【由井正雪の乱(慶安の変)とは】わかりやすく解説!!原因や背景・内容・その後など
人間って恐ろしいもので失うものが何もないと犯罪に突っ走ってしまうものです。 今回ご紹介するこの由井正雪の乱は由井正雪とそんな失うものがなかった浪人という人がタッグを組んで起こした反乱のことです。 今回はそんな『由井正雪の乱』についてわかりやすく解説していきます。 由井正雪の乱とは 由井正...
その結果、4代家綱の時代から礼節を重んじて制度で治めていく【文治政治】へと政治の方針を転換していくのです。
【寛永の大飢饉とは】わかりやすく解説!!原因や影響(死者数)・その後の対策など
【文治政治とは】簡単にわかりやすく解説!!きっかけや影響・その後など
武力ではなく、学問や教育によって国を治める文治政治。 徳川幕府4代将軍徳川家綱から7代将軍家継の時代まで行われました。 今回はそんな『文治政治』について簡単にわかりやすく解説していきます。 文治政治とは 文治政治(ぶんちせいじ)とは、武力ではなく学問や教育によって国を治める政治のことです...
②百姓成立(ひゃくしょうなりたち)
幕府政治の財政の基本が年貢米であることから、その担い手である農民(百姓)を大切に育てることが必要だとし、「百姓撫育(百姓成立)」という考えで幕府は百姓を戦乱や飢餓のない安定した生活ができる状態にしていこうとしました。
それにより幕政の安定と庶民の生活の向上が推し進められていくようになるのでした。
まとめ
✔ 寛永の大飢饉は、1642年~1643年に起こった大飢饉のこと。
✔ 飢饉のきっかけの1つして西日本で流行した『牛疫』による牛の大量死がある。
✔ 蝦夷駒ケ岳の噴火による降灰は東北地方の凶作をまねいた。
✔ 西日本の干ばつ、東日本の冷害などの自然災害で全国的な不作が起こり、飢饉が全国的なものになっていった。
✔ 飢饉の影響で農民の逃亡や牢人の増加など社会不安も大きくなっていった。
✔ 幕府も倹約など様々な対策を行い、各藩にも領国内の飢饉対策に取り組むように指示を出した。
✔ 飢饉後、幕府の政治は「武断政治」から「文治政治」に代わり、農民を耕作に専念してもらうようにするためにも「百姓成立」という方策がとられていった。
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刀剣ワールド「田畑永代売買の禁止令 /ホームメイト
「田畑永代売買の禁止令」(でんぱたえいたいばいばいのきんしれい)は、1643年(寛永20年)、江戸幕府第3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の時代に出された法令です。とは言え、これは単独の法令ではなく、農民が所有する田畑を売買することを禁じた法令の総称。発令前年の1642年(寛永19年)に起きた「寛永の大飢饉」(かんえいのだいききん)によって、困窮した農民が、裕福な農民に田畑を売る行為が頻発。これにより年貢収入が減ることに危機感を抱いた江戸幕府が発布したもの。しかし実際には「質入れ」という抜け道が横行し、次第に実効力を失って1872年(明治5年)に廃止されました。
目次
田畑永代売買の禁止令が出された背景
田畑永代売買の禁止令の概要
田畑永代売買の禁止令その後
田畑永代売買の禁止令が出された背景
租税制度崩壊の危機
1642年(寛永19年)、その前年からの干ばつや虫害、冷害などにより、「寛永の大飢饉」(かんえいのだいききん)が全国を襲いました。当時の農村では、農地を所有する「本百姓」(ほんびゃくしょう)が年貢を納める責任を負う「本百姓体制」が取られていましたが、本百姓の中には、飢饉によって年貢を払えない者が続出。
彼らは、同じ村の裕福な農民へ田畑を売ってお金を手に入れ、そのあとは、本百姓の土地を耕す小作人「水呑百姓」(みずのみびゃくしょう)となって暮らすことになりました。
ところが土地を売る者が増えると、貧しい農民のなかには家を捨て、流民(るみん:故郷を離れてさまよう人々)になる者も増えたのです。見かねた江戸幕府は、農民の没落を防ぐとともに、安定的な税収を得るために田畑の売買禁止に乗り出しました。
田畑永代売買の禁止令の概要
売り手・買い手ともに厳罰
田畑の売買を禁止した法令は、「代官」(だいかん:江戸幕府直轄領を治めた役人)宛と、農民宛の2種類があります。代官宛では、「裕福な農民はますます裕福に、貧しい農民はますます貧しくなるため」に売買禁止の理由を説明。
一方、農民宛では理由を説明されず、ただ「禁止する」ことだけが記されていました。またこの法令の特徴は、売った者と買った者の両方に厳しい罰則が科せられたこと。
売った者は牢に収監され、のちに追放。買った者も同じく牢に収監され、買い取った田畑は江戸幕府が没収。本人が死亡していた場合は、どちらも子どもが罰を受けることとされました。
意図的な質流れ
大岡忠相
しかしいくら田畑の売買を禁止しても、困窮した農民を救うという本質的な解決にはなりません。そのため、罰を受けることを承知で売買する農民も少なくありませんでした。
また「質流れ」(しちながれ)を装い、実際に売買を行うといったケースも。
実は当時の売買には、現在のような永代売買(えいだいばいばい:お金と物とを交換する形で売買を行う方法)だけでなく、物を担保にお金を借りる「質入れ」も普通に行われていたのです。
田畑を売りたい農民は、お金を借りるための担保として、田畑を裕福な農民に預けます。お金を返済すれば田畑を返してもらえましたが、返せなければ質流れとして担保である田畑の所有権は相手に渡ってしまうことに。
無論、彼らは最初から質流れにするつもりでお金を借りていたのです。そのため、売買抑止の効果は上がりませんでした。江戸幕府の役人のなかには、農民の実態に即していないこの法令を批判する者も多く、「大岡越前」で知られる寺社奉行「大岡忠相」(おおおかただすけ)も廃止を上申したひとりです。
田畑永代売買の禁止令その後
完全撤廃は明治時代
そのあと、江戸幕府は、質流れによる売買を一部容認しましたが、江戸幕府第8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が「享保の改革」(きょうほうのかいかく)の中で、「質流し禁止令」を発布。ところが、この頃には質入れによって土地の権利が複雑化していたため、各地で地権を巡る騒動が頻発。
そして、発布から100年近く経った1744年(延享元年)、江戸幕府は田畑永代売買禁止の令の罰則を大幅に緩和し、実質的に撤回したのです。しかし、名目上は田畑永代売買禁止の令の効力が残り、日本で完全に土地の売買が自由に行えるようになったのは、発布から200年以上が経過した明治時代の1872年(明治5年)のことでした。
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ウィキペディア
寛永の大飢饉は、江戸時代初期の1640年から1643年にかけて起こった飢饉。江戸初期においては慶長から元和年間にもしばしば凶作から飢饉が発生しているが、そのなかでも最大の飢饉である。島原の乱とともに江戸幕府の農政転換にも影響した。
経緯
寛永19年(1642年)前後に最大規模化するが、それ以前から兆候は存在していた。島原の乱が収束した寛永15年(1638年)頃には、九州で発生した牛疫が西日本に拡大し、牛の大量死をもたらした。寛永17年(1640年)6月には蝦夷駒ケ岳が噴火し、降灰の影響により陸奥国津軽地方などで凶作となった。
翌寛永18年(1641年)に入ると、初夏には畿内、中国、四国地方でも日照りによる旱魃が起こったのに対し、秋には大雨となり、北陸では長雨、冷風などによる被害が出た。その他、大雨、洪水、旱魃、霜、虫害が発生するなど全国的な異常気象となった。東日本では太平洋側より日本海側の被害が大きく、これは後の天保の大飢饉に似た様相であるという。当時江戸幕府では寛永通宝を発行して貨幣の統一を図っていたが、過剰鋳造に市場への流出に加えて不作による物価高騰で銭の価値が急落し、同年12月には鋳造の全面停止に追い込まれ、同時に公定相場での寛永通宝の買い上げや東西間の交通の維持のために東海道筋などの宿場町の支援に乗り出している[1]。不作はさらに翌19年(1642年)も続き、百姓の逃散や身売など飢饉の影響が顕在化しはじめると、幕府は対策に着手した。同年5月、将軍徳川家光は諸大名に対し、領地へおもむいて飢饉対策をするように指示し、翌6月には諸国に対して、倹約のほか米作離れを防ぐために煙草の作付禁止や身売りの禁止、酒造統制(新規参入、在地の酒造禁止および都市並びに街道筋での半減)、雑穀を用いるうどん・切麦・そうめん・饅頭・南蛮菓子・そばきりの製造販売禁止、御救小屋の設置など、具体的な飢饉対策を指示する触を出した。これは、キリシタン禁制と並び、幕府が全国の領民に対して直接下した法令として着目されている。またこうした政策は、後の江戸幕府における飢饉対策の基本方針とされるようになる。なおこのとき、譜代大名を飢饉対策のために、領国に帰国させたことがきっかけとなって、譜代大名にも参勤交代が課せられるようになった。
寛永19年末から翌20年(1643年)にかけて餓死者は増大し、江戸をはじめ三都への人口流動が発生した。幕府や諸藩は飢人改を行い、身元が判別したものは各藩の代官に引き渡した。また米不足や米価高騰に対応するため、大名の扶持米を江戸へ廻送させた。3月には田畑永代売買禁止令を出した。
大飢饉の背景としては、1630年代から1640年代における東アジア規模での異常気象のほか、江戸時代初期の武士階級の困窮、参勤交代や手伝普請、将軍の上洛や日光社参などのように、武断政治を進めるための幕府や藩の多額の出費、年貢米を換金する市場の不備などが、様々な要因が挙げられる。
幕府は武士の没落を驕りや奢侈によるものととらえ、武家諸法度などで倹約を指示していた。例えば、1635年の武家諸法度改正で、幕府は参勤交代を1年交代で行うように義務付けているが、その一方で参勤交代にあまり費用をかけすぎないように呼びかけている。武士の困窮は百姓に対するさらなる収奪を招き、大飢饉の下地になったと言われる。
島原の乱から寛永の飢饉、牢人の不満を背景として徳川家綱への代替わりの時に起こった討幕計画である慶安の変などを契機に、幕府は武断政治の限界を思い知らされた。そして幕政は、百姓撫育(百姓成立ともいう。すなわち百姓が戦乱と飢饉から解放されて、安定した生活を営めるような状況の確立)を推し進め、諸大名に課せられていた普請役は激減し、参勤交代に代替された。また諸藩も遅れて藩政改革に乗り出た。
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寛永の飢饉
改訂新版 世界大百科事典 「寛永の飢饉」の意味・わかりやすい解説
寛永の飢饉 (かんえいのききん)
1641-42年(寛永18-19)の凶作による江戸時代最初の大飢饉。1630年代を通じて慢性的な農民の疲弊,それによる農地の荒廃現象がみられたが,37年に起こった島原の乱は,九州を中心とした大量の兵粮と軍役の徴発・動員により,農村の疲弊状況をさらに深刻化させた。40年には,西日本を中心として全国的に牛疫病が流行し,九州では大量の牛死が発生して,農耕に甚大な影響を与えた。翌41年には,西日本では干ばつに見舞われ,さらには虫害の被害をうけ,北陸・関東・東北地方では長雨と冷気による冷害に襲われ,全国的な大凶作となった。その翌年も,西日本では干ばつが続いていたが,秋には一転して各地で大洪水が起こり,東日本では前年同様に長雨と冷害,さらには洪水も発生するなど,2年連続して全国的な大凶作となった。このため,41年の冬から春にかけて,大飢饉の様相が全国的に現れ,農民は耕作を放棄して山野に入り,クズ,ワラビの根を掘って食料とするなどの事態も起こり,さらに,食料と奉公口を求めて大量の農民が各地の城下町,街道筋の宿場町,そして江戸,大坂,京都,伏見などの大都市に流入し,多くは乞食として流浪した。2年続きの凶作により,全国では5万とも10万ともうわさされた多数の飢死者が,都市と農村にでるという惨状を呈した。この飢饉に対して幕府は,大名をはじめとする諸領主に領地に赴いて勧農を命ずるなど,飢饉対策を督励した。42年に幕府は,江戸,上方の諸奉行らを動員して対策の立案を命じ,全国の領主,百姓,町人を問わず飢饉状況の打開策の実施を求めた。米,雑穀類の浪費を防ぐために酒造・麵類の制限,都市から乞食を本国に送還する措置,施粥・米など当面の飢饉対策とともに,用水等の農業生産条件の改善策,さらには農民の生産と生活の細部にわたる規制策,田畑(でんぱた)永代売買禁止令などの一連の措置を通して,この後の幕藩領主の農政の大枠を形成し,近世的農村・農民の成立の一つの画期となった。
執筆者:藤田 覚
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科辞事
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