🏞75)─2─イギリスの蝦夷地植民地化計画と徳川幕府の対応。1796年。~No.309 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代の日本人は、日本はおろか世界の歴史知識が乏しいか、左翼・左派が広めた捏造・歪曲・改竄された悪意に充ちたウソの歴史(戦後民主主義教育の歴史教育)を信じている為に、現実に起きた歴史が理解できず、よって「攘夷」の事実が理解できない。
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 もし、アイヌ人が国際情勢を知り侵略してくる欧米列強の味方をして日本と戦ったら、日本は祖国防衛用の軍隊と艦隊を持たないだけに惨敗し、蝦夷地は日本の領土ではなくなった。
 この時、アイヌ人が希望すれば、日本人ではなく、ロシア人、イギリス人、フランス人、アメリカ人になれた。
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 『サムライ異文化交渉史』 御手洗昭治著 ゆまに書房
 「第4章 フランスとイギリスの対日接近
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 イギリスの日本接近と幕府の対応
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 これまでは、ウィリアム・アダムスこと三浦按針と徳川家康から始まる日英関係に関する文献は加筆の余地のないほど詳細に記述されている。しかも、イギリス人の日本に求めるものは交易であり、領土的野心をもつものではないという見解が18世紀後半に日本側に存在していた。これと同様な見解がロシアの日本南下に対しても幕府側に存在していた。
 ロシア人の日本に求めるものは専ら交易であって、領土的野心をもつものではないという当時の見解は、その後箱館奉行として東蝦夷の経営にあった羽太正義にも継承されていった。松平定信の非開拓論は、自然条件の厳しい蝦夷は開拓といっても容易ではなく、そのまま放置する方が、たとえ外敵が侵入したとしても、長く大軍をとどめることは困難であり、また狙われることもないという認識であった。
 しかし、寛政5年(1793年)のロシアのラクスマンによる松前藩との交渉に続くウルップ島植民地化など、ロシア勢力の接近と寛政8年、9年(1796年と1797年)の2度にわたる英国のブロートン中佐の北海道エモト来航は、単なる地理的調査を目的とするものではなく、当然占領を前提とする国家戦略の予備行動である。
 当時の幕府は、経済的にせよ現実問題として迫ってくる外圧に対処するには、松前藩では余りにも無力であると考えた。東蝦夷の帰属は明確ではなくても、幕藩体制の勢力範囲とみなされていたので、幕府もその喪失と、将来外国勢力が本土侵略の拠点化することを黙認するわけにはいかず、経済的採算を度外視して『上知』に踏み切らざるをえなかったのである。
 異国船出現と幕府の海防観
 松平定信(1758-1829年)は、早くから海防に関心のあった閣老であった。定信は、特にロシア船の来航を脅威ととらえる海防の必要性を認め、蝦夷地と南部・津軽の両藩に交替警備を命じた。中国風ならびに洋風の船舶の建造の必要性を説いたのも定信であったが、彼は間もなく老中の職を退いたので、その計画は実現せずに終わった。
 その後数年は、異国船に関する問題は何も起こらなかった。しかし、寛政8年(1796年)に蝦夷地の虻田に異国船の寄港があり、翌年の完成9年には繪鞆と小松前沖に再び異国船が現れ、松前人士を喫驚(きっきょう)させた。幕府はその度に役人を派遣して調査した。実は、この異国船こそがイギリス人ブロートンの探検船であった(平岡雅英『日露交渉史話』)。
 イギリスのブロートンの対日・北海道接近
 ウィリアム・ブロートン(……)大佐は、1790年にイギリスが派遣した探検家ジョージ・バンクーバー(1757年~1798年)率いるアメリカ北西岸探検隊に参加した。当時、アメリカ北西海岸の探検にあたっていたブロートンはバンクーバーの調査に参加し、オレゴン州のコロンビア河をはじめ太平洋沿岸の測量に協力する。
 次いで、ブロートンは1793年に400トンのプロビデンス号の艦長となり、再度バンクーバーに合流するためにアメリカ北西部へ航行したが再開できず、アジアに向かい、日本の琉球、北海道、千島、朝鮮、沿海州樺太(サハリン)を調査し、地理学上貴重な成果を収めた。
 ブロートンは1796年、イギリス政府の命令に従い日本諸島に面したアジア大陸東沿岸を探検測量しながら、8月初めに奥州南部から北に向かい噴火湾に入り、虻田郡に上陸した。そこで薪や水を取り、天測などを行った。イギリス船は17日間、投錨し水深調査をしながら、9月に室蘭(エモト)付近に入港した。このことは幕府側の北辺に対する危惧を募らせ、1798年巡見使の『蝦夷地派遣』となった。
 幕府側は、松前藩の高橋壮四郎、工藤平左衛門、加藤省吾を派遣するが、24日応接の結果、ようやくブロートン率いるプロビデンス号がイギリス船であることを知る。日本側との協議では、双方とも言葉が通じず、意思疎通の面で交渉以前のさまざまな問題が生じた。
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 もっとも、ブロートンが生きていた時代は
 ブロートンは、その日誌の中で述べているが、北海道・サハリンにいたる北太平洋の探検航海の彼方に求めていたものは『金銀島』(リカ・デ・フラータ(……))であり、『北方航路』にほかならなかった。この島は、キャプテン・クックの海図に示されていたという。ブロートンはサンドイッチ諸島(現在のハワイ諸島)から日本列島、北海道の航海の途中で、謎の島を通過したものの、陸地に接近しているような兆候が全く観察されなかったため、さらに西である日本を目指したという。
 『北方航路』とは、北極を中心に北極海をめぐるアニアン海峡もことであり、それは太平洋につながり、アメリカ大陸とアジア大陸を分けているに違いない、したがって、大西洋から太平洋を経てアジアの北辺を迂回する抜け道、すなわち『北西航路』がどこかに存在するに違いない、という考えである。そして、探検航海者たちが描いていた究極の夢が植民地拡大と、それとヨーロッパ、アメリカを結ぶ最短距離の貿易ルート発見という、国際競争が秘められていた。ブロートンは、航海日誌の中において、室蘭の内浦湾を『ボルケイノ・ベイ(噴火湾)』と名づけたり、彼が見聞した室蘭の住民の生活を記した。……室蘭出港後、千島まで接近するが、ブロートンが骨折したため、調査は中止し、基地でもあるマカオに一時帰還する。プロビデンス号は、1797年5月1日、宮古島でいったん沈没する。しかし、同年、津軽海峡を越え再度、室蘭に来航し、国家戦略の一端でもあったタタール海峡の調査後、1799年2月に本国イギリスに帰還することになる。
 イギリスの太平洋海洋戦略とは
 ジョン・C・ペリー(ペリー提督の直系でフレッチャー法律外交大学院教授)は、著書〝Facing West〟の中で、イギリスにとって太平洋は、未来に対する国益と発展の可能性を約束してくれるものと思われたと述べている。1つは、豊かな未発見の土地(テラ・オーストラリア・インコグーニタ)である。それは、(1)古代から伝わるヨーロッパの地理上の夢想であり、地球的規模から北半球と均衡をとるための要であり、(2)広大でそれゆえ当然貴重な資源が豊富に存在する大陸と考えられていた。(3)さらに、その商業ルートを支配すれば富と権力を求めて求めてヨーロッパが地球規模で行っているせめぎ合いを凌ぐものになることを知っていたことがある。
 ヨーロッパとアジアを結ぶ新交通ルートを開くことは、アメリカを横切る北西航路となるが、太平洋で2つめの機会をイギリスにもたらすように思われた。
 それまで長い間、マニラ・ガレオン船が享受していた独占をイギリス人は新交通路の開拓によって打破し、世界貿易を支配する壮大な『海洋戦略』をうちたてることができる。
 例えば、イギリスの『海洋戦略』に関して、大英帝国海軍大臣・職務執行委員会が国王陛下のスループ船レゾリューション号の総司令官クック艦長に送った以下の秘密訓令に詳しく記述されている。

 サーカムシジョン岬を発見したらば、……なお、陸地に人が見当たらない場合には、国王陛下の名に領有を宣し、最初の発見者それに、領有者として、しかるべき証と覚書文を備えられたし。

 したがって、ブロートンが1796年の9月にプロビデンス号でエモト(室蘭)に来航し、北海道接近と現代の室蘭付近の海底、その他の調査を行ったことは、単なる調査ではなくイギリスの国家の威信をかけた『海洋戦略』の一端であった(……)。イギリスは、すでにアジア行きの世界航路の3つのルートを熟知していたが、その1つのルートと関係するのがブロートンの対日情報戦略である。
 幕府は1796年の『イギリス船』出没事件以降、異国船の再来航を恐れ、寛政10年(1798年)に要害地の調査のため180余名あらなる大規模な巡察隊を蝦夷地に送った。巡察隊より蝦夷地の行政の芳しくない調査結果を知った幕府は、翌年の寛政11年(1799年)に蝦夷を7年間、試みに直轄経営することを決定し、松前藩には別の代償を与えて上知せしめたのである。」
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 ウィキペディア
 ウィリアム・ロバート・ブロートン(William Robert Broughton、1762年 - 1821年3月12日)はイギリスチェシャー州出身のイギリス海軍士官、探検家。
 プロヴィデンス号の航海
 ブロートン日本初上陸地である虻田の海岸
 1793年10月に就任したプロヴィデンス号(en:HMS Providence (1791))艦長として、バンクーバー遠征隊支援と北大西洋調査を命じられ、1795年に出帆した。
 12月16日にキリバスのカロリン島を再発見し、翌年バンクーバー島を再訪、調査する。遠征隊支援を終え、太平洋を横断して黄海に入り、イギリス人として初めて朝鮮半島沿岸を航海する。さらに北上してヨーロッパの地図上で空白地帯だった、揚子江から樺太(サハリン)、北海道沿岸と千島列島の測量調査を行った。
 1796年(寛政8年)8月に内浦湾(噴火湾)に面する洞爺湖町虻田で日本初上陸を果たし、9月には室蘭に寄港して、船体の修理を行っている。冬を越すために12月マカオへ寄港する。
 厳しい北太平洋の調査に僚船の必要性を感じ、スクーナープリンス・ウイリアム・ヘンリー号を買って2隻でマカオを出航するが、直後の1797年5月16日、プロヴィデンス号は宮古島池間島)沖の八重干瀬座礁、沈没してしまう(帰国後出版し評判となった航海記には、この時宮古島の住人に手厚く助けられた感謝の念が記され、イギリス人の対日観に影響を与えたとの見方がある)。
 いったんマカオに戻った後、彼は残ったスクーナーで探検航海を再開する決断をする。那覇港に寄った後、太平洋岸を北上(房総沖で江戸湾を確認)し、仙台や箱館を訪問するが松前藩には歓迎されず、そのまま日本海へ抜けている。なお、松前藩側の記録によれば、当時、松前藩側に英語を理解できる者がおらず、両者が片言のロシア語を駆使して、辛うじてイギリスの探検船であることが理解できた程度であったという。
 1798年5月、セイロン島で船を降り、翌年本国に帰国した。
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サムライ異文化交渉史
黒船以前―アメリカの対日政策はそこから始まった!!
グローバル異文化交流史――大航海時代から現代まで、ヒト・モノ・カネはどのように移動・伝播したのか
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 「日本は外圧に弱い」とよく言われるが、弱くてダメなのは情報を持った現代日本であって、昔の日本は情報が乏しくても毅然として外圧と対峙してけっして弱くはなかった。
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 阿片戦争は1840~42年の事で、ペリー黒船艦隊の日本来航は1853年であった。
 文化露寇事件(1807年)と徳川幕府による蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)。
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 蝦夷地の帰属決定権はアイヌ人が握っていて、アイヌ人の意志で蝦夷地が日本、ロシア、イギリス、フランス、アメリカの領土になる可能性があった。
 徳川幕府は、夷狄を撃ち払って現人神天皇と神国日本を守るに当たって、主戦場となる蝦夷に住むアイヌ人の動静を恐れ、夷敵に味方して日本を攻撃してくるのではないかと危惧して攘夷決行など怖くてできなかった。
 歴史的事実として、アイヌ人の中には日本に対する憎悪や敵意が充満していた。
 徳川幕府の対アイヌ政策は、「由(よ)らしむべし、知らしむべからず」であった。
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 アイヌ人の悲劇とは、アイヌ国家を持たず、アイヌ人の軍隊を持っていなかった事である。
 自分を守る国家と軍隊を持たない民族が悲惨な境遇に落とされるのが、歴史の常識である。
 それは、現代でも変わらない同じ大原則である。
 それ故に、明治期の日本は「国益」・日本国・日本天皇日本民族を守るべく日本国民を犠牲にして、近代化を急ぎ、大軍団を編成し大艦隊をつくった。それが、日本の民族主義愛国心軍国主義であった。
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 日本が教訓とすべきは、清国(中国)ではなくムガル帝国(インド)であった。
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 水戸藩吉田松陰尊王攘夷派・勤皇の志士が掲げた神国日本攘夷論とは、蝦夷地・北方領土・東北などを侵略しようとしている夷狄に対してであった。
 日本の民族主義愛国心そして軍国主義は、日本への侵略という外圧から生まれ、危険度の増加で強化され、追い詰められ過剰反応を起こして暴走した。
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 江戸時代後期に日本近海に出没したのは欧米の捕鯨船だけではなく、蝦夷地・樺太など北東アジアで植民地を獲得しようというイギリス・フランス・ロシア・アメリカの国家戦略に基づいた軍艦・艦隊であった。
 これに対峙したの日本一ヵ国のみであり、そして日本国内では統治の主権者である徳川幕府だけであった。
 中華帝国(中国)は、大陸国として海には興味がなく、北から陸伝いに南下してくるロシアを警戒していた。
 朝鮮王国は、中華帝国の属国で臣下として忠誠を誓う事のみを第一と考え、海の外から迫りくる脅威には関心がなく、その意味で海など見ていなかった。強いて脅威を感じていたのは敵国の日本であった。
 歴史的事実として、ロシア・中国・朝鮮の3ヵ国は日本の敵であった。
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 国防意識と戦略・対策において、当時の日本=徳川幕府・庶民の方が現代の日本=政府・国会・国民よりもはるかに優れていた。
 現代日本は国内外から大量の情報を得ているが、当時の日本は乏しい情報の中で試行錯誤しながら国を守っていた。
 つまり、憲法9条の愚かな平和主義と無能の非武装中立では、外敵の侵略から日本は守り切れなかった。
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 戦争は、日本が好戦的ゆえに望むのではなく、侵略を試みる敵国があって起きていた。
 つまり、日本の戦争は祖国と民族を守る為の積極的自衛戦争であって領土拡大の侵略戦争ではなかった。
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 徳川幕府は、ペリーの上から目線でのイギリス情報を教えて貰わなくても独自の情報ルートからイギリスの動きを知っていて、現代の歴史教育が教えるほど鎖国・天下泰平・停滞社会で安眠を貪っていた無知な愚か者ではなかった。
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 徳川幕府は、情報を総合判断して、イギリスが北東アジア侵略の軍事拠点を蝦夷地・樺太・千島列島のどこかで獲得しようとしている事を知っていた。
 イギリスで恐れたのは、インド侵略、ムガル帝国滅亡、ビクトリア女王のインド皇帝兼任である。
 最も恐れたのは、夷狄が移り住むであろう地域で生活しているアイヌ人の動向であった。
 つまり、アイヌ人は敵か味方かで、敵でも味方でもない中立はあり得なかったからである。
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 昔の日本と現代日本とは、徳川幕府や武士と現代の政治家や官僚とは、別人のような日本人である。
 そして、世襲制反対・家反対の左派系日本人とは全然違う日本人であり、さらに道州制導入派日本人とは真逆の対極の日本人であった。
 彼らには、歴史など理解できない。 
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