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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
阿片戦争は1840~42年の事で、ペリー黒船艦隊の日本来航は1853年であった。
文化露寇事件(1807年)と徳川幕府による蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)。
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水戸藩と吉田松陰ら尊王攘夷派・勤皇の志士が掲げた神国日本攘夷論とは、蝦夷地・北方領土・東北などを侵略しようとしている夷狄に対してであった。
日本の民族主義と愛国心そして軍国主義は、日本への侵略という外圧から生まれ、危険度の増加で強化され、追い詰められ過剰反応を起こして暴走した。
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『サムライ異文化交渉史』 御手洗昭治著 ゆまに書房
「第4章 フランスとイギリスの対日接近
フランスのラ・ペールズ探検隊
キャプテン・クックの探検隊がロシア人の住むアメリカ北西岸をかすめたのに対し、フランスのラ・ペールズ探検隊は、当時のロシアと日本領土に遠からぬ日本海におおいに大きな意義を有する調査を成し遂げた。
ラ・ペールズ一行は、1786年、北太平洋における地理的発見や領土獲得においてイギリスに遅れをとらないめに、クック探検隊の後、フランス政府によって国家戦略の一部として組織された。そして、ロシア人の進出の実態や彼らの豊富な毛皮資源に関する調査等を行った。
ラ・ペールズは、1785年の8月に2隻の船を率いてフランスのブレストを出航し、翌年にはサンドイッチ諸島(現在のハワイ諸島)に到着する。その後、ラ・ペールズはそこからキャップテン・クックと同様のルートをとり、北アメリカ北西岸に向かった。
記録によれば、ラ・ペールズはサンフランシスコ近くのモントレーまで南下することに成功し、そこから太平洋を横断してマリアナ諸島へ航海し、ポルトガル領のマカオへ到着した。1787年の1月にはマニラから船の修理のためフィリピンに立ち寄り、その後探検隊は北方へ出航し、アジア大陸と台湾の間の海峡を通り、琉球諸島を経て朝鮮と日本の間の海峡を通過した。以下は、対抗型交渉スタイルを目指していたラ・ペールズが、実際には北海道やサハリンなど北方地域において、互恵交渉を経験することになったケースとして取り上げたい。
ラ・ペールズ海峡(宗谷海峡)の発見
1787年の6月にラ・ペールズ探検隊は『蝦夷』(北海道)を廻航し、さらに西方に針路をとりロシア領沿海州の現代のサハリン(テルネイ湾)に到着した。探検隊はサハリンで原住民のアイヌの人々に出会ったが、フランス人たちは太平洋諸島の原住民たちとの交流経験があったので、彼らに好印象を抱いたという。……
探検隊がサハリンから東方へ針路を変えた際、サハリンと蝦夷の間の海峡を発見した。一行はこれをラ・ペールズ海峡(宗谷海峡)と名付けた。
この海峡の発見は、これまでのサハリンと日本の北部がアムール河口近くまで北方に延びているという欧米の科学者達の通説を覆すものとなった。
……
航海士・探検家としてのラ・ペールズ
……
ラ・ペールズは、海軍士官となった後に、ルイ16世の命を受をうけ2隻の艦隊の指揮官として、現在のアジア・太平洋の地理学上の探検のみならず、戦略的交渉を駆使して交易を行うかたわら、自然科学の調査研究を行うという目的を持って1785年にフランスを出発したのである。ルイ16世は、幼少の頃から地理学に関して専門教育を受けており、世界地理の諸問題に関心のあった国王であった。
……
日本ではラ・ペールズが太平洋地域──特に日本の北辺地域に接近した理由の一つに、彼の『航海好奇心説』を提唱する人達が存在する。すなわち、ラ・ペールズ自身が航海士と探検家であったため、極東の日本に個人的な興味を抱いていたという説である。
しかし、彼はただ単に日本に接近したのではなく、日本の最北端の北海道を迂回し、現代のカムチャツカ半島はもちろん、それ以外の北辺周域まで接近することが目的だったと思われる。これが第一の要因である。
では、当時のフランスの対外政策は、言い換えれば欧州近代国家の『人為的国境意識』(……)に基づいた思想と大いに関係があると言える。ここでいう人為的国境意識とは、自然の特色や文化的な要素を無視した国境に対するパーセプションのことである。これは、世界の未開発な地域である新用地に多く見られる傾向がある。例えば、新大陸であったアメリカ、オーストラリアをはじめ、アフリカに新しい国が建設された早期に用いられた国境意識の一部である。
国際政治の歴史を探ってみると、ほとんどの期間が国境と領土の支配が政治紛争の焦点であることが発見できる。領土を拡大してナショナル・パワーを発揮したという心理的要求、もしくは他国に略奪された聖なる土地を取り戻したいという悲願が、ナショナリズムの勃興以降に起こった多くの戦争の原因となっている。……
ナポレオンは『ある国の地理を知れば、その国の外交政策がわかる』と述べたことがある。……
ヨーロッパの近代国家のオリジンはイタリアのヴェネチアに端を発する『海洋国家』にあり、この思想を海洋国家であったフランスが当時の国益と威信を左右するとして位置づけ、アジア太平洋に進出したことを忘れてはならない。
特に大航海時代から19世紀まで欧米においては、地球上には多くの白地図の個所が存在し、未知の大陸や北極や南極に至る地域などを求めて、多くの探検家達が輩出した時代であった。しかし、フランスはこの点に関して、他の西欧の列強に比べ遅れをとっていた。……
さらにこの航海の要因として考えられ点は、当時フランスでは、国王のみならず地理学者達の間においても日本が『金の産地』と受け止められていたことである。このニュースこそが、ラ・ペールズの北辺周辺以外の日本調査へかりたたせる大きな要因となったのである。
……
ルイ16世の命を受けて、ラ・ペールズはブルターニュ半島のブレスト港からブソール号とアストロラブ号の2隻の軍艦を率いてアジア・太平洋に向かって出港した。これぬ遅れをとったイギリスは、クックの死後10年後にウイリアム・ブロートンが探検家として名乗りを上げ、18世紀末のイギリス対フランスの対決が表面化するのである。
では国王であるルイ16世は、どのような対外戦略を基にラ・ペールズにアジア・太平洋の調査を計画させたのであろうか。
ルイ16世は計画書の中で、次の3つの要素に力点を置いた。なお、これは現代の異文化間の地政学研究を中心(nucleus)として国際戦略計画指針ともいえる。当時の欧米列強の間で繰り広げられていた国際関係の『競争原理』──海上のルートを発見し東方の文物がもたらされ、それを自国の国益に加えるいう原理──の角度から次の3点が強調された。
まず(1)各島々はもちろん、陸地の観察を行い、緯度経度の観測、水深の測定を行うこと。(2)次に『異文化間の地域研究』の視点から、到達した地域異文化の住人の生活・風俗習慣の観察記録、それに交渉を通しての貿易・交易の有無などを調査すること。また、(3)『日本周辺領域の国境と領土に関する調査』を行うこと。これについては、北海道(当時の蝦夷)と千島列島、ダッタン大陸などの地理的環境に関しての調査を執行することが命じられた。
一路太平洋からラングルへ
ラ・ペールズは1786年の1月にホーン岬を通過し、太平洋に向かった。1787年に朝鮮海峡から日本海に入り、その後、サハリンの西岸に沿って北上し、後の『間宮海峡』の狭部に進行した。しかし、サハリンが大陸から分離した島かどうかに関しては明らかにし得なかった。……
ところで当時の幕府は、欧米列強の北辺周辺への接近に対する脅威、すなわち、今日でいう間接的『外圧』によって、初めて北辺周辺に関する本格的調査を行うことになるのである。欧米列強によるサハリン発見探検が実を結ばなかったことは、当時の幕府には幸いしたといえる。ラ・ペールズにせよブロートンにせよ、ダッタン大陸とサハリン西岸の海域に沿って、北緯52度に接近を試みたが、目標地点に存在する海峡に関しては、ついに発見することができなかった。19世紀の初めに、ロシアの航海士であるクルーゼンシュテルンも北方から挑戦を試みたが、発見できず終いであった。秋月俊幸も、18世紀末から19世紀初頭にかけてこの水域では、ラー・ペールズ(仏)、W・R・ブロートン(英)、クルーゼンシュテルン(露)の3大航海者が測量を行い、その成果は1811年にクルーゼンシュテルンの『太平洋北西部地図』中に集大成された(ただし、高橋景保が銅板で刊行した『日本辺界略図』の方が日本本土、北海道、南千島の形状において優れており、サハリンは点線の部分において劣っていただけである)と述べている。その海峡の探索はその後、間宮林蔵と松田伝十郎によって引き継がれ『間宮海峡』と命名される。
……
ラ・ペールズの交渉パターンは、どこか、欧米というよりむしろ、すべてではないが、一般にアジア文化圏で共通し見うけられる低姿勢型交渉(……)パターンであり、それをもってサハリンの住民に接近したのである。対サハリン交渉が成功裡み終わったことは、記録が示す通である。
このセクションでは、交渉者としてのラ・ペールズと探検隊について取り扱ってみたいが、要約すれば、ラ・ペールズと探検隊一行は、これまでの欧米列強の水域・領土獲得を目標として冒険型探検隊とは違い、科学と観測技術を駆使する交易型交渉者・探検隊とも受け止めることができる。
最後に特筆したい点は、(1)ラ・ペールズ探検隊が残した日本近海図と日本北辺海図(6枚と2枚のスケッチ)は、世界地図の発展史に多大な貢献をしたこと。(2)ラ・ペールズは海図に『日本海』という名称を残した人物でもあり、『世界周航記』の付属地図帳の39図と46図に『日本海』という呼称(こしょう)が記載されたこと。(3)それに、探検隊の残した海図によって、宗谷海峡のみならず、間宮海峡、津軽海峡、それに朝鮮海峡という日本海の4つの出入口が科学的に検証されたことである。」
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世界大百科事典 第2版「ラ・ペルーズ」の解説
ラ・ペルーズ【Jean François de Galaup,comte de La Pérouse】
1741‐88
フランスの太平洋探検家。1756年海軍に入り,七年戦争に参加,76‐78年アメリカ独立革命に遠征した。85年ルイ16世に太平洋側からの北西航路の発見と太平洋調査を命ぜられ,フランスのブレスト港を出帆した。南アメリカ大陸を周航し,ハワイからアラスカまで北上後,北米沿岸をカリフォルニアまで南下し,ついで太平洋を横断して87年マカオに入った。再び北上して対馬海峡,日本海,間宮海峡まで行ったのち,ラ・ペルーズ海峡(宗谷海峡)を通過してカムチャツカに達した。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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ウィキペディア
ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー(Jean François de Galaup, comte de La Pérouse, 1741年8月23日 - 1788年?)は、フランスの海軍士官及び探検家。太平洋における遠征航海の指揮をとり、最後はオセアニアで消息を絶った。
東アジア
彼は100日かけて太平洋を横断した。途中で再びハワイの近海を通過し、北西ハワイ諸島中のネッカー島とフレンチフリゲート瀬を発見。アジアで最初に到達したのはマカオで、そこで彼はアラスカで手に入れた毛皮を売り、売上金を乗員との間で分配した。1787年4月9日、マニラに立ち寄って補給を行った後、アジア大陸北西岸を目指した。この航海で、彼は台湾島沖、済州島(過去ヨーロッパ人が訪れていたのは1635年にオランダ船が難破した際のみであった)沖を通過して日本海に達し、鬱陵島沖から方向を転じて能登岬沖に達し、その後、日本海を横断して朝鮮半島沿岸を上陸調査し、7月6日に奥蝦夷(現在の樺太、サハリン)に到着した。
日本とロシア
探検隊が目撃した三国丸。スパンカーは展帆されておらず、帆柱・桁も収納されている。
奥蝦夷の住民アイヌは、奥蝦夷、蝦夷(現在の北海道)とタタール沿岸(アジア大陸本土)の地図を書いて見せた。ラ・ペルーズは、樺太とアジア大陸の間の海峡(間宮海峡。タタール海峡とも呼ばれる)を調査するため海峡の手前まで北上したが、海峡の水深がきわめて浅いことを島民から聞きその通過を断念。進路を南へ変えて、8月に宗谷海峡(樺太と北海道の間の海峡。彼に因んで後にラ・ペルーズ海峡と名付けられた)を航海し、そこでアイヌ民族と出会い、千島列島を探検。最終的には、1787年9月7日、カムチャツカ半島のペトロパヴロフスクに到着した。ここで彼らは休息をとり、ロシア人とカムチャツカ半島人らの歓待を楽しんだ。彼は、パリからの手紙を受け取り、イギリスが植民しているニュー・サウス・ウェールズの調査を命じられた。探検隊には駐クロンシュタットのフランス副領事ジャン・バルテルミ・ド・レセップス(スエズ運河開発者フェルディナン・ド・レセップスの叔父)が通訳として探検に加わっていたが、彼はこの地で下船し、1年がかりでシベリアとロシアを横断して探検の記録をフランスへ持ち帰った。結果として、彼はラ・ペルーズ探検隊唯一の生還者となった。
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オーストラリア辞典
La Perouse, Jean-Francois de Galaup
ラ・ペルーズ、ジャン=フランソワ・ドゥ・ガーロウ
1741-1788
アルビ、フランス生まれ。
探検家、軍人(海軍)。
アーサー・フィリップの第1船団とほぼ同時期に、ボタニー湾に到着したフランス人探検家。
15歳で海軍に入り、1759年11月ベル島沖でのホーク提督との海戦で、フォーミダブル号に搭乗していたが、イギリス軍の捕虜となる。帰国後、その高い測量技術により再び海軍関係の仕事につき、その関心を海洋学に集中させていく。1775年4月に副船長、フランスのアメリカ独立戦争参加後の1780年には船長となった。彼が海軍指揮官として頭角をあらわす機会を得たのは、1782年8月のハドソン湾での対イギリス戦においてである。また、残された入植者のために、越冬用の武器食料を残しておくといった博愛精神も示した。
1783年、フランス政府はジェームズ・クックが果たせなかった探検事業を完遂するため、太平洋への遠征を決定した。遠征の対象は、16世紀以来の謎であったベーリング海峡である。その計画書は現在ルーアンの市図書館に保管されている。遠征指揮官に選ばれたのがラ・ペルーズであり、率いる2隻の船は、ブソール号 とアストロラブ号であった。
1785年8月1日、彼はブレストを出航してブラジルへ進み、ホーン岬を回り、中国で一時寄港、その後アラスカに向かった。ついでカリフォルニアまで沿岸を調査しつつ南進し、そこから西へ転じ太平洋を横断して、マカオとマニラに到着した。1787年4月10日には、キリスト教宣教師によって伝えられていた朝鮮半島の北部を調査し、さらにサハリンが島であることを発見。パリへの発見報告をレセップスに託す一方で、彼は南へ転じた。12月、かつてブーゲンヴィルが訪れたサモアで、水の補給を試みたが、現地住民の攻撃を突然受けて、ドラングルほか12人が殺害された。そのためラ・ペルーズは補給することなく出航し、ノーフォーク島とボタニー湾に到着する。1788年1月24日に陸地を発見していたが、悪天候のため2日間も湾に入ることはできなかった。すでにアーサー・フィリップの第1船団は到着しており、シリウス号に待機していたハンターがラ・ペルーズを手助けした。ラ・ペルーズがキャンプを設置したボタニー湾北岸には、彼にちなんだ地名がつけられている。6週間の滞在中、イギリス人と友好を保った後、3月10日に出航したが、それ以来消息が途絶えた。
1791年フランス政府は捜索のため、ドントラキャストウの指揮下に更なる遠征を企てたが無益に終わった。革命中に英仏関係が悪化したので、この悲劇の責任をイギリスに帰する噂がフランスで広まった。この謎の解明には、ラ・ペルーズ艦隊がバヌアツ付近で難破したことが、デュモン・デュルヴィルによって確認された1828年を待たねばならない。一方で、革命政府は航海記録『ラ・ペルーズの世界周遊記 1-4巻』(Paris,1797)を出版した。この記録の資料的価値は今でも健在である。英語翻訳も1798年から1799年にかけて刊行された。また、匿名パンフレット 『ラ・ペルーズ最後の探検』 (Quimper,1797)は、1788年の2月17日にボタニー湾で死亡した、遠征隊の研究家ルスブール師のものであろう。
松田真・藤川隆男0403
大阪大学大学院 文学研究科 藤川研究室
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フランスは、タイ王国を除いたインドシナ半島を植民地にし原住民を奴隷とするべく、善意で隣人愛信仰の布教活動を行っているキリスト教会に協力し、その影で悪意に満ちた侵略を進め、抵抗する反抗する先住民(ベトナム人・カンボジア人・ラオス人)を虐殺していた。
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鎖国下の日本には、南からフランスとカトリック・キリスト教会、北からはロシアとロシア正教会の軍事及び宗教の侵略が迫っていた。
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日本海の名称は、昔から「日本海」であり、韓国・北朝鮮や左派系日本人(親韓国派・親北朝鮮派)が主張するような「東海」ではなかった。
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江戸時代の日本は、欧米列強による地球規模の植民地競争に巻き込まれた。
徳川幕府は夷敵の侵略から神国日本を守る為に腐心していた為に、ロシアとの中間に住んでいた蝦夷地・北方領土、樺太、千島列島のアイヌ人など気に留めるゆとりはなかった。
宗教的白人至上主義のロシアにとって、国家を持たないアイヌ人など人間以下の野蛮人・獣にしぎなかった。
つまり、当時のアイヌ人の運命とは、日本に味方するか、ロシアに味方するか、日本とロシアの双方と戦って生き残るか、戦った全滅するか、の4択しかなく、第三者として中立の立場で日本とロシアの戦いをお気楽に傍観する事などは許されなかった。
それが、領土獲得競争という弱肉強食の世界であった。
日本とロシアからすればアイヌ人は完全な弱者で、双方から見て中間に住むアイヌ人は敵か味方かであった。
何れにしても、日本とロシアとの戦争は避けられない宿命であった。
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西洋の地理学的北東アジア認識では、日本人とロシア人は存在するがアイヌ人は存在せず、日本とロシアの間は国境が画定していなかったので無主の土地として「白地図」であった。
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アメリカ、ロシア、イギリス、フランスは、北米大陸西海岸と北太平洋航路を巡って国際競争を繰り広げていた。
鎖国下の日本は、欧米列強による植民地競争の渦の中に巻き込まれ始めていた。
その危機を最初に気付いて動いたのが、老中・田沼意次(在職 1772年~86年)であった。
アメリカ、ロシア、イギリス、フランスは、日本近海で日本が領土と宣言していない無主の島を自国領とするべく探検隊や捕鯨船・商船などを派遣していた。
そうした外敵=夷狄による祖国の存亡が迫っている事に危機感を抱いた水戸藩は皇国史観の攘夷論を唱え、日本全国の吉田松陰などの下級武士や近藤勇・土方歳三・渋沢栄一などの庶民の中で共鳴し愛国心に目覚めた日本人達は天皇と神国日本を守るべく尊皇・勤皇で立ち上がった。
つまり、攘夷論は正しかったのである。
日本は目覚めたが、清国(中国)や朝鮮は目覚めなかった。
日本の攘夷論と朝鮮の攘夷論は全然違う。
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近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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徳川幕府は、アイヌ人が住む蝦夷地、北方領土を日本の固有領土として統治し守っていた。
ロシアは、千島列島を南下していたが樺太には進出していなかった。
1785年 老中・田沼意次は、ロシアの侵略を警戒して蝦夷地探索隊を派遣した。
1789(寛政元)年 徳川幕府は、アイヌの蜂起クナシリ・メナシの戦いの背後にロシアが策謀していると疑い警戒した。
1792年 老中・松平定信の寛政日露交渉。水戸学による攘夷運動の始まり。
1806年 文化露寇。
1807年 徳川幕府は、東北諸藩に対して蝦夷地防衛の派兵を命じた。
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日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
日本の開国・幕末・明治維新・戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義・民族主義ではなく、正しい軍国主義・国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
徳川幕府の経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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ロシアの日本侵略は、ヨーロッパ戦争と連動していた。
1729年~1796年 ロシア女帝エカテリーナ2世(ドイツ人将軍の娘)。
ロシアの海外戦略は、1,ウクライナ、黒海、バルカン半島への領土拡大、2,。アラスカ・北米大陸の開拓、3,日本との交易であった。
1796年~1815年 ナポレオン戦争。
1812年 ナポレオンのモスクワ遠征。
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1689年 ネルチンスク条約。ロシア帝国と清王朝は、国境線を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(アムール川上流)を結ぶ線に定めます。
1858年アイグン条約。ロシアは、アムール川(中国名は黒竜江)以北のシベリアの地を強引に割譲させロシア領とした。
1860年 北京条約。ロシアは、アロー戦争に介入し英仏連合軍が北京を占領した所で講和を斡旋し、その見返りとしてウスリー川以東の沿海州を獲得し沿海州の南端の地にウラジオストクを建設した。
ロシアは、不当な手段で手に入れた領土は戦争に負けて奪われない限り返還する事はなかった。
ウラジオストクは冬でも凍らない不凍港で、日本海を南下して中国、朝鮮、日本への侵出を手に入れたが、目障りなのはウラジオストクにある樺太が日本の勢力圏にある事であった。
ロシアは、樺太を自国領にする為にロシア人の軍人や囚人を上陸させて、反日的先住民を味方につけ日本人や親日派アイヌ人に対する暴力事件を頻発させた。
明治8(1875)年 樺太・千島交換条約。明治新政府は、ロシアとの戦争を避ける為に樺太問題を解決すべくロシア領千島との交換条約を結んだ。
日本側の戦略的利点は、ロシア海軍をウラジオストクと樺太の日本海内に封じ込め、宗谷海峡・津軽海峡・対馬海峡を抑えてしまえば太平洋への航路を遮断する事ができた。
ロシアの対アジア政策とは、限られた軍団と艦隊による日本海支配であって、大軍団と大艦隊による日本侵略ではなかった。
日本海を手に入れる為に、陸軍は満州から遼東半島・朝鮮半島に軍事要塞都市を建設して防衛軍団を配備し、海軍は対馬と樺太を手に入れ旅順・対馬・ウラジオストクを軍港要塞都市として守備艦隊を配置する、であった。
1891(明治24)年 ロシアはシベリア鉄道敷設工事を始めた。
文久元年の農奴解放以来、ロシアの農村は余剰労働力を抱えていた。農民の不満の高まりは、ロシアにとって命取りになる。そこで、鉄道沿線のシベリアへ、農民の入植を促進するのが最大の目的であった。
日本は、シベリア鉄道は軍事目的と見なして警戒し、ロシアとの戦争に備えて軍国主義政策を採用し、強権を持って国民生活を犠牲にして軍拡を進めた。
イギリスは、上海・香港の中国利権をロシアから守る為に日本に接近した。
日露戦争は不可避となり、開戦のその時が刻々と迫っていた。
日本の戦争は、領土拡大の帝国主義的侵略戦争ではなく祖国防衛の民族主義的自衛戦争であった。
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