🏞92)─4─与力の収入の半分以上は「賄賂」だった。同心が得ていた「袖の下」。~No.382 

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 現代日本人は愛読する時代小説に洗脳されて、異常なまでに武士道を美化しすぎている。
 日本民族の歴史とは、名誉を重んずる武士・サムライの歴史ではなく名もなき身分が低い庶民の歴史であった。
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 2024年3月3日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「与力の収入の半分以上は「賄賂」だった!?  江戸時代に行われた「不正」知られざる驚愕の実態
 江戸時代で行われていた隠蔽工作とは(写真:かたつむり/PIXTA
 歴史上、最も平和だったと言われることも多い江戸時代。しかし、内情を詳しく掘り下げてみると、賄賂や隠蔽工作など、現代にも通ずる悪事を行う者もいました。その実態はどのようなものだったのか、歴史家の安藤優一郎氏が解説します。
 ※本稿は安藤氏の新著『江戸時代はアンダーグラウンド』より、一部抜粋・再構成のうえお届けします。
 【表で理解】町奉行与力・同心の主な仕事
■都市行政のエキスパートだった与力・同心
 江戸町奉行と並んで、時代劇の主役となることも多い町奉行所の与力と同心。実は、担当部署によってはかなりの役徳があった。南北両町奉行所にはおのおの、与力が25騎、同心が100人ずつ付属していた(延享2年(1745)に同心が20人ずつ増員)。
 与力の家禄は、150~200石。同心は30俵2人扶持である。その組屋敷は八丁堀に置かれたため、八丁堀の旦那という異称もあった。合わせて300人近くいた与力・同心は、他の幕府役人とは違って、事実上世襲である。
 親子代々にわたって与力・同心を務めたため、奉行所の職務に精通するエキスパートだった。かたや彼らのトップにあたる町奉行は、お裁きだけでなく都市行政全般、そして三奉行として寺社・勘定奉行とともに国政を担う立場であった。激務のあまり、在職中に死去する例も少なくない。
 そのため、都市行政に練達している与力・同心をうまく使いこなせないと、町奉行としての職責は果たせなかった。町奉行の代名詞となっている捕り物や吟味にしても、実際には配下の吟味方(ぎんみかた)与力があたった。
 奉行は訴状を読んで、どの与力に担当させるかを決めるだけで、お白洲でも与力が作成した判決文を申し渡すだけだった。町奉行所を動かしていたのは与力・同心なのである。
■「賄賂」が収入の半分以上を占めた与力も
 そんな町奉行所の実情を踏まえ、諸大名がとりわけ与力への付け届けを欠かさなかったことは、あまり知られていないかもしれない。
 一見、大名と町奉行所与力は何の関係もないようにみえるが、大勢の家臣を江戸藩邸に常駐させた大名側としては、家臣が江戸市中で何か問題を起こすことを非常に危惧していた。
 市中の評判となり表沙汰になると、大名の名前に傷が付くからだ。その時には、江戸市中の治安にあたる与力・同心の世話になる。大名の名前が表に出ず、一件が穏便に済むよう奔走してもらうため、前もって特定の与力に付け届けしておく必要があった。金品や国元の名産などを贈った。
 幕末の頃に与力を務めた佐久間長敬(おさひろ)によると、与力には、老中や若年寄からの付け届けまであったという(佐久間長敬『江戸町奉行事蹟問答』人物往来社)。幕閣を構成する老中・若年寄にしても大名である。家臣たちの不始末により、その名前が表に出ることを懸念したのだろう。
 南町奉行所の与力を務めた原家の天保11年(1840)の家計記録によれば、総収入121両余のうち諸大名などから得る収入は63両にも達し、収入の過半を占めた。
 この数字には付け届けの品を金銭に換算した分も含まれるが、原家は100家もの大名家から付け届けを受け取ったという(南和男『江戸の町奉行吉川弘文館)。
 要するに、大名たちは保険を掛けたのであり、それはいわば必要経費だった。かたや、市中の見廻りにあたる与力や同心からすると、まさに役得であった。
■訴訟の約7割は金銭をめぐる問題
 江戸時代は訴訟の多い時代であり、欧米顔負けの訴訟社会だった。大岡忠相(ただすけ)が町奉行を務めていた時代の訴訟件数は、なんと4万7731件にも達している(享保3年(1718)に町奉行所が取り扱った訴訟数)。
 その約7割を占めたのが、金公事(かねくじ)と呼ばれた金銭をめぐる訴訟である。4万件もの訴訟を、お白洲で一々裁いたわけではない。和解するよう当事者を勧奨するのが原則だ。その任にあたったのが、吟味方の与力だった。
 刑事にせよ、民事にせよ、町奉行所が取り扱った案件は、吟味方与力が対応した。その時与力は、貸金トラブルが訴訟に発展しないよう、調停役を担うことも多々あった。先の佐久間によれば、持ち込まれた訴訟には、徳川御三家や宮門跡(みやもんぜき)が貸主の案件もあった。
 宮門跡とは、皇族である法親王(ほっしんのう)が住職を務めた、最上級の格を誇った寺院のことである。御三家は言わずもがな、将軍職を継ぐ資格を持つ徳川家の親族で、大名のなかでは最上級の格を誇っていた。
 御三家や宮門跡が貸主の場合、幕府は債権を強力に保護していた。そのため、御三家や宮門跡の寺院からの要請を受けると、町奉行所は借り主に対して返済を強く督促している。御三家や宮門跡としては、町奉行所の威光をちらつかせることができたのは、きわめて有利だった。
 もちろん、与力はタダで動いたわけではない。貸金が無事に回収できると、貸主から手数料として、その1割を贈られた。ただし、その直後ではなく、時期を外した上で、それも時候見舞いという名目で贈られている。回収直後に謝礼として金銭を受け取ることは、さすがに与力も気が引けたのだろう。
 そのほか、大名が借財の返済を商人から迫られていた時には、双方の間を取り持って証文を書き替えさせることもみられた。返済期限の延期など、大名に有利な内容に改めさせたのだ。その際も謝礼を受け取ったのは、想像に難くない。
■同心が得ていた「袖の下」の中身
 大名が付け届けを送ったのは、何も与力だけではない。吟味方与力の配下であった同心も同様だ。しかも佐久間によれば、同心については袖の下を得る方法が、他にもあった。もっともそれは、以下の違法行為や問題行動を見逃す見返りとして、得られるものであった。
 ・犯罪者から袖の下を受け取って、その罪を見逃す
 ・遊廓で放蕩する者を取り調べることで、放免を願う親や主人から袖の下を受け取る
 ・外には知られたくない家庭内のトラブルに介入、解決のための周旋料を受け取る
 ・酒でトラブルを起こした武士から、内分に済ませるための謝礼を受け取る
 言うまでもなく、どれも職権を乱用した行為である。袖の下を受け取ることで、生活の足にしていた同心もいたわけだ。似たような仕事をしていた与力にしても、大差はなかったかもしれない。もちろん、不正が露見すれば処罰されるのは必至である。
 時候見舞いにかこつけて謝礼を受け取るなどして、与力・同心側も細心の注意を払っていた。依頼主の方も、与力に何事かを頼む場合は、相応の配慮をしていた。
■謝礼を送るのにも一工夫を施す
 八丁堀にあった与力の自宅を訪ねるのは人目もあるため、別の場所を設けて密かに面会している。恐らく料亭などが使われたのだろう。
 その際、飲食などの接待が付随したのは言うまでもない。謝礼を贈るのにも、一工夫を施している。
 現金ならば、「お菓子」などと箱書きした上で贈っていた。時代劇でよくみられるように、お菓子の下には山吹色が敷き詰められていたのだろう。
 「切手」を贈る場合もみられた。これは料理茶屋が発行する料理切手のことで、現在で言えば食事券のようなものだった。
 あるいは、1000両の価値がある土地の沽券(こけん)証文を500両に書き替え、その土地を購入してもらう方法もあった。差し引き500両の贈与に相当したことになる。
 このように、与力に依頼した事柄が吟味の対象になったとしても、賄賂とは認定されないよう細心の注意を払っていたのである。
 安藤 優一郎 :歴史家
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2024-01-28
⚔21)─3─戦国時代、人口の9割は“農民”!乱世に翻弄される「影の主役」の生活とは。乱取り。~No.92 
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 🌈19)─1─日本の道徳・規律・規範は天道様崇拝であって武士道精神ではない。〜No.37No.38 ② 
 日本の「お天道様」は、キリスト教の全知全能の神ではなく、儒教の天・天帝でもなく、ユダヤ教イスラム教の絶対神でもない。
 お天道様は、何となくの崇拝宗教であって律法・戒律の啓示宗教ではないので、信仰を契約して入信した信者・教徒はいない。
 日本民族は、お天道様崇拝者である。
 お天道様とは、天皇家の祖先神である女性神天照大神である。
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 トライイット
 ホーム社会中学社会中学歴史江戸時代武士による支配
 中学歴史
 身分別の人口の割合 幕末のごろ
 総人口約3,200万人
 百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
 江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
 一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
 その次に多いのが7%の 武士 です。
 3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
 町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
 そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
 公家・神官・僧侶、その他1.5%。
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 江戸時代は庶民の時代で、武士道は社会の片隅であった。
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 現代日本人が憧れ持て囃す武士道は、江戸時代後期、ロシアの軍事侵略危機までは存在しなかった。
 武士道は、明治時代の近代化によって、外敵の侵略から天皇・国・民族、宗教・文化を守る為に民族主義愛国心の中から生まれた。
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