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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の世襲とは差別の元で、家=役職・家業=家柄・地位・身分・家の格=資産・遺産・家屋敷=名誉を代々受け継いでいく事であった。
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日本の世襲制度は、江戸時代を境に、江戸時代以降と戦国時代まででは全然違う。
戦国時代以前でも、様々な形があって1つとは限らない。
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日本の世襲制度は、中国や朝鮮とは違い、西洋や中東などの世界とも違う。
日本の家とは争いがない緊張感・危機感がない島国ゆえに、鷹が鳶を生み、鳶が鷹を生む。
世界の家とは争いや競争がある大陸ゆえに、鷹が鷹を生み、鳶が鳶を生む。
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2022年7月4日 MicrosoftNews JBpress「大江広元や三善康信ら鎌倉幕府の文官たちはなぜ、京から下ってきたのか
© JBpress 提供 京都御所 承明門 写真/アフロ
(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
幕府の中枢部にいる「公事奉行人」
『鎌倉殿の13人』を観ているとわかるように、鎌倉幕府の中枢部には「文官」たちがいました。当時の言葉では「公事奉行人(くじぶぎょうにん)」と呼ぶのが正しいのですが、なじみのない言葉なので、ドラマではわかりやすく「文官」としています。
この人たちは、わかりやすくいえば事務方の役人です。もともとは、京都で朝廷に仕える役人でしたが、鎌倉に下ってきて、幕府に身を投じることになりました。
代表格としては、大江広元と三善康信がいますが、ドラマには中原親能(ちかよし)や二階堂行政も登場しています。実際は、他にもたくさんの文官(公事奉行人)たちが、幕府の実務を支えていました。
© JBpress 提供 大江広元
では、彼らはなぜ、わざわざ都を離れて鎌倉へ下ってきたのでしょう。三善康信などは、もともと頼朝の縁者だったので、平氏政権下では居心地が悪かったのかもしれません。ただ、理由はそれだけではなかったようです。
平安時代の貴族たちは、家ごとに職種がだいたい決まっていて、仕事のノウハウも、家ごとに親から子へと伝えられるのが普通でした。このシステムだと、大失敗をしたり陰謀に巻き込まれたりしないかぎりは、食い扶持は何とかなります。でも、書類を作る家に生まれた者は一生、書類を作って終わり。やりがいもないし、出世も見込めません。
ただ、役人の家に生まれた者のなかにも、頭がよくて向上心の強い人間はいます。彼らにとって、京での役人生活は窮屈に感じられたでしょう。そんな時に、頼朝が鎌倉に新しい組織を立ち上げたのです。もちろん、都から見れば当時の関東は、野蛮人の住む辺境の地です。頼朝が立ち上げた新政府だって、先行きどうなるかわかりませんから、生きて都に帰れる保証もないのです。
でも、先が見えきっている都での役人暮らしよりは、可能性も面白さも、やりがいもある。自分の才覚と努力と運次第で、新しい人生を切り開ける。そう思ったからこそ、彼らは鎌倉に行く決断をしたのでしょう。たとえていうなら、東京の大企業にいて万年係長で終わるより、地方のベンチャーに身を投じてみよう、みたいな感じです。
一方の鎌倉にも、彼ら文官の需要がありました。鎌倉に入った頼朝が新政府を立ち上げるためには、実務をこなせる事務官が必要だったからです。武士たちの所領を安堵(保証)するにしても、新しい所領を与えるにしても、証拠能力のある文書を出さなくてはなりません。所領をめぐる争いを裁くとなると、判決文が必要になります。
でも、当時の地方武士たちは、だいたい腕力自慢の脳筋タイプで、事務仕事なんかしたことがありません。多少の読み書きができたとしても、証拠能力のある公文書なんか、作れっこないのです。
そんな武士たちを率いていた頼朝にとって、京から下ってきた文官たちは、重宝な戦力でした。結果として、彼ら文官たちの中でも、実務能力が高く、知識が豊富で判断力に秀でた者たちは、頼朝の側近として幕府を支えることとなりました。
すなわち、大江広元・三善康信・中原親能・二階堂行政といったメンバーです。頼朝の起こしたアクションが一過性の叛乱で終わることなく、政権として続くようになったのは、彼ら文官たちの力によるところが大きかったのです。
※ 今からでも間に合う大河ドラマの参考書、拙著『オレたちの鎌倉殿』(主婦と生活社 1400円)。 考証の打合せでNHKに行くたびに、スタッフさんから『オレたちの鎌倉殿』愛読してます、と言われます(笑)。皆さんもドラマ鑑賞のお供にぜひ!
© JBpress 提供」
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江戸時代。正妻以外で側室・側女を持ったのは世襲の家・家系を絶やす事ができなかった、天皇・高級公家、将軍・大名、高級旗本・家老級の上級武士、豪商、その他のごく一部だけである。
側室・側女を持てない上級武士や旗本は、優秀な下級武士や御家人から養子をとって家を継がせた。
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日本の世襲制は、天皇家・皇室のみが血の世襲で、それ以外は家の世襲である。
家の世襲とは、血が繋がらなくても構わない世襲である。
その為に、庶民(百姓や町人)から武士身分になった金上がり侍が、格上の中級武家の養子に入りその家と財産を受け継ぐ事があった。
将軍家や大名家、家老職家・大目付職家など由緒ある上級武家などでは、格上の他家の養子はあったが、格下の家からの養子はなかった。
ただし才能があれば、金上がり侍でも一代限りの勝手方家老、勘定奉行、町奉行、郡奉行などの役職に就く事ができた。
だが、武士社会は嫉妬心が渦巻く最悪のブラック社会で、出世が望めない武士による成り上がり者に対する陰険な意地悪・いじめ・嫌がらせが横行し、油断し役職で失敗すれば引きずり下ろされ、全ての責任を押し付けられ御役御免の上に家禄没収(全財産没収)で領地追放を命じられ、最悪、上意で切腹を命じられた。
武士とは、死と隣り合わせに生きる者の事を言う。
武士というブラック社会の犠牲者が、下層な芸能の民・猿楽師の大久保長安であった。
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日本の世襲で守るべきは血筋ではなく家である為に、家を潰さない為には実の息子がバカであれば廃嫡し勘当し追放して、家を守り盛り立てる為に優れていれば血の繋がらない他人でも身分が低くても養子として迎えて跡取りとした。
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下賤の身から成り上がり者で有名なのが、天下人になった豊臣秀吉や徳川家康である。
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江戸時代までの上級職は、伝統的慣習として、その役職に相応しい家柄の者が就任した。
就任する資格のない家柄の者が、上級職に就任する事は飛び抜けた才能がない限りありえなかった。
如何に野心があり大金があっても家柄が違えば、上級職には就けなかった。
家・家柄の壁は絶対で、個人の能力・人格など関係なかった。
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相応しくない家柄の者が出世するには、出世魚のように就任するに相応しい家名に変えねばならなかった。
由緒ある家名は、勝手に名乗るはできず、主君の許可を得、名乗る家柄の者やその親戚筋までの承認が必要であった。
その為、如何なる功績をあげようとも、その賞賛は個人ではなく家に与えられ、歴史は個人の名前ではあく家の名前のみを後世に伝える。
大事なのは、個人ではなく家であった。
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古臭い家名支配を壊したのが、三好長慶と織田信長であった。
戦国大名であった斎藤道三や北条早雲らは、下剋上を行っても伝統文化であった家名支配を破壊する事なく利用した。
松永弾正久秀ら極少人数が家名支配に縛られず本姓を名乗り続けたが、最後は悲惨な末路を辿った。
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敗戦日本の自由・民主主義教育は、家より個を優先する為に、出世魚的に家名を変えて出世するという伝統的慣習の家名支配を破壊した。
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現代日本で大名跡襲名の家名支配が継承され続けているのが、歌舞伎、落語、相撲、工芸、各種家元家などの伝統的民族文化を重んじる古い体質の分野である。
日本に、数百年続く老舗が多いのはこの為である。
職種・役職・役柄は家・家名に付いている、それは世界の非常識である。
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