🏞92)─1─庭番(隠密、忍び、忍者)でも長崎奉行・勘定奉行・若年寄などに出世できた。~No.375No.376No.378 * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 忍者・忍びは、日本のみに存在する特殊な技能集団で、中華(中国・朝鮮)にはいなかった。
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・村垣範正…200石の御庭番‥外国奉行勘定奉行若年寄などを歴任した。遣米使節団の副使を務めた。
・川村修就…初代新潟奉行、堺奉行、大坂町奉行長崎奉行などを歴任した。
近藤重蔵…下級御家人。勘定方。
間宮林蔵常陸国筑波郡の百姓。
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 2018年1月20年号 週刊現代「アースダイバー 中沢新一
 東京下町篇
 第12回 深川芭蕉庵(3)
 芭蕉忍者説
 芭蕉多動症じみた旅への衝動については、別の説もささやかれている。芭蕉がじつは幕府の『お庭番』ないし『隠密』の職を密かに奉じていて、頻繁に地方へ旅に出かけたのは、俳句の宗匠のかっこうをして、こっそり各藩の内情を隠密調査をおこなうためだった、というのである。この説には、なかなか説得力ある、いくつもの根拠が挙げられている。
 江戸時代は今よりもずっと、地方へ旅行するのが難しかった。それなのに、芭蕉はお上から通行手形を入手するのが、不思議なくらい上手だった。
 ……
 滝口武士からお庭番まで
 江戸幕府に『お庭番』というものができたのは、三代将軍家光の時代だと言われている。戦国時代には多くの大名が、秘密裏に敵国の情報を入手するため、変装に巧みで、忍びの術の心得のある者たちを選んで、間諜(スパイ)として養成していた。
 戦国の時代が終わり、徳川家による一元支配が確立していく過程で、幕府は各藩の内情を探るべく、新しい強力な間諜のシステムをつくる必要を感じていた。その要請の中から、お庭番をはじめとする、各所の隠密の制度がこっそりとつくられた。
 この当時の権力中枢でおこなわれる情報伝達には、いくつもの階層性があった。公共政策に関わる情報の多くは、まず奥まった部屋などでの内密の会議で決められ、それが大広間に集められた諸氏の前で、公(おおやけ)に伝達される。これは人間の世界での、公的な言葉を通じておこなわれる伝達である。
 ところが、そういう公的な場所にあらわれてはこない(あらわれてもらっては困る)、情報の伝達というのもある。そういう情報は、表立った人間の世界に所属してはいけないものとして、人間の世界の外の、『自然』から、密かにもたらされる。伝達がおこなわれる場所は、人間世界が自然に触れあう、境界(エッジ)の空間でなければならない。お屋敷で言えば、『庭』がそれにあたる。
 その庭に密かに情報をもってあらわれる『お庭番』は、これまた人間と自然とのエッジに立つことのできる人たちでなければならない。この役に最適なのは、戦国時代にゲリラ戦法を発達させた『忍び』の末裔たちで、彼らは火遁(かとん)水遁(すいとん)の術に象徴されるように、自然と一体化する能力にたけていた。彼らは半分人間として、半分は自然に溶け込んでいた存在である。
 こういう江戸時代のお庭番には、もっと古い時代の原型がある。京都の宮廷の庭を警備する『滝口の武士』である。滝口とは滝の落ちる源の意味。滝口武者は、内裏の北東隅にあった。御溝水(みかわみず)という水の落ち口のあたりの警備を担当した。水路を伝わってなにが侵入してくるというのか。自然からの統御できない力が、人間世界に侵入してくるのを恐れて、宮廷人はそこを滝口武者に護らせた。芭蕉が深く尊敬した歌人西行法師が、もともと滝口武者であったという事実は、西行の旅から生まれた和歌の本質と、深いところでつながっている。
 大都会の滝口
 こうしてみると、芭蕉隠密説には、もっと別の意味も隠されているように思えてくる。芭蕉の言葉のお遊びであった俳句を、自然と直接触れあう、エッジの空間に連れ出したのである。そのエッジの空間で、人間の営為と自然の働きが渾然一体となったカオスの中から、美しい形を言葉によって取り出そうとした。
 そういう芭蕉を、言葉の世界の『お庭番』または『滝口武者』と呼ぶことができる。言葉の滝口武者は、人間世界にとっての自然につながる水路の落とし口に立って、そこから侵入してくる自然力を、全身で受け止めながら、それを俳句に転換して、人間世界に取り入れるという仕事に従事した。だから、芭蕉は、江戸という大都市の『滝口』である、下町深川に生活する必要があったのである」
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 ウィキペディア
 御庭番は、江戸時代の第8代将軍・徳川吉宗が設けた幕府の役職。将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密をさした。
 諜報活動といっても、実際には時々命令を受け、江戸市中の情報を将軍に報告したり、身分を隠して地方におもむき情勢を視察したりしていた程度だといわれている。その実態としては、大目付や目付を補う将軍直属の監察官に相当する職であることがうかがえるが、一般にはいわゆる間者や忍者の類だったとする御庭番像が広まっており、時代劇や時代小説などではそのような描写が数多くなされている。


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