⚔16)─5・A─小さな戦国領主・織田信長の軍事革命が150年続いた戦国時代を終わらせた。~No.65 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 明国は、火薬の原料である硝石を日本に輸出する事を禁止していた。
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 2022年6月7日 MicrosoftNews プレジデントオンライン「なぜ150年続いた戦国時代は終わったのか…尾張の小さな戦国大名織田信長が「天下人」になれた本当の理由
 © PRESIDENT Online 織田信長像(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons) 織田信長はなぜ「天下人」になれたのか。三重大学藤田達生教授は「鉄炮の登場が合戦を根底から変えてしまった。大量の鉄砲を揃えるほど有利になるが、そのためには大量の資金が必要になる。このため信長は鉄炮のために領土を拡大していった」という――。
 ※本稿は、藤田達生『戦国日本の軍事革命』(中公新書)の一部を再編集したものです。
 「新兵器・鉄炮」が戦国時代を終わらせた
 鉄炮伝来以前の戦国時代の一般武士は、戦争において武器を弓→槍→刀の順でおおむね使用した。対峙する両陣営は、戦端が切られて後、徐々に接近戦となってゆくが、一日中戦闘を続けることは困難だった。
 まず矢種に限界があり、馬上槍にしても太刀(たち)や打刀(うちがたな)(日本刀のこと、以下では刀と記す)にしても、必ず刃こぼれと曲がりや折れが発生するからである。
 いうまでもないが、これらの武器はいずれも消耗品であり、種類(大太刀や鎧(よろい)通しなど用途に応じて様々)も量もそれなりの予備を持参するのが普通であり、武装してそれを使用する人間の体力の消耗も激しかった。
 武士は、伝統的に騎馬で出陣する。木曽馬に代表される軍馬は、その育成に相当の手間暇がかかった。馬の種類や体躯は、持ち主の身分を表した。基本的に移動手段として利用したが、当然のことではあるが戦場で騎馬戦がおこなわれることもあった。
 その場合、人馬が一体となって戦うため、馬にも鎧(馬鎧)を着用させることがあった。去勢していない雄馬(おすうま)は獰猛で、戦場で敵の馬や武士を殺傷するほどの実力を発揮した。鉄炮戦が一般化すると、標的になりやすいこともあって騎馬戦は一気に下火になった。
 鉄炮が変えた合戦風景
 しかし、慶長年間になっても、戦場に騎馬は登場した。白兵戦の場合、よい敵を探すのに有利だったし、いち早く移動することができ、撤退も素早くおこなうことができたからである。
 ただし、この時代の武士は騎馬戦に有利な沓(くつ)(鐙(あぶみ)使用に適した革製の履物)よりも歩行戦に適した草鞋(わらじ)や、その半分の長さの足半(あしなか)を履いた。たとえば、信長クラスでも戦場において足半を腰にさげており、元亀四(一五七三)年の刀根山(とねやま)合戦では恩賞として兼松正吉(かねまつまさよし)にそれを与えている(『信長公記』)。
 元来、騎射や馬上槍は武士の嗜(たしな)みではあったが、必ず使用時に死角ができるので、それをカバーする従者の存在が不可欠だった。そもそも、戦場に武士は単独で参陣することはできなかった。
 馬の口取りをはじめとする歩行の雑兵が付いたし、その周囲を馬上の一族・郎党が護衛した。それに雑兵が率いた兵粮や飼葉(かいば)などを載せた駄馬(だば)が追随するのが、彼らの伝統的な出陣風景だった。
 なお、兵粮は基本的に持参である。敵地で稲薙(な)ぎ・麦薙ぎをして得ることもあったが、収穫前の稲や麦は実入りが悪かった。ましてや、乱取りによって敵方から調達するのはリスクが大きく、例外的だった。
 後の朝鮮出兵でもそうだったが、戦場でもっとも恐ろしいのは、兵粮が尽き飢餓(きが)に苛(さいな)まれることだった。戦争が長期化する戦国時代後半以降、戦場では市が立ち、商人が出入りするようになるのである。
 鉄炮もたらした軍事革命
 武士は、日頃から戦争のための修練が不可欠だった。馬術・弓術・槍術・剣術については、戦国時代までに大坪(おおつぼ)流・日置(へき)流・新当(しんとう)流などの代表的な諸流派が成立しており、師弟の間に免許皆伝が伝授・認可される印可(いんか)制度が存在した。
 戦国時代の新兵種として注目されたのが足軽以下の雑兵だった。彼らの得意とする武器は、長槍である。腕自慢・力自慢の若者が雇われて、最長で信長の長槍隊のように三間半(約七メートル)もの長大な槍をもち、横隊で叩くように振り下ろしながら前進するのである。
 それだけでも威力があったし、槍衾(やりぶすま)をつくれば騎馬部隊に十分対抗できたから、長槍隊の効果は絶大だった。諸大名は、槍の長さを競いつつ長槍隊の編成に心がけた。ただし、長大な長槍を使いこなすには足軽たちを専属で雇って訓練せねばならないため、それ相応の資本力がないと不可能だった。
 戦国時代前半の戦争は、規模こそ数千人規模へ拡大したが、軍備・兵粮さらには武士や足軽の体力に限界があり、何カ月にもわたる長期戦は不可能だった。しかも勝敗が偶然性に左右される側面もあったから、天下統一など想像もできなかった。
 ところが鉄炮の導入に端を発する軍事革命によって、このような限界は克服されることになった。戦国時代後半の戦場に注目しよう。科学兵器としての鉄炮がもたらした「勝てる戦争」の意義を問いたい。
 鉄炮はいつ日本に伝わったのか
 それでは、鉄炮はヨーロッパからいかに伝わったか。まずは鉄炮伝来に関する研究の新たな潮流を紹介する。
 明治時代以来の通説は、天文十二(一五四三)年に種子島へのポルトガル人漂着によって南蛮銃が伝来したとする「鉄炮記」(後述)にもとづくものだった。それに対して、鉄炮遺品や関係史料の分析によって、種子島への伝来は一事例に過ぎず、それ以前に、倭寇がマラッカなど東南アジアで使用されていた火縄銃を伝えたとする、宇田川武久氏の説が脚光を浴びた。
 これに加えて、倭寇(わこう)すなわち寧波(ニンポー)(浙江省東部にあった勘合貿易港湾都市)沖の舟山(しゅうざん)群島を拠点にした中国人密貿易商人のなかでも代表的な存在であった王直(おおちょく)(五峰(ごほう))が、自らのジャンク船(中国製の木造帆船)を使って天文十一年にポルトガル人を種子島に導いて鉄炮が伝来したとする、村井章介氏の説もある。
 これらの説からは、倭寇が介在した琉球や環日本海諸地域などへの鉄炮の多様な伝来のありかたが想起されるであろう。歴史的な出会いとみられてきた種子島への鉄炮伝来も、ワンオブゼムだった可能性が高まったのである。ここでは、初期の受容が海賊の拠点であった瀬戸内海でみられることを指摘しておきたい。
 通説よりも早く浸透していた可能性
 京都東福寺の僧侶が記した旅行記「梅霖守龍周防下向日記(ばいりんしゅりゅうすおうげこうにっき)」の天文十九年九月十九日条によると、同日の午刻(十二時頃)、備前日比島(岡山県玉野市)の付近を航行していた梅霖守龍一行の乗った船に海賊船が近づき、両船の間で交渉がおこなわれたが不調に終わり、戦いが始まったという。
 海賊が矢を射たのに対して、鉄炮で応戦したので、海賊側は多くの負傷者を出したことを記している。
 弓(最大射程三八〇メートル)に対して、格段に射程の長い鉄炮(最大射程五〇〇メートル)をはじめとする火器は、陸戦以上に海戦に有効な武器だったことを、この記事は物語っている。
 それにしても、この事例は天文年間(一五三二~一五五五年)に早くも西国社会で鉄炮が浸透していたことを暗示するものである。
 鉄炮を支えた「科学者たち」
 鉄炮国産化については、きわめて短時間で可能になったようだ。これについては製造地ごとに様々な背景があったと予想されるが、種子島と国友村に伝わる一般的な理解を示しておきたい。
 天文十二年(一五四三年。現在では天文十一年に修正されている)八月に、王直に従ったポルトガル人が乗船したジャンク船が種子島に漂着した。島主の種子島時尭(ときたか)は、彼らをもてなしたが、その折に彼らが携えた火縄銃の試射をみてその威力に感心した。
 自身も隣接する大隅(おおすみ)国の禰寝(ねじめ)氏との戦争で苦慮していた時尭は、二挺を買い求め、そのうち一挺を種子島の刀鍛冶に貸して複製することを命じた。
 よく知られた通説であるが、これは慶長十一(一六〇六)年に種子島久時が祖父時尭を顕彰するべく、大龍寺(臨済宗鹿児島市)を開山した南浦文之(なんぽぶんし)に執筆させた「鉄炮記」にもとづくものであり、信憑性という点ではいささか疑問符が付く史料である。
 担当した八板金兵衛は、高熱にも長期間の使用にも耐える銃身の製作は刀鍛冶の技術を投入して成功したが、銃底を塞ぐ尾栓(びせん)の加工に頭を悩ませた。ここを取り外せる構造は、銃身の清掃や不発弾の除去などのメンテナンスにおいて、必要不可欠だったからである。
 尾栓としての雄ネジと雌ネジの工夫については、娘若狭をポルトガル人に差し出して得たとする悲話を伴い、今に伝承されている。
 アジアで最初に実現した国産化
 種子島氏が購入したもう一挺は、島津氏を通じて将軍足利義晴に献上したという。義晴も、天文十三年二月に複製品の製作を国友村の善兵衛・藤九左衛門・兵衛四郎・助太夫ら四人の刀鍛冶に命じた。
 彼らも尾栓の技術に苦しんだが、わずか六カ月で二挺の鉄炮を製造して献上した。これは、奥書に寛永十(一六三三)年三月と記す「国友鉄炮記」(実際の成立は元禄五〔一六九二〕年以降とされている)によるものである。
 有名な由緒記にもとづいて紹介したが、これらはいずれも諸書の関係記事を適当につなぎ合わせたもので、信憑性は低いことが知られている。それでも、種子島といい国友村といい、わずかな期間で国産化したのは事実である。
 鉄炮は、それ以前にも中国や朝鮮に伝わっていたのであるが、国産化という点で日本はアジア諸国においても最速だったとされる。しかも高品質だったから、命中率が比較的高く信頼性も高かった。
 関与したのが刀鍛冶だったように、優れた日本刀の鍛造技術が活かされたといわれる。鉄炮の国内普及は、早くも永禄年間(一五五八~一五七〇年)には本格化した。
 量産、浸透の立役者…砲術師・鉄炮鍛冶・武器商人
 鉄炮の実戦への導入の背景としては、まず火器の取り扱い全般に長じた砲術師によって、鉄炮の扱い方や火薬の調合法が戦闘員(大名から足軽に至るまで)に広く浸透したことがあげられる。
 それには、稲富一夢(祐直(すけなお))のような廻国する揺籃(ようらん)期の砲術師たちの活躍が想定される。次に重要なのは、国産鉄炮の量産システムが完成したことである。
 これに関連するのが、製作者としての鉄炮鍛冶集団の成立である。その代表は、なんといっても堺と国友村であるが、紀伊国根来(和歌山県岩出市)や近江国日野(滋賀県蒲生郡日野町)の鉄炮鍛冶も有名である。
 さらに、武器商人の存在も欠かせない。鉄炮に必要な火薬(焔硝(えんしょう)に炭と硫黄を調合した黒色火薬)や玉の原料の鉛などを調達する武器商人は、領主と生産者たる鉄炮鍛冶とをつなぐ役目を果たす。
 なお、硝石(焔硝)であるが、当時は国内では得られず、産地の中国をはじめとするアジア諸国との貿易に依存していたから、かなり高価だったことも指摘しておきたい。
 たとえば、信長は上洛した翌年に撰銭(えりぜに)(商取引の際に、良貨を撰び、悪貨を拒否すること)に関する規定を発するが、金銀をもって売買する高級品のなかに「薬」すなわち火薬をあげている。
 戦国時代の国際貿易網
 硝石が国産化できた時期の詳細は不明であるが、一般的には江戸時代になってからとみられている。「煙硝」と記されるが、一向一揆の拠点越中五箇山富山県南砺市)で戦国末期から織豊期にかけて生産され始め、大坂本願寺一向一揆に供給したとする説もある。
 また鉄炮玉の原料である鉛も、安価な国内産もあるが、遺物を分析すると、その多くを国外に依存していたことがわかっている。硫黄が輸出するほど豊かだったことに比して、肝心の硝石や鉛の確保がネックになっていたのだ。
 いずれも、仲介人としては東アジアの武器商人と南欧(スペイン、ポルトガル)商人やイエズス会関係者などが想定され、彼らは今井宗久(そうきゅう)などの堺商人と結託し、信長のもとに集中するルートを形成していた。国際貿易を介して、日本の武器商人はアジア諸国からそれらを大量に輸入していたのである。
 たとえば、硝石の産地は中国の山東省や四川省だった。またタイ西部のソントー鉱山で産出された鉛は、要港である同国のアユタヤやマレー半島のパタニに集積され、これらが南欧商人によって日本に輸入されたというルートが、平尾良光氏によって指摘されている。
 織田信長の天下統一事業の背景にあるもの
 このように、鉄炮の量産・浸透システムは、砲術師 鉄炮鍛冶 武器商人(国際商人を含む)という三者間の緊密な関係が成立しなければ、誕生しなかったのである。
 「勝てる戦争」を保障した鉄炮であるが、高価な消費財そのものであり、その運用のためには常に資本の拡大すなわち領土の拡張と収奪の強化が必要不可欠だった。
 一度鉄炮の破壊力を知ると、たちまち数量をそろえたいという欲望に目覚め、必然的に高価な硝石を大量に確保したいという欲求に駆られるようになる。ここにこそ、抜け目のないイエズス会をはじめとする諸勢力が政治に付け入る隙が生まれる。
 信長の天下統一事業の背景には、勝ち続けるための飽くなき富の追求があった。巨大な財源の確保に向けて戦争が目的化し、継続してゆくことになる。

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 中世キリスト教会、イエズス会ら修道会、白人キリスト教商人らは、日本人をアフリカ人同様に売り買いして金儲けしていた。
 日本人の命は金で買えた。
 日本人を奴隷として外国に売ったのは売ったのは、貧しく身分が低い日本人であった。
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 西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷もしくは人間以下の家畜、自由に殺してかまわない獣であった。
 バチカンローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
 宣教師達は、日本人を救う為に布教活動を行い、多くの日本人をキリシタンに改宗させた。
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戦国日本の軍事革命 鉄炮が一変させた戦場と統治 (中公新書)
天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」 (中公新書)
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 一神教の信仰宗教であるキリスト教ユダヤ教イスラム教が生まれたのは、自然環境の変化が乏しい砂漠かわずかな水と農作物が作れる牧歌的な狭い土地である。
 水も緑もない荒涼として生物が住まない死の砂漠を旅をすると、突然、眼の前に水が湧くオアシスが現れ、人々が住む町や隊商(キャラバン)が集まる町や都市に行きつく。
 それら全てが、神の御意思、神の思し召し、神の計らいである。
 人は、大自然の中に神を感じ、大自然の偉大さに感動して宗教に目覚めるのではない。
 普遍宗教・啓示宗教・信仰宗教の神とは、唯一絶対の存在であり、万物創造の創り主であり、全知全能で万物を司る御一人であり、生と死を支配し怒りと愛で最後の審判を下す御方であり、父なる神である。
 神が為さる計らいを決して疑ってはいけない。
 自然災害や身の不運は、神に叛いた罪・大罪ゆえの天罰である。
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 日本列島では、一神教の信仰宗教であるキリスト教ユダヤ教イスラム教は通用しないし、天地創造の創り主たる絶対神による啓示、隣人愛、福音、奇蹟、恩寵も役には立たない。
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 日本神道の神輿・山車の原型は海原を移動する船であって、砂漠の上を輿として移動するユダヤ教の「契約の箱(アーク)」とは違う。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
 一説によると、ポルトガル商人による日本人奴隷の被害者は5万人以上。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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 日本人は、悪人、悪党、罪人である。
 故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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