⚔38)─2・A─戦国マネー・ウォーズと日本産銀。グローバルな経済・金融・交易を手に入れた大名が天下人。~No.164 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 鎌倉時代の日本は、黄金の島・ジパングであった。
 戦国時代・織豊時代・江戸時代初期の日本は、銀の王国・シルバーランドであった。
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 世界通貨は、銀貨であった。
 日本が輸出した銀の総量は、世界で流通している銀の3分1に達していた。
 オランダは、日本産銀を使って世界経済と国際金融をリードした。
 徳川家康治世の日本は、銀と武器でグローバル経済と深い繋がりを持ち、武士・サムライ=傭兵を主力商品とする事でアジア交易に強い影響力を持っていた。
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 9月30日 読売新聞「試写室
 歴史秘話ヒストリア NHK
 秘められた人間ドラマを中心に、最新の研究成果を交えて歴史を紹介する。今夜のテーマは『戦国マネー・ウォーズ』。天下統一を目指した豊臣秀吉織田信長徳川家康の三英傑が、どのような経済戦略で覇権を勝ち取ったかに迫る。
 信長が鉄砲をいち早く用いて大きな戦いに勝ったことは知られているが、信長が扱って弾丸には東南アジアから調達した鉛が使われていたことが近年の調査で明らかになった。また、秀吉の朝鮮出兵に当時の大国スペインのアジア進出が関係していたことや、欧州の新興国との連携が家康を大坂の陣の勝利に導いたことなども紹介される。
 3人の共通点は、経済戦略が外交と密接に関係していることだ。番組では、海外の研究家にも取材しており、多角的な考察には説得力があった。(笹島拓哉)」
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 NHK 歴史秘話ヒストリア「戦国マネー・ウォーズ」
 チャンネル[総合]
 2020年9月30日(水) 午後10:30~午後11:15(45分)
 ジャンルドキュメンタリー/教養>歴史・紀行
 ドキュメンタリー/教養>ドキュメンタリー全般
 ドキュメンタリー/教養>カルチャー・伝統文化
 番組内容天下取りもカネ次第?戦国日本で信長・秀吉・家康が繰り広げた“マネー・ウォーズ”に注目!大航海時代の世界を巻き込み、ヒートアップした覇権争い。壮絶な死闘の行方は?
 詳細天下統一のカギを握るのはマネーの力だった?群雄割拠の戦国時代に終止符を打った織田信長豊臣秀吉徳川家康。激動の世界と対峙(じ)した三人の英雄は経済とカネをめぐる仁義なき戦いに挑んだ!長篠の戦いで勝利した信長の秘策は東南アジアの鉱山にあり?秀吉が超大国スペインに仕掛けた策略とは?新興国オランダと手を結び大坂の陣を制した家康の壮大な経済構想とは?天下人たちの壮絶な死闘“マネー・ウォーズ”の正体に迫る
 出演者ほか【出演】前川泰之坂本真金田明夫,大橋典之,岡本拓真
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 ザテレビジョン
 歴史秘話ヒストリアドキュメンタリー/教養
 歴史秘話ヒストリア「戦国マネー・ウォーズ」
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 放送日:2020年9月30日 NHK総合
 約500年前の経済と金を巡る“戦国マネー・ウォーズ”を紹介。天下人となるためには、武力ではなく経済戦争で勝利する必要があり、織田信長豊臣秀吉ら戦国の英雄は、独自のマネー戦略を編み出した経済の達人でもあった。最新の発掘調査や海外で発見された新史料を基に“天下人たちの経済戦争”を探る。
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 ニッポン城めぐり
 歴史秘話ヒストリア「戦国マネー・ウォーズ」
 2020年09月30日22時30分
 歴史秘話ヒストリア「戦国マネー・ウォーズ」 - NHK
 天下取りもカネ次第?戦国日本で信長・秀吉・家康が繰り広げた“マネー・ウォーズ”に注目!大航海時代の世界を巻き込み、ヒートアップした覇権争い。壮絶な死闘の行方は?
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 詳細は公式サイトを参照願います。
 https://www4.nhk.or.jp/historia/x/2020-09-30/21/5424/1458444/
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 特集 時間を超えて再び輝く 石見銀山 - 島根県
 銀山をめぐる攻防
 仙ノ山から谷を隔てた北西側に要害山(標高414メートル)があります。山頂に山吹城が築かれ、銀山の争奪をめぐる激しい攻防戦が繰り広げられました。大内義興(よしおき)が銀山の基礎を築いた後、小笠原長隆、尼子(あまご)晴久、毛利元就(もとなり)など銀山の主が目まぐるしく交代しました。
 戦国時代、武将は軍事に予算をそそぎ込みました。石見銀山は戦国武将にどれほどの富をもたらしたのでしょう。毛利元就は、慶長4年(1599)銀の採掘や支配地で消費される酒や炭などさまざまな物に税を課し、年間約3万枚の銀を得ていました。現代の価格に換算すると、約83億円にも上ります。これはあくまで毛利氏が得た金額で、銀山全体が地域にもたらした富は不明ですが、膨大な額だったに違いありません。戦国武将が争奪戦に血眼になったのもうなずけます。
 海を渡った石見銀
 石見銀山に導入された灰吹法は、佐渡をはじめ生野銀山(兵庫)、半田銀山(福島)、院内(いんない)銀山(秋田)などにも拡大。石見銀山ではぐくまれた技術が各地に広まった結果、日本は世界有数の銀産出国となりました。
 一大銀産出国・日本の実態を物語る驚くべき試算があります。江戸初期の17世紀初め、日本から※6輸出された銀は年間約150~190トンに上るのです。当時、世界全体の銀の産出量は約600トン。照合すれば、日本銀が実に世界の銀の3分の1を占めていたのです。同時期の石見銀山の推定年間産出量は約40トンで、石見銀が日本の輸出銀のかなりの部分を占めていました。石見銀山は、今も残る「佐摩」の地名から戦国時代、佐摩銀山とも呼ばれていました。当時の外国の文献に登場する日本銀のうち「SOMA(ソーマ)銀」が石見銀とみられます。
 銀山の最盛期は、世界史でいう大航海時代に当たります。戦国時代後期の永禄11年(1568)、ポルトガル人の地図製作者ドラードが、インドで作った「日本図」に、石見をポルトガル語で「銀鉱山王国」と記しています。地図は、軍事と貿易の面からポルトガルの国家機密でした。石見銀山は、灰吹法の導入からわずか35年後に、その存在がヨーロッパに伝えられ、石見 銀をはじめとする日本の銀が大量に海外へ運ばれた様子を知ることができます。
 石見が引き金になった日本の銀生産は、単に国外に銀を流出させただけではありません。人々の往来により、海外から漆喰(しっくい)の技術や瓦の製法、算術など驚くほど多様な情報や文物が伝わり、江戸時代の庶民生活を豊かにしたのです。
石見銀山遺跡周辺図再び輝く日へ向けて
 島根県は、平成8年から地元市町とともに石見銀山世界遺産登録をめざす総合調査に取り組み、今春、教育委員会世界遺産登録推進室を設置。大田市石見銀山課を立ち上げました。仙ノ山の石銀や本谷などは、まだ一般の方々が訪れることは難しいですが、将来に向け多くの人々が足を運べるよう調査、整備していきます。国内はもとより海外の方々にも、往事の一大銀産出国・日本を築き上げた石見銀山の人と技術の素晴らしさが伝えられるよう、取り組みを進めていきます。
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 石見銀山の歴史 - しまねバーチャルミュージアム 石見銀山
 16世紀江戸時代以降
 16世紀に発見され、開発が進められた石見銀山。世界や国内にどのような影響を与え、またどのような軌跡をたどったのでしょうか。
 石見銀山はなぜ16世紀に開発されたのか
 16世紀に石見銀山の開発が始まった背景には、東アジアでの銀の需要の高まりがありました。
○中国の銀の需要
 当時中国(明)では北方から遊牧民が侵入してきたため、軍事金として銀の需要がありました。それまでは銅を貨幣としていましたが、海外に流出しすぎて国内では枯渇していました。そこで紙幣にしましたが、紙幣は信用がなく、やがてインフレが起きて紙くず同然となりました。そして役人は銀を貨幣とし、税も銀で納付することになったため、中国では銀の爆発的な需要が起こりました。
○日本では
 一方、日本の周防の国に大内氏という大名がいました。 大内氏は博多の商人と結び、中国と貿易を独占的に行っていました。 その商人の中に神谷寿禎という人物がいて、彼は中国で銀の需要があることを耳にしていました。
 当時、中国との貿易(日明貿易)では、銅が主要な輸出品でした。 寿禎はその銅を鷺銅山(島根県出雲市 出雲大社の近くの銅山)で購入するために日本海を航海していましたが、その途中はるか南の山が輝くのを見つけました。
 驚いた寿禎が船頭にたずねたところ、それは銀峯山(仙ノ山)という名で、かつて多くの銀が産出されたことを聞きました。そして寿禎は技術者を引き連れて、1526年に仙ノ山で銀鉱石の採掘を行いました。
 当初採掘された鉱石は博多あるいは朝鮮半島に送って製錬していました。しかしコストがかかるため、寿禎は1533年に宗丹・慶寿という2人の技術者を博多から招き、灰吹法という製錬方法を導入しました。 灰吹法の導入によって銀山の産銀量は大幅に増加し、やがてこの技術は佐渡や生野など各地の鉱山に伝えられ、日本の鉱山技術に一大変革をもたらしました。
 17世紀前半になると日本での銀生産は年間20万㎏にのぼり、世界の銀生産量の3分の1に相当しました。
 石見銀山と世界の関わり
 16世紀初め頃まで日本は銀の輸入国でしたが、灰吹法の導入後、銀の輸出国になりました。 一方ヨーロッパでは15世紀、コロンブスバスコ・ダ・ガマによる新大陸発見で大航海時代が始まり、ヨーロッパ諸国による海外進出が活発化していました。
ポルトガルのアジア進出
 ポルトガルは香辛料を求め東南アジアに進出し、さらに中国にも通商を求めましたが実現しませんでした。 そのためポルトガルは正式な貿易ではなく、中国南部の商人と密貿易を行いました。 彼らは中国・朝鮮・東南アジアなど、多民族からなる密貿易集団で「後期倭寇」と呼ばれました。後期倭寇は海賊行為も行う武装集団で、ポルトガルもそれに参加しました。
 やがてポルトガル人は、石見銀を始めとする日本銀のことを知り、1543年種子島に訪れ、日本に鉄砲を伝えます。
{鉄砲伝来
そのころ日本は戦国時代でした。戦場に鉄砲が取り入れられ、戦闘方法が大きく変わりました。}
○銀の世界的流通と日本銀
 ポルトガル人が種子島へ上陸してからは、ポルトガルのアジア貿易は日本銀を中心に三角貿易を展開するようになります。
 ①まず、中国で安い生糸を購入します。
 ②生糸を日本に持ち込んで、銀と交換します。
 ③日本の銀をもとに、中国産の絹織物や陶磁器、東南アジアの香辛料を買いつけます。
 ④それをヨーロッパに持ち帰り、大きな利益を得ました。
{南蛮文化の伝来
 16世紀から江戸時代にかけて制作された洛中洛外図には、京都の町なかや郊外の様子が描かれ、 その中には貿易のために日本にやってきたポルトガル人(南蛮人)の姿もあります。彼らによって持ち込まれた南蛮文化は現在でも日本で親しまれています。
(例) カステラ ジュバン ジョウロ バッテラ ガンモドキ コンペイトウ テンプラ オルガン カルタ カボチャ
これらの言葉は、元はポルトガル語が起源だったのです。}
 ヨーロッパで紹介された石見銀山
 1549年、イエズス会フランシスコ・ザビエルは日本にキリスト教を伝えました。 ザビエルはインドにいるロドリゲス神父に宛てた手紙の中で「カスチリア(スペイン)人は日本をプラタレアス群島(銀の島)と呼んでいます」と紹介しました。
 また、1595年にベルギーで作成された「テイセラ日本図」には石見銀山が表記されています。
 さらにイギリス商館長リチャードコックスの日記には「ソーマ銀」という日本銀についての記述がありますが、これはかつて石見銀山は邇摩郡佐摩村にあり「佐摩銀山」と呼ばれていたからだと考えられています。
 戦国時代の石見銀山
 石見銀山の開発が始まった頃の日本は各地の戦国大名が戦いを繰り返していた時代です。
 国内での銀流通が盛んになると、戦国大名は軍事金として銀を用いるようになり、石見銀山は周辺の戦国大名の標的となりました。
 銀山の採掘が行われた仙ノ山の真向かいに位置する要害山は、石見銀山を見張るには格好の場所であったため、ここに山吹城が築かれました。そして山吹城を舞台に争奪戦が行われ、銀山の領有はめまぐるしく変わりました。
初め周防国大内氏が銀山を支配していましたが、大内氏が滅びた後、出雲の尼子氏と安芸(広島)の毛利氏の取り合いになり、1562年毛利氏が銀山を手中におさめました。
 1590年豊臣秀吉が全国を統一してからは、毛利氏は豊臣氏の大名として中国地方を支配し、銀を豊臣氏へ納めました。
世界文化遺産 厳島神社
 毛利氏は、現在世界文化遺産で知られる厳島神社広島県)を信仰していたため、毛利氏の支配していた時代は厳島神社へ多くの石見銀が寄付されました。現在も奉納された銀の狛犬があります。}
 1600年の関ヶ原の戦い後、銀山は徳川家康支配下となります。
 江戸時代の石見銀山
○幕府による銀山の直轄化
 徳川家康は1603年に江戸に幕府を開き、全国の都市や鉱山、森林資源など重要な箇所を直轄地(天領)としました。 石見銀山も貨幣の原料を確保するために直轄地となり、他に佐渡や生野の鉱山もありました。 直轄地には奉行所(のちに代官所)を設け、幕府から派遣された奉行・代官が支配を行いました。
{勝源寺
 大森町内の勝源寺境内の裏山には東照宮があり、徳川家康から12代将軍までの位牌が安置されています。}
○初代奉行大久保長安
 石見銀山の初代奉行には大久保長安が任命され、銀山の支配にあたりました。 長安は個々の間歩経営を奉行所に直接管理させて新しい生産の仕組みを築きました。また最先端の技術を導入するなど積極的な政策によって、この江戸時代初期にシルバーラッシュがもたらされました。
○江戸時代の支配体制
 銀山は当初奉行によって支配されましたが、江戸幕府の機構改革に伴って、柘植伝兵衛の頃(1675~1682)からは代官支配に移行しました。
 一般の直轄地は代官とその部下の手附・手代という役人によって支配されますが、鉱山や山林など特別な業務を行う代官所ではそのことに詳しい者を役人に採用することができました。 その役人を地役人といいます。
 石見銀山代官所の地役人は、地元石見出身者の他、遠く大和・武蔵・甲斐などの出身者もいました。 これは初代奉行大久保長安が、他の支配する地域から優秀な人材を呼び寄せ、その人がそのまま定住したからです。
 また逆に、石見銀山の鉱山技術に精通した地役人は各地の鉱山(佐渡・足尾など)に派遣され、そこで開発や経営にたずさわりました。
○井戸平左衛門
 井戸平左衛門は享保16年(1731)に第19代大森代官となりました。翌享保17年(1732)は享保の大飢饉といわれる凶作にみまわれた年でした。 井戸平左衛門は飢えに苦しんだ領民を救うため、年貢を免除したり、自らの財産や裕福な農民から募ったお金を資金として米を購入しました。さらに幕府の許可を待たずに代官所米蔵を開いて飢えた人々に米を与えました。
 また、サツマイモの栽培は他の作物と比べて労力もいらず多収穫で肥料も少なくて済むことを知り、 当時薩摩国以外への持ち出しは禁止だった甘藷(サツマイモ)を、苦労していちはやく石見へ持ち帰りました。 このおかげで石見銀山領では餓死者がいなかったといわれます。
 井戸平左衛門は享保18年(1733)に亡くなり、代官勤務は1年8ヶ月とわずかな間でしたが、この地方では今に至るまで「いも代官」「芋どのさん」と呼ばれ慕われています。大森町には井戸平左衛門を祀った井戸神社があります。
○武士と商人
 江戸時代には、武士は城下町に住むことが義務付けられていましたが、大森には城がありませんでした。そのため地役人の多くは代官所の近くに住みました。大森の町は代官所の役人や熊谷家などの商人が結びついていました。
代官所
 代官所は政治をする場所と日常生活をする場所(風呂・トイレなど)が共存していました。 また「無名異(むみょうい)製法所」という薬をつくる場所もありました。}
 銀産量の推移
 江戸時代初期にピークを迎えた銀産量は次第に減少していきます。良鉱が乏しくなる一方、さらに良鉱を求めて深く掘り進みますが、排水など多くの経費もかかり、採算に合わない間歩は休山となりました。幕末頃の銀産量は年間約100貫(約375㎏)に満たない状況でした。
 近代の石見銀山
 明治維新後しばらくは江戸時代と同じ状況で経営が行われましたが、1873年「日本坑法」の施行で、近代的な法制度のもとで銀山の開発が行われるようになりました。
 1887年、大坂の藤田組が経営に着手し、1896年には当時20万円という巨額の資金を投入して清水谷製錬所を建設しましたが、成果が上がらずわずか1年で操業が停止されました。
 そして1923年に休山となりました。
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