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明治の日本人の関心は、如何にしてロシアの軍事侵略から神国日本・天皇・国家を守るか、と、科学的に自分と日本民族の祖先を知る事であった。
大正時代では、日本人の科学的関心はアインシュタインの「相対性理論」に移っていった。
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2023年12月25日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「明治期の日本人は進化論をどう受け止めたか? 政治思想にも影響を与えた「生存競争」の
日本では目新しい考えではなかったダーウィンの進化論ですが、「生存競争」の概念が日本の科学者に響いたのは、自分たちの生きる世界を反映しているように思えたからでした(asante photo/PIXTA)
コペルニクスやガリレイ、ニュートン、ダーウィン、アインシュタインといった科学者の名前は、誰もが知っている。そして近代科学は16世紀から18世紀までにヨーロッパで誕生し、19世紀の進化論や20世紀の宇宙物理学も、ヨーロッパだけで築かれたとされている。
しかし、科学技術史が専門のウォーリック大学准教授、ジェイムズ・ポスケット氏によれば、このストーリーは「でっち上げ」であり、近代科学の発展にはアメリカやアジア、アフリカなど、世界中の人々が著しい貢献を果たしたという。
【図解】地頭のいい人の特徴とは?
今回、日本語版が12月に刊行された『科学文明の起源』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする。
■エドワード・モースによる進化論講義
エドワード・モースは演壇に立ち、進化論に関する3回連続講義の1回目を始めた。
アメリカ合衆国から日本にやって来たのはわずか数カ月前、長い進化の歴史を持った海洋生物、腕足(わんそく)類の日本固有種を調べるためだった。しかしこのときには、東京大学で800人を超す聴衆を前に講演をすることになった。
1877年10月6日、その講義の冒頭で自然選択の原理を印象的に説明した。モースは聴衆に次のようなシナリオを思い浮かべるよう求めた。
もしもこの講堂の扉にしっかりと鍵をかけたら、聴衆の中で身体の弱い人はたった数日で死者のリストに挙げられてしまうだろう。健康な人は2週間か3週間で死ぬことだろう。
モースはしばし待って、いま言ったことを聴衆にかみしめてもらった。中には振り返って、講堂の後ろの扉がまだ開いていることを確かめる者もいた。真っ先に倒れそうな人を頭の中で思い浮かべる者もいた。
モースは話を続け、自然界もこの講堂のように「食料の不足した閉じられた空間」のようなものだと語った。そのような場面設定では、もっとも強い者だけが生き残って、自分の身体的特徴を後世に伝える。
「この状況が何年も続いたら、未来の人間は現在の人間とまったく違ってくるだろう。力が強くて凶暴なタイプの人間が生まれるだろう」とモースは締めくくった。
それから数週間にわたってモースは進化論に関する講義を続けた。2回目の講義では「生存競争」の概念をさらに突き詰めた。東京大学の聴衆が耳を傾ける中、「戦いで役に立つ形質を持った集団がもっぱら生き延びる」と唱えた。
また、適者生存においては技術的進歩が重要であると説明した。「当然ながら、金属製の武器を作れる集団は骨や矢で戦う集団を打ち負かす」。自然選択は「進んだ種族が生き延びて遅れた種族が滅びる」という原理にほかならない。
■戊辰戦争を経験した生物学者
このような軍事への喩えは、19世紀の進化論には付きものだった。
日本でもそのような話にはとりわけ説得力があった。この10年足らず前、日本人は激しい内戦に巻き込まれた。1868年に何人かの武士が同盟を結び、徳川幕府を転覆すべく戦いを始めた。
彼らは、将軍が日本の近代化を妨げていて、外国の軍事的圧力に対しても弱腰だと考えていた。武士たちは江戸まで進撃して幕府軍を倒し、若き明治天皇を皇位に就けた。こうして明治維新と呼ばれる改革が始まった。
東京大学でモースの講演を聴いていた聴衆の中に、この内戦をじかに経験した若き日本人生物学者がいた。その人、石川千代松は1861年に江戸で生まれた。
将軍に仕えていた父親は、日本古来の博物学や医学に関する著作を大量に集めていた。そのため少年時代に石川は、貝原益軒『大和本草』(1709~1715)などといった書物の多くを学んだ。
そうして博物学、とりわけ動物学に強く惹きつけられた。毎年夏には江戸湾沿岸でチョウやカニを採集した。
しかしそんなのどかな状況がいつまでも続くことはなかった。内戦が勃発して幕府方の人間が追われ、石川の一家も江戸から逃げ出さざるをえなくなった。
1870年代に戻ってきたときには、すでに将軍は退位して、江戸は東京と改称されていた。父親は幕府での地位を失ったが、それでも明治維新は石川に新たなチャンスをもたらした。
1877年に明治天皇が東京大学(旧制、のちに東京帝国大学と改称)の創設を認可した。理学部を備えた日本初の近代的な大学である。それに続いて新たな大学がいくつも作られ、1897年には京都帝国大学が、1907年には東北帝国大学が創設された。
明治維新の間に進められた近代化計画の一環で、そのほかにも全国に研究所や工場、鉄道や造船所が建設された。それとともに日本政府は外国の科学者や工学者を雇いはじめ、新たな教育機関の多くで教鞭を執らせた。
■ダーウィンの熱心な信奉者
それまでハーヴァード大学比較動物学博物館に勤めていたモースも、東京大学で生物学を教えるために招かれた一人だった。
1868年から1898年までに明治政府は、おもにイギリスやアメリカ合衆国、フランスやドイツから6000人を超す外国人専門家を雇い、日本で教えさせた。以前の時代からの大きな政策転換だった。徳川幕府は外国人の入国を厳しく制限していたのだ。
石川はそんな明治維新後の改革の恩恵をいち早く受けた一人だった。創設時の1877年に東京大学に入学し、モースに師事した。
毎年モースは石川たち学生を、横浜の南にある小島、江の島に連れていった。この島で石川は、水中から各種海洋生物を採取し、顕微鏡で観察して解剖するという、近代的な生物科学の基本的手法を身につけた。
モースはハーヴァード大学時代に『種の起源』を読んでいて、チャールズ・ダーウィンの熱心な信奉者でもあった。江の島旅行の最中には、長い時間をかけて学生たちに進化論の原理を説いた。
実はモースに東京大学で進化論の連続公開講義をおこなうよう勧めたのは、自然選択の概念に魅了された石川だった。また、モースの講義の内容をのちに日本語に翻訳して、『動物進化論』(1883)というタイトルで世に出したのも石川である。
東京大学を卒業した石川は1885年、ドイツ留学の道を選んだ。
このときすでに政府は、このまま外国人科学者を日本の大学に雇いつづけていたらあまりにも費用がかさみすぎると判断していた。
そこで文部省は、優秀な学生を海外留学させて進んだ科学教育を受けさせたらどうかと提案した。彼らが帰国したら、全国に新設された大学で教職に就かせるというもくろみである。
「先進国に人材を派遣して学ばせない限り、日本は進歩しない」と文部大臣は言い切った。このあといくつかの章で見ていくとおり、19世紀末から20世紀初頭にかけて大きな影響をおよぼした日本人科学者の多くは、外国、おもにイギリスやドイツ、アメリカ合衆国でしばらく学んでいた。
石川はその先駆けの一人で、1885年から1889年までフライベルク大学でドイツ人生物学者アウグスト・ヴァイスマンに師事した。
当時ヴァイスマンは「生殖質理論」を発展させている最中で、精子と卵子によってのみ伝えられる何らかの遺伝物質が存在するはずだと予想していた。
その主張によってヴァイスマンは、生きているうちに獲得した特徴が子孫に受け継がれるという、ダーウィンも支持した古い学説に異議を唱え、現代遺伝学の基礎を築いた。
■石川が見つけた細胞分裂の名残
そんなまさに重要な時期に石川はフライベルク大学で学んだ。ヴァイスマンと共同研究もおこない、ドイツを代表する学術誌に6本の共著論文を書いた。
うち一本の論文では、半透明の小さな海洋生物ミジンコの体内で生殖細胞が分裂する様子を観察した結果を報告している。
顕微鏡でミジンコを観察していたところ、卵子が分裂する際に、その端に2個の小さな黒い点が作られるのに気づいた。染色体の複製と細胞の分裂によって生殖細胞が作られる、「減数分裂」と呼ばれるプロセスを観察したのだ。
石川が見つけた黒い点は細胞分裂の名残だった。のちに「極体」と呼ばれるようになるその構造体は、ヴァイスマンの生殖質理論を裏付ける重要な証拠となる。精子と卵子が体細胞とは異なる細胞分裂によって作られるというヴァイスマンの主張が正しいことを示していたのだ。
石川は1889年に日本に帰国して、東京帝国大学で教職に就いた。それから何年にもわたって新たな世代の日本人生物学者を育て、その多くが進化論に重要な貢献を果たす。
ほかの多くの国と同じく、ダーウィン進化論は明治日本の近代化と密接に結びついていた。「生存競争」の概念は生物学者だけでなく政治思想家にも響いた。産業化と軍備増強の必要性を裏付けているとみなされたのだ。
東京大学でのモースの講義に出席した政治学者、加藤弘之(ひろゆき)は、1894年から1895年にかけての日清戦争の直前に次のように述べている。
「自然選択による生存競争は、動植物の世界に当てはまるだけでなく、人間の世界にも同じ切迫性を持って通用する。この宇宙は一つの広大な戦場である」
■日本の博物学者が受け入れていた考え方
ダーウィンの学説が人気を集めたのは、多くの日本人博物学者が以前から信じていた事柄を裏付けているように思えたためでもあった。石川も少年時代に日本の自然史に関する旧来の著作を通じて理解していた事柄だ。
17世紀の日本人博物学者、貝原益軒は、「すべての人間は両親のおかげで生まれたのだと言えるが、その起源をさらに掘り下げると、人間は生命の自然法則ゆえに誕生したことが明らかとなる」と記している。
ヨーロッパのキリスト教圏と違って、日本の博物学者は以前から、すべての生命が何らかの共通の起源を持つという、仏教にも神道にも見られる考え方を受け入れていたのだ。
モースもそのことに気づき、「祖国と違って神学的先入観に邪魔されずにダーウィン理論を説明できて幸いだった」と記している。
19世紀初頭の仏教哲学者、鎌田柳泓(りゅうおう)は独自の進化論まで編み出していた。
1822年、ダーウィンがわずか13歳のときに鎌田は、「すべての動植物は一つの種から分岐して多数の種になったに違いない」と書き記している。
このように日本では、進化論の基本的な考え方は目新しいものではなかった。しかしそのメカニズムは目新しかった。「生存競争」というダーウィンの概念は日本人生物学者の想像力をしっかりととらえたのだ。
丘(おか)浅次郎も石川千代松と似たような経歴を歩んだ。明治維新の年1868年に生まれ、大阪で新政府の官僚の息子として育った。
しかし幼少期は悲劇の連続だった。妹が着物の燃える悲惨な事故で命を落とし、翌年には両親も世を去ったのだ。一人残された丘は東京に移って親戚に育てられた。
石川と同じく東京帝国大学で動物学を学び、1891年に卒業した。そしてドイツへの留学生に選ばれ、同じくフライベルク大学でアウグスト・ヴァイスマンのもと研鑽を積んだ。
1897年に日本に帰国して、東京高等師範学校の教授となった。それから数十年にわたって、日本に進化論を広める中心的な役割を果たした。
東京高等師範学校での講義をもとにした著作『進化論講話』(1904)は売れに売れた。
また丘は自身でも進化論に数々の重要な貢献を果たした。
■丘によるコケムシの観察
丘の専門はコケムシの生態学だった。この奇妙な生物は高名なドイツ人生物学者エルンスト・ヘッケルによって研究されていて、丘もドイツ語でそれを学んだのだろう。植物と動物の境界線をあいまいにするような存在だった。
コケムシの個体は何千万もの単細胞生物の群体から構成されている。それらの細胞が集まると、植物そっくりの構造体を作りはじめる。
丘は東京のあちこちに出向いては自分の手でコケムシを採集した。水たまり脇の下草の中を探して小さなガラス瓶に標本を採り、研究室に持ち帰っては顕微鏡で観察した。
丘いわくコケムシは、自然界をさまざまな生物種に分けるという生物学者の方法が間違いであることを物語っている。「明確な境界線を引くのは不可能である」。
これはダーウィン『種の起源』の礎となった発想そのものだ。ある生物が別の生物に進化しうるとしたら、それを特定の生物種と表現することに何の意味があるだろう?
丘はこの考え方をさらに推し進めて、動物と植物など、自然界のもっとも基本的な区分すらももはや意味がないと論じた。
動物がときに植物のように、植物がときに動物のように振る舞う。「自然界に見られるものはすべて変化の連続である」と丘は結論づけている。
丘が著作『進化論講話』を世に出した1904年、日露戦争が勃発した。日本軍とロシア軍が朝鮮半島と満州の覇権をめぐって18カ月にわたり戦火を交えた。
20世紀で初となるこの近代戦で20万の命が失われた。最終的に日本が勝利したが、多くの日本人は戦争の意義に疑問を抱いていた。
丘は再びコケムシについて考えはじめた。コケムシは人間社会とかなり似たような振る舞いを見せ、個々の細胞が集結して一つの強力な軍隊として戦う。一つの群体の中では各細胞が資源を共有してともに働く。
丘はさらに、ピペットでシャーレに藻を入れてコケムシの群体に食べさせる実験もおこなった。群体のことを丘はしばしば「国家」と呼んだ。
「餌を摂取するとその栄養分は必ず均等に分配される」と丘は報告している。コケムシの個々の細胞は明らかに協力しあうことができるのだ。しかしその協力関係が争いを招くこともある。
丘は1つの容器に2つの群体を入れて同じ実験をおこなった。するとその2つの群体が戦い、最後には一方だけが生き残った。さらに群体の中には、毒で満たされた特別な細胞を送り出して敵を攻撃するものもあった。
化学兵器も進化的適応の一つであって、生存競争の必然的な産物であるように思われた。日本軍も、第一次世界大戦で塩素ガスが広く使われるのに先駆けて、日露戦争でヒ素化合物を使用した。
「その点で人間もほかの生物と少しも変わらない」と丘は結論づけた。恐ろしいことに、一見無害な生物学の概念が最悪の暴力行為を正当化するのに用いられかねないことを、この一件は物語っている。
■戦争と「生存競争」の概念
ダーウィンの学説が日本に入ってきたのは、1868年の明治維新に始まる歴史的な変化の時代だった。「生存競争」の概念が日本の科学者に響いたのは、自分たちの生きる世界を反映しているように思えたからだ。
1894年から1895年の日清戦争と1904年から1905年の日露戦争は、丘が「生と死の法則」と呼んだ原理を裏付けているように思われた。
丘いわく、人間も彼が研究室で調べたコケムシと何ら変わらず、集まって大きな集団を作り、野蛮な戦争に突入する。
この地域で日本の最大の宿敵だった中国において進化論に対する関心が高まったのも、それとほぼ同じような形で軍事対立をとらえていたためだった。
(翻訳:水谷淳)
ジェイムズ・ポスケット :ウォーリック大学准教授
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WEB青い弓
青弓社の連載読み物サイト
2009年4月28日 投稿者: 青弓社
ダーウィン生誕100周年の頃の日本――『天皇制と進化論』を書いて
右田裕規
今年はチャールズ・ダーウィンの生誕200周年にあたるという。彼の故郷イギリスの事情はわからないが、日本のメディアはダーウィンの特集をぼちぼち組み始めている。誕生月(11月)が近づくにしたがって、その企画や特集の数はさらに多くなるだろう。このたび青弓社から刊行した『天皇制と進化論』も、そういう流れに便乗できればと願っている。
それはともかく、今年が生誕200年ということは、1世紀前が生誕100周年である。和暦でいうと明治42年(1909年)になる。この1909年頃から、日本でのダーウィン人気は相当な高まりを見せた。マスコミがダーウィンの特集を組んだり、学界が記念行事を開いたり、ビーグル号と日本との関係にまつわる噂話で盛り上がったりと、やはりさまざまな企画で祝っている。昔も今も人間が考えることは変わらないと、そのようにもいえるだろうか。
とはいえ、100年という時間は長い。1909年の日本人が、ダーウィンやダーウィン進化論をどう受け止めたかは、当然ながら、2009年の日本人とは多少違っている。最大の違いは、進化論が「皇国史観」に反する「危険思想」として社会的に見なされていたという点である。天皇家や民族のルーツを神話の神々に求める「日本固有」の人類観を、真っ向から否定する科学理論。ダーウィン進化論は、そういう意味合いのもと、近代の日本社会に普及していった。
とくに1900年代(明治40年代)は、皇国史観と進化論の対立にまつわる「事件」があれこれと起こり始めた時期である。皇国史観の信奉者が進化論批判をさかんに繰り出し、進化論の参考書が発禁処分をくらい、左翼運動家たちが(進化論から見た)天皇家の「真のルーツ」を暴露する内容のビラをばらまく、というようなことが、この頃から次々と起こり始めていた。そのなかでどうして1909年(明治42年)のマスコミや学界はダーウィンの生誕100周年を盛大に祝うことができたのか、不思議に思われるくらいである。
『天皇制と進化論』では、それらの話も含めながら、皇国史観と進化論の対立の歴史を、当時の支配層の目線から追った。彼らは、進化論と皇国史観の対立という問題をどのようにとらえ、どのように処理していったのか。この点を歴史的に追跡した中身になっている。端的にいうと、それは混乱の歴史である。生誕100周年と200周年の間の日本では、皇国史観とダーウィン進化論の対立をめぐって、実にさまざまな政治的ハプニングが生じていく。たとえば「現人神」がアマチュア生物学者としての道を進み、しかもそのことが社会的にも周知の事実になっているという、昭和初期に起こった不可解な事態もまた、その一つである。そういうハプニングの記録を集めた本として、ご一読いただければと思う。
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ダーウィン、仏教、神: 近代日本の進化論と宗教
クリントン・ゴダール
人文書院, 2020 - 406 ページ
明治の幕開けとともにもたらされたダーウィンの進化論。これまでの研究では、日本人は進化論を抵抗なく受け入れたとされてきた。しかしそれは全くの神話である。その受容の歴史には、仏教、神道、キリスト教、哲学、マルクス主義、国体論などあらゆる思想やイデオロギーとの衝突や交渉がみられた。本書は明治から現代まで幅広い言説を博捜し、近代日本の思想を進化論への反応を軸にダイナミックに描き出す。
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WEBVoice 「日本人の先祖は本当に「朝鮮半島や中国」からやってきたのか?
2020年06月25日 公開
2022年06月13日 更新
海部陽介(人類進化学者)
古代の日本人は、陸続きだった大陸から歩いてやってきたのではなく、何らかの手段で海を越え、日本列島へたどり着いたーーもしこれが事実であれば、当時の人たちの知識や技術で航海が可能だったのか?
その謎に挑むべく命がけの実験航海実験を敢行した東京大学総合研究博物館教授の海部陽介氏。クラウドファンディングで計6000万円もの資金を調達し、実現した「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」を通して見えてきた日本人誕生の物語と「祖先たちの本当の姿」を著書『サピエンス日本上陸』にて詳述している。
本稿では海部氏がプロジェクトを通して見た「日本人の実像」について聞いた(聞き手:『Voice』編集部)。
本稿は月刊誌『Voice』2020年7月号、海部陽介氏の「挑戦心は人類の根本的要素」より一部抜粋・編集したものです。
海を渡ってきた人類を再現する
――3万年前の人類の大航海を徹底調査し、人類学者自らが日本上陸を再現。その全貌が描かれた『サピエンス日本上陸』が話題になっています。人類がいかにして日本へと辿り着いたのかについて、疑問をもったきっかけは何ですか。
【海部】多くの化石が眠る沖縄は、人類学者の聖地です。私も沖縄で人骨を採掘し、調査していました。あるとき、「そもそも、この骨の人たちはどうやってこの島に来たのだろうか」という根本的な疑問が湧いてきました。
世界史の教科書には、アフリカやヨーロッパに住むネアンデルタール人やクロマニョン人のことが載っています。でも、その時期に日本に誰がいたかは知られていない。ヨーロッパから人類学の知識を輸入して伝えているだけで、自分たちの手で日本の歴史を検証していなかったともいえます。
そこで、日本列島で人類がどのような歴史を織りなしてきたのかを調査しようと決めました。
――過去にそのような研究は進んでいなかったのでしょうか。
【海部】研究自体はされていましたが、「最初の日本列島人は大陸から徒歩ではなく、海を越えてやってきた」という事実とその重要性は見過ごされていました。日本列島がまさか人類史の大きな挑戦の舞台のひとつだったなんて、想像していなかった。
ある時期を境に、長いあいだ海を越えられなかった人類がオーストラリアに舟で渡ったという事実は世界で知られています。じつは日本でも、3万八千年前にそういった展開が起こっていたわけです。
コンパスやGPSが無くとも自然のサインを読み解いて生き抜いた
――今回のプロジェクトでは、台湾ルートから上陸をめざしましたね。
【海部】大陸から日本列島に入るには、朝鮮半島、北海道、台湾の3つのルートがありますが、渡航の難易度がもっとも高いのは台湾―沖縄(与那国島)ルートです。
台湾と沖縄の境には黒潮が流れていて操船が困難なうえ、島は水平線の先にあるため船上からはみえません。命の保障もないのに、安全な地を離れてみえない島をめざす。当時の人にとっては、とてつもない冒険だったといえるでしょう。
台湾―沖縄間の航海の難しさは、地図を見ればある程度想像はつくものの、そこで研究を終わりにしたくなかった。人類はどんな舟できたのか、航海はどれだけ大変だったのかを確かめてみたかったのです。
――当時の舟に使われた「素材」の検証から始められていますね。
【海部】旧石器時代の遺跡に当時の舟は残っていませんが、さまざまな根拠から草、竹、丸木のどれかだろうと候補を絞りました。3万年前の最初の日本列島人は、そのどれかの舟で海を渡ったはずです。
そこで、それぞれの舟を試すことにしました。始めてみて、「海に出るためには、まず山に行かなければならない」と気づきました。現在のように波止場に行けば舟があるわけでないので、まず山で材料を調達するところから始まるわけです。
竹筏(たけいかだ)舟を造るときも、竹であればどれでもいいと思っていましたが、お世話になった台湾の長老から「何歳の竹じゃなければダメだ」と教わりました。どの素材が舟を造るのに一番適しているのか、人類は経験から知識を蓄えたのでしょう。
また舟の上では、星の位置や波・風の流れをみて、方向を確認します。ひとつの教えられたセオリーに則ればいいのではなく、その場その場で変わる状況に合わせて、どのサインを使うかを選択していく。
先人たちはコンパスやGPSがなくても、自然のなかにあるサインを読みとって立派に生き抜くことができた。こんなにも高度な能力をわれわれの先祖はもっていたのです。
過去の人類を見下しても、美化してもいけない
――人類は技術を発達させ生きてきましたが、自然を利用して生きる力は次第に失われているのかもしれません。それでも私たちは進化しているといえるでしょうか。
【海部】要は「適応」です。よく人びとは遠い先祖に2つのイメージを抱きます。ひとつには「石器しかもっていない可哀そうな人たち」と見下してしまうか、「昔の人たちは心が美しくて、現代の人は堕落している」と崇めてしまうかのどちらかです。
でも、いずれも誤りだと思います。ただ生まれてきた時代が違って、見るものや経験するものが異なっているだけで、結局、人間の中身は変わっていない。言い換えれば、人類は状況に合わせて変化ができる生き物なわけです。
それを可能にするのは、どれだけ「強い気持ち」をもっているかにかかっています。
――「強い気持ち」ですか。
【海部】新型コロナ禍に対しても、働き方やライフスタイルの変化を迫られれば、順応できるのが人間です。9月入学も、「マイナス点があるからできない」ではなく、「マイナス点はあるが全部潰して、絶対に実現しよう」と本気になれば、私たちにできないはずがありません。
――なぜかつての人類には、危険を省みず未踏の島をめざそうという気持ちが芽生えたのでしょうか。
【海部】やはり「新しい世界をみてみたい」という好奇心が彼らを突き動かしたのでしょう。
台湾から沖縄への渡航は、無理矢理追い出されたとか、そこに行かざるを得なかったという理由で行くようなルートとはとても思えない。
大陸から逃げたかったのなら、わざわざ舟を造らず、陸続きのどこかに行けばいいだけです。旧石器時代の彼らは、よほど挑戦してみたかったのでしょうね。
私はそんな先祖に対し、テクノロジーを進歩させる現在の人類の姿をみます。空を飛ぼうと飛行機をつくったり、酸素もない宇宙に行ってみたり、新しいことに挑戦して社会をどんどん変えていく。その気持ちは3万年前から始まっていました。
――人間には、未知のものを明かしたいという「DNA」が刻み込まれているのかもしれません。そうした力は「神様が人類に授けたのでは?」とすら感じてしまいます。
【海部】「好奇心や挑戦心は人間らしさの根本的要素」という意味では、そうなのかもしれません。子孫を残し続けるという行為のなかで、未知のものを解明する必要はないし、芸術や音楽も生物学的には要りません。
しかし、人間だけが"生存に不必要なこと"に熱中する能力を授けられている。こういった本能は、人類が未知の島をめざしたことにも繋がっていると感じるのです。
日本人が本当に「保守的」だったら海を越えるようなことはしない
――航海に挑戦するなかで、海を渡ってきた日本人特有の性質を垣間みることはありましたか。
【海部】凄い祖先たちがいたという実感はありますが、当時の世界で彼らだけが凄かったというつもりはありません。また、生まれ育ちが人格や信条を形成するといいますが、国民性とは、時代がつくり上げたイメージという面があります。
たとえば、「日本人は保守的だ」というイメージがありますが、私は違和感を覚えますね。本当に保守的だったら、私たちの先祖は海を越えて島を開拓したりしません。
時代と社会によって意識は変わっていくものだと思いますが、国民性があたかも永久不滅だと思い込んでいる。私はその固定概念を壊したい。人間は変わられると考えているからです。
――どの時代に遡るかで、日本人の定義も変わるでしょうからね。
【海部】日本人の先祖が、現代の中国や朝鮮半島からやってきた事実を、不愉快に思う方もいるようです。
しかし、人類の起源を遡れば、すべてがアフリカに行き着く。争いは動物界の常であり、人間においても対立のない世界を実現するのは困難だとは思います。
しかし、われわれは他の動物たちとは違って、「同じ先祖をもつ仲間」という事実を認識することができる。そのうえで異なる国の価値観やアイデアを「多様性」として認め合った先に、革新的な価値が生まれるのではないでしょうか。
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カラパイア
アメリカ人がようやく進化論を信じ始めた。過去10年で増加し過半数に達する
2021年08月31日 ι コメント(120) ι 人類 ι 歴史・文化 ι #
アメリカ人がようやく進化論を認め始めた。過去10年間で信じる人が過半数に達する
「進化論」とは、生物は長い時間をかけて通して進化したことを説明する理論で、共通祖先から自然選択というプロセスを通して行われるというチャールズ・ダーウィンの進化論が有名だ。
日本人の多くがこの理論を当たり前のように学んでいるが、キリスト教信者が多い米国では、創造主なる神によって天地万物の全てが創造されたという「創造論」が社会の基礎になっていた。
だがようやくアメリカでも、ここ10年の間で、過半数の人が進化論を信じるようになったそうだ。 『Public Understanding of Science』に掲載された研究によると、どうやらその要因は教育や若い世代の宗教離れにあるようだ。それでもまだ過半数だが。
ここ10年で進化論を信じるアメリカ人が過半数を超える
意外なことかもしれないが、世界トップレベルの先進国で、科学技術が発達したアメリカでは、進化論を信じている人が案外少ない。
「現在の人類は大昔の動物から発達した存在である。」
こう質問された日本人ならば、おそらく「はい」と答えるのではないだろうか? しかしアメリカで1985年から2010年までに行われた調査では、「はい」と答えたのは40%程度でしかなかった。つまり過半数にも満たなかったのである。
しかし米ミシガン大学をはじめとするグループの調査では、2016年にはその割合が54%となり、ついに過半数を超えたことが明らかになっている。
その要因はいったい何なのか?3つの観点が考えられるという。
1.教育の質の変化
同グループによれば、こうした変化には教育が重要な役割を果たしているという。過去30年間の回答者を調べてみたところ、大学で科学の単位を取得したかどうかが、進化論を信じるかどうかと関連していたからだ。
たとえば2018年に大学の学位を持っているアメリカ人は、1988年当時に比べてほぼ2倍に増えている。また科学的リテラシーを持つアメリカ人成人の割合は、1988年の11%から2019年の31%にまで増えた。
この傾向は教育にも波及する。神が世界を創ったと説く創造論を教える教師のかわりに、進化論を教える教師が増えれば、それだけ生徒が進化論に触れる機会も増えるだろう。
これはかなりの進歩である。米国史において、学校で進化論を教えることを禁じる法律(バトラー法など)が存在していたのだから。
だが教育の影響だけではなさそうだ。高い教育を受けていても、敬虔なクリスチャンと呼ばれる人たちは今でも真剣に創造論を口にする。
2.共和党の支持者に多い原理主義者
2019年の時点で、民主党の支持者では83%が進化論を信じていたのに対して、キリスト教福音主義的な政策をとる共和党の支持者では34%でしかないことが明らかになっている。
これほど大きな隔たりがある理由は、政治的イデオロギーというよりも、むしろ共和党の支持者に見られる原理主義的な信仰であると考えられるのだという。
アメリカ成人のおよそ30%が進化論を直接否定するような信仰を持っているが、これは今回の調査で進化論を信じないと答えた保守的な共和党支持者の割合と同じだ。
それでも研究グループは、教育も進化論を受け入れるかどうかを左右する要因であると考えている。
実際、1988年当時、宗教的原理主義者で進化論を受け入れていたのはわずか8%のみだったが、2019年ではおよそ3分の1にも増えていたのだ。
3.若者の宗教離れ
アメリカでは、若い世代を中心に宗教離れが進んでいるという。2014年に行われたピュー・リサーチ・センターの世論調査によると、約5600万人の市民が無神論者か無宗教と回答した。2007年の同調査と比べると約3倍に増えたことになる。
さらに2014年調査によると「進化論を信じる」と「どちらかと言えば進化論を信じたい」を合わせると、30歳以下の割合が約70%だったそうだ。
明確に進化論を信じるというわけではなく、「信じたい」という曖昧な表現なのは、神の概念を否定することを避けるためと考えられる。
21世紀にいたっても、アメリカでは神は穢すことのできない聖域なのだ。
先進国の中ではまだまだ低い水準
進化論を信じるアメリカ人が増えているとはいえ、進化論が圧倒的に有利というわけではない。先進国の中ではまだまだ低い水準だ。
昨年アメリカのシンクタンク、ピュー研究所が世界各国で行った調査では、進化論を信じるアメリカ人は64%と、今回の結果よりもやや高い割合だった。
それでも日本(88%)、スウェーデン(85%)、ドイツ(81%)、フランス(81%)といった国に比べればまだ低い。
Google、Apple、マイクロソフト、Facebookといったハイテク企業が生まれた国の意外な側面と言えるかもしれない。
だが現在、進化論を教えることを禁じる法律は徐々に廃止に追い込まれており、世代が変わるごとに進化論を信じる人は増えていくことになるかもしれない。
とは言え、敬虔な教会に通えば今も熱心に、神による人間の創造にまつわる話が語られている。
References:Public acceptance of evolution in the United States, 1985–2020 - Jon D. Miller, Eugenie C. Scott, Mark S. Ackerman, Belen Laspra, Glenn Branch, Carmelo Polino, Jordan S. Huffaker, 2021 / Study: Evolution now accepted by majority of | EurekAlert! / written by hiroching / edited by parumo
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