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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
江戸時代後期から明治にかけての日本は、清国(中国)や朝鮮とは違っていた。
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近代以前の日本に来ていた西洋人は、江戸幕府や明治政府下の日本を目の当たりにして「生まれ変わるのなら日本人になりたい」と想っていた。
現代の日本人神話・日本人観は、戦後の平和憲法下の日本人ではなく江戸時代後期・明治期の日本人であった。
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当時の日本人を、西洋人は敬意と脅威で見ていたが、中国人や朝鮮人は偏見と差別と軽蔑で見下していた。
日本と中国・朝鮮の間には、友好・善隣あど存在しなかった。
当時の日本人は、西洋の宗教侵略と軍事侵略から神国日本の天皇・国土・民族を暴力で守る為に、密かに中国・朝鮮と東洋攻守軍事同盟を築こうとしてた。
日本を守ったのは、軍国主義政策による軍事力であった。
学校で教えられているマルクス主義史観やキリスト教史観などの外来の反天皇反民族反宗教反日史観による歴史教育は、間違っている。
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2023年5月10日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「明治期の日本は「質素と正直の黄金時代」だった…アメリカ外交官が「すでに日本人は幸福である」と評したワケ
武田 邦彦
© PRESIDENT Online
明治以前の日本はどんな国だったのか。工学者の武田邦彦さんは「当時の日本人は道徳心と倫理観が非常に高く、西洋人が驚くほどだった。現在の日本人が幸福でないとすれば、それは西洋の社会システムに無反省に倣いすぎたためかもしれない」という――。
※本稿は、武田邦彦『かけがえのない国』(MdN)の一部を再編集したものです。
西洋の人々が驚いた日本人の道徳心
江戸時代の末期、日本を新たなマーケットあるいは研究対象として考える西洋人が大勢来日しました。それぞれに手記や研究記録を残していますが、その多くに共通するのは、「日本人の道徳心の高さに驚いている」、ということです。
たとえば、外国人に対して川の渡し賃を吹っ掛けることがない日本人の正直さに驚くなどしています。
江戸時代、幕府の本拠地・江戸を防衛するために意図的に、国境を形成する川には橋をかけない政策がとられていました。川は渡し船を使って渡る以外にありません。
中国(当時は清王朝)では、何事も外国人は桁が違うほどの料金を吹っ掛けられるのが普通でした。西洋人はそれを覚悟して渡し船に乗るわけですが、日本では相場の料金しか請求されないのです。礼のつもりで余計に渡そうとしても、船頭はそれを受け取りません。
日本人はむやみに金銭を要求しません。ここぞとばかりにごまかしたり、嘘をついたりするのが嫌なのです。
女中さんは貧乏でもチップを受け取らなかった
イザベラ・バードという1831年生まれのイギリスの女性探検家が1878年に来日し、東京や東北、北海道を旅したことがあります。この時の探検記は、彼女の著書『Unbeaten Tracks in Japan』にまとめられ、邦題『日本奥地紀行』として翻訳もされています。
イザベラ・バードが東北を旅行し、宿泊した宿で女中さんにとても良くしてもらったため、翌朝の出発時に心付けとしてお金を包んで渡そうとしました。ところが女中さんはこれを受け取らず、「私は女中として自分のすべきことをしただけのことですから、お金をいただくわけにいきません」と言うのです。
日本にはチップという制度がないので受け取らなかっただけのことかもしれませんが、「仕事を誠心誠意、心を込めてやる」というのが日本人です。お金が先にあって仕事をしているわけではない、ということがこの女中さんの態度からわかります。
また、この女中さんのエピソードは、日本人の「自己の確立の高さ」も物語っています。
女中さんは、自らの考えでチップを断りました。西洋では、「自己は高い教育によって確立する。一般大衆というものには自己は確立しない」と考えられ、キリスト教聖職者をはじめとするエリート層による大衆支配の根拠とされていました。
ですが日本のこの女中さんは、おそらくは学校になど行っておらず、貧乏で、勉強もしていないはずですが、自己(自分)というものを確かに持っているのです。
「日本人はしてはいけないことはしない」
エドワード・S・モースという、1877年に大森貝塚を発見したことで知られるアメリカの動物学者がいます。発見は発掘調査をともない、日本の考古学の先鞭となりましたが、ダーウィンの進化論を紹介して生物学を定着させた人物としても知られています。
モースは日本を気に入り、3度にわたって来日しています。研究の傍ら、関東だけでなく、北海道、関西、九州と日本中の風土を見て回りました。モースは日本での体験を1917年に、『Japan Day by Day(邦題/日本その日その日)』という著書にまとめています。
モースが来日中、最も感心したことは、「日本人は他人のものは盗まない。日本人はしてはいけないことはしない」ということでした。
「私は襖を開けたままにして出かけるが、召使いやその子供たちは、私の部屋に出入りこそするけれど、お金がなくなったことがない」と、たいへん驚いています。
また、モースがある女性医師と東京の街を人力車で移動をしている時のこと。道路の傍らで盥たらいに湯を張って裸で行水をしている若い女性に出くわしました。
モースは「オイオイ、あんなところで行水をしているぞ」と言って思わず見入ってしまいましたが、彼と女性医師を乗せた人力車を引いている車夫はまったくそちらを見なかったのです。
モースは「我が国では、特に車夫のような肉体労働に就いている男はたしなみがなく、裸の女とくればまずはじろじろと見てしまう。ところが日本人の若い車夫は一切、そんなことはしなかった」として、これもまた大いに感心しています。
世界で最も豊かだったイギリスの本当の姿
産業革命は19世紀の前半には成熟期に入り、その中心的存在だったイギリスは1870年代まで世界最大の工場国として君臨しました。当時のイギリスは世界で最も豊かな国だったはずです。
ところが国民の生活が豊かになったかと言うと、けっしてそうではなかったようです。
霧の都ロンドンの「霧」は、かつてはメキシコ暖流による湿度の高い空気から発生していたものでしたが、産業革命以後は工場の煤煙(ばいえん)を原因とする、いわゆるスモッグに取って代わられました。
工場から排出される煤煙や排水で環境汚染が進み、労働者は公害の街に住み、生産力の向上だけを追求する計画に組み込まれ、過酷な労働を強いられていました。
産業革命で生活に余裕が生まれるはずが…
1848年にマルクスとともに『共産党宣言』を発表して資本主義を徹底的に批判することになるエンゲルスは、1845年に発表した『イギリスにおける労働者階級の状態』という論文で、イギリスの労働者の生活を次のように描写しています。
「貧民には湿っぽい住宅が、即ち床から水があがってくる地下室が、天井から雨水が漏ってくる屋根裏部屋が与えられる。貧民は粗悪で、ぼろぼろになった、あるいはなりかけの衣服と、粗悪で混ぜものをした、消化の悪い食料が与えられる。貧民は野獣のように追い立てられ、休息もやすらかな人生の楽しみも与えられない。貧民は性的享楽と飲酒の他には、いっさいの楽しみを奪われ、そのかわり毎日あらゆる精神力と体力とが完全に疲労してしまうまで酷使される」
明治維新期の日本は、このような西洋を見習おうとしていたのです。今でも、こうした勘違いは変わりないのかもしれません。
イギリス料理と言われて思い浮かぶのは、フィッシュ・アンド・チップスと呼ばれる、魚類のフライとフライドポテトの盛り合わせくらいです。豪華で格別に美味しい料理を思い浮かべることはあまりありません。
イギリス人は元来、(アメリカ人も同様ですが……)食に関しては大雑把なところがありました。
産業革命で人々の生活には余裕が生まれるはずでした。イギリスの労働者がやっと日常生活に喜びを見出そうという時に、産業構造上、労働者への搾取が厳しくなり、日々を仕事に追われ、ついに食生活に喜びを見出す機会を失ってしまったのだという説もあります。
西洋の社会システムに倣いすぎると不幸になる
現代日本の生活が、忙しく辛く、疲れることが日常的で楽しいことが例外的になってしまっているとすれば、それは西洋の社会システムに無反省に倣いすぎているためかもしれません。
16~17世紀のイギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、「自然科学は自然を明らかにすることによって人類の福祉に貢献する」と言いました。産業革命はその実現を目指したものです。
蒸気機関の発明と鉄の生産力の向上は、ヨーロッパの人々の生活問題を飛躍的に改善したかのように見えます。確かに、国民統計などの数字の上では乳幼児の死亡率、平均寿命、文盲率、エンゲル係数などは向上しました。しかしそれは、見かけの数字だけの改善であり、数字だけの生活水準の向上ということでした。
明治期の日本は「質素と正直の黄金時代」
幕末から明治初期に日本に訪れた西洋人の中には、アメリカの初代駐日公使のタウンゼント・ハリスやイギリスの日本学者バジル・ホール・チェンバレンのように、「日本に西洋文明を持ち込んで幸福になるとは思えない。すでに日本人は幸福である」と考える人も多くいました。
特にハリスは、
「これがおそらく人民の本当の幸福の姿と言うものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所為であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」
とはっきりと言っています。
日本人の倫理・道徳心は今に継がれている
日本は穏やかで平和な国であり、人々が互いに助け合い思いやる幸福な民族が生活する国です。
明治維新は、当時すでに日本近海まで迫っていた欧米列強の侵攻に対抗し、独立を守るためになされなければならないものでした。国家として必要なことであり、それについての明治政府の国家運営は十分に成功したと思います。
日本は明治維新以降、「文明開化」「和魂洋才」「殖産興業」など、さまざまなスローガンを掲げて西洋の文明を吸収しました。明治維新前から最も大きく変わった点は防衛でした。「富国強兵」による軍事力の拡大です。
西洋は、世界に対して植民地政策を展開して世界の覇権を獲得した理由をさまざまに説明します。哲学が優れていたからだ、文化が進んでいたからだ、布教の使命感があったからだ、科学技術が先進していたからだ、などといろいろに言います。
しかし、その本質は「軍事力」でした。大砲を搭載した軍艦をどれだけ保有するかが植民地政策の肝であり、戦争に勝てなければ話にならない、というのが当時の国際常識でした。
モースが「部屋に鍵をかけないのに机の上の小銭がなくなったことがない」と言って感心した日本人の倫理・道徳心の高さは今に継がれています。
日本の殺人事件の発生率は非常に低い
2012年のWHO(世界保健機関)の統計を参考にしてお話ししますが、日本の殺人事件数は人口10万人当たり0.4件でした。統計に参加した国194カ国中193位です。日本よりも殺人数の少なかった国はルクセンブルクで人口10万人当たり0.2件でした。
10万人当たりの殺人事件数が最も高かったのが南米のホンジュラスで103.9件です。ロシアは13.1で29位、アメリカは5.4件で93位です。中国は1.1件で171位ですが、共産党一党独裁体制の特性から見てこの数字はあてにはならないでしょう。
世界平均は8.7件です。日本という人口約1億3千万人の大国で、殺人事件数が人口10万人当たり0.4件という数字は、やはり日本が独特な文明であることを物語っています。
もう一つ例を挙げると、1859年、イギリスの初代駐日総領事に就任したオールコックは著書『大君の都』で、小田原近辺の様子を次のように伝えています。
「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し呻吟(しんぎん)させられている抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。だが、これらの良く耕作された谷間を横切って、非常な豊かさのなかで所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きの良さそうな住民を見て、これが圧制に苦しみ、過酷な税金を取り立てられて窮乏している土地とはまったく信じられない。
むしろ、反対にヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民は居ないし、またこれほどまでに穏和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象を抱かざるを得なかった。気楽な暮らしを送り、欲しいものもなければ、余分なものもない」
「貧しい日本人」はプロパガンダが作った虚像
まさに「足るを知る」社会で幸福に生きる人々の姿です。自虐史観の日本人がよく口にする、「鎖国によって閉ざされた国で惨めに生きる科学に遅れた人々」などではまったくありません。日本人は貧しかったというのは、戦後教育と戦後マスコミのプロパガンダによる誤った認識です。
日本の豊かな海の恵みの中でのびのびと暮らす人々、のどかな田園風景の中で生き生きと暮らす人々を見た外国人たちは祖国の労働者の悲惨な暮らしを思い出し、「これでいいのか?」と自問さえしていたのです。
前述したように、日本に、支配・被支配という階層的な対立は存在しませんでした。
皆がそれぞれの持ち分で一生懸命働き、富を分かち合うというのが日本文明の特徴です。
「自然は正しい」という日本人の共通認識
天皇の下で民は平等であり、それぞれの役割を知り、役目を果たすために一生懸命に頑張り、欲張ることなく豊かさを共有していました。もしもここ2000年間の幸福度の統計を取ったとすれば、日本の平均値はかなり高いものになるのではないかと思います。
その背景には、自分たちを育んでくれる自然に対しての深い敬愛がありました。自然は正しいものである、という日本人の共通認識がありました。
日本人は自然の中にこそ生きてきました。自然を深く観察し、自然に沿った生き方をしていれば幸福に生きていけるのだということを理解していました。
自然を素直に、深く観察していれば、「人間だけが神に似せてつくられた」などという発想は出てきません。人間が最高であり、その他の動物や植物、つまり自然は人間に隷属するものだ、などという思想は生まれません。
支配・被支配の階級社会と、そこに生じる階級闘争といった発想、あるいは状況は日本では生じえません。西洋、あるいは中東、中国大陸といったところの文明においては、9割の人間が被支配層として支配層に隷属する、という関係で社会が成立しているのが一般的です。
日本文明を正しく見直すことが幸福への道
現代日本に翻って考えると、日本の会社は元来、「会社も従業員のためのもの」という発想で経営されていました。働く人たちが幸福になることを大前提の目標として運営されていたのです。
会社を構成しているのはまず「人」であり、人の手で工夫が重ねられていく「技術」でした。あくまでも働いている人間が中心でした。
日本人が幸福な生活を守り、あるいは、より幸福に生きていくためには、そもそもの日本文明を正しく見直し、改めて取り入れ、社会構造をつくり直すことも必要かもしれません。日本人の幸福の基本的な考え方や行動パターンはもちろん今でも残されています。
だからこそ、日本文明というものを世界中に発信していく使命もまたあるだろうと思います。
現代の日本には多くの錯覚が存在します。明治以来、西洋の発想を取り込む過程で肥大化していった幻想が至るところにあります。
日本の文明はそもそも特別で独自であり、かけがえがありません。そして日本人は、その文明に育まれた豊かな思想を持っています。
「利他的なほうが人間は幸福になることができる」という考え方こそ日本人を幸福にしている要因であり、また日本人の幸福そのものなのです。
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