⚔36)─6・B─大坂夏の陣が開戦、戦費の調達に苦労した大名たちの懐事情と旨味のない戦争。~No.158 

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 2023年12月16日5:00 YAHOO!JAPANニュース「いよいよ大坂夏の陣が開戦、戦費の調達に苦労した大名たちの懐事情と旨味のない戦争
 渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 大阪(坂)城。(提供:イメージマート)
 大河ドラマ「どうする家康」では、いよいよ大坂夏の陣が開戦する模様が描かれていた。徳川方は豊臣家を滅亡に追い込むべく、諸国の大名に大坂への出陣を命じた。しかし、諸大名の懐事情は厳しく、歓迎されるようではなかったので、その辺りを紹介することにしよう。
 慶長20年(1615)4月になると、大坂夏の陣が起こるとの風聞が各地に流れ、「大坂城が徳川方に攻撃される」、あるいは「徳川方の軍兵が上洛して来る」との噂が京都中を飛び交った(『中院通村日記』など)。
 同時に、大坂城周辺の状況も慌しくなった。徳川方による大坂城攻撃の噂が流れると、堺あたりでは騒動が勃発し、人々は家財や妻子を引き連れて他国へ逃亡するというありさまだったという(『浅野家旧記』)。人々の動揺は、隠すことができなかった。
 さらに、本多正純は土佐の山内氏に対して、大坂へ渡海する船、商売船を乗り入れることを禁止した(「御手許文書」)。山内氏は年貢米を大坂近辺で換金しようとしたのだが、それすらできなくなるまでになっていた。
 すでに大坂城での戦いが予定されているので、無用な混乱を避けるためであろう。同時に、換金した米を豊臣方に売却されることも避けたかったに違いない。
 肥前の鍋島氏は徳川方から出陣を要請され、兵庫、西宮、尼崎への陣を構えるよう伝えられていた。その際、米やそのほかのものでも、徳川方が費用の一部を負担する旨が書かれていた。
 鍋島氏は遠方からの出陣なので、財政に余裕がなかったと推測される。鍋島氏に限らず、諸大名は多くの軍勢を率いていたのだから、兵糧や武器などの合戦に伴う負担の大きさは想像に余りある。
 財政事情が厳しかったことは、吉川家や毛利家も同じだった(「吉川家文書」)。吉川広家は両家ともに兵糧の負担が重くのしかかり、財政を担当する奉行衆が頭を抱えていると書状に記している。
 特に、毛利家は関ヶ原合戦の敗戦で約90万石も知行を減らされたが、家臣の数はほとんど変わらなかったので、財政事情は最悪だったといえる。しかし、両家とも、徳川方の出陣要請を決して断ることはできなかった。
 4月1日付で、徳川方が武川衆に宛てた書状が残っている(『譜牒余録』)。武川衆とは、もと甲斐武田氏の配下にあった軍団で、武田氏滅亡後は柳沢氏(武田氏旧臣)が率いていた。
 内容は大坂出陣を促すものであり、軍役として1万石につき、200人の兵を率いることが命じられている。兵卒以外にも、人夫として1万石につき300人の扶持を渡すとし、また路次中の扶持として銀子を与えると記されている。
 大坂夏の陣は諸大名にとって、大きな財政的な負担をもたらすことになったが、どの大名も出陣要請を断れなかったのである。それは、絶対命令だった。
 しかも、豊臣方に勝利したところで、与えられる恩賞は乏しいことが予想された。徳川方に与した諸大名は、豊臣家から取り上げた所領を分配するからだ。決して旨味のない戦いだったのである。
 主要参考文献
 渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)
 記事に関する報告
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社、『戦国大名の戦さ事情』柏書房など多数。
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 12月16日5:00 YAHOO!JAPANニュース「大坂夏の陣が迫る頃、丹波や摂津では豊臣方に味方すべく一揆が蜂起した。その真相
 渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 篠山城の石垣。(写真:イメージマート)
 大河ドラマ「どうする家康」では、大坂夏の陣が迫る状況が詳しく描かれていた。豊臣方と徳川方の戦いが迫る頃、丹波や摂津では豊臣方に味方すべく一揆が蜂起した。ドラマでは取り上げられないだろうから、その状況を詳しく取り上げることにしよう。
 慶長20年(1615)4月、丹波において一揆勢が蜂起するとの風聞が流れていた(『寛永諸家系図伝』、『譜牒余録』)。一揆勢が豊臣方の呼び掛けに応じたのか否かは、決して定かではないが、その可能性は高いと考えられる。
 丹波亀山(京都府亀岡市)の岡部長盛・宣勝父子、丹波篠山(兵庫県丹波篠山市)の松平康重は、ただちに一揆の鎮圧を行った。丹波はかなり広い地域であるが、両大名が出陣したのだから、一揆勢の蜂起は広範に及んだ可能性がある。
 ほぼ同じ頃、摂津曽根(大阪府豊中市)でも一揆が蜂起したというが、詳細や経緯は不明である(『松井家譜』)。徳川方は、一揆の蜂起を恐れていた。
 徳川方の池田氏大坂の陣に際して、公儀(=家康、秀忠)の命令を受けて、摂津国矢田部郡の村々から一ヵ庄(庄は村の構成単位)につき一人の人質を徴収していた(『池田家履歴略記』)。
 命じられたのは、長田村、東尻池村、西尻池村、西代(にしだい)村(いずれも兵庫県神戸市)の庄屋、年寄だった。人質を徴収した目的は、一揆を未然に防ぐためだった。
 その結果、村々の庄から1人ずつ人質が徴収され(計5人)、同年3月9日に姫路城内で預かることになった。こうして池田氏は、村人が一揆を起こさないようにしたのである。
 同年5月に豊臣家が滅亡すると、5人の人質はもと住んでいた村々に帰ることを許された。徳川方は、大坂夏の陣の開戦を予想して、早々に手を打っていたことが明らかだ。
 人質を徴収していた例は、ほかにもある。同年5月4日、幕府は山城国内の庄屋の妻子を人質とし、瀬田城滋賀県大津市)に軟禁したという(『義演准后日記』)。
 京都所司代板倉勝重によって、吉田村京都市左京区)から人質が徴収された例も報告されている。人質を徴収した理由は明確に書かれていないが、彼らが豊臣方に与同し、蜂起することを防ごうとしたと考えられる。
 戦争と言えば、大名同士の戦いがメインだったが、ときに村の人々が大名の呼び掛けに応じて挙兵することがあった。特に、豊臣家の場合は牢人衆が主体だったので、そうした支援は重要な意味を持った。徳川方がその動きを警戒し、未然に防ごうとしたのは、当然のことだったのである。
 主要参考文献
 渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)
 記事に関する報告
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社、『戦国大名の戦さ事情』柏書房など多数。
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 12月17日8:17 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「NHK大河に歴史学者が大満足のワケ…最新研究でわかった家康の生涯と江戸期に作られた家康像の決定的ちがい
 2023年5月5日、浜松まつりで行進する大河ドラマ「どうする家康」の家康役・松本潤 - 撮影=松島優喜
 2023年の大河ドラマ「どうする家康」が完結。徳川家康の生涯を描いた内容には賛否両論があったが、2016年の大河ドラマ真田丸」の時代考証を担当した歴史学者黒田基樹さんは「『どうする家康』は、ここ20年で進んだ家康研究を反映しており、見応えがあった。築山殿の描き方も、大名の正室について調べた私にとってはドラマとして楽しめた」という――。
 【図版】築山殿の肖像(西来院蔵)
■「どうする家康」には40年間の研究の進展が反映されていた
 今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、徳川家康を主人公にしたものだった。家康を主人公としたものは、1983年の「徳川家康」以来であり、実に40年ぶりになる。私は前作をリアルタイムで視聴し(高校生だった)、いまではDVDで時折視聴している。今作についても毎回視聴し、Blu-ray BOX(まだ2巻までしか発売されていないが)を購入して、繰り返し視聴し、ドラマとして楽しんでいる。もっとも同じ家康の75年におよぶ生涯を取り上げているにもかかわらず、作品の内容は大きく異なっているところが多い。それはすなわち、この40年における家康をめぐる研究の進展によるといってよい。
 前作の内容は、『三河物語』や『徳川実紀』といった江戸時代成立の史料が下敷きになっていた。それは江戸時代に作り上げられた家康像であり、それが現在でも通説として流布しているものになる。
 ところが今作では、それら江戸時代に成立したエピソードについて、作劇上、効果的となるものはそのまま取り入れられているが、随所に近年の研究成果が取り入れられていて、大河ドラマ好きとしてだけでなく、一人の歴史学者として視聴しても、大いに見応えのあるドラマに仕立て上げられていると感じている。
■家康像の再検証は20年前から、まだまだ研究は進んでいない
 家康に関する研究は、実は現在でも十分に進んでいる状態にはない。50年ほど前までは『徳川実紀』を基にすれば、家康の生涯を把握できると認識されていた。ところが40年ほど前から戦国時代研究は、当時の史料を基に実像の解明がすすめられるようになり、それによって江戸時代成立の史料の内容には、事実にそぐわないところが多くあることが認識されるようになった。
 そうして家康についても、20年ほど前から当時の史料に基づいた研究がおこなわれるようになったが、本格的に進められるようになったのは、ここ10年ほどのことでしかない。しかもその成果が、一般書として広く普及する状態にはいたっていなかった。家康研究は、実はまだまだ新しい領域なのである。
 今作の放送にともなって、そうした近年の研究成果を集約したような、家康の生涯を概観した著作がいくつか刊行された。それによって世間はようやく、最新の研究成果を把握することができることとなったであろう。
■築山殿のような正室には側室や庶子の認知決定権があった
 さらには家康あるいは戦国時代史を専門にする研究者によって、あらたな研究もすすめられ、一般書として刊行された。特筆されるものとしては、誕生から今川家時代、武田家との抗争状況、正妻・築山殿(ドラマの役名は「瀬名」)をめぐる状況、今川氏真との関係、秀吉死去から将軍任官までの政治状況、が挙げられる。
 それらは多く、放送を機に刊行されたものになるので、その内容が今作のドラマの内容に反映されることは少なかったが、そのなかでも築山殿をめぐる状況については、随所に取り込まれていることは特筆したい。実は築山殿に関しては私の研究(『家康の正妻 築山殿』平凡社新書)成果が多く反映されていた。
 私は近年、戦国大名家の女性の政治的地位や役割についての研究を進めていて、そのなかで今作の放送を機に築山殿についても追究した。そこでは、戦国大名家の正妻(ドラマでは「正室」と表現)は、当主の「側室」(正確には別妻および妾)や子どもの認知権を有していたことを指摘した。ドラマではそれを受けるようにして、築山殿が家康の「側室」を選定したり、「側室」となることを承認していなかった者を追放したことなどが取り上げられていた。
■大河の築山殿の描き方は大胆だったが、研究者としても納得
 また家康と築山殿との関係についても、江戸時代以来、不仲と認識されていたが、築山屋敷での別居は、築山殿のほうが身分が高かったため同居しなかったこと、築山殿は死去まで、家康の正妻としての権力を有していたこと、築山殿の死去は、家康による殺害ではなく、自害と推定されることなどを指摘したが、ドラマではそれを、ドラマ展開に見合うかたちで取り込んでいるように思えた。それらの内容は、これまでの通説的な理解とは大きく異なるものであったことからすると、大胆な取り組みであったといえるかもしれないが、私にとっては納得のいく内容であった。
 家康の生涯は、三河の一国衆にすぎない立場から、「天下人」にまでなり、かつその後二百数十年にわたる戦争のない平和な社会を築き上げるものであった。1983年の「徳川家康」は、早くから戦争のない平和な社会の構築を志向し、それを不屈の精神で実現していく内容であった。それが当時における一般的な家康像でもあった。
■秀吉政権に入るまでは何度も滅亡の危機にあった家康
 それに対して今作は、平和の構築というテーマは根底に設けられているものの、その実現は、危難を何とか乗り越えてきた、という側面を重視している。実際にも家康は、秀吉に従属するまでは、いくどか滅亡の危機に陥りながらも、そのつど幸運によって切り抜けてきた、類いまれな強運の持ち主であった(このことは拙著『徳川家康の最新研究』朝日新書を参照)。今作のタイトルが「どうする家康」というのは、まさに現時点での等身大の家康を表現したものとして、巧妙というほかない。数年前の制作発表の際に、このタイトルに接して、大いに感心したものであった。
 「どうする家康」の放送を機に、家康研究はさらなる進展をみせた。とはいえ家康の生涯は75年の長きにおよんでいる。しかも最終的には「天下人」として、日本全国を統治する存在になっているのだから、その事蹟は膨大である。そのためいまだ、そのすべてについて本格的な研究がおよぼされるにはいたっていない。
 現在の家康研究は、秀吉に服属するまでの動向についてと、秀吉死去から将軍任官までの動向については、かなり研究が進展しているものの、いまだ秀吉政権期や、将軍任官後の動向については、従来の研究内容を完全には克服するまでにいたっていない。
■家康は大坂の陣で羽柴家を滅亡させてから、わずか1年後に死去
 また今作では、「徳川四天王」をはじめとした徳川家臣団がクローズアップされていたものの、それらについての本格的な研究は、実はほとんど進んでいない。酒井忠次石川数正大久保忠世鳥居元忠平岩親吉本多忠勝榊原康政井伊直政本多正信、といった人々について、現時点で史料集や評伝書が刊行されているのは井伊直政だけにすぎない。
 今作の放送を機に、部分的には本格的な研究が開始されるようになってはいるものの、その成果が大成されるところまではいたっていない。それらについての研究が、本格的に進展していけば、家康とそれらの具体的な関係が明確になり、それは家康の人物像にも大きく影響していくことになるに違いない。
 家康は将軍任官後も、13年生きた。しかしその時の年齢は、秀吉の没年齢をすでに超えていた。私は近著『家康の天下支配戦略』(朝日選書)で、将軍任官後の外様国持大名との結婚政策についてまとめたが、そこでは20家以上と結婚を結んでいた。これは驚きであった。余命を思いながら、いかに徳川政権の安泰に取り組んでいたのか、その思いを強くした。
 「天下人」となったものの、家康は最期まで薄氷を踏むがごとく、危難の人生を歩んでいたのであった、と思わざるをえない。大坂の陣で羽柴(豊臣)家を滅亡させてから、わずか1年後に死去しているのは、家康の人生を象徴しているといってよい。家康は死去する直前になって、ようやく安心を感じることができたように思われるのである。

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 黒田 基樹(くろだ・もとき)
 歴史学者駿河台大学教授
 1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。著書に『下剋上』(講談社現代新書)、『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国北条五代』(星海社新書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』(以上、平凡社新書)、『お市の方の生涯』(朝日新書)など多数。近刊に『家康の天下支配戦略 羽柴から松平へ』(角川選書)がある。

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