⚔42)─3─徳川秀忠は徳川家の全国支配を確立し恐怖の徳川幕府体制を確立した。キリシタン弾圧。~No.172 

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2018-09-13
⚔42)─1─徳川秀忠キリスト教禁令とキリシタン処刑。徳川秀忠の死。1626年~No.170・ @ 
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 江戸時代に入ると、幕府は鎖国政策を採ってキリスト教を弾圧するようになります。その中で江戸幕府は、キリスト教信者をあぶり出すために、「踏み絵」(ふみえ)と呼ばれる制度を作ったのです。キリスト教信者にとって大切な聖画像などを踏ませ、踏めなかった人物を「キリシタン」と見なし、厳しい処罰を行いました。踏み絵についてだけでなく、キリスト教が弾圧された時代の中で、キリスト教信者であった武将達についても併せてご紹介します。

 江戸時代になって強まったキリスト教弾圧
 江戸幕府が厳しい弾圧を行う
 江戸幕府は、一強体制をより強固にするため、キリスト教に対する弾圧を一段と強めるようになっていきます。ただし、「徳川家康」が江戸幕府初代将軍の座に就いていた時代には、キリスト教は黙認されており、南蛮(スペインやポルトガルなどのヨーロッパ諸国)との貿易についても、禁止されていた訳ではありませんでした。
 ところが、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の代になると、1612年(慶長17年)にキリスト教の「禁教令」を発布。これに加えて1616年(元和2年)には、ヨーロッパからの船の来航を「長崎港」(長崎県長崎市)と平戸港(ひらどこう:長崎県平戸市)に制限する、「二港制限令」が出されることとなったのです。
 そして徳川秀忠は、さらにキリスト教弾圧を進めます。1617年(元和3年)には、長崎の住民に対して宣教師との接近を禁じ、各地に潜伏していた宣教師やその関係者を次々と捕らえ、処刑したのです。
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 12月2日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「NHK大河ドラマを信じてはいけない…「徳川秀忠=凡庸な二代目」とは言えないこれだけの理由
 『どうする家康』で秀忠役を演じる俳優の森崎ウィンさん。第33回東京国際映画祭のオープニングセレモニーに登壇した(=2020年10月31日、東京都千代田区東京国際フォーラム) - 写真=時事通信フォト
 江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「文武を兼ね備え、すぐれた決断力で幕府の基礎を築いた。NHK大河ドラマ『どうする家康』で描かれたような凡庸な人物ではなかった」という――。
 【図版】徳川秀忠
■徹底的に「凡庸で鈍感な人物」として描かれている
 こんなに頼りなくていいのか、と感じる視聴者も少なくないのではないだろうか。NHK大河ドラマ「どうする家康」での徳川秀忠(森崎ウィン)の描かれ方である。たとえば、第44回「徳川幕府誕生」(11月19日放送)では、本多正信(松山ケンイチ)に「いうなれば偉大なる凡庸」といわれ、「関ヶ原でも恨みを買っておりませんしな。間に合わなかったおかげで」と説かれても、「たしかにそうじゃ。かえってよかったかもしれんな」と素直に答えていた。
 徳川軍の主力3万8000を率いる秀忠が関ヶ原合戦に遅参したのは事実であり、その印象が強いせいで、凡庸だという評価が定着しているのも否めない。そもそも、遅参したのが秀忠のせいだともいい切れないのだが、秀忠が自身の「不始末」を後々まで気にしていたことは、その後の言動からもまちがいない。
 失敗を自分の胸に深く刻印する賢さがあったから、秀忠は徳川将軍家の二代目として、家康が築いた支配体制をしっかり固めることができた。関ヶ原の遅参について「かえってよかったかもしれん」と無邪気によろこぶほど鈍感であったら、家康亡き後に天下を固めることなど、できなかったのではないだろうか。
 大河ドラマのように、関ヶ原に遅参したから凡庸で、凡庸だから鈍感な人物として描くのは、人物の造形として安易ではないか。若いときに「どうする家康」の秀忠くらい鈍感だった人間が、年を重ねてきわめて鋭敏になることは、あまりないように思うのだが。
■家康の重臣による秀忠評
 関ヶ原に遅参したのは、中山道を進んだ秀忠の軍勢が、途中で上田城(長野県上田市)の真田昌幸を攻めたところ、昌幸らに翻弄(ほんろう)され、時間を空費したのが原因だった。このときの秀忠を「軽い気持ちで上田を攻めた」「若気の至り」などと評する向きもあるが、当たっていない。上田城の攻撃は「小山の評定によって策定された既定の作戦であって、秀忠の個人的な功名心などに発するものではなかった」からである(笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』新潮選書)。
 とはいえ、遅参の影響は大きかった。家康は関ヶ原合戦に勝ったといっても、戦場に徳川軍の主力がいなかったため、それは豊臣系武将の働きによる勝利で、彼らの領土を大幅に加増するほかなくなった。結果として、西国の8割が豊臣系大名の領土となるなど、徳川にとっては不安定な状況が生まれてしまった。
 だから、開戦から6日たって、大津にいる家康にようやく追いついた秀忠に対し、家康は面会を拒否した。また、家康は秀忠を嗣子と決めていたものの、『寛政重修諸家譜』巻七〇七によると、家康は大久保忠隣、井伊直政榊原康政本多忠勝平岩親吉本多正信を呼んで、だれを嗣子にすべきか、あらためて尋ねたという。
 正信は次男の結城秀康、直政は四男の松平忠吉、忠隣が秀忠を推し、その忠隣は「乱を治め、敵に勝は、武勇を先とすといえども、天下を平治し給はんとならば、文徳にあらずしては基業をたもち給はん事かたし」と説いたとされる。すなわち、乱世において敵に勝つには武勇が優先されるけれど、天下を治めるためには、文武が兼備でなければいけない、という理屈である。
■文武のバランスが◎
 二次的な史料なので創作の可能性はあるが、少なくとも家康は秀忠を、このように評価したということではないだろうか。凡庸だ、鈍感だ、というのではなく、文武のバランスがとれていた、という評価である。
 それでも、関ヶ原に遅参した経験は、秀忠に大きな影をおよぼしていたようだ。そこで負のイメージがついたという意識があればこそ、文武の「武」に弱点があるとは思われたくなかったのだろう。慶長19年(1614)、大坂冬の陣の際には、遅れてはならぬという決死の覚悟が見てとれる。
 家康は10月11日に駿府城(静岡県静岡市)を発って23日に上洛した。一方、秀忠が6万の軍勢を率いて江戸を発ったのは23日。自分が着く前に戦いがはじまってしまっては大変だ、という思いが強かったようで、猛スピードで進軍している。
 たとえば29日には、掛川(静岡県掛川市)から吉田(愛知県豊橋市)まで、およそ70キロを1日で進軍したという。その間、家康はたびたび「大軍行程ヲ急ニセバ、兵馬疲労セン。緩ニ来ラレルベシ」、すなわち、大軍が急いで進軍すれば、兵も馬も疲労してしまうので、ゆっくり進むように、とたしなめたが、秀忠は最後まで急行軍を続け、11月11日に京都に着いている。
■死の間際の乳母が秀忠に語ったひと言
 その後の判断も、凡庸で鈍感な人物によるものとは思えない。
 翌年の大坂夏の陣大坂城が落城する寸前、秀忠の長女で秀頼に嫁いでいた千姫は、大坂方の大野治長のとりなしで、秀忠らの陣所に届けられた。目的は茶々と秀頼の助命を嘆願することだった。その際、家康は千姫が助けられたことをよろこんだが、秀忠は「秀頼と一緒に焼死すべきところを、出てきたのは見苦しい」とはねつけ、対面しなかったという(『大坂記』など)。
 秀忠のこの判断について、福田千鶴氏は「ここで千に会ってしまえば、義母茶々と夫秀頼の助命を嘆願されることになり、娘を前にした父親が往々にして示す優しさによって、将軍としての決断が鈍ることを避けたものととれなくもない」と記す(『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』新人物往来社)。卓見ではないだろうか。そうであれば、凡庸な人物の判断とは到底いえない。
 秀忠の乳母は大姥局(おおうばのつぼね)といい、元来が今川義元の家臣の妻で、家康はまだ竹千代といって駿府で過ごしていたころから、彼女のことを知っていたという。大姥局が秀忠をどう育てたか、具体的な記録はないが、死に際の逸話が残されている。病床を見舞った秀忠が、なにか望みはないかと聞くと、ないという。しかし、秀忠が帰ろうとすると「殿、殿」と呼び、「私の子が流罪になっているが、私を哀れだと思って罪を許したりしないように。天下の法を曲げてはいけません」と説いたという。
 こうした教えが秀忠には、若いころからしみ込んでいたのだろう。
■家康にもできなかった冷徹な処断
 大坂夏の陣後、家康は一国一城令で諸大名の城の多くを破却させ、武家諸法度で大名が守るべきことを規定し、禁中並公家中諸法度で天皇や公家は学問に専念するように定めた。戦乱を防いで徳川の世が永続するように、万全の布石を打った。とはいえ、秀忠が凡庸であればその布石を活かせなかっただろう。
 元和2年(1616)4月17日に家康が死去したのち、秀忠が最初に行ったのが、家康の六男で実の弟である忠輝の処分だった。伊達政宗の娘婿で謀反の噂もあった忠輝には、すでに家康が大坂夏の陣での不戦などを理由に謹慎処分を課していたが、秀忠は所領を没収し、伊勢(三重県)に流したのだ。続いて、兄の秀康の嫡男、松平忠直を改易にしている。まずは将軍たる自身の地位を脅かしかねない近親者を処断したというわけだ。
 続いて、元和5年(1619)には豊臣恩顧の大名の代表格で、49万8000石の福島正則を改易にした。居城の広島城(広島県広島市)が洪水で破損した際、幕府に無断で石垣を修復し、武家諸法度に違反したというのが理由だった。正則は関ヶ原合戦の功労者だが、その後も大坂との関係が取り沙汰されていた。家康には功労者を切ることはできなかったが、しがらみがない秀忠にはできたのである。
 正則の改易に外様大名たちは震え上がり、効果絶大だった。改易のタイミングも冴えていた。「このとき、秀忠はかなりの兵を随えて上洛しており、その中に、正則の子忠勝が福島家の家臣団の一部を率いていた。正則は江戸城にいたので、そこにも家臣団がおり、本拠広島城にも家臣団の一部が残っていた。つまり、福島家の家臣団は三分割される形になっていたのである」(小和田哲男徳川秀忠PHP新書)。
 反抗できない時期をたくみにねらっている。
■全国に徳川家の支配を行き届かせた
 また、正則が去った広島城には、和歌山城(和歌山県和歌山市)から浅野長晟(ながあきら)を移し、和歌山には家康の十男の徳川頼宣を入れた。実の弟を大坂の南方の要地に置き、西国の監視をさせることにしたのだ。
 こうして秀忠は40以上の大名を取りつぶし、改易された領地が重要な位置であれば、そこには必ず譜代大名親藩を置いて周囲の監視体制を強めた。西国を監視し、陸海の交通ルートを幕府が掌握するために、大坂を直轄地にしたことも重要だった。
 しがらみにとらわれないドライな施策を重ね、全国に徳川家の支配を行き届かせた秀忠。家康は事実上、東国の大名に対する指揮権しか握っていなかったが、それを西国まで根づかせたのは秀忠の功績だった。
 むろん、すぐれた父がお膳立てを整え、その教えに忠実であったからこそ、体制を固めることができたのだが、秀忠がドラマで描かれるように凡庸であったなら、これほどのことを成し遂げるレベルにまで、突然変異のように能力が高まることは、難しかったのではないだろうか。

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 香原 斗志(かはら・とし)
 歴史評論家、音楽評論家
 神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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 12月3日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「家康の死後に急変「徳川秀忠」驚きの"恐怖政治" 何度も大名の領地を没収したり、領地を移す
 真山 知幸
 第2代将軍の秀忠は改易や転封を連発した。写真は江戸城桜田門(写真: PhotoNetwork / PIXTA
 © 東洋経済オンライン
 NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第50回は家康死後に秀忠が敷いた、恐怖政治の裏側を解説する。
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 家康が秀忠に伝えたかったこと
 徳川秀忠は、何度か父の徳川家康から叱責を受けている。
 【写真】大坂夏の陣で勝利した秀忠は秀頼と淀殿に対するある決断を下す。写真は激戦地となった茶臼山
 最もよく知られているのは、関ヶ原の戦いへの遅参だろう。真田昌幸と信繁の父子が立て籠もる上田城を攻略できずに、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。
 激怒した家康は3日にわたって秀忠との面会を謝絶したが、実のところ、遅れてきたこと自体を責めているわけではなかった。家康や秀忠の専属の医者だった板坂卜斎が記した日記『慶長年中卜斎記』によると、大津で家康にようやく会ってもらえたときに、秀忠はこう言われている。
 「今回は合戦に勝ったからよかったが、万が一、負けていたならば、弔い合戦となる。それに備えて軍勢をそろえて上ってきたならばまだしも、道中を急いで軍勢をまばらにして上ってくるとは何事か」
 遅参そのものよりも、遅れたことで慌てて軍勢をばらばらにして上ってきたことを、戦略ミスとしてとがめているのである。
 家康は「大局観を持て」と秀忠に懸命に伝えていることがわかる。秀忠もそれに応えようと、家康の意向に沿いながらも、将軍となるのにふさわしい判断力を磨いていくことになる。
 それを象徴する場面が「大坂夏の陣」で勝利したあとの戦後処理である。
 大坂夏の陣で勝利した徳川だったが…。写真は激戦地となった茶臼山(写真: PhotoNetwork / PIXTA
 © 東洋経済オンライン
 「大坂夏の陣」で徳川の勝利が決まると、大野治長などの豊臣家の家臣たちから、豊臣秀頼の助命を乞われた家康。江戸時代初期に家康の動静を記録した『駿府記』によると、こう伝えたとされている。
 「放免しよう、秀忠に聞いてみよう」
 だが、秀忠は助命を拒否。非情にも秀頼と母の淀殿切腹を命じている。この決断には、周囲も驚いたことだろう。だが、秀忠の立場になれば、当然の判断でもあった。
 そもそも、この戦いは政権譲渡の仕上げとして、家康が豊臣家滅亡を目論んだものであることは、火を見るより明らかなこと。秀忠は自分に判断を委ねられた意味をきちんと理解して、秀頼に切腹を命じたのだろう。
 もちろん、家康としても息子に汚れ役を押し付けたわけではないだろう。秀忠に非情な判断を下させることで、大名たちにこれから政権を担うのは誰なのかを、明確なメッセージとして伝えている。自分が亡きあとの、秀忠と諸大名との関係に思いを馳せたのだ。
そして秀忠もまた、そんな先代のお膳立てに応えながら、自らを脅かしかねない存在の芽を完全に摘むことをやってのけた。
 秀忠を駆り立てた「関ヶ原のトラウマ」
 もともと秀忠はこの「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」に並々ならぬ意欲を見せていた。父の陰から一歩出ようとする秀忠の姿がそこにある。江戸城を出たとき、家康の事実上の側近である本多正純に書状でこう伝えた。
 「大坂城攻めは、私が着くまでお待ちなさるように申し上げてください」
 もう関ヶ原のような遅参だけは避けたい、という思いがありありと伝わってくる。秀忠は自分の長女、千姫を秀頼のもとへ嫁入りさせており、彼女も大坂城にいた。
 それにもかかわらず、戦意のほうが上回ったようだ。そして真田との戦いに敗れて、大坂冬の陣ではいったん和睦に応じることになると、こう徹底抗戦を主張している(『駿府記』)。
 「この程度の城郭がどうして攻め落とせないのでしょうか」
 家康は「小敵を見て侮るな」と息子をたしなめながらも、胸中では秀忠にたくましさを覚えたのではないか。秀忠はそれでもおさまらずに、「大御所(家康のこと)は文武の道で天下無双の大将であるのに、ためらうのはおかしい」(『駿府記』)とまで言っている。
 秀忠が家康の意をくみながらも、自分の最終判断で、秀頼親子を死に追いやったのも、やや危うさを感じるほどの熱意の延長だったのだろう。
 自分だってやれる――。そんな思いは家康の死後、加速していくことになる。
 大名の改易や転封が相次いだ
 元和2(1616)年4月17日、家康は75年の生涯に幕を閉じる。約3カ月前の元旦に、秀忠は江戸城黒書院で、次男で11歳の家光を自分の左側に座らせた。跡継ぎを家光とするというメッセージである。
 秀忠ばかりか、その次の代まで徳川家が承継する道筋を立てられて、家康としても安心して、あの世に旅立てたことだろう。
 いよいよ秀忠が自由に采配を振るうことになった。家光に将軍を譲る元和9(1623)年までの7年間が「秀忠の時代」だ。そこに秀忠の本来の姿が凝縮されている。
 これまでは「何事も大御所様の仰せのままに」といっていた秀忠がやったこととは、何か。目立って多かったのが、大名の改易や転封である。つまり、大名の領地を没収したり、領地をほかに移したり、ということを何度も行ったのである。
 家康の死からわずか3カ月後に、秀忠は自身の弟、松平忠輝に伊勢の朝熊へ移るように命じた。また甥の松平忠直も豊後の萩原へと流している。処分は外様大名にも及び、秀忠は安芸広島藩主の福島正則も「無断で広島城を築城した」という理由で改易してしまう。
 だが、豊臣系大名の重鎮である正則まで改易してしまえば、当然のことながら波紋も大きい。このままでは大名間に亀裂が入りかねない。そう考えて「正則の改易はやりすぎではないか」と秀忠を諫めた人物がいた。本多正信の子、正純である。
 家康との二元政治では、秀忠のもとに、政治力の優れた本多正信がお目付け役として付けられたことは連載ですでに述べたが、そのときに正純は家康のもとに置かれた(記事参照「天皇激怒『宮中震撼させた女性問題』家康の対応力」)。
 家康に長く付いていた正純からすれば、秀忠をリーダーとして正しいほうへ導かなければ、と考えたのかもしれない。正純は家康にも異論を唱えることがあり、そのことが一層家康からの信頼を厚くした。
 口出しをしてくる家臣を嫌った
 だが、秀忠が最も嫌うのは、先代と自分を比べているかのように、そういう口出しをしてくる家臣である。
 どいつもこいつも自分を軽んじている――。秀忠の怒りは収まらず、正純も遠国へと流してしまう。処分を下す際に、秀忠がよく使った言い回しはこれである。
 「御奉公然しかるべからず」
 働きぶりが不十分である――。何とも漠然としているではないか。要は気に食わないということだろう。
 その代わりに、酒井忠世土井利勝を老中として側近に固めた秀忠。少しでも歯向かう可能性のある大名は片っ端から、改易や転封を行い、自らの地位を盤石なものにした。
 ただし、そんな臆病な秀忠だからこそ、江戸幕府の基礎固めが行われたのも、また事実である。元和9(1623)年、秀忠は将軍の座を次男の家光に譲り、父と同じように大御所として権勢を振るうのだった。
 【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫三河 松平一族』(新人物往来社
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館
笠谷和比古徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書
福田千鶴徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』(新人物往来社
山本博文徳川秀忠』(吉川弘文館
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