⚔36)─1・C─関ヶ原の戦いは美濃・東北・九州の3つの戦場で行われていた。~No.146No.147No.148 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 信濃・上田における真田昌幸徳川秀忠の戦いは、美濃・関ヶ原の戦いの一局面であった。
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 [歴史探偵] 幻の江戸攻撃作戦 直江兼続 伊達政宗 連合す!| NHK
 2023/01/18
 「歴史探偵」今夜も歴史の謎が解き明かされる
 http://nhk.jp/rekishi-tantei?cid=dchk...
 この作戦が実現していたら関ケ原の戦いは無かった――。西軍・石田三成の対家康決戦構想には、上杉家・直江兼続による、上杉はじめ東北諸将の連合軍を形成し、徳川家康の本拠地、江戸を直撃するという驚きの作戦案がありました。この壮大な『if』を歴史探偵があの方々の協力でシミュレーションします!
 【出演者】
 宍戸開(徳川家康役)、美藤吉彦(直江兼続役)、本山力(伊達政宗役)、シブサワ・コウ(ゲームプロデューサー)、渡邊佐和子アナウンサー、近田雄一アナウンサー
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 [歴史探偵]「北の関ヶ原長谷堂城の戦い 直江兼続 気概の撤退戦 | NHK
 2023/01/18
 「歴史探偵」今夜も歴史の謎が解き明かされる
 http://nhk.jp/rekishi-tantei?cid=dchk...
 直江兼続伊達政宗最上義光(よしあき)三つどもえの「北の関ヶ原」は美濃関ヶ原の本戦が決着すると風雲急を告げることに。西軍側として孤立する兼続たち上杉軍。本拠地・米沢への苦難の撤退行、そして「愛」の名将・兼続の伝説がこの激戦の中から生まれます。
 【出演者】
 美藤吉彦(直江兼続役)、伊藤清郎(山形大学 名誉教授)、渡邊佐和子アナウンサー、近田雄一アナウンサー
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 【北の関ヶ原直江兼続vs最上義光!なぜ起きた!?激戦「長谷堂城の戦い」【きょうのれきし3分講座・9月16日】
 2021/09/16
 #伊達政宗 #山形市 #関ヶ原の戦い
 れきしクンが今日起きた歴史をだいたい3分で解説します!
 慶長5年(1600年)9月16日は「長谷堂城の戦い」が起きた日です!
 ”北の関ヶ原”と称されることもある「慶長出羽合戦」の中での、
 最大の激戦となった長谷堂城を巡る合戦を、
 れきしクンが分かりやすく解説!
 ※長谷堂城を守った志村光安を「みつやす」と紹介していますが、
 近年では「最上義光(よしあき)」との関係性がから、
 「あきやす」と読むとも考えられています。
#れきしクン #長谷堂城の戦い #北の関ヶ原 #慶長出羽合戦
#長谷堂城 #山形市 #山形城 #最上義光
#米沢城 #鶴ヶ城 #会津若松城 #上杉景勝 #直江兼続
#伊達政宗 #留守政景 #寒河江城 #寒河江市
#山辺町 #山辺城 #山野辺城 #畑谷城
#徳川家康 #直江状 #関ヶ原の戦い #松川の戦い
 【放送情報】
 NHK 総合 毎週(水)夜 10:00~/[再放送]毎週(金)午後 3:10~
 放送後1週間は見逃し配信があります。
 http://nhk.jp/rekishi-tantei?cid=dchk...
 俳優の佐藤二朗が探偵社を結成!歴史の謎や真実にスリリングに斬り込む歴史探偵。現場調査、科学実験、シミュレーションなどを駆使し、謎や真実に迫る。ターゲットは歴史を動かした大事件や人物たち。古代、戦国、幕末、近現代…。次々と謎が解き明かされていく。
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 2023年11月25日MicrosoftStartニュース「黒田如水は「九州の関ヶ原」で活躍したが、天下を取れなかった当たり前の理由
 黒田如水。(提供:アフロ)
 大河ドラマ「どうする家康」は、関ヶ原合戦の場面だったが、黒田如水の「九州の関ヶ原」における活躍は描かれていなかった。一説によると、如水は家康に勝てるだけの実力があったので、実は天下取りを狙っていたというが、それが事実なのか考えてみよう。
 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の当時、如水は家督を子の長政に譲っていた。如水と言えば、織田信長豊臣秀吉徳川家康の3人の天下人から恐れられた天才軍師だったといわれている。
 しかし、それは後世に成った二次史料の記述を大袈裟に膨らませた事実無根の妄説に過ぎない。3人の天下人にとって、わずか十数万石しか領していなかった如水など、取るに足らない存在だったに違いない。
 実は、如水も家康と結んだ約束が反故にされ、恩賞を与えられなかった1人である。同年8月25日、井伊直政は長政に書状を送り、如水が九州での自由な軍事活動と切り取った領地を自分のものにすることを許した(「黒田家文書」)。九州では西軍勢力が盤踞していたので、家康は如水に征伐を期待したのだ。
 同年9月16日付の如水書状(藤堂高虎宛)には、切り取った領地を自分のものにしたいと書かれている(『高山公実録』所収文書)。如水の希望は、家康に承諾されたと考えてよい。後世に成った二次史料によると、如水は最終的に家康を打ち負かし、天下を取ろうとしたとまで書かれている。
 いざ戦いははじまると、如水は予想以上の戦果を挙げた。東軍の大友吉統は降参して捕縛され、目的だった豊後の支配権を得られず捕縛された。
 如水は九州の西軍勢力を一掃した勢いに乗って、そのまま薩摩の島津氏を討伐しようとした。しかし、いよいよというときになって、家康からストップが命じられたのである。こうして如水の「九州の関ヶ原」は終わったのである。
 とはいえ、戦後、長政には筑前一国が与えられ、如水とともに西軍と戦った加藤清正も肥後一国を支配することになった。黒田家は、42万石の大大名になったのだ。ところが、如水が家康から認められた九州での「切り取り自由」は反故にされたのである。如水は無念だったに違いない。
 家康は多くの味方を募るため、「加増」、「切り取り自由」の空手形を乱発した。それは、諸大名の奮起を促すためでもあった。如水や政宗の夢と希望は露と消えたのであるが、そこは家康が一枚上手だった。
 また、二次史料には如水に天下への志があったかのように書かれているが、それは虚説に過ぎない。仮に、如水が家康と戦っていたら、滅亡に追い込まれたと考えられる。その実力差は、歴然としていたのだ。
 主要参考文献
 渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)
 記事に関する報告
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校講師。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社、『戦国大名の戦さ事情』柏書房など多数。
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 慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)は、慶長5年(1600年)出羽国で行なわれた上杉景勝(西軍)と最上義光伊達政宗(東軍)の戦いで、「北の関ヶ原」といわれる。東軍が勝利した。
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 石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)は、慶長5年(1600年)9月13日に豊後国速見郡石垣原(大分県別府市)で行なわれた黒田如水(孝高)軍と大友義統(吉統)軍の合戦である。
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 【関ヶ原の舞台をゆく⑤】日本中で行なわれた「関ヶ原の戦い」~北と南の関ヶ原はどう終結したのか~
 豊臣秀吉死後の政権をめぐり、全国の大名が東軍と西軍のわかれて争った関ヶ原の戦い。第4回までに9月15日に行われた本戦やこれにつながる一連の戦いを解説してきたが、実は本戦に参加しなかった地方の大名たちも東軍と西軍にわかれて争っていたのだ。第5回ではそんな地方で行われた戦いを紹介する。
 関ヶ原の戦い
 北の関ヶ原長谷堂城の戦いは現在の山形県山形市を中心に、南の関ヶ原・石垣原の戦いは現在の大分県別府市を中心に繰り広げられた
 北の関ヶ原長谷堂城の戦い
 「関ヶ原の戦い」の戦場は、ひとつではなかった。美濃(岐阜県関ヶ原での決戦を中心としながらも、その舞台裏では全国各地で両軍の武将たちが、自らの命運をかけた戦いを繰り広げていたのである。
 例えば、美濃から遠く離れた東北では、西軍・上杉景勝(うえすぎかげかつ)と東軍・最上義光(もがみよしあき)、伊達政宗(だてまさむね)が激突した。そのきっかけは、五大老の中で「反・徳川」の色を明確にしていた景勝が、石田三成の挙兵と連動する形で、西軍の一角として東北地方の攻略に乗り出したためである。
 長谷堂城上杉景勝直江兼続最上義光
 長谷堂城で激突した上杉景勝直江兼続主従(左)と最上義光(右)
 上杉軍は本拠地・会津を発し、まず東軍についた最上義光の領地である出羽(山形県)へ攻め入った。9月9日から10月の初旬まで1か月近くにも及ぶ「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)の幕開けである。
 上杉軍の大将は景勝の重臣直江兼続(なおえかねつぐ)で、2万5000もの大軍を率いていた。兼続は9月12日に畑谷城を落城させ、15日に長谷堂(はせどう)城の攻略にかかった。これに対し、最上義光の軍勢は8000人。不利と見た義光は、米沢の伊達政宗(東軍)に救援を要請。政宗はこれを受けて援軍を派遣した。
 関ヶ原の戦い、長谷堂合戦図屏風
長谷堂城での攻防を描いた屏風絵。画面左側の上部には、指揮を執る直江兼続が描かれている(『長谷堂合戦図屏風(複製)』/最上義光歴史館蔵)
 長谷堂城には1000程度の守備兵しかいなかったが、この城は深田に囲まれた天然の要害であり、攻め手は足をとられて進撃もままならなかった。城将・志村光安(しむらみつやす)による夜襲にも苦しめられ、さすがの直江兼続も攻めあぐねた。
 長谷堂城跡、城跡公演、山麓、堀、復元
 長谷堂城跡遠景。城域は城跡公園となっており、山麓には堀が復元されている
 そうこうするうちに、9月29日になって関ヶ原で西軍が敗戦した知らせが届き、最上軍の士気が大いに上がった。兼続はそれ以上の戦いを諦め、会津へ撤退。追撃する最上軍に対し、兼続は反転して大打撃を与える。義光の兜にも銃弾が当たるなど大混戦となったが、結果的には「北の関ヶ原」と呼ばれる慶長出羽合戦も、西軍(上杉軍)の敗北で終わった。
 南の関ヶ原、石垣原の戦い
 同時期、南の九州でも両軍は激突した。九州の諸大名の中で、最も主だった合戦が豊後(大分県)の杵築城(きつきじょう)をめぐる戦いだ。9月9日から10日にかけ、東軍の支配下にあった杵築城を攻めようと、西軍の大友義統(おおともよしむね)が広島城広島県)を発して九州に上陸する。これに対し、東軍に与した黒田如水(じょすい)(=官兵衛)は中津城大分県)から出陣し、杵築城の救援に向かった。
 石垣原の戦い、黒田官兵衛大友義統
 石垣原の戦いで激突した黒田官兵衛(左/東京大学史料編纂所蔵模写)と大友義統(右/東京都中央図書館蔵)
 かくして9月13日、両軍は城の南西・石垣原(いしがきばる)で激突した。しかし、西軍の大友勢2000に対し、東軍の黒田勢は1万。序盤は善戦し、東軍に大打撃を与えた大友軍だが、黒田如水の巧みな采配がものを言い、東軍の大勝となった。勝利した黒田如水は富来城・安岐城・日隈城など豊後の西軍諸城を10月までかかって攻め取り、領土拡大に野心を見せた。
 黒田如水、杵築城、木村藩、居城
 黒田如水の救援により杵築城は落城を免れた。関ヶ原の戦い後、一国一城令により一度破却されるが、木付(杵築)藩が成立するとその居城となる
 さらに同時期、九州では領国の熊本城を発した加藤清正が、宇土(うと)城や八代(やつしろ)城など肥後(熊本県)の西軍諸城を攻め取るなど、東軍方として活躍していた。
 小西行長、居城、宇土城、加藤清正
 西軍の有力武将・小西行長の居城だった宇土城は戦後、加藤清正によって改修されたため、行長時代の遺構はほとんど残っていない
 九州勢の西軍で最後まで粘っていたのは、前回で解説した近江・大津城の戦いに参戦した立花宗茂(たちばな むねしげ)である。宗茂大坂城の失陥によって柳川城(福岡県)へ帰ったが、その後に黒田如水加藤清正鍋島直茂(なべしまなおしげ)らの侵攻を受ける。
 宗茂は、これを城外の野戦で辛くも食い止め奮闘したが、すでに関ヶ原における西軍敗戦から1か月以上も経ち、もはや形勢逆転は不可能な情勢だった。ついに11月3日、加藤清正の説得を受けて宗茂は開城に応じ、「南の関ヶ原」も終幕した。
 立花宗茂柳川城、水堀
 立花宗茂関ヶ原の戦い後に改易されるが、大坂の陣の武功で旧領を回復した。写真は、柳川城の水堀をめぐる川下りの様子(柳川市観光課提供)
 ここに紹介した合戦は、全国で行なわれた「もうひとつの関ヶ原」の、ごく一部に過ぎない。本戦「関ヶ原の戦い」は9月15日だけで決着したが、その影響は日本各地に飛び火。武将たちは己だけでなく大勢の家臣や一族の命運を賭け、必死に戦っていたのである。
 徳川の天下、新時代の幕開け
 この全国規模の合戦で、東軍の総帥として指揮をとった徳川家康は、すべての大名を統べる最大の勝利者にもなった。そして戦後、豊臣家に代行する形で諸大名に対する加増・減封・改易など、処分の一切を取りしきったのである。
 五大老の扱いを見れば、その意図が明白に分かる。東軍の代表として北陸戦線に重きを成した前田利長は、80万石から約120万石に加増され、日本最大の藩・加賀藩(石川県)が成立する。その他、東軍に味方した武将の多くは、概ねその功績に応じて領地を加増されている。
 一方、反・徳川派の首魁であった上杉景勝、西軍の総帥に推された毛利輝元は、ともに120万石あった所領を召し上げられ、移封を命じられる。上杉は米沢30万石、毛利は長州37万石にそれぞれ減封され、力を大きく削がれたのだ。そして石田三成小西行長ら、西軍首脳陣は所領没収(改易)のうえ斬首され、反・徳川の勢力の芽は潰える。
 このようにして、全国の諸大名は徳川家の下につく体制が着々と整えられていく。そして名実ともに天下人となった徳川家康は、3年後の慶長8年(1603)に「征夷大将軍」に就任。江戸城(東京都)を拠点とした徳川将軍家が全国の大名(藩)を統べる「幕藩体制」の頂点に立った。
 征夷大将軍徳川家康、像
 征夷大将軍となり江戸幕府を開いた家康は、翌年、息子秀忠に将軍職を譲り、天下は徳川家が治めることを全国にアピールした
 以後、江戸城の徳川家(幕府)を中心とした江戸時代は260年以上も続く。「大坂の陣」(1614~1615年)や「島原の乱」(1637年)などの例外はあったが、いわゆる乱世は終わり、泰平の世が到来したのである。関ヶ原の戦いは、それを決定づける壮大な一戦であったといえよう。
 <関ヶ原の舞台をゆく・初回はコチラ>
 決戦当日は、東軍の圧勝で呆気なく終わったともいわれる「関ヶ原の戦い」だが、そこに至るまでは、日本全国を舞台とした長い抗争のドラマがあった。そもそも、なぜ合戦は起こったのか。
 【関ヶ原の舞台をゆく①】関ヶ原の戦いに至るまで~2年前から始まっていた関ヶ原・前哨戦~
 執筆者/上永 哲矢(うえなが てつや)
 神奈川県出身。歴史ライター、紀行作家。日本史および三国志、旅をテーマとして雑誌・書籍・ウェブに寄稿。歴史取材の傍ら、日本各地の城や温泉に立ち寄ることがライフワーク。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)がある。
 写真提供/クレジットのないものはかみゆ歴史編集部
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 歴史読み物
黒田官兵衛はどうして関が原の戦いにおける長政の活躍を苦々しく思ったのか?
 2021.05.192016.01.13
 目次
 官兵衛の天下取り
 北九州の占領
 家康の勝利の知らせ

官兵衛の天下取り
 関ヶ原の戦いで長政が活躍していた頃、官兵衛は黒田家の領地である豊前中津城にいました。
 主力部隊は上杉討伐から転じての東軍参加のために従軍していますので、200人程度の少数の部隊と共に留守番をしていたのです。
 しかし官兵衛はおとなしく領地や城を守っているつもりはなく、この機に秀吉に警戒されたほどの才能を発揮します。
 秀吉という天蓋がなくなり戦乱が訪れたことで、自分が活躍する舞台が作られたのだ、と晴れやかな気持ちで官兵衛は思ったかもしれません。
 官兵衛は生涯の大半を人に仕え、その対象の勢力の維持や拡大に貢献してきましたが、この54才を迎えた時期になってはじめて、自分の意志と判断だけで行動できる自由を得たのです。
 この時に官兵衛が本気で天下を狙っていたかはわかりませんが、戦乱がもつれにもつれればあるいは、とは考えていたでしょう。
 官兵衛は基本的に欲の薄い人であり、何がなんでも天下を得なければならぬ、というほどの気負いはなかったと思います。
 今の状況であれば、やろうと思えば九州は取れてしまう。
 ならばやらいでか、というくらいの気構えはあったかもしれません。
 まずは九州を抑えて、後は状況を見ながらできるだけ勢力を拡大していけばいい。
 官兵衛は現実的に物事を考える人ですので、そのように段取りを考えていたと思います。
 北九州の占領
 官兵衛はたった200人ほどの元手ではじめ、わずか2ヶ月ほどで九州の大半を占領してしまいました。
 まるで魔法のような現象ですが、そのたねは官兵衛が蓄えてきた多額の資金にありました。
 官兵衛はまず資金を投じ、農民や牢人(主君を失った武士)などで構成されたにわか仕立ての軍隊をこしらえます。
 全九州に募集をかけると2ヶ月ほどで9000人の部隊ができあがり、この戦力をもってがら空きとなっている北九州の諸城に攻めかかります。
 黒田家と同じく、大半の大名の主力部隊は関ヶ原の戦いに参加するべく出払っていました。
 なので寄せ集めのにわか軍隊でも、官兵衛の優れた指揮とあいまって、九州で猛威をふるいます。
 官兵衛はまず豊前・豊後の大半をわずか10日ほどで占拠してしまうというすさまじい手腕を見せました。
 毛利家の支援を受けて豊後に侵攻してきた大友義統に対しても、当初は苦戦するものの、やがて討ち破って軍門に下します。
 家康の勝利の知らせ
 そうした戦勝によって軍勢は1万3000にまで膨れ上がり、さらに勢力の拡大を図ったところで、関が原の戦いがわずか1日で終結したという情報が寄せられます。
 おそらくこの瞬間に、あきらめのよい官兵衛は「もしかしたら天下を取れるかも」という夢を捨て去ったことでしょう。
 主力決戦が終わったことを知った官兵衛は家康に領地切り取り次第の約束を取り付け、九州の残敵掃討にその軍を用いました。
 ここまで来たらやりかけた仕事は最後までしあげてしまおう、と思っていたのかもしれません。
 この後は鍋島や加藤といった九州における東軍側の大名と合流し、西軍についた大名の城を次々と攻め落とし、九州の大半を占領することに成功します。
 官兵衛の名声は九州でも広く知れ渡っていたようで、もしも攻め手に黒田官兵衛がいたら、抵抗せずに降伏せよと留守番部隊に言い残してあった大名家も複数あったようです。
 九州占領の事業も後はいよいよ薩摩・大隅(鹿児島県)の島津を残すのみ、となったところで家康から島津との講和がなった旨が伝えられ、官兵衛は軍を解散します。
 官兵衛がその才腕を十全に、自由に発揮できたのはこの年の9月から11月まで、おおよそ2ヶ月ほどの期間でした。
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 関ヶ原の戦い黒田官兵衛
 関ヶ原の戦い九州の勢力図
関ヶ原の戦い九州の勢力図
 1598年8月18日豊臣秀吉がこの世を去ります。豊臣政権下における石田三成を中心とする奉行衆と福島正則加藤清正らの武断派の争いは朝鮮の役でさらに悪化をし修正不可能な状況となっていました。
 秀吉の軍師として天下統一に貢献した黒田官兵衛(如水)ですが、天下人となった秀吉の豹変と晩年の悪政によりしだいに距離を置くようになります。官兵衛は豊臣政権を見限りしだいに徳川家康に近づくようになると、秀吉の死後はさらにその旗色を鮮明にし、息子 長政と家康の養女 栄姫との婚姻を取り結びます(長政の正室だった蜂須賀正勝蜂須賀小六)の娘 糸とは離縁)
 1600年6月 家康は会津上杉景勝に謀反の疑いがあるとして討伐軍を編成します。長政は黒田家の主力を率いてこの討伐軍に参加をしますが、7月になると佐和山に蟄居していた石田三成が家康打倒の兵を挙げ毛利輝元を総大将にすえ軍勢を集めるのです。
 三成は上杉討伐に参加している諸大名の妻子を人質にすべく大坂の大名屋敷を囲みますが、細川忠興正室である細川ガラシャが自害!官兵衛の妻光(てる)と長政の妻栄姫は重臣栗山善助母里太兵衛の機転で屋敷から脱出して難を逃れます。
 三成挙兵の知らせを受けたとき官兵衛は領国の豊前中津に居ましたが、これから起こるであろう大戦に備え準備を始めます。黒田家の主力は長政が率いているため、官兵衛の元にはわずかな留守部隊しか残っていませんでした。官兵衛はまず、城内に蓄えてあった金銀で浪人を雇い訓練を開始します。
 徳川家康から九州での軍事行動の自由と領地切り取り自由(奪った領地は自分のものにできる)の承諾を得た官兵衛は、留守部隊と浪人を合わせ4千の軍勢(兵数には諸説あり)で豊後へ侵攻します。
 関ヶ原の戦い九州の城(戦国時代の城)
関ヶ原の戦い九州の城
 豊後国大友宗麟の嫡男 大友義統(おおともよしむね)が治めていましたが、朝鮮の役において敵前逃亡した罪で秀吉の喚起をこうむり領地を没収され追放されていました。その義統が豊臣秀頼から豊後国速見郡を与えられ入国を試みたのです。
 この速見郡には細川忠興の城 杵築城がありました。細川忠興の領地は丹後ですが、飛び地として杵築城を与えられ家臣の松井康之を城代においていたのです。大友義統から城を明け渡すよう迫られた松井康之は、同じ東軍についている官兵衛と加藤清正に応援を依頼するとともに城の守りを固めます。
 杵築城を救うため豊後に進軍した官兵衛は、石垣原の戦いで義統を打ち破り降伏させます。さらに安岐城、富来城を攻略し降伏した兵を取り込み軍勢はさらに大きくなりました。9月15日に行われた関ヶ原の戦いはわずか一日で決着し東軍徳川家康の勝利に終わります。
 家康は官兵衛に対し毛利吉成の小倉城攻めを命じます。官兵衛は小倉城の支城である香春岳城(かわらだけじょう)を攻め降伏させると、次いで小倉城攻めにとりかかります。城主である毛利吉成(毛利勝信)は西軍側についていましたが、官兵衛とはじっこんの仲であったため、官兵衛の勧告を受入れ降伏します(息子 毛利 勝永は伏見城の戦いで功績をあげ、関ヶ原の戦いにも西軍として参戦)
 10月4日に小倉城を落とした官兵衛は、筑前国へと軍を進め久留米城を攻撃します。この久留米城攻撃では官兵衛の陣に鍋島直茂の軍が加わります。鍋島直茂は当初西軍についていましたが、途中で東軍に乗り換え久留米城攻撃に参加をしたのです。
 久留米城毛利秀包(もうりひでかね)は毛利元就の九男です。兄である小早川隆景に実子がいなかったことから養子となりますが、その後秀吉の正室ねねの甥である秀秋が小早川家の養子となっため廃嫡され別家を創設しました。
 関ヶ原では西軍側につき大津城の戦いに参加後、領地に戻ることができなかったため、久留米城は留守部隊500人で守っていました。しかし、鍋島軍が加わり大軍となった官兵衛の攻撃を受けあえなく降伏します。
 久留米城を開城させた官兵衛は、筑後国に侵攻し立花宗茂の居城柳川城の攻略にとりかかります。立花宗茂関ヶ原の戦いで西軍につき大津城攻撃に参加をしますが、西軍が敗れると船を使い柳川に帰国していました。
 この柳川城攻めには肥後の加藤清正も官兵衛の陣に加わります。清正と長政は入魂の間柄であったため黒田家とは親しくつきあっていました。石田三成が挙兵したとき大坂の屋敷から脱出した加藤清正夫人の乗った船が豊前に漂着した際には官兵衛は夫人を丁重にもてなし清正の領国肥後まで送り届けています。
 そんな事情もあり官兵衛と清正は早くから連絡を取り合っていました。清正は西軍についた小西行長宇土城を攻め落とし官兵衛に合流したのです。
 鍋島軍、加藤軍も加わり4万の軍勢を率いた官兵衛に対し、宗茂は抗戦の構えを見せ鍋島軍との間で戦闘が行われます(八院の戦い)が、官兵衛の粘り強い説得に負け開城を決意するのです。
 10月21日に柳川城を開城させた官兵衛は、いよいよ薩摩の島津攻めに向かいます。島津氏は当主義弘が西軍側となり関ヶ原本戦に参加をしていましたが、多大な犠牲を出したものの義弘は無事薩摩に戻っていました。
 4万を超える軍勢を率いた官兵衛は、九州最強の島津に対し決戦を挑もうとしますが、家康と義弘の間で停戦が結ばれてしまいます。家康は島津攻めの中止を官兵衛に命じます。こうして、官兵衛の関ヶ原は終了するのです。
関ヶ原の戦い・九州の大名のその後
 黒田官兵衛・長政・・・豊前中津12万石から筑前名島52万石に加増され長政が福岡藩主となる(官兵衛は藩祖)
 加藤清正・・・肥後半国25万石から肥後一国52万石に加増され熊本藩主となる
 細川忠興・・・丹後12万石から豊前33万石に加増され中津藩主となる
 寺沢広高・・・肥前唐津8万石から天草領4万石が加増され12万石となり唐津藩主となる
 太田一吉・・・豊後臼杵6万5千石を没収
 小西行長・・・肥後半国20万石を没収され六条河原で斬首。
 毛利吉成・・・豊前小倉6万石を没収され土佐山内家に預かりの身となる
 早川長政・・・豊後府内2万石を没収され大坂冬の陣で消息不明となる
 毛利秀包・・・筑後久留米7万5千石を没収され病没
 島津義弘・・・薩摩、大隅77万石の本領を安堵される。義弘は隠居して嫡男忠恒が薩摩藩主となる
 立花宗茂・・・筑後柳川13万石を没収されるが後に本領に復帰して柳川藩11万石の藩主となる
 小早川秀秋・・・筑前名島30万石から備前岡山55万石に加増されるも病死小早川家は断絶となる。
 大友義統・・・常陸国流罪後死去。嫡男義乗は徳川家に仕え高家となる
 竹中重利・・・豊後高田1万3000石から豊後府内2万石に加増され府内藩主となる
 鍋島直茂・・・肥前佐嘉35万石を本領安堵され嫡男勝茂が佐嘉藩主となる(直茂は藩 祖)
 高橋元種・・・日向延岡5万石を本領安堵され延岡藩主となる
 秋月種長・・・日向高鍋3万石を本領安堵され高鍋藩主となる
 伊東祐介・・・日向飫肥5万石を本領安堵され飫肥藩主となる
 相良頼房・・・肥後人吉2万石を本領安堵され人吉藩主となる
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 日本の旅侍
 慶長出羽合戦もう一つの関ヶ原!「慶長出羽合戦」~上杉景勝VS最上義光伊達政宗
 慶長出羽合戦
 記事カテゴリ
 事件簿
 事件名
 慶長出羽合戦(1600年)
 場所
 山形県
 関連する城
 米沢城 山形城 鶴ヶ城
 関係する人物
 徳川家康
 石田三成
 上杉景勝
 伊達政宗
 本多忠勝
 井伊直政
 慶長5年(1600年)9月、美濃(岐阜県)の関ヶ原徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍を破った「関ヶ原の戦い」。天下分け目の戦いとして有名ですが、実はその裏側で、もう一つ東軍対西軍の大きな戦が起こっていたのはご存じですか?それが、東北地方で起こった最上義光伊達政宗率いる東軍と、上杉景勝率いる西軍が争った「慶長出羽合戦」。今回は「北の関ヶ原」とも呼ばれるこの戦いについて詳しく見ていきます。
 徳川家康VS上杉景勝!「直江状」でさらに炎上?
 慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなった後、徐々に政治的影響力を強めていったのが徳川家康です。「五大老」の一人として政権を運営し、政治の実務を担う豊臣家の重臣石田三成ら「五奉行」と対立を深めていきます。
 そんななか、東北で家康に対抗しようと軍事増強をねらったのが上杉景勝です。景勝は家康と同じ五大老の1人で、当初は越後(新潟県)を治めていましたが、慶長3年1月に隣の会津福島県)120万石に加増移封されていました。国替えの際に活躍したのは部下の直江兼続。三成は兼続に協力しています。兼続と三成が親しかったことも、景勝が西軍についた1つの理由でしょう。
 景勝は兼続に命じ、慶長5年(1600年)3月に神指城の築城を開始します。もともとあった会津若松城鶴ヶ城)のすぐそばに山があり、敵方が山に布陣すると城が危険なことなどを理由に、若松城から3kmほど北西にあり、近くの大川の水を利用できる神指原に城を作ることにしたのです。加えて領内の道を整備し峠を要塞化するなど軍事強化をはかります。さらに、越後奪還をめざし、越後の地侍たちなどに働きかけて一揆を起こさせました。
 この様子を家康に報告したのが、越後を引き継いだ堀秀治。家康は景勝の動きを警戒し、4月に「謀反を起こす気がないのであれば、上洛して説明するように」と使者を送ります。これに対する兼続の返信が、かの有名な「直江状」です。謀反の疑いを否定し、雪がひどく政務をする時間がないなどの理由ですぐに上洛することができない旨を説明する内容でしたが、皮肉たっぷりで家康を馬鹿にした煽り要素たっぷりの手紙だったことから家康が激怒。上杉征伐を決めたとされています。
 ところがこの直江状、現存しておらず写しが残るのみであること、表現に不自然な内容があることなどから偽書説や改ざん説が出ています。とはいえ、直江状がなかったとしても、景勝がすぐの上洛を拒否したことは事実。家康は良い口実を得たとばかりに上杉征伐に向かうのでした。
 上杉征伐に向かう徳川軍、その背後で石田三成が挙兵!
 慶長5年6月、徳川家康は上杉征伐(会津征伐とも)のために大坂城を出発。家臣の本田忠勝・井伊直政に加え、福島正則黒田長政山内一豊などそうそうたるメンバーを連れ、会津に向かいます。迎え撃つ準備をする上杉景勝。背後には徳川方についた最上義光もいるので挟み撃ちにされる可能性がありますが、直江兼続は逆に石田三成常陸国の佐竹氏と組んで家康を挟み撃ちする作戦を検討していたようです(実現しませんでしたが…)。
 さて、7月には下野(栃木県)まで北上した家康軍。そこに届けられたのが石田三成挙兵の一報でした。このまま上杉を撃つべきか、西に引き返して三成を撃つべきか。同行している武将たちの妻子は大阪に残したままで、三成の人質状態です。しかも三成は豊臣秀吉の子飼いの家臣。秀吉と敵対したこともある家康につくべきか迷った武将もいたことでしょう。
 この時行われた軍議が「小山評定」です。秀吉と縁が深かった福島正則が打倒三成を発言して兵糧の提供を申し出、山内一豊が「城を明け渡しででも味方する」と発言したことで、東軍の結束が固まり、引き返して光秀を打つことが決まりました。例によって「小山評定はなかった」という議論もありますが、この段階で何らかの軍議が行われ、西行きが決まったことは明らかです。
 上杉景勝が徳川軍を攻撃せず見逃した理由とは?
 打倒石田三成が決まり、急ぎ反転して西に向かう徳川家康軍。上杉軍から見れば、徳川軍を背後から攻める大チャンスです。石田軍と挟み撃ちすれば徳川滅亡も夢ではないかも?と思いきや…景勝は背後をつくことはしませんでした。
 その理由として「背後を攻めるのは卑怯で上杉の義に反する」ため攻めなかったという説や、徳川方についた東北地方の最上義光伊達政宗といった武将を警戒したため、という説がありますが、現在は後の説が有力視されています。
 実は、家康は早くから義光と政宗を味方につけていました。政宗に対しては「百万石のお墨付き」として、上杉家の土地を切り取り次第で加増する旨を約束しています。この約束、上杉家内の伊達旧領を加増して100万石を保証するもののように誤解されますが、実際は切り取り次第でした。
 そして家康は義光を大将に南部氏・秋田氏・戸沢氏などと米沢口から会津に攻めることを計画。徳川軍本軍や伊達軍などとあわせて5ヶ所から会津を囲いこむ予定でした。
 このように、徳川軍がいなくなったとはいえ上杉軍が2大勢力に背後を脅かされていることは変わりません。景勝が思いきって家康を追撃しようとしても、なかなか難しい状況でした。とはいえ、武門で名高い上杉軍が死力を尽くせば徳川軍に大打撃を与えられたという気もするので、景勝の動き次第では関ヶ原の戦いの結果が変わっていたかもしれません。
 しかし、景勝はまずは東北の徳川勢力を潰すことを考えます。もともと東北での領土拡大は上杉家の悲願。景勝は家康が軍を引き手薄になった最上家を攻撃します。慶長出羽合戦の始まりです。
 慶長出羽合戦①大軍で最上義光を攻める上杉軍
 徳川家康の西上により、会津攻めのために山形にいた諸将が自国に引き上げてしまい、急遽ピンチの陥ったのが最上義光でした。「皆で協力して上杉を叩くはずが、味方が一気に減ってしまった…」と焦る義光。そもそも最上家は24万石で、120万石の上杉家とまともに戦えるわけがありません。兵力も最上7000に対し上杉約2万7000。焦るあまり、時間稼ぎのために上杉家に臣従する動きを見せた、という話も伝わっています。
 そして慶長5年9月8日、上杉軍は最上領への侵攻を開始します。米沢と庄内の2つの方面に兵を分け、最上領を攻める作戦で、米沢を出発した上杉本軍を直江景勝が率いました。9月12日には畑山城を包囲し、激戦の結果13日に陥落させました。
 一方、最上軍は少ない兵力を拠点の城に集中させる戦略を取ります。いくつかの城を捨てても重要拠点を守ろうと考えたのです。
 慶長出羽合戦②長谷堂城を巡る攻防戦
 次々と最上方の城を陥落させながら進む上杉軍。そして9月14日、上杉本軍は長谷堂城を包囲しました。長谷堂城最上義光が籠城する山形城から約8kmに位置する山城で、防衛の要として重要な拠点でした。
 長谷堂城は独立峰に建てられているため城からの見晴らしがよいのが特徴。山の周囲は深田で足を取られやすく、頂の主郭までの道には水堀や土塁、虎口などが設けられており、近くを流れる本沢川が天然の外堀のようになっているため攻めにくい城でした。そんな城を志村光安率いる1000人が必死の思いで守っていました。
 そして9月15日、直江兼続が率いる上杉軍1万8000が城攻めを開始しますが、最上軍は必死の抵抗を見せます。偶然にもこの日は関ヶ原の戦いの日。この時点で石田三成率いる西軍は徳川家康率いる東軍に敗退していますが、その情報はまだ東北には届いていないため、戦は続きます。
 9月16日には光安が決死隊約200名と共に上杉軍に夜襲を仕掛け、約250名を討ち取るという成果を見せました。この時活躍したのが鮭延秀綱。上杉本陣に迫る勢いでもう攻撃を仕掛け、兼続からは敵にもかかわらず「鮭延の武勇は信玄・謙信にも覚えがないほどだ」と絶賛されたそうです。その後も上杉軍は長谷堂城を攻めますが、光安率いる鉄砲隊が必死に守りぬき、上杉軍の挑発にも乗らずに籠城を続けました。
 慶長出羽合戦③最上義光伊達政宗に援軍を依頼
 長谷堂城の戦いの最中、最上義光は何をしていたか。9月15日、義光は伊達政宗に援軍を依頼する使者を派遣しました。政宗の母の義姫は義光の妹なので、義光と政宗は叔父・甥の関係にあったわけです。伊達家と最上家は以前から敵対したり味方になったりと因縁がありましたが、キーパーソンの義姫がいるので援軍が来る可能性は十分にありました。
 一方の政宗は援軍を出すか否か迷います。「上杉家とは和睦したばかり。しかし、家康に協力することにもなっている」。80年近く後の元禄期に編纂された「伊達治家記録」には、部下の片倉景綱からは「援軍を黙殺して上杉が最上を攻め落としたところ、伊達が討ち取ればいいのでは?」というシビアな意見が出され、政宗が「家康に応えるためと、山形城にいる義姫を救うために援軍を出す」と答えたというエピソードが残っています。
 その通りの会話があったかは定かではありませんが、義姫からの働きかけもあり、結果として政宗は留守(伊達)政景率いる援軍3000を出すことを決定。ところが援軍はなかなかつかず、義姫からは「早く来なさい!」と怒りの書状が届いたそうです。援軍が遅かったのは、政宗が迷っていた証拠かもしれませんね。
 9月21日、最上軍のもとにようやく援軍が到着。義光も山形城から出陣して戦に備えます。その後はしばらく膠着状態が続きますが、9月29日、上杉軍が最上軍に総攻撃を仕掛け、双方ともに多くの死者が出ています。そしてこの日(翌日の9月30日とも)、上杉軍にようやく「関ヶ原の戦い石田三成率いる西軍が敗れた」という知らせが届いたのです。
 慶長出羽合戦④石田三成敗退!上杉軍は急いで撤退
 西軍が負けた。そのことを知った直江兼続は大いに焦ります。これ以上徳川家康方の最上義光を攻めても何一つ良いことはありません。最上家の領土を得たところで家康の怒りを買ってしまえばおしまいです。兼続は一時、自害まで考えましたが、前田慶次に諫められて撤退を決断します。
 一方の最上・伊達軍には9月30日、西軍敗退の情報が伝わりました。必死の籠城から一転、東軍の勝利に大喜びで士気は上がります。10月1日に上杉軍が米沢に撤退し始めたのを見て、最上義光自ら軍を指揮して追撃を開始。伊達軍も続きました。ここで今までの攻守が逆転することになります。
 撤退戦は激戦で多数の死者が出ました。最上軍サイドの情報によれば、上杉軍が1580人、最上軍が623人亡くなったそうです。兼続は殿として少しでも兵を逃がそうと試み、鉄砲隊をフル活用して追撃の足を止める作戦で最上軍を大いに苦しめます。この時義光の兜にも鉄砲玉が当たっています。そして10月4日、撤退しきれなかった味方もいましたが、兼続は何とか米沢城に帰還することができました。
 なお、その後勢いに乗った義光は旧領だった庄内地方を攻め、上杉家から庄内地方全域を奪還しています。伊達政宗も上杉領内の旧伊達領を攻めましたが攻め切れず、陸奥国刈田郡2万石を取り戻すにとどまりました。
 こうして慶長出羽合戦は終わりを迎えました。最終的には最上・伊達軍の勝利で終了した合戦ですが、情報1つでガラッと変わる戦の攻守はとても興味深いものがありますね。
 慶長出羽合戦後の東北地方
 徳川家康は慶長出羽合戦での最上義光の活躍を高く評価しました。関ヶ原の戦い後の論功行賞の際は、義光に庄内地方を与えるなど大きく加増しました。その結果、最上家は現在の山形県全域と秋田県南部を治める57万石の大名にのし上がります。
 伊達政宗はといえば、2万石を得て60万石となって終了。「百万国のお墨付き」はあったものの、上杉家と和睦を結んでいたこと、慶長出羽合戦中に徳川方の南部氏領内で発生した和賀忠親による「岩崎一揆」の黒幕が政宗だったことなどから家康の不審を買い、恩賞の希望はことごとく却下されてしまいました。
 一方敗者側の上杉家は、上杉景勝直江兼続が上洛して家康に謝罪。家康もこれを受け入れ、上杉家をつぶすことまではしませんでした。上杉家は120万石から30万石に減らされ、会津から米沢へと国替えされます。
 領地が4分の1になってしまったことから、家臣の中からは部下の人員整理、いわゆるリストラを進言する声もありましたが、兼続は全員を米沢に連れていきました。そして新田開発や治水事業、城下町の整備など内政に取り組み、米沢藩の発展の基礎を築いていくのです。
 とはいえ、明らかに武士過剰の状況ですから、米沢藩は日本一の貧乏藩として江戸時代の多くを過ごすことになります。江戸時代後期、「為せばなる」で有名な上杉鷹山により、米沢藩の財政の立て直しはようやくなされることになるのでした。
 執筆者
 栗本 奈央子(ライター)
 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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