🎑114)─2・G─『ゴジラ-1.0』の主人公は「民間のヒーローたち」で対ゴジラ兵器は純国産であった。~No.256 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   2023年11月23日 YAHOO!JAPANニュース 集英社オンライン「『ゴジラ-1.0』はなぜ大ヒットしたのか? 『シン・ゴジラ』と対照的すぎる「民間のヒーローたち」を主人公に据えた山崎貴監督の思惑
 山崎貴監督/集英社オンライン
 公開からわずか3日間で興行収入10億円を突破し、2023年の実写邦画1位の座に迫る勢いの映画『ゴジラ-1.0』。監督は、『ALWAYS 三丁目の夕日』『STAND BY MEドラえもん』など、巧みなVFXに定評のある山崎貴監督。庵野秀明樋口真嗣監督で話題を呼んだ『シン・ゴジラ』(2016)とはさまざまな面で対照的な本作が、大ヒットした要因を紐解く。
 〈画像〉ゴジラ人形を大事そうに持つ山崎貴監督
 『ゴジラ-1.0』は『シン・ゴジラ』への返歌のようだ
 公開2週間で興行収入21億円を突破し、2023年の興行収入ランキングで実写邦画1位の座も近い。山崎貴監督による『ゴジラ-1.0』は、戦後すぐ、日本が軍備をはぎ取られ、戦後復興も道半ばという時代に設定されている。そうした時代背景もあり、本作でゴジラに対抗するのは国の軍隊ではなく、元軍人を中心とする「民間人」たちだ。
 この「民間」の強調は明確に、先行作品である庵野秀明樋口真嗣監督の『シン・ゴジラ』(2016年)への「返歌」のように見える。政府と官僚組織がほとんど主人公ともいえる『シン・ゴジラ』と、民間を強調する『ゴジラ-1.0』の違いは、いったいどこから生じているのだろうか?
 これについて私は文春オンラインで、民間のプロジェクトの強調は、“ハリウッド映画と肩を並べてグローバルな文化産業の場で「日本」を再興したいという願望の表明”として読み解いたと寄稿した。
 https://youtu.be/x7ythIm0834
 東宝MOVIEチャンネルより公式予告
 本稿ではこれをもう少し違う観点から考えてみたい。キーワードは「官僚」と「民間」との対立である。もし、『シン・ゴジラ』が官僚的なものへの信頼を中心とするなら、「民間」を強調する『ゴジラ-1.0』は「民営化」を金科玉条とする新自由主義的な感性の作品なのだろうか。
 答えはもちろんイエスであるものの、限定的なイエスである。国家や国民的なものを否定してグローバリゼーションを肯定するのが新自由主義だが、この作品には『ALWAYS 三丁目の夕日』『永遠の0』に通ずる、山崎監督らしいナショナリズムに見えるものがある。それとどのように折り合っているのか。この問題の解答が得られずに残るからである。
 この問題を、「官僚」と「民間」をキーワードに考えてみたい。
 *ここからは『ゴジラ-1.0』の結末の示唆を含みます。
 日本の敗戦を個人のトラウマにすり替える
 『ゴジラ-1.0』は「官僚」と「民間」というこの問題について、かなり複雑な手続きを踏んでいる。
 まず主人公の敷島(神木隆之介)は暴走した国家と官僚的組織(戦時の軍隊)の犠牲者である。彼は「特攻」という、国家による非人道的な命令の犠牲者なのだ。ところが、この映画はそれを、大戸島でゴジラに攻撃をできず、同朋軍人を見殺しにしてしまったことに対する敷島の個人的な悔恨へとすり替える。
 特攻から逃げたこと(これは人道の観点からは正当なはずである)が、ゴジラを攻撃できなかったことにすり替えられ、その結果、敗戦=日本の去勢という大状況が敷島の個人的トラウマもしくは去勢にすり替えられる。
 『シン・ゴジラ』でアメリカ軍が積極的に介入していたのとは違い、国際政治(アメリカのプレゼンス)は冷戦の始まりを口実に消し去られる。そのような状況から敷島が抜け出す近道はもちろん、特攻を再演して自爆死することである。それは、『ゴジラ-1.0』を敷島個人の悪夢から、再び日本戦中・戦後史へと引き戻しただろう。戦時の官僚制の暴走、そして敗戦という歴史へと。
 主人公が「民間ヒーロー」だったワケ
 だが、それは世界市場をにらむエンターテインメント大作として陰惨すぎるだけではなく、「戦えなかったぼく」を「戦える/戦えたぼく」へと修正したいという欲望、つまり日本の再軍備化(改憲)への欲望をあまりにも赤裸々にさらけ出してしまうことになるだろう。また、当たり前だが、この「自爆テロ」の時代に特攻を美化するなど、できようはずもない。
 それに解決をもたらすのが、(少々ご都合主義的にも思える結末に加えて)「民間」の強調である。『ゴジラ-1.0』の英雄たちは国家の英雄ではあり得ない。それは、自主的に集まった文民の英雄たちでなければならない。
 このことは、12月刊行予定の拙著『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』(集英社新書)および11月刊行予定の拙著『はたらく物語 マンガ・アニメ・映画から「仕事」を考える8章』(笠間書院)での議論に照らし合わせてみるとより理解しやすい。
 前者の『正義はどこへ行くのか』で私は、日本のヒーローものを「官僚的な組織の正義」と「それを疑う民間組織」の対立で読み解いた。『シン・ゴジラ』の庵野秀明は基本的に官僚的な組織の有能性を志向しつつ、その不可能性にむしばまれてきた作家である。また後者の『はたらく物語』では、『僕のヒーローアカデミア』や『株式会社マジルミエ』など、近年顕著な「企業ヒーローもの」を、「市場」が正義となった新自由主義状況の文脈で読み解いた。
 「ものづくりジャパン」へのノスタルジアが大ヒットに繋がった?
 『ゴジラ-1.0』は、そのような意味での新自由主義の作品なのだろうか。
 『シン・ゴジラ』と『ゴジラ-1.0』の対立においては確かにそう見えるし、それ自体は間違いではない。だが、冒頭で述べたとおり、それでは『ゴジラ-1.0』が明確に志向する──そして山崎貴監督の他の作品も志向する──ナショナルなもの、「日本」への志向はどう考えればよいだろうか。
 先述の記事では私はそれをグローバルな文化産業市場における日本的なものの商品化と説明した。だが、ここにはもう一つの説明がありうる。
 それは、「小さな政府」を標榜する新自由主義が、経験的には権威主義的な国家をともない、それによって推進されてきたという事実である。例えば現在進められている高等教育(大学)改革を考えてみればよい。それは大学教育を「市場化」するという目標を掲げつつ、実際は大学を国家の権限の下に置き、直営とすることによってそれを達成しようとしている(現在進行中の国立大学法人法「改正」をめぐる議論を参照)。
 つまるところ、「国家か市場か」という新自由主義が提示する二者択一は幻想なのだ。それらはこれまで結託し続けたし、これからもそうだろう。
 『ゴジラ-1.0』は「ものづくりジャパン」へのノスタルジアにあふれた作品である。そして「民間のヒーローたち」の集団的なプロジェクトを中心に据えたことは、この映画の人気の秘密であろう。だが、「民間」を強調するこの(新)自由主義が、去勢された日本の再軍備化の代替物になりうることは、矛盾ではない。現実においてそれらは一体のものだからだ。国家と資本の結託は、新自由主義というまやかしの世界観を経ても消え去ってはいない。その限りにおいて、『ゴジラ-1.0』における「民間」を、文字どおりに読むことは許されないのである。
 文/河野真太郎
 写真/Shutterstock ゲッティイメージズ
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 11月15日 YAHOO!JAPANニュース「<ネタばれ注意>対ゴジラ戦闘で大活躍のあの兵器は理にかなっている 現代史記者が読み解いた「-1.0」の教訓
 「ゴジラ-1.0」がヒット街道をばく進している。山崎貴監督は1954年公開の「ゴジラ」第1作を強く意識し、終戦直後の日本に「戦争の象徴」としてのゴジラを登場させた。初代ゴジラの生みの親の一人、本多猪四郎監督が1992年10~11月のロングインタビューで語った半生と映画への思いを、未公開の貴重な発言も含めて掲載する。「ゴジラ-1.0」を読み解く手がかりとなるコラムと合わせて、どうぞ。
 栗原俊雄
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 1954年の初登場から70年目、30作目にして「ゴジラ-1.0」の舞台に選ばれたのは、敗戦間際と敗戦後の日本。「大日本帝国」は、敗戦によって明治以来度重なる戦争で広げてきた植民地をすべて失い、「固有の領土」だった北方領土まで奪われ、かつ「一等国」の地位から敗戦国となり、多くの軍人らが連合国の裁判で「戦犯」とされ死刑になった。「新生日本」は「ゼロからの出発」どころか、まさに「マイナスからの出発」だった。筆者は日本の近現代史を20年以上取材、執筆している。本作で描かれている、特攻で出撃しながら帰還した元兵士や、空襲によって孤児になった人たちも取材してきた。そうした史実に照らして映画を見てゆこう。
 ※物語の結末まで触れています。
 米軍の大艦船団がフィリピンのレイテ島に来襲し日本軍の敗色が濃くなって、特別攻撃隊が海軍に続き陸軍にも編制された。神風特攻隊梅花隊聖武隊の出撃。写真の補助タンクをつけた一番機の直掩機搭乗員は梅花隊の角田和男少尉=フィリピン・ルソン島で1944年11月
 「十死零生」の邪道作戦 特攻
 神木隆之介演じる主役の敷島浩一少尉は、零式艦上戦闘機零戦)に乗った航空特攻隊員。特攻は、搭乗員が爆弾を抱いた航空機もろとも敵艦に体当たりする「作戦」だ。成功すれば搭乗員は100%近い確率で戦死する。いかに戦時中といえども、兵士に「死んでこい」というような作戦は邪道中の邪道だ。パイロットを育てるには相当の時間がかかる。特攻を続ければそうした戦力が枯渇するのは当然で、兵士の士気が下がるのも必然だ(拙著「特攻 戦争と日本人」中公新書)。
 その特攻は敗色濃厚な44年10月、フィリピン戦線で海軍が始めた。5機の、爆弾を装着した零戦が米艦船を攻撃。護衛空母「セント・ロー」を撃沈した。当時、航空機が爆弾や魚雷で敵艦を沈めることが難しくなっていたが、わずか5機が大戦果を上げたのだ。作戦を主導した大西瀧治郎中将自らが「統率の外道」と言った「作戦」だが、この「大戦果」の影響もあってか、敗戦まで続いた。
 「ゴジラ-1.0」敷島浩一/神木隆之介©2023 TOHO CO.,LTD.
 「九死に一生」どころか「十死零生」(映画の中でも敷島が口にしている言葉)の「作戦」を米軍が想定していなかったこともあり、当初は戦果を上げた。陸軍も特攻を始めた。だが米軍が日本側の意図を知り、対策を整えるにつれて(レーダー網を駆使して、かつ迎撃用の艦船や航空機を配置するなど)、期待したほどの戦果は上がらなくなった。日本側としては熟練のパイロットが少なくなっていたことと、特攻に投入する航空機の不足があった。
 米軍機に撃墜される零戦=1944年11月10日
 「故障」装って帰還 実際にあった
 さて映画の中で敷島少尉は、特攻に飛び立ったものの機体の不調を訴えて大戸島(第1作から登場する架空の島)に着陸する。ところが、整備班が調べても敷島機に異常は見つからない。整備兵は敷島に疑いの目を向ける。
 大戦末期は航空戦力の不足が深刻だった。このため旧式機も多数投入され、実際にエンジントラブルで引き返す例が続出した。そして、機体に異常がないにもかかわらず、出撃して何度も帰って来る、敷島のような特攻隊員もいた。
 たとえば「特攻基地 知覧」 (高木俊朗著・角川文庫)に陸軍の例が記されている。教員だった川崎渉少尉は陸軍に召集され、特攻に出撃するも「飛行機がだめでした」と帰還する。整備兵が確認すると、異常はない。そんなことが何度か続いた。川崎少尉の妻が出撃前に訪ねて来たために「みれんが出て、死ねない」と打ち明けると、整備隊長から「死んでしまえ」とののしられた。その後、川崎少尉は一式戦闘機(隼)で飛び立った。特攻ではなく、鹿児島県隼人町(現霧島市隼人町)にある日豊線の線路脇の土手に突っ込み、即死した。自宅のすぐそばだった。
 敷島らのいる基地をゴジラが襲った。零戦の機銃で撃つよう、整備班リーダーの橘宗作(青木崇高)が求めるが、敷島はおじけづいて何もできない。この時点のゴジラは、その後出てくるよりも体が小さい。もし敷島が零戦の20ミリ機銃を撃ち込んでいたら、撃退できたかも?とも思う。
 終戦・東京両国の焼け跡 1945年3月10日の東京大空襲では一夜のうちに10万余の人命が失われた 手前は国技館
 澄子の子どもと敷島の両親を奪った空襲
 戦争末期、米爆撃機B29の執拗(しつよう)な爆撃で東京の街は崩壊していた。特に被害が大きかったのが、45年3月10日の東京大空襲だ。東京東部、隅田川沿岸を300機以上のB29が襲い、およそ10万人が虐殺された。敗戦で敷島は東京に帰る。だが敷島の両親も死んでいた。隣人の太田澄子(安藤サクラ)も子ども3人を空襲で亡くしており、敷島も「軍人のせいだ」などと責められる。
 映画には出てこないが、この爆撃を指揮した米軍の指揮官はカーチス・ルメイ。前任者は民間人の住宅街を避けて軍事施設を攻撃する「精密爆撃」を行っていた。だが期待通りに戦果が上がらない中、民間人を巻き込む無差別爆撃に戦術転換した。アメリカにとっては成功だが、日本にとっては残忍な戦術転換となった。
 戦後、空襲被害者や遺族は、このアメリカの将軍を「鬼畜」「皆殺しのルメイ」と呼んだ。そして64年、日本政府はそのルメイに勲一等旭日大綬章を贈った。「航空自衛隊の創設に貢献した」という理由だ。日本人なら閣僚経験者が叙勲される高位勲章である。焼夷(しょうい)弾で焼き殺された庶民の多くは、今も収容されず、東京のどこかに埋まっている可能性が高い。勲章を贈られるどころか、だれからも手を合わせられないまま(拙著「遺骨 戦没者三一〇万人の戦後史」「東京大空襲の戦後史」ともに岩波新書)。
 終戦の日から11月中旬までに全国で733人の行路病者が出た。その大半が駅などにたむろする浮浪児。栄養失調死だった。枕を貸しているのは母親か?=1948年8月
 戦災孤児 アキコの幸運
 空襲で生き残った者たちにも地獄が待っていた。たとえばいきなり保護者を失った戦災孤児だ。映画の中にも登場する。空襲のさなかを逃げ惑う母親から、血のつながりのない大石典子(浜辺美波)に託された赤ん坊、アキコだ。闇市で知り合った敷島と一緒に育てることになる。敷島につらくあたった隣人の太田も育児を助ける。
 親切な大人たちに巡り会ったアキコは幸運だった。多くの戦災孤児が、大人でさえ生きていくのに苦労した状況で辛酸をなめた。筆者が取材を続けている女性(82)は東京大空襲で孤児になった。「3歳で住む家がなくなりました」。親戚に引き取られたが、虐待された。「親と一緒に死ねばよかった」といった言葉の暴力。食事を十分に与えない肉体的な虐待もあった。「死ぬことも考えました」。そう振り返る女性は、今も心に傷が残る。
 「ゴジラ-1.0」©2023 TOHO CO.,LTD.
 重巡洋艦「高雄」の実力
 ゴジラは米軍が太平洋のビキニ環礁で行った核実験で被爆し数倍に巨大化、日本近海に現れる。木造船に乗って機雷除去の仕事に当たっていた敷島たちは、ゴジラの足止めにかり出された。敷島らは機銃や、回収した機雷で立ち向かうが太刀打ちできない。あわやという時、旧海軍の重巡洋艦「高雄」が現れる。太平洋戦争を戦い抜いたものの、英海軍によって沈められることになっていた高雄がシンガポール沖から救援に来たという設定だ。高雄の20センチ主砲弾は、当たれば鉄の塊を粉々にする威力だが、直撃されたゴジラはびくともせず、かえってパワーが増すかのようだ。高雄はあっけなく「撃沈」される。
 実際の「高雄」はシンガポールで敗戦を迎えた。英海軍が接収し46年10月27日、マラッカ海峡で同海軍によって沈められた。
 日本海軍の巡洋艦「高雄」
 これも映画では触れられていないが、第二次世界大戦では日本人310万人が命を落とした(厚生労働省の推計)。うち30万人は海没、つまり海で亡くなった人たち。政府は戦後、日本近海などで収容を進めたが、99%以上が未収容、行方不明だ。近年、厚労省は海外での収容にも力を入れはじめたが、それでもほとんどは海で永眠することになるだろう。米軍の爆撃などにより一瞬で亡くなった人もいただろう。また海に投げ出されておぼれ、最期まで苦しみ抜いた人も多かったはずだ。
 局地戦闘機震電」の試作1号機。プロペラが機体の最後尾にあるのが特長
 震電が登場したのは理由があった?
 さてゴジラは暴れ回り、ついに東京に上陸。ようやく再建された街を破壊し尽くし、戦争で生き残った人たちを殺してゆく。旧海軍軍人が集まり、元技術士官の野田健治(吉岡秀隆)が「わだつみ作戦」を立案。再度現れたゴジラを洋上におびき出し、「太平洋戦争」における日本海軍最高の武勲艦と言われる駆逐艦雪風」などが作戦を決行するが、もろくも失敗する。
 ここで大活躍するのが、旧海軍の局地戦闘機震電」だ。戦争末期にB29を迎撃するために開発された、機体の後部にプロペラを配した特殊な構造の戦闘機だ。史実では実戦に間に合わなかった。それがなぜ、ゴジラ迎撃に選ばれたのか。どうして乗り慣れた零戦ではないのか。実は、前プロペラの零戦は機体前部が緩衝となり、特攻の効果を十分に上げられなかった。爆弾を積んでゴジラに〝特攻〟するには、震電が最適だった――というのが筆者の謎解きである(考えすぎかもしれないが)。
 「ゴジラ-1.0」©2023 TOHO CO.,LTD.
 戦没者遺骨100万体以上が行方不明
 特攻や海軍の兵器、あるいは焼け野原になった東京など、「ゴジラ-1.0」は史実を押さえている。戦争に知識や関心がなかった人たちが興味を持ついい機会にもなるだろう。ただ、映画の中で「自分たちの戦争を終わらせた」という敷島たちと違い、現実の世界では戦争はまだ続いている。戦争被害で苦しんでいる人は、「戦後78年」の今も多数存在するのだ。さらに、前述の戦没者遺骨は今も100万体以上が行方不明。肉親の遺骨を探している遺族もいる。戦闘は終わっても戦争被害は終わらない。広義の戦争は続いている。
 その暴虐ぶりに「何をこんなに怒っているのか」とも思ったが、ゴジラ大日本帝国の政略も戦略も戦術も間違った戦争によって命を落とした人たち、あるいはアメリカの原爆によって殺された人たちの怒りと恨みと怨念の塊と考えれば、納得もいく。
 「戦没者310万人」という概数ではなく、家族がいて、あるいは豊かな未来があったはずの一人一人が命を失ったこと。さらには戦争被害に苦しんでいる人が今もたくさんいること。本作が、そうした戦争の実相を知るきっかけにもなればと願う。
 ゴジラ−1.0
 ゴジラ生誕70周年記念作品。戦後、無(ゼロ)になった日本へ追い打ちをかけるように...
 2023年 /日本 /125分 /G
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 ライター
 栗原俊雄
 くりはら・としお 1967年生まれ、毎日新聞専門記者。2003年から学芸部。専門は戦後補償史、日本近現代史。07年からシベリア抑留体験者や遺族に取材を続けている。08年にはシベリアでの墓参に参加。著書に「シベリア抑留 未完の悲劇」(岩波新書)、「シベリア抑留 最後の帰還者 家族をつないだ52通のハガキ」(角川新書)など。
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 戦前の軍工廠と軍需産業は、科学的な破壊イノベーションと改良リノベーションを繰り返していた。
 それを象徴するのが、戦闘機をはじめとした軍用機である。
 それ故に、日本を占領したアメリカは日本の航空産業をいの一番に潰した。
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 11月23日 YAHOO!JAPANニュース 乗りものニュース「そっち向きに飛ぶの!? 異形の旧海軍機「震電」 ぶっとんだ設計のワケ
 市民の目にも触れた開発中の「震電
 旧日本海軍が開発した局地戦闘機震電」(画像:アメリカ海軍)。
 敗戦から復興途中の日本を、謎の超巨大水中生物「ゴジラ」が襲います。新作映画『ゴジラ-1.0』の一幕です。占領下の日本という設定で、帝国陸海軍はすでに解体されていますが、生き残りの兵器がゴジラ駆除に使用され、その中には異形で有名な戦闘機もありました。
 【写真】いま、日本で見られる「震電
 「なんだあの飛行機!? 前後逆向きに飛んでるんじゃないか」
 1945(昭和20)年8月、福岡市の夏空を見上げたある人が妙な飛行機を見かけます。この逆向き飛行機こそ、旧日本海軍期待の十八試局地戦闘機震電」でした。初飛行は同月3日のことで、実機の飛行回数は6、8日と合わせて3回のみ。試験飛行が実施されたのは、福岡市内の陸軍席田(むしろだ)飛行場(板付飛行場、現・福岡空港)でした。
 この飛行場は市街地と隣接しており、飛行中は必然的に多くの人の目に触れました。当時は、カメラを持って飛行場を撮影する柵外活動など思いもよらないことですが、それでも関心を集めたようです。ただ、製作を担当した九州飛行機の山本順平社長(元海軍少将)は「極秘兵器の試験をあんな所でやるなんて迂闊千万だよ」と嘆いたそう。もはやそんな機密保持まで気にする余裕もなくなっていたのかもしれません。
 「震電」の特徴は珍しい前翼機という点です。主翼の前に前翼を配置し、水平尾翼はありません。プロペラを後部に配置する推進式です。当時、飛行機といえばプロペラが前にある牽引式が一般的ですから、柵外の人が逆向きに飛ぶように見えたのも無理はありません。
 前翼機は空気力学的に優れている点があるとされており、世界初の動力飛行機であるライト兄弟の「フライヤー号」もこの形式です。もっとも当時各国でいくつか試作されましたが実用には至っていません。
震電」に求められた性能とは
 製作研究用に作られた前翼型グライダーMXY-6(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 「震電」の計画要求書には、目的として「敵重爆撃機ノ撃墜ヲ主トスル優秀ナル高速陸上戦闘機ヲ得ルニアリ」とあります。海軍がこの異形に目を付けたのは、高空を高速で飛び、硬いB-29を迎撃することの一点でした。さらに要求書は高度8000mまで10分30秒以内、実用上昇限度1万2000m以上、高度8700mで最高速度400ノット(740.8km/h)以上30分維持を求めており、かなり野心的です。
 B-29を落とすには強力な武装が必要であり、前部にエンジンやプロペラを配さなくてよい前翼機は最適でした。「震電」はここに五式30mm固定機銃一型乙を4門装備することが計画されました。
 五式30mm機銃は強力ですが、発射反動も大きく重さが1門でも70kgあり、かつて戦闘機部隊からは対戦闘機戦には使えないと反対された武装です。通常の牽引式であれば主翼に配置するか、機首に集めるなら双発機とせざるを得ず大型化し、期待される高速陸上戦闘機にはなりそうにありません。
 そこで思い切った発想の転換、改革が必要でした。重武装を単発の小型機に収めることができる前翼機形式の採用もイノベーションですし、海軍戦闘機の伝統芸「巴戦法」という格闘戦能力をキッパリ排したのもイノベーションです。「震電」は高速で早く高空に達し、大火力で射撃しつつ退避を図る一撃離脱戦法を旨としました。海軍航空本部実験部長の見解で、「この飛行機の利点は高速度によって反復攻撃ができることにあり、旋回に重きを置きすぎるとその特徴が失われる恐れがある」と、その方向性を示しています。
 初飛行は終戦の12日前
 後部から見た「震電」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 開発は急ピッチで進められますが、ネックとなったのが最大の特徴である、後部にプロペラがあるという形そのものです。
 地上滑走では、車輪が巻き上げた泥や小石など異物(FOD)がプロペラに当たります。脚は長くて貧弱です。機銃の空薬莢は排出するとプロペラに当たるため、機内に回収せざるを得ません。脱出時には乗員すら巻き込まれる危険性があり、プロペラを簡単かつ確実に離脱できる機構が必要です。
 以上のように、「震電」には牽引式機体にはない要素が多く要求され、構造は複雑化し重量も増加しました。初飛行前の地上滑走試験では機首を不用意に持ち上げたため、プロペラが接地して羽が曲がる事故を起こしています。
 こうした難題を何とかクリアして、終戦12日前には初飛行に漕ぎつけますが、実機の試験飛行はわずか3回で合計飛行時間は1時間程度。期待の性能を発揮できたのかはわかりません。
 架空の1947(昭和22)年、ゴジラ駆除に駆り出された「震電」は対地攻撃を行います。武装は強力ですが、先述の一撃離脱戦法を旨とする「震電」に、低空を低速で反復攻撃する対地攻撃は不向きです。
 異形の「震電」は実戦に間に合いませんでしたが、21世紀になっても映画に登場するなど多くのインスピレーションを生み続けています。極秘兵器のはずだったのに人目を気にしなかったようにも見えるのは、関係者は終戦の気配を感じており、戦争には役立たずとも戦後に続く何らかの刺激になることを期待していたのかもしれません。
 月刊PANZER編集部
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