🎑114)─2・D─映画『ゴジラ −1.0』の評価。ファンでなくても楽しめるストーリー。~No.256 

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 2023年11月13日 YAHOO!JAPANニュース「映画『ゴジラ −1.0』ファンでなくても楽しめるストーリーと、ゴジラ好きにはたまらない演出
 渡辺晴陽作家・脚本家/エンタメアドバイザー
 今月より公開が始まった『ゴジラ −1.0(ゴジラ マイナスワン)』、初動は『シン・ゴジラ』を越え、大ヒットしています。
 映画レビューサイトでの評価は4点以上(5点満点)の高評価が多くなっていますね。
 邦画の実写映画としてはずいぶん久しぶりの興行収入100億円超を記録するのでは、と期待が膨らみます(※ちなみに『シン・ゴジラ』は興収80億円超でした)。
 今回はそんな『ゴジラ −1.0』を観て感じた魅力を語ります。
 すでに映画を鑑賞された方は、一緒に余韻に浸りませんか?
 まだ鑑賞されていない方や、見るかどうか迷っている方は、ぜひ参考にしてくださいね。
 ※ネタバレは極力しないように気をつけておりますが、映画の内容に触れる部分も多少あります。
 気になる方はご鑑賞後にお読みください。
 タイトルの読み方と意味
 まず、多くの人が気になるのが、本作のタイトルではないでしょうか?
 記事の最初に読み方を書きましたが『ゴジラ −1.0』とだけ書かれていたら、どう読めば良いのか分からないはずです。
 かく言う私も、最初は「バージョン1.0」みたいなことかと思っていました。
 正しい読み方は、上記の通り「ゴジラ マイナスワン」です。
 映画の公式サイト等には「戦後、日本。無(ゼロ)から負(マイナス)へ」とあります。戦争で荒廃してゼロからの再出発をしようとしている日本をゴジラが襲い、ゼロどころかマイナスの状態になることを表しているようです。
 映画としての完成度
 本作を見て衝撃を受けたのが、映画としての完成度の高さです。何より、ゴジラの存在感とドラマ性とのバランスがとても良かったと思います。
 ドラマ性って?
 特に実写作品の映画監督や脚本家は作品のドラマ性を大切にする傾向があります。
 私自身もドラマ性とは何かをはっきりと理解できているわけではありませんが、ざっくり言うと登場人物の葛藤や成長があるとドラマ性が高い作品だと言われることが多いです。
 たとえば、完全無欠のヒーローが危険を省みずに敵地におもむきヒロインを救うというストーリーだとドラマ性が無いと言われます。
 ヒーローにも欠点や弱さがあって、戦うべきかどうか悩んだり、死地におもむくのをためらったりする。ヒーローなのに逃げ出してしまう。欲に目がくらんで悪事を働く。など、等身大の人間として悩んだり苦しんだりしているとドラマ性の高い作品だと言われやすくなります。
 漫画原作の作品の実写化の際には、ドラマ性へのこだわりが強すぎて、主人公や重要人物の性格が変わってしまったり、重要な設定が削られたり余計なエピソードが増えたりして、原作改変だと批判されることも少なくないように思います。
 怪獣映画やゾンビ映画のほか、パニック系のシリーズ作品などでも、人間同士のドラマを描きすぎて肝心の怪獣がなかなか登場せずファンががっかりするというケースもあります。
 ですが、本作のバランスは絶妙でした。
 イメージ:戦後
 終戦直後、戦争の爪痕が色濃く残る日本に、ゴジラという圧倒的な存在が襲いかかる。そのときの人々の混乱や恐怖。無からマイナスになる絶望。戦後を生きる人たちの悲しみ、そして、未来への希望も感じられ、戦後を描いた映画としても充分な見ごたえがありました。
 特に印象的だったのが、ゴジラの退治を試みる人たちが、とても人間らしく描かれていたことです。
 特撮シリーズでは、怪獣や怪人に立ち向かう「〇〇特捜隊」とか「〇〇防衛軍」のような人たちは、勇敢で死を恐れない人物に描かれがちです。しかし、本作では、戦争で疲れ切った様子やゴジラに恐れをなす姿も描かれています。そんな人たちが勇気を振り絞ってゴジラに立ち向かう姿には胸が熱くなります。
 それにしても、現代兵器で戦っても勝てないであろうゴジラを相手に、第二次世界大戦のころの戦車や戦艦で戦うなんて……。並な覚悟ではできないことでしょう。
 また、ネタバレにならないよう記載はしませんが、本作には名台詞がいくつも登場します。個人的には吉岡秀隆さん演じる「野田」が戦争の経験を踏まえて語った言葉に感銘を受けましたが、他にも胸を打つセリフがいくつもありました。
 「ヒューマンドラマよりもゴジラを見たいんだ!」と言う方もいることでしょう。
もちろん、御心配には及びません。本作はあくまでもゴジラです!!
 イメージ:深海魚
 ゴジラの存在感も決してストーリーに負けていません。
 時間を計測したわけではありませんが、ゴジラの登場シーンには比較的長い時間が割り振られている印象でしたし、音楽や演出からは監督のゴジラ愛がひしひしと伝わってきます。
 ドラマ性の高いストーリーですが、そのドラマがゴジラの躍動を邪魔しておらず、むしろ両者が上手くバランスを取り、互いに引き立て合っています。
 1954年に最初の『ゴジラ』が公開されて以来、70年に渡って様々なシリーズが公開されてきた中で、ゴジラの怖さは単なる「恐怖」ではなく、神様のような圧倒的なものへの「畏怖」に近いもとして作り上げられてきました。
 戦後の日本を襲ったのがゴジラだったからこそ、本作のドラマが生まれています。
もしも、日本を襲ったのがゴジラではない他の怪獣や宇宙人なんかだったとしたら、ストーリーのリアルさが欠けて映画は破綻していたことでしょう。そういう意味で、本作は極めて完成度の高いゴジラ映画だと言えるでしょう。
 少し気になる点があるとすれば・・・
 ゴジラの体の形には、賛否が別れるようです。
 本作のゴジラは、過去のゴジラよりも下半身が力強い造形になっています。足が太くて手が短く少しずんぐりした印象ですが、科学考証面ではこれまでのゴジラが細すぎたので、現実にありえそうな体形になったというとらえ方もできます。
 また、背びれもとげとげとした特徴的な形をしています。本作にはゴジラが水中を泳ぐシーンが多いため、背びれを特徴的にすることでゴジラが迫りくる緊迫感を演出しているのでしょうか。ゴジラが泳ぐ姿は、サメ映画でサメが迫ってくるシーンのようですが、サメとゴジラでは破壊力が違いますね!
 放射熱線を吐くシーンでゴジラがちょっと兵器っぽいのも、賛否が分かれるところかもしれません。
 予告編を見れば分かりますがゴジラの鳴き声も、これまでのゴジラの名残はありますが、少し獣っぽい声になっています。私はゴジラの咆哮が大好きだったので、もう少しゴジラらしい鳴き声でも良かったのではないかと感じました。
 ゴジラの造形以外では、ラストシーンに少し気になる点があります。子どもの反応や重要人物のセリフなど、少しリアリティに欠ける気がしました。他にも、ラストシーンにはいくつか不自然なところがあります。撮影や脚本上の都合なのか、それとも続編を見据えた伏線になっているのでしょうか。ネット上には、考察や予想の記事がいくつも出ていますね。
 もっとも、これらの点はあえて注目しなければほとんど気になりませんし、全体的にはとても面白い映画でした。
 たとえゴジラに興味が無くても楽しめるほど深いストーリーがあり、とにかくゴジラを見たい怪獣映画ファンも満足のゴジラの存在感。ゴジラファンにはもちろんオススメの一作ですが、まだゴジラシリーズを見たことが無い人にもオススメできそうです。
 戦後を描いたストーリーは子どもにとっては少し難しいかもしれませんが、特撮や怪獣映画が好きなら子どもでも充分に楽しめるはずです。
 先の『シン・ゴジラ』はゴジラをSF超大作のように作り上げた一作でしたが、本作『ゴジラ −1.0』は重厚かつスリルあるドラマに仕上がっています。
 興味のある方は、鑑賞されてみてはいかがでしょうか?
 映画館ではグッズ販売があるほか、タイアップしたメニューの提供やコラボキャンペーンをしている映画館や飲食店、コンビニもあります。映画の世界観にどっぷり浸かる一日を過ごせるのは映画公開中だけの楽しみ方ですよ!!
 記事に関する報告
 渡辺晴陽
 作家・脚本家/エンタメアドバイザー
 国立理系大学院卒、元塾経営者、作家・脚本家・ライターとして活動中。エンタメ系ライターとしては、気に入ったエンタメ作品について気ままに発信している。理系の知識を生かしたストーリー分析や、考察コラムなども書いている。映画・アニメは新旧を問わず年間100本以上視聴し、漫画・小説も数多く読んでいる。好みはややニッチなものが多い。作家・脚本家としては、雑誌や書籍のミニストーリー、テレビのショートアニメや舞台脚本などを担当。2021年耳で読む本をつくろう「第1回 児童文学アワード」にて、審査員長特別賞受賞。
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 11月15日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「『ゴジラ-1.0』と『シン・ゴジラ』の“最後の表情”が正反対な理由 アメリカの隠喩でも環境破壊の警鐘でもなくなった怪獣の“正体”とは
 山崎貴監督 ©時事通信社
 東京を絶望的な破壊に飲み込むゴジラを凍結する作戦が成功した瞬間、作戦にたずさわった人びとの緊張は解け、みながため息をつく。こういった場面にありがちな、喜びを爆発させたり、泣きながら抱き合ったりといったものは皆無で、みなが憔悴しきった様子でため息をつく。
 【画像】山崎貴監督との対談に現れた庵野秀明監督の表情
 ……これは2016年公開、庵野秀明樋口真嗣監督の『シン・ゴジラ』のクライマックスである。私はこの瞬間は、数あるゴジラ映画の中でも最高の瞬間の1つだと思っている。そして、この瞬間は、『シン・ゴジラ』と、大ヒット公開中の『ゴジラ-1.0』の歴史観の違いの本質を表現している。
 山崎貴監督『ゴジラ-1.0』は確実に、ゴジラ映画史に新たな1ページを開いた。ほんの7年前に『シン・ゴジラ』という怪物のような作品があったにもかかわらず、白組の手掛けるこの映画の視覚効果(VFX)は日本映画の視覚効果を一段上に引き上げたと感じられる。
 一方で、芝居や演出は、好みが分かれるかもしれない。筆者は正直に言って、山崎監督の『ALWAYS 三丁目の夕日』などの過去作と同様に、そのお涙頂戴のセンチメンタリズムはちょっと受けつけなかったが、それは個人的な好みの問題だと言われればそれまでかもしれない。世間の評判から考えると、私の感性は少数派のようだ。
 *以下、『ゴジラ-1.0』の結末に触れる部分があります。
 「シン・ゴジラ」は日本の戦後を「未解決なもの」として扱った
 それ以上に興味深いのは、そのようなセンチメンタリズムも含めて、『ゴジラ-1.0』は『シン・ゴジラ』への「返歌」かとも思えるほどに、この2つの作品が好対照をなしていたことである。その対照性は、先ほど記述したクライマックスの場面が雄弁に物語っている。『ゴジラ-1.0』では、なんの衒いもなく登場人物たちは歓喜する。
 この演技・演出の違いは、演劇性やリアリティに対する考え方の違いにとどまらないものであるように思われる。それは、日本の戦後をどう考え、それにどのような物語をほどこすかという、ほぼ歴史観の違いといっていいものを表現しているのであり、それを観る私たちはその違いに十分に意識的になるべきだろう。
 『シン・ゴジラ』は戦後日本を、その国際関係ともども、終わりがなく未解決のものとして差し出し、ゴジラ出現以降の政府の動静とアメリカを中心とする国際関係をたっぷりと描いた。
 もちろん、東日本大震災が引きおこした原発メルトダウンに対する政府の対応を固唾を呑んで見守るという経験によって、私たちの中にそのような想像力が研ぎ澄まされていたことが大きい。
 そして、東京のゴジラに対するアメリカによる核攻撃が迫る中、ゴジラはぎりぎりのタイミングで凍結される。しかしそれはあくまで一時的な凍結である。アメリカによる覇権とその「傀儡」としての日本政府という関係──つまり戦後体制の残滓──は「未決」のままに繰り延べにされる。
 それに対して、『ゴジラ-1.0』は時代を戦後すぐというオリジナルの『ゴジラ』よりも前に設定したが、そこにある欲動は「戦後体制を越えていくこと」であった。
 だがそれは、『シン・ゴジラ』のように政治の物語そのものとしてではなく、主人公敷島(神木隆之介)の個人的物語として語られる。つまり、戦時中に特攻飛行隊員となるものの死への恐怖から逃げ出し、なかんずく遭遇したゴジラに攻撃することができずに同胞たちの死を招いたという「戦えなかったぼく」=「去勢」の経験の乗り越えである。
 ゴジラは環境破壊への警鐘でも、アメリカの隠喩でもない。それは、特攻で死ぬことで同朋を救えなかった敷島のもとに現れる亡霊だ。
 『シン・ゴジラ』が解決できないものとして提示した戦後日本の去勢の経験を、『ゴジラ-1.0』は乗り越えようとする。だがそれは、「再軍備化」によるものではない。再軍備化による去勢の乗越えは、敷島の自爆死を意味しただろうし、それでは作品はあまりにも陰惨なものになっただろう。
 『プロジェクトX』的な「ものづくりジャパン」へのノスタルジー?
 『ゴジラ-1.0』は日本の去勢を「民間」の強調によって乗り越えようとする。その結果、敷島は国家の命令の下での自爆死を再演することなく、去勢の象徴・亡霊としてのゴジラを祓うことに成功する。多分にご都合主義的な結末によってではあれ。
 結果的にこの作品は、特攻死を否定し、「生きる」ことを肯定する。かといって、この作品は戦後民主主義的な平和主義──つまり、55年体制的な護憲平和主義──なのかと言えば、それも違う。しかしやはり、述べたように、改憲再軍備を指向するものでもない。それは、どう考えればいいのだろうか?
 この作品は「民間」(国家ではなく私企業)による「日本」の再興の物語である──このように言語化してみると、この作品がいかにも時代遅れに思えてしまうのは私だけだろうか。『下町ロケット』や『プロジェクトX』的な、「ものづくりジャパン」へのノスタルジー。そのような夢が破れてしまった、もしくは破れつつあるのが、経済停滞にあえぐ今の日本ではないのか?
 ここで私は、この作品における「民間」の人びとのプロジェクトを、『ゴジラ-1.0』という映画そのものへの自己言及とみなせると提案してみたい。つまりこの映画は、文化面における「戦後」を乗り越えようとする。文化面における戦後を映画に関して乗り越えるとは、すなわちハリウッドに伍することである。
 そのような映画であるなら、私が否定したセンチメンタリズムやご都合主義は、むしろハリウッドの劇作法に、日本の文脈で忠実に従ったものとみなすことができる。その懐古的でナショナリズム的に見える内容も、じつのところ世界市場にこの映画を売り出すにあたっては、「日本的なもの」としてパッケージ化されたアイテムとみなすべきものである。
 (ついでながら、そう考えると、冒頭の大戸島のは虫類的ゴジラは、ハリウッド版ゴジラへの皮肉な言及にも見えてくる。ハリウッドがやったことくらいは簡単にできますよ、という宣言である。)
 「ゴジラ-1.0」はクールジャパンの夢を見る
 すでに廃れつつあるように思える言葉を使うなら、この映画は「クールジャパン」の夢を見る。この経済停滞の中、コンテンツ産業において一矢報いたいという夢である。
 グローバルな(ハリウッド的な)劇作法には背を向けて特殊日本的=庵野的な表現の濃度をひたすらに濃くした『シン・ゴジラ』に対して、『ゴジラ-1.0』は日本的な内容を、ハリウッド的劇作と表現でパッケージ化して世界に売り出している。
 北米ではすでに1500館での公開が決まっているというこの作品は、まずはそのミッションに成功しつつあるようだ。この映画は、私たちに「戦後が終わった後」の夢の空間を見せてくれるのだろうか。
河野 真太郎
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