⚔39)─1・E─埼玉「見沼たんぼ」が江戸から続く理由、多くの開発計画を乗り越え「江戸の景色」が残った~No.165 

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 戦後日本は、経済発展と社会の利便性を理由に、全国で歴史・文化・伝統・宗教を無視して民族の情景、江戸の景色、自然の風景を潰し壊してきた。
 その実例が、明治神宮外苑再開発事業である。
 戦後建てられたJRの駅舎は個性なく似ているものが多いが、江戸時代のお城(縄張り・天守閣)は自然や地形を利用して築城した為に個性豊かで2つとして同じものはない。
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 2023年11月19日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「地図にない?埼玉「見沼たんぼ」が江戸から続く理由、多くの開発計画を乗り越え「江戸の景色」が残った
 見沼たんぼからさいたま新都心を望む(撮影:河野博子)
 「え、それ、どこにあるんですか?」
 「見沼たんぼ」に行ってきた、と話すとそう聞かれることが多い。埼玉県さいたま市川口市の一部に広がるが、普通の地図を見てもわからない。
 【東京のすぐ近く】埼玉中心部に広がる「見沼たんぼ」の位置
 江戸時代中期、巨大なため池を干拓して新田を開発し、代わりの水源として利根川から分水する見沼代用水を引いた。その風景はいまも基本的に維持されている。下流域で大水害が起きるのを防ぐため、長く開発が抑制されてきた。知恵や工夫の数々も地域に伝わる。「見沼たんぼの魅力や江戸の知恵を世界に伝えたい」とガイドたちは研鑽を積んでいる。
■もとは沼や湿地帯、巨大なため池
 10月に「見沼たんぼ地域ガイドクラブ」の北原典夫さん(76)と山口知巳さん(59)に広大な見沼たんぼを案内してもらった。
 もともと見沼たんぼの一帯は、大きな沼や湿地だった。江戸時代に新田開発が盛んになり、農業用水を確保するため、一級河川・芝川の水をせき止めて「見沼溜井(みぬまためい)」と呼ばれる巨大なため池を作った。
 その後、八代将軍の徳川吉宗はさらに新田開発を進めた。紀州(今の和歌山県)から召し出された井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)が見沼溜井を干拓し、代わりの水源として、約60kmも離れた利根川から取水する「見沼代用水」を開削した。代用水の水を田んぼに引き入れ、芝川に排水するシステムができた。
 東浦和駅前で北原さん、山口さんと落ち合った。北原さんによる見沼たんぼの説明は「もともと一帯は湿地や沼だった」から始まった。このあたりには、水の神様・龍神への信仰があったという。駅前には龍神の像がある。さいたま市のPRキャラクター「ヌゥ」も龍神の子孫という設定だ。
 見沼たんぼは、さいたま市川口市の2市にまたがり、面積は1257ヘクタール。北原さんの車に乗せてもらい、主な見どころに連れて行ってもらった。
 「さいたま緑のトラスト基金」による保全第1号地と見沼代用水原形保全区間のそばで、北原さんの説明に熱がこもった。
 「約40年前に住民たちは『見沼田んぼを愛する会』を作り、旧浦和市による市営霊園開発計画に対する反対運動をやりました。その後、『見沼田圃市民保全連絡会』もできました。愛する会、連絡会の中心人物はこの近くに住んでいる元県議会議員です」
保全運動で江戸以来の風景が維持された
 埼玉県やさいたま市の資料で「東京の都心から20~30km圏にある大規模緑地空間」と紹介される見沼たんぼ。住民による保全運動があったからこそ、維持されてきたらしい。
 旧浦和市は霊園開発計画をあきらめ、1990~1991年に開発予定地の約1ヘクタールの斜面林は県が中心になって設立した、さいたま緑のトラスト基金による保全第1号地となった。用地取得の7億円余の3分の2は県が出し、3分の1は旧浦和市が出した。
 畑和元知事(1972年7月~1992年7月、5期にわたり埼玉県知事)に自然環境保全に対する先見の明があったということだろうか。そうとも言えないようだ。
 北原さんは地面を指さし証言した。「1988年に5期目を目指す知事選があってね。当時、そこにビール瓶の箱を持ってきて畑知事さんが演説したんです。『この斜面林を保全します』と。見沼たんぼの保全に力を入れる住民の5万票が、対抗馬に流れてしまえば危ないと必死だったのでしょう」。
 保全第1号地のそばを流れる見沼代用水は「土の水路の原形」のまま維持されている。これも、住民団体が声を挙げた成果という。
 北原さんの説明が続いた。「斜面林の保全を求める運動に続き、歴史的な遺構である代用水を残そうという住民運動が盛り上がりました。ところが当初、県の農林部はかたくなでした。川の両岸と底をコンクリートで固める3面コンクリート護岸工事は水資源公団とともに行っている国策であり、進めるしかないというわけです」。
 「しかし畑元知事が、三面張り工事を認めなかったんです。文化財や歴史遺構の保全には深い関心を寄せていましたから」
 当時、北原さんは埼玉県庁職員で40代。その頃、見沼たんぼにゴルフ場を作る計画があり、県庁内の開発支持派がゴルフ好きの畑元知事に働きかけていたという。北原さんは1984~1986年に地域政策課職員として見沼たんぼを担当。見沼たんぼ内でのゴルフ場開発は農水省の農地転用許可が出ないことを熟知していた。
■「田んぼダム」の先駆け
 『環境保護の市民政治学 見沼田んぼからの緑のメッセージ』という本がある。1990年11月、第一書林から出版された。著者はかつて「見沼田んぼを愛する会」「見沼田圃保全市民連絡会」の中心人物だった村上明夫氏だ。
 この本によると、1958年9月の狩野川台風により、埼玉県川口市は市街地の大半が数日間にわたって水没。浸水深は最大2mだった。著者は川口市生まれで当時高校一年生。家は床上浸水し、腰の高さまで水が来た。
 川口市の北側に位置する見沼たんぼは、ほぼ全域で遊水機能を発揮し、一時的に約1000トンの水を蓄えたという。著者は「見沼田んぼの遊水機能がなければ、川口などは床上どころか屋根の上まで水が出て、人命さえ危うかったであろう。大げさにいえば、見沼田んぼによって、私は命拾いをしたといえる」と振り返っている。
 川口市史(通史編下巻)には、狩野川台風により「死者2名、床上浸水26798戸、床下浸水2457戸」の被害が記録されている。
 再びこの本の記述から。狩野川台風の後、栗原浩元知事(1956年7月~1972年7月)は「見沼田んぼを宅地開発すると、その下流域の住民はどうしても洪水の災害から免れない」と発言し、県農政課に対して見沼たんぼの宅地化を抑えるため、農地法に基づく農地転用を不許可にするよう指示した。
 続けて栗原元知事は1965年3月、いわゆる「見沼三原則」(正式名称は見沼田んぼ農地転用方針)を示してスタートさせたという。
 埼玉県企画財政部土地水政策課によると、県は1995年3月に「見沼田圃保全・活用・創造の基本方針」を打ち出し、これを受けて「見沼田圃の土地利用の基準の取扱い要綱」を定めた。「見沼三原則」を引き継ぎ、見沼たんぼの治水(遊水)機能を保持しつつ、農地、公園、緑地などとして利用していくこととし、必要な施策を行っている。
 県は芝川の河道の改修や調節池の整備も進めているが、豪雨時に見沼たんぼが一時的に水を貯める遊水機能を重視した。最近、政府は流域治水対策を打ち出し、全国で田んぼを活用する「田んぼダム」が注目されている。見沼たんぼは、その流れを先取りしたといえる。
■新入りのガイド、外国人の案内に意欲
 案内してもらった中には、250年以上前からの農家「ファーム・インさぎ山」の農園もあった。農作業の手を休めて話をしてくれたのは、代表の萩原知美さん(はぎわら・さとみ)さんの二男、哲哉さん(38)だ。
 あたり一帯は昔「さぎ山」と呼ばれ、何万羽ものサギが営巣する場所だったが、1970年代以降、サギは姿を消してしまった。農園では無農薬無化学肥料で野菜を作り、農のある暮らしを体験してもらう活動もしている。
 萩原さんは「ひと昔前は、エコとかロハスという言葉が流行っておしゃれな感じに惹かれて来る人も目立ちましたが、最近は、もう少し皆さん、深く探求する人たちが多くなっています。落葉する時期が遅くなるなど、夏の暑さの野菜作りへの影響や、地球温暖化による変化についても説明します」と語る。
 畑のそばには柿がなっており、柿渋作りも続けている。「柿渋は、番傘や漁師が使う網などに塗る塗料です。柿渋作りの機械を県民博物館に寄付してしまったので、自分の家で使う分を作っています」(萩原さん)。
 説明を聞いていたガイドクラブの山口さんは目を輝かせ「こちらにご案内してよければ、外国人の人を案内したいのですが、いかがですか」と尋ねた。「それは面白いですね。染物とか柿渋とか、外国人さんは興味を持つかも」と萩原さんが応じた。
 山口さんは昨年10月に見沼たんぼ地域ガイドクラブの募集に応じた“新入り”。半年間の研修を経て、4月に正式に入会した。2020年2月に大手電機メーカーを退職。ボランティア活動や地域の歴史の勉強を始めたところだった。東京・世田谷区生まれだが、父親の仕事の関係で小学校高学年の時、埼玉県に来た。
■ガイドクラブ、設立12年目で4回目のガイド募集
 見沼たんぼの魅力について、山口さんはこう語る。「どこかの棚田のように、目を見張る風景ではないけど、すごくリラックスできるところ」。
 そして「でも深堀りすると、縄文時代の遺跡から漆を塗った弓や櫛が見つかり歴史を見直すきっかけになったとか、中世の豊臣秀吉小田原城攻めの際に北条方として戦った城もあり、このあたりでこんなことがあった、とか、庶民の感覚に近い臨場感あふれる物語がある。何もないようでいて、掘ってみるといろんな宝物が出てくるんです」と続けた。
 山口さんは仕事で欧州、アメリカと日本を行き来した経験を活かし、ゆくゆくは外国人も案内したいと思っている。
 見沼たんぼ地域ガイドクラブが設立されたのは2011年5月。前年の2010年5月から1年間の研修を受けてガイドになったのが1期生。ガイドクラブの現在の会長、黒澤兵夫(くろさわ・たけお)さん(70代)は1期生だ。
 会員は現在28人。仕事や家庭の都合で、実際にガイドに立つのはその半数という。昨年秋、しばらくぶりに4回目の会員募集を行ったほか、新しい仕組みを作った。
 「昨年秋に募集した4期生に応募してきたのは10人でした。半年間の研修に出られない人向けに、テキストを勉強していただき、試験を受けてガイドになってもらうルートも作りました。3人が応募して、試験をパスしました」(黒澤さん)
 ガイドクラブのメンバーがコースや案内内容を練る企画コースと、団体が何月何日にここを見たいと申し込む一般ツアーの2種類がある。3時間のツアーの場合、一人300円の参加費(資料代を含む)が必要だ。
■水田はわずか6%
 黒澤さんは大手通信機メーカーに勤務後、技術士として各種学会に関わるほか、農家、市民、行政で連携して農業を発展させていこうという「さいたま市ランドコーディネーター協議会」の会長も務める。
 「農業をきちんと続けることが、これまで以上に重要になっています。(輸入は)紛争や戦争の影響を受けるでしょう。日本人が今後、生きていくためには、最低限必要な農産物はできるだけ国内で作るという方向が必要です」と黒澤さんは強調する。
 見沼たんぼの土地利用をみると、水田は6%に過ぎない。所有者が高齢化や代替わりで耕作できなくなった場合、住民が支援する取り組みもある。
 黒澤さんがガイドを得意とする場所は、通船堀。見沼代用水には、東縁、西縁の2本がある。それぞれから真ん中の芝川に舟を通すための堀(運河)が通船堀。水位差を木製の関で調整し舟を通過させる仕組みで、国指定の史跡になっている。
 「ただ米を作るのではだめなんです。消費地、江戸まで運ばなければ。人が運ぶと1俵、馬だと2俵、舟だと100~150俵運べた。ものを作ると、流通は絶対に必要なんですね。米とか柿渋とかを江戸に持って行き、帰りに人糞を買って運んで肥料にしたんです」(黒澤さん)
 江戸時代にできていたリサイクル、循環型社会。案内してもらう参加者は、通船堀を見ながら想像を膨らませることだろう。
■見沼たんぼを通過する「高速道路建設計画」
 黒澤さん、北原さん、山口さんの3人が今、頭を痛めているのが、高速道路建設計画。首都高埼玉新都心線と東北道を結ぶもので、見沼田んぼのど真ん中を通ることになるらしい。今年1月、大宮国道事務所が主催した「地元検討会」が開かれた。
 「導入位置は未定とされているが、さいたま市の都市計画マスタープランで導入ルートが図示されている。見沼たんぼの中心的な地域を通過することになり、環境や風景が台無しになる。見沼東部地域の渋滞を解消するためとしているが、全く解消にならないどころか、浦和インターからわずか1.8キロ付近にインターが新設され、危険極まりない。高速道路は害あって益なし、全く必要がない」。北原さんらはこう断じている。
 見沼たんぼでは数多くの市民団体が活動している。さいたま市のホームページから見沼たんぼのホームページに入ると、交流ひろばの活動メンバーとして会員15、サポーター30の団体名が並ぶ。見沼たんぼ地域ガイドクラブは会員団体の一つ。多くの団体とともに、見沼たんぼの景観や環境を守る活動を続けるつもりだ。
 河野 博子 :ジャーナリスト
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