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徳川家康が命じた「利根川の東遷、荒川の西遷」の目的は、洪水や灌漑などの治水事業、船による物資輸送。
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2023年1月15日 YAHOO!JAPANニュース 幻冬舎ゴールドオンライン「連載眺めるだけで教養が高まる!日本の地形見るだけノート【第5回】
東京の発展をもたらしたのは、徳川家康の戦略「利根川の東遷」「荒川の西遷」だった!
竹村 公太郎2022.7.4地理地図地形
東京の発展をもたらしたのは、徳川家康の戦略「利根川の東遷」「荒川の西遷」だった!
利根川の氾濫が多く、湿地帯だった関東平野。ここで稲作ができるようになったのは、徳川家康が主導した、利根川の東遷と荒川の西遷が大きいといえます。歴史的背景を探ります。元国土交通省河川局長で日本水フォーラム代表理事の竹村公太郎氏が解説します。
江戸城の発展に貢献した、超大規模治水事業
江戸時代初期、徳川家康によって戦略的な目的で計画された利根川の東遷。やがて治水による江戸防御に目的を変え、荒川の西遷を加えて完成しました。この治水事業が江戸の大都市への成長や、のちの東京の発展の要因になっていきます。
利根川、荒川、関宿、東遷、西遷
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、江戸に帰還後、鷹狩りと称して関東一円を巡視。関東制覇のための情報を収集しました。
そこで得られたのが、利根川と渡良瀬川が「関宿」にある下総台地に塞がれ、東から南へと流路を変えるという地形情報です。当時、周辺には有力な大名がおり、東北から南下すれば下総台地を通って、一気に房総半島を制圧できました。また西日本から東北に行く場合も、房総半島で上陸して陸路をとらなければなりません。
江戸が拠点の家康にとって、関宿は重要なポイントだったのです。
[図表1]江戸時代の関東平野
家康は、大地を掘削して利根川と渡良瀬川の流路を銚子に変える「利根川東遷」計画を立てました。
河川の流水で巨大な濠を造り、敵襲を防御するのです。結局、大坂夏の陣に勝利した家康の敵はいなくなりましたが、利根川東遷は続けられました。当時の利根川は、中流域で荒川水系と合流していたため、流域は稲作に向かない氾濫地帯でした。
戦略的目的の東遷は、治水による新田開発や舟運、内陸水路開発の意味合いが強くなったのです。1594年に新郷で会の川を締め切った工事に端を発した東遷は、続いて1629年に荒川を西遷させ、下流を隅田川とするとともに、鬼怒川を小貝川と分流させ、常陸川と合流させます。こうして、約300年の歳月と巨費を投じて利根川が改修されたことが、江戸の大発展に貢献したのは周知の通りです。
[図表2]荒川の流路の変遷
埋め立てによる巧みな土地利用で、大きく発展した長崎
いわゆる鎖国政策の中で、唯一、海外貿易の窓口となっていたのが長崎です。長崎はポルトガル船が入港した地であり、南蛮貿易の拠点となって発展しました。しかし貿易は人工島の「出島」を通した限定的なものでした。
中島川、三角州、出島
徳川幕府がポルトガルとオランダ貿易の窓口としたのが貿易港・長崎です。長崎は九州の西端、肥前国の中島川河口に形成された三角州を中心とした都市でした。1570年に開港された長崎は、当初、来航したポルトガルに寄進されてイエズス会領となりましたが、豊臣秀吉が宣教師追放令を出して長崎を没収し、直轄領としました。
その後、江戸幕府は貿易を奨励していたため、当初はキリスト教にも寛大でしたが、やがて布教を禁止。市内に雑居していたポルトガル人を収容するため、中島川河口の北側に、円弧状の人工島「出島」を築きました。
[図表3]江戸時代の出島の全貌
また、この後の1639年、ポルトガル人は出島から追放され、2年後には平戸から和蘭(オランダ)商館が移転されます。出島の門や塀、橋などは幕府が造ったものでしたが、それ以外の土地、建物は「出島町人」と呼ばれる25人の豪商たちが共同出資で建造しました。
商人は出島をポルトガル人たちに貸した賃貸料で利益をあげようと考えたようですが、追放事件に窮し、平戸のオランダ商館を移すように嘆願したのでした。それだけ海外貿易が巨額の利益を上げられる商売だったということでしょう。
こうして開国まで長崎は西欧貿易の玄関として、日本の近代化に重要な役割を果たしました。長崎は埋め立てなどを巧みに利用し、大きく発展した都市なのです。
竹村 公太郎
元国土交通省河川局長・日本水フォーラム代表理事
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利根川東遷概史 江戸川人工河川論
現在の利根川は銚子に流れる大河となっていますが、江戸時代中頃までは銚子に流れ出ていたのは鬼怒川と小貝川が合流した常陸川でした。
江戸以前の利根川は前橋付近で平野部へはいり、渡良瀬川と合流して南へ下り、さらに荒川(元荒川)とも合流して現在の隅田川、中川、江戸川を流末として東京湾に流れ込んでいました(江戸川については後述)。
江戸開府とともに徳川家康は東京湾に流れていた利根川水系の治水に着手し、洪水地帯を農耕地に変え、水運路の強化を行っています。
その治水と開拓の総括をしていたのは家康の重臣であった関東郡代の伊奈氏で、信玄堤などの武田流の土木技術を習得していたとされます。
その手法は自然地形を利用し自然堤防を強化して遊水地域(浸水を許容する地域)を設け、低い堤防で洪水の勢いを分散させて重要地を守り小被害は許容する考え方によるもので、関東流または伊奈流とも呼びます。
部分的に浸水を許容するのでその地域に居住はできませんが、肥料分の多い洪水流土を農耕に利用することができ、河川と周辺環境が連絡している長所があります。
(輪中という小堤防で村落を囲ったり、個々の家が高い基礎を作って浸水を防御する場合もあります)
江戸時代初期の関東の治水はほとんどがこの考え方で行われています。
対応するのが紀州流と呼ばれる治水技術で、強固な堤防によって河川を切り離して小氾濫も許さない考え方で、土地を目一杯活用できますがいったん破堤すると被害が大きい欠点があります。
畿内では人口密集が早い時代から始まっていたために土地を目一杯使える手段が採用されていたのかもしれません。
利根川治水でも1629に作られた見沼貯水池が1700頃に農地拡大の求めに応じて農地化され、はるか北から見沼用水や葛西用水が引かれて、かっての入間川(荒川)と現在の江戸川の間の広大な土地は人工的な水路によってコントロールされるようになります。
明治以降では欧米技術が導入されていますが、紀州流の考え方を近代技術で強化したものともいえます。
河川と周辺環境が切り離されてしまう欠点がありますが、最近ではそうならないような工夫もなされているようです。
この図では現在の江戸川下流域は人工開削された河川であるとみなしています。これについては江戸川人工河川論を参照ください。
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一般社団法人東京建設業協会
┃江戸幕府 60年かけ瀬替え、開削の大規模治水事業
社会資本(インフラ)整備は、整備のための投資による直接効果(フロー効果)だけでなく、生活の安全・安心や生活の質向上、さらには生産性拡大といったストック効果によって、街・都市の発展と国の成長を支えてきました。現在の首都・東京は、第二次世界大戦以降の復興や高度成長だけで成り立ったものではありません。後に「利根川の東遷 荒川の西遷」と呼ばれる、江戸幕府を開いた徳川家康による大規模治水事業こそが発展の礎となっています。
江戸に入った家康は、水田地帯を洪水から守り、新田を開き、木材を運ぶ舟運を開発し、五街道のひとつ中山道の交通確保と江戸を洪水から守るため、利根川の流れを東京湾から太平洋沿岸の銚子へ大きく変える一方、荒川の流れも西側へと変える大事業に着手しました。その事業のおかげで、江戸の人口は100万人と当時の世界で最大級の都市に発展しました。まさに東京の礎は、ふたつの大河川の流れを人工的に変える「利根川の東遷と荒川の西遷」にあったとも言えます。
┃利根川の東遷 舟運発達と新田開発で江戸繁栄に貢献
1590年、徳川家康が江戸に入った当時、利根川と荒川は越谷(埼玉県)付近で合流し、東京湾に注いでいた。度重なる洪水によって、現在の埼玉東部から東京東部地帯は大湿地帯だった。
利根川・江戸川分流点。分流点に設けられたスーパー堤防上にそびえる、千葉県立関宿城博物館から上流を望む。ここまで流れてきた利根川は、利根川と江戸川へ分流する。両川の向こう岸は茨城県だ。
そこで家康は、利根川と荒川を分離させ、利根川の流路を太平洋沿岸の銚子沖へと東側に大きく変えた。これが利根川の東遷事業だ。
具体的には1594年、利根川の中流域で二股に分かれまた合流する、南側の川の「会の川」(埼玉県羽生市付近)締め切りに着手。これが、人工的に流路を変えた第一歩と言われる。
1621年には、利根川と渡良瀬川をつなぐ「新川通り」と利根川と常陸川をつなぐ「赤堀川」(埼玉県栗橋から関宿間)の開削に着手する。会の川締め切りが、人工的に流路を変える瀬替えの第一歩なら、「新川通り」と「赤堀川」は開削という手法を使った人工河川の初弾と見てもよい。
その後1624年から1643年にかけ、利根川の分流となる江戸川・逆川開削によって、利根川・赤堀川から江戸川が分流する分岐点の関宿(千葉県野田市)が、水上交通の要衝として発展することになる。
赤堀川の通水は1654年。これによって利根川が小貝川、鬼怒川も併せて太平洋側に流れる「東遷事業」が完成した。赤堀川通水と利根川から分岐する江戸川との分岐点には現在、過去にその地を治めた関宿藩の城郭を模した、千葉県立関宿城博物館がスーパー堤防の上から、利根川の洪水や氾濫による先人の苦難の取り組みとその歴史を、訪れる人に語りかけている。
分岐点の「関宿水閘門」今も現役
利根川の東遷事業をより深く知るなら、「千葉県立関宿城博物館」がお勧めだ。野田市関宿三軒家にある同博物館は、利根川と利根川から分流する江戸川に挟まれた、スーパー堤防(高規格堤防)上に建設されている。東遷事業の推移を始めとする川の歴史や、近代までの利根川流域での洪水や治水の歴史、さらには河川によって育まれた産業や文化を分かりやすく紹介している。
博物館周辺は桜並木の公園で、過去に使われた浚渫機械の実物も展示されている。公園から橋を渡って目の前にある江戸川の中央部(中の島)まで歩くと、土木学会から選奨土木遺産として認定された、「関宿水閘門」を見ることが出来る。
国土交通省関東地方整備局の江戸川河川事務所管内で土木遺産として認定を受けているのは4施設で、関宿水閘門はそのうちのひとつだ。
関宿水閘門は、江戸時代に江戸川流頭部で活躍してきた流量抑制施設の「棒出し」に代わる、コンクリート造の土木構造物である。利根川から江戸川に流れる水量を調節 し、船を安全に通行させる目的で、大正7(1918)年に着工し、昭和2(1927)年に完成した。
日本の大型建造物が、レンガ造りからコンクリート造へ変わりつつある時代に姿を現した関宿水閘門は、当時の建設技術を知る上でも貴重な建造物と言える。
┃荒川の西遷 利根川と切り離し江戸の洪水防ぐ
家康が利根川の東遷と並行して行ったのが1629年、利根川と合流する「荒川」の流路を、それまでの川(元荒川)から西側にある入間川に流れ込ませ、最終的には隅田川として東京湾に流す、「荒川の西遷」であった。利根川から分離するための付け替え工事を行った場所(埼玉県熊谷市久下)から「久下の開削」とも呼ばれる。
利根川の東遷が、銚子から利根川と江戸川を経由した舟運ルートを確立させたのに対し、荒川の西遷は、上流域から江戸への木材運搬に効果を果たした。一方で荒川の西遷によって、荒川の洪水リスクはより江戸に近づくことになった。江戸城下を荒川の洪水から守ろうと、上流側で洪水を溢れさせるための、日本堤と隅田堤が整備された。
ただ、日本堤と隅田堤は、江戸城下を守るためのものであった。隅田川から東側は、たびたび洪水被害に遭っており、明治時代の大洪水を契機に、荒川と隅田川を分離し、新たな荒川を人工的につくることになった。ここに「荒川放水路」が着手されることになる。
江戸時代以前
現在の河川
江戸から東京に名称が変わるなかで、明治新政府は帝都建設と欧米列強に追いつくための工場立地を進めた。農村やその周辺は、市街地の拡大・工場用地化という土地利用の高度化で様相を大きく変え、その結果、農村地帯だったころとは比較にならないほど河川氾濫による被害が深刻になりつつあった。明治末期に荒川から隅田川を分流させ、「荒川放水路」として新たな荒川の掘削に取り組んだ最大の理由がここにある。
工業化と都市化は、度重なる河川氾濫と浸水被害を許さなかった。荒川放水路が完成した後も都市は拡大し、戦後復興以降、都心部を水害から守る放水路の役割は更に重要となる。昭和の高度成長期には、想定する洪水流量の見直しも行われるなど、周辺河川とともに新たな河川改修事業が進められている。
荒川は江戸時代の「荒川の西遷」、明治に着手し昭和初期に完成した「荒川放水路」という二大治水事業によって、江戸時代から続く東京の生活と都市の発展を支えている。
20年かけ「荒川放水路」完成
岩淵水門が荒川と隅田川の分岐点に
100万都市・江戸を支えた「利根川の東遷 荒川の西遷」。そして「荒川放水路(現在の荒川)」開削は、昭和の時代から現在に至るまで「首都・東京」の街を洪水などから守る役割を果たす起点となった。20年の歳月をかけ、北区の岩淵に水門をつくり、それまでの荒川の本流を水門で仕切り、岩淵から東京湾に注ぐ、延長22km、幅500mの新たな放水路(現在の荒川)を開削する大規模工事だった。第一次世界大戦による不況、台風被害、関東大震災など幾多の困難を極めながら、昭和5(1930)年に完成した。
「荒川放水路」完成によって、岩淵水門で水量を調節できるようになったそれまでの荒川本流は、いま「隅田川」となり、荒川放水路が「荒川」と呼ばれている。
国土交通省関東地方整備局の江戸川河川事務所管内で土木遺産として認定を受けているのは4施設で、関宿水閘門はそのうちのひとつだ。
現在の岩淵水門
荒川放水路は、明治43(1910)年の大洪水をきっかけに、東京の下町を水害から守る抜本的対策として着手。放水路の肝となる岩淵水門は、パナマ運河建設に携わった、当時日本を代表する土木技術者だった青山士(あきら)が設計・施工に尽力した。
明治・大正・昭和の3時代にかけ、流域人口500万人超の住民を水害被害から守るために行われた、「荒川放水路」の着工から完成までの過程や、荒川の歴史と放水路完成による、さまざまな効果については、国土交通省関東地方整備局の荒川下流河川事務所が発刊した『荒川放水路変遷誌』に見ることが出来る。
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利根川の歴史 利根川の東遷 - 関東地方整備局
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■なぜ東に流れを変える必要があったか
古来、利根川は太平洋ではなく、江戸湾(現在の東京湾)に注いでいました。現在のような流路となったのは、数次に渡る瀬替えの結果で、近世初頭から行われた河川改修工事は利根川東遷事業と呼ばれ、徳川家康によって江戸湾から銚子へと流路を替える基礎がつくられました。
東遷事業の目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進すること、舟運を開いて東北と関東との交通・輸送体系を確立することなどに加えて、東北の雄、伊達政宗に対する防備の意味もあったといわれています。
■最初に命令をだしたのは徳川家康
利根川の東遷は、江戸時代の最初の将軍(徳川家康)の命令で行われました。水害を防いだり、新しく農地をつくったり、船で物を運びやすくすることなどが目的でした。そのため、流れを変えるだけでなく、堤防もつくったり、農業用の用水路をつくるなどの工事も行なわれました。
東遷の工事は、当時栗橋付近から江戸湾に流れていた利根川の流れを東に移し、台地を切り通して赤堀川としたほか、常陸川と多くの湖沼を結びつけて銚子に流すものでした。
天正18年(1590)に江戸に入った徳川家康は、関東郡代に伊奈備前守忠次を任命、利根川東遷事業を行わせました。事業は文禄3年(1594)から60年の歳月をかけて、忠次から忠政、忠治と受け継がれ、承応3年(1654)に完了。これによって、わが国最大の流域面積を誇る河川が誕生したのです。
■東遷(とうせん)の過程
いまの利根川の流れは、人の手により東へ流れを変えてできたものです。江戸時代に少しずつ東へと流れを移し変える大工事が、約60年間にわたって行われました。これを東遷(とうせん・東へ移すこと)と言います。それまで東京湾に向かって流れていましたが、人々の努力によって現在のように千葉県銚子市で太平洋に注ぐようになりました。
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