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日本の社会はブラックであり、日本の自然は地獄であった。
日本の「世間体」や神道の「自然崇拝」には意味があった。
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2023年11月26日 YAHOO!JAPANニュース Merkmal「「水害都市」だった江戸 その歴史から災害対策に生かす術を考える
湿地帯を描いた浮世絵
江戸を襲った台風を描いた『安政風聞集』(画像:国立公文書館)
今回は、実は江戸が「水害都市」だったことを伝える浮世絵や文献史料をもとに、現代の災害対策に生かす方法はあるかを考えたい。
【画像】えっ…! これが江戸を襲った「台風」です(計7枚)
安政年間(1855~1860年)の江戸を現在に伝える、1作の浮世絵がある。歌川広重(うたがわひろしげ)画の『名所江戸百景 箕輪金杉三河しま』(みのわ・かなすぎ・みかわしま)だ。現在の
・東京都荒川区東日暮里
・台東区三ノ輪/下谷
の一帯を描いたものだ。
タンチョウヅルが2羽――1羽は飛来し、1羽はたたずんでいる。タンチョウヅルは湿地帯に住む鳥で、現在の生息地は釧路湿原が知られる。つまり、一見のどかな田園に見えて、この絵はかつて江戸城の北にあった
「湿地帯」
を描いているのである。
江戸の水害
歌川広重画『名所江戸百景 箕輪金杉三河しま』(画像:国立国会図書館)
歴史学者・土木工学者の竹村公太郎は、
「当時の江戸がいかに水害に悩まれていたかがよくわかる絵」(『広重の浮世絵と地形で読み解く江戸の秘密』集英社)
であると語る。
江戸はそもそも低地にあり、かつ湿地帯で、水害が後を絶たなかった。原因は
・荒川
・利根川
だ。
徳川家康が豊臣秀吉に命じられて江戸に入府した1590(天正18)年当時、利根川は江戸湾(東京湾)に直接流れ込んでいた河川で、荒川はその支流だった。荒川の由来は「荒ぶる川」で、氾濫しては水害を及ぼした。
そこで江戸幕府は治水対策に着手し、1629(寛永6)年から荒川と利根川の瀬替え(せがえ/別の場所に流路を造りかえる)工事を断行し、荒川の流路を西へ移した。「荒川の西遷」という。これによって流域を洪水から守ると同時に、湿地を新田へと開発していった。
さらに、荒川を埼玉県・入間川の支川である和田吉野川と合流させ、そこから江戸に至る流路も造った。この結果、荒川は隅田川を経て、江戸湾に注ぐことになった。
だが、それでも防ぎきれず、記録に残るだけでも100回超の洪水が、江戸時代に起きている(『荒川上流改修六十年史』『荒川下流改修七十五年史』関東地方建設局)。
利根川の東遷計画
『安政改正御江戸大絵図』で見る箕輪・金杉・三河島(画像:国立国会図書館)
明治に入ってからも、洪水は『箕輪金杉三河しま』を襲った。
1910(明治43)年8月8日から11日にかけて続いた激しい降雨によって発生し、
・死者:45人
・家屋全壊:87戸
・流出家屋:94戸
・浸水家屋:16万7410戸
に及んだ。三河島近辺では、水没した家から辛うじて屋根にはい上がった人々が、救助を叫び続けたという。
江戸時代初期には、「荒川の西遷」と並び、もうひとつの治水事業があった。「利根川の東遷」である。利根川も流域に湿地が多く、かつ川筋がいくつもにわかれて複雑だったため、洪水の中心地だった。
そこで幕府は1621(元和7)年、利根川を東にあった渡良瀬川に接続したうえで、茨城県と千葉県を通る常陸川に合流させ、太平洋に面した銚子で海に注がせた。1654(承応3)年まで続いた難事業だった。
これによって、江戸を含む武蔵国は急速に新田が増えていくが、それでも洪水のリスクと隣り合わせだった。
死者10万人を出した幕末の安政台風
かつての渋谷の地形を描いた地図(画像:農研機構 歴史的農業環境閲覧システムより転載)
水害に遭った地区は、『箕輪金杉三河しま』だけではない。詳細な記録は残っていないものの、現在の山手エリアでも水害は起きたと考えられる。地名から、うかがえるのだ。
例えば、渋谷・阿佐ヶ谷・世田谷・荻窪。
「谷」「窪」
が入った地名は標高の低い谷地を示し、大雨が降れば増水した川から、水が流れ込んでくる。
落合も「水が合流する」場所の意味で、池袋・沼袋の「袋」は川が屈曲している場所を指し、水がたまりやすい。読み慣れた地名が、実は水害多発エリアを表していたことにあぜんとする。
江戸は河川の氾濫と同時に、高波の被害も多かった。
1856(安政3)年に江戸を襲った大洪水は、高波が原因だ。伊豆半島に上陸した台風が関東に向けて北上し、深川・洲崎・佃島といった沿岸に近い地域や、芝高輪・品川海岸などが、甚大な被害を受けた。『安政風聞集』は、洪水で海のようになったなかを、無情にも流されていく人々を描いている。
波の高さは推定2.5~3.2mで、1959(昭和34)年の伊勢湾台風に匹敵する猛威だったという。
幕末から明治にかけての地誌『武江年表(ぶこうねんぴょう)』は、
「近年稀なる大風雨にて、喬木(きょうぼく)を折り、家屋を損じ、浪(波)がみなぎって、大小の船を覆し岸に打ち上げた。この間、しばしば火光を現し(火災も起き)、溺死者と怪我人を弄んだ」
と、悲惨な様子を記す。
1871(明治4)年刊の歴史本『近世史略』(きんせいしりゃく)によれば、死者は10万人だった。
洪水対策の名残の地名
『安政風聞集』は洪水に流される人々の様子が描いている(画像 : 国立公文書館)
江戸幕府も、決して手をこまねいていたわけではない。すでに幕府初期から各地に堤を造成するなど、対策を講じてきた。
例えば、東京都台東区には現在も「日本堤」という町名がある。これは1620(元和6)年、隅田川沿いに築かれた洪水対策の名残だ。堤の長さは8丁(約800m)だったという。のちの時代にはこの堤が、人々が遊郭の吉原へ向かう際の道となる。なお、日本堤は1927(昭和2)年に取り壊されることになり、1975年に姿を消した。
隅田川は春になると桜の名所としてにぎわうが、この桜並木も、そもそもは洪水対策として植樹されたものだ。土手に桜を植え、根を張らせることによって、堤の強度を高める狙いがあったという。
また、土手を人が頻繁に通れば、土を踏み固めることにつながる。吉原への通り道にし、桜見物に大勢が押し寄せるようにしたのも、実は土手をより強固にする方法だったというのだ。江戸時代の人々の考えは合理的で、したたかだった。
前出の竹村公太郎は、『バカの壁』(新潮新書)の著者・養老孟氏との対談(PHPオンライン、2019年10月18日配信)で、こう述べている。
「先進国で、これほどの湿地帯を上手に隠して、巨大なビル群を造ったのは日本だけです。他の先進国はみんな高台に都市を造っている。だから先進国の中で海面上昇によって最も大きな影響が出るのは日本です」
温暖化による水位上昇が、洪水が東京を襲うリスクを、より高めていると指摘している。もはや江戸時代のような土手造成や植樹では、防ぎきれないだろう。抜本的な対策が求められている。
●参考文献
・広重の浮世絵と地形で読み解く江戸の秘密 竹村公太郎(集英社)
・荒川上流改修六十年史 荒川下流改修七十五年史(関東地方建設局)
・家康の都市計画 谷口榮(宝島社)
・地名は災害を警告する 遠藤宏之(技術評論社)
・竹村公太郎・養老孟司対談 信玄堤を鉄壁にした武田信玄の「斬新なアイデア」(PHPオンライン)
小林明(歴史ライター)
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