🕯100)─1─日本の宗教観。日本に広がる文化的仏教、文化的神道。~No.217 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の葬式仏教と冠婚祭祀神道とは、棲み分けをして、いがみ合わない、争わない、競わない、曖昧にして消極的な後ろ向き宗教である。
 それ故に、日本には不寛容で排他的な絶対真理による神学論争や宗教における対立・戦争・虐殺の経験は乏しい。
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 2023年9月12日 現代ビジネス 学術文庫&選書メチエ編集部「「利己的遺伝子」のスター科学者、ドーキンスが到達した「日本人みたいな宗教観」
 原理主義化する「新無神論
 聖書の記述をそのまま信じ、学校教育から進化論を排除しようとする創造論者と、科学で理論武装し、神の存在を否定する無神論者。両者の長い戦いは、21世紀になって新たな局面を迎えている。「四騎士(フォーホースメン)」と呼ばれる無神論者たちの登場で戦線が拡大し、聖女マザー・テレサキング牧師、さらにその支持者までが、厳しい批判にさらされている。批判の矛先は創造論者やカルトだけではなく、「穏健な信仰者」にも向けられているのだ。
 宗教を滅ぼす「4人の騎士」
 無神論者にとって、創造論者との戦いは手間のかかる消耗戦だ。話は通じないし、いくら倒してもゾンビのように現れる。このキリがない波状攻撃を止めるには、発生源を断つしかない。キリスト教が消滅すれば、創造論者もいなくなる――。
 こう考えた無神論者たちがいた。彼らは2005年頃から次々に著作を発表し、反転攻勢の口火を切る。なかでも中心となったのが、「四騎士」と呼ばれる以下の4人だ。『創造論者vs.無神論者 宗教と科学の百年戦争』(岡本亮輔著、講談社選書メチエ)から見ていこう。
 サム・ハリス(1967~)はカリフォルニア大学で認知神経科学の博士号を取得した著述家で、瞑想を宗教から分離することを主張し、近年流行の瞑想法マインドフルネスの普及活動も行う。
 進化生物学者リチャード・ドーキンス(1941~)はベストセラー『利己的な遺伝子』『神は妄想である』などで知られる、世界でもっとも有名な科学者の一人。
 ボストン生まれの科学哲学者、ダニエル・デネット(1942~)は、日本でも『解明される宗教――進化論的アプローチ』『心はどこにあるのか』などが邦訳されている。
 クリストファー・ヒッチンズ(1949~2011)は、オックスフォード大学を卒業後、ジャーナリストとして世界を飛び回り、戦場の取材や、政治、文学など広い分野で活躍した。
 新無神論の中心人物の一人、リチャード・ドーキンス。Photo by Don Arnold/Getty Images
 この「四騎士」の立場は、現在では「新無神論」という名で定着している。その特徴は、岡本亮輔氏(北海道大学教授)によれば、科学至上主義と好戦性、そして運動性にあるという。自らの支持者に対し、無神論者としてカミングアウトする覚悟と行動を求めるのだ。
 〈新無神論者は穏健な信仰者というマジョリティを問題化した。自分の信仰が問題になるとは考えたこともない普通の人々である。新無神論者に言わせれば、穏健な信仰者など、原理主義にふり切れない半端者である。科学が十分に発達した今、宗教のある部分は信じ、ある部分は信じないという曖昧な態度は許されない。完全な信仰者か完全な無神論者か。どちらか選ぶ時が来たと二択を迫っているのである。〉(『創造論者vs.無神論者』p.20)
 なかでも、「宗教の有害性」を派手に論じたのが、クリストファー・ヒッチンズだった。槍玉に挙がったのは、ノーベル平和賞を受賞した修道女、マザー・テレサ(1910~97)である。
 葬式仏教でOK!
 ジャーナリストであるヒッチンズは、イギリスのテレビ番組『ヘルズ・エンジェル(地獄の天使)』に脚本兼MCとして登場し、大々的にマザー・テレサ批判を展開した。
 テレサの信仰が貧困を引き寄せた
 ヒッチンズによれば、マザー・テレサを一躍メディアスターにしたのが、ドキュメンタリー映画『神に捧げる美しきもの』(1969年)である。この映画は、コルカタを実際以上に貧しい地獄のように描き、それと対照させてスラム街を歩くマザー・テレサを尊く演出した。
 テレサが設立した施設「死を待つ人の家」はホスピスとしてはあまりに粗末で、医療知識のない修道女やボランティアが患者を看ており、薬の投与も十分ではなく、これでは治る人も治らない。世界中から寄せられた莫大な献金は、有効に使えばインド全土に病院を建てられたはずだが、資金管理は杜撰で使途不明金もある、という。
 1979年、ノーベル平和賞を受けたマザー・テレサ。photo/gettyimages
 〈しかし、何より問題なのは、テレサが苦しみを愛していたことだとヒッチンズは批判する。テレサは、病に苦しむ貧しい患者の姿を十字架の上で苦しむイエスに重ねた。苦しんで死を受け入れるのは美しく、病気を治す必要はないと信じていた。ヒッチンズによれば、テレサは貧しき人々の友でなく、貧しさそのものの友であった。テレサの信仰が貧困を引き寄せたというのである。〉(『創造論者vs.無神論者』p.157)
 さらにヒッチンズは、ヒンドゥー教に囚われて近代化を拒否したマハトマ・ガンディー(1869~1948)を批判し、ガンディーに非暴力を学んだマーティン・ルーサー・キング牧師(1929~68)も手放しでは認めない。
 キング牧師が命をささげた公民権運動は間違いなく偉大だ。その演説には、ヒッチンズですら時に涙を流すという。しかし、キング牧師の功績がキリスト教道徳に基づいており、それゆえ宗教はすばらしいという見解は拒絶する。なにしろ、黒人差別の根本である奴隷制を支えてきたのが、ほかならぬキリスト教会だったではないか! というわけだ。
 信仰さえなければ、宗教もあってよし!
 「進化論を信じない人は、無知か、馬鹿か、狂っている」とまで言い放つ進化生物学者リチャード・ドーキンスは、進化論を遺伝子レベルでとらえ、そこから宗教批判を展開した。宗教が賞賛する「利他的行動」は、遺伝子の目線に立てば「自らのコピーを残す」という「利己的」なふるまいにすぎない。そして、人間だけは利己的な遺伝子に反抗することができるが、そこに「神」が介在する余地はない。
 ドーキンスの『神は妄想である』は30ヵ国語以上に翻訳され、300万部を売り上げた。無神論者のスーパースターとなったドーキンスは、創造論者からは忌み嫌われ、「科学も信仰であることに気づいていない」「無神論原理主義者」と批判される。
 しかし、面白いことにドーキンスは、みずからを「文化的なキリスト教徒」と規定している。キリスト教の伝統をなくしたいわけではないし、「クリスマス・キャロルを皆で一緒に歌うのが好き」で、若い世代があまりに聖書を知らず英文学を堪能できないことを嘆いてもいる。そして「かけがえのない文化遺産との絆を失うことなしに、神への信仰を放棄することはできるのだ」(『神は妄想である』垂水雄二訳、第9章)という。つまり――、
 〈信仰さえなければ、宗教の存続は大いに歓迎するのだ。拍子抜けする話だが、日本人には興味深い主張である。100年に及ぶ戦いの果てに導かれた答えの一つが、いわゆる葬式仏教のような形で、すっかり日本社会に定着してきた宗教の形なのである。〉(『創造論者vs.無神論者』p.250-251)
 「ドーキンスのいう〈文化的キリスト教〉は、奇しくも日本人が無意識に持ってきた宗教との関わり方に重なっています。日本では、こういう戦いや厳しい議論を経ることなく文化的仏教、文化的神道がすでに広がっている――これはなぜなんでしょうか。仏教圏だから、というわけでもないでしょう。タイやチベットなどの仏教圏の信仰と比べても、非常に日本特有の宗教のありかたと思えますね」(岡本氏)
 欧米での宗教論争は、日本人にとっての宗教を、逆に照らし出しているのだ。
 ※創造論者に対抗して登場したパロディ宗教については、〈湯切りボウルをかぶった「スパゲッティ・モンスター教」が真剣に警告する危機とは?〉を、科学を装う創造論者の動向については〈地球の年齢は6000年? ノアの箱舟の積載能力が判明? トンデモ説満載の創造論が、ゾンビのように滅びない理由〉を、ぜひお読みください。
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