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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
織田信長は合理主義者であり神仏習合論者であって無神論者ではなかった。
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中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として世界に輸出していた。
イエズス会などの修道士会は、宗教活動資金と布教活動の為に日本人奴隷交易に協力していた。
それが、西洋世界の日本に対する宗教侵略であった。
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日本民族は、世界的普遍的な絶対神への啓示宗教を疑い、神の子・救世主による奇蹟や恩寵を信用せず、天地創造の作り主に対する信仰を受け入れる気はなかった。
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2023年2月5日 YAHOO!JAPANニュース「織田信長は、本当に神を恐れぬ無神論者だったのか。そのありえないワケ
渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
黄金の信長像。(写真:イメージマート)
東映70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が公開されている。今回は、織田信長が足利義昭を推戴して上洛した意味について考えてみよう。
織田信長が無神論者とされる理由は、フロイスの『日本史』に書かれた、「彼(信長)は良き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった」という一節に基づいている。
この一節を読むと、信長は合理主義者であり、神仏の信仰はもちろんのこと、占いなどに関心を示さなかったことがわかる。関心どころか、軽蔑とすら書かれている点には驚かされる。
『日本史』の別の箇所には、「(信長は)霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした」と書かれている。信長の無神論者を裏付ける根拠だ。当時の人々は来世を信じている人が多かったが、信長はそうでなかったというのである。
実は、信長が無神論者であると書いているのは、フロイスの『日本史』だけで、日本側の史料には記載がいない。最近の研究によると、『日本史』は何の疑問も持たれず活用されてきたか、外国人の宗教者が書いたので信用できないとする二項対立の側面があったという。
フロイスはキリスト教に理解を示す大名を好意的に記し、そうでなければ辛口の評価を与えた。したがって、無批判な使用は避け、日本側の史料と突き合わせることにより、事実関係を確認する必要がある。『日本史』の史料的な評価については、さらに検討が必要だ。
実は、『日本史』には、「当初名目上(信長)は法華宗に属しているように見せていたが、顕位(高い位。この場合は右大臣)に就いて後は自惚れ、自分を総ての偶像より上位に置き、若干の点で禅宗の考えに同意して(後略)」という一節がある。
信長は法華宗を信仰しているように見せかけていたが、実際は禅宗の宗旨に従っていた。天正4年(1576)に信長が安土城(滋賀県近江八幡市)を築城した際、自らの菩提寺とすべく、城下に摠見寺を移築した。摠見寺は、臨済宗妙心寺派の寺院である。
信長が無神論者であるならば、わざわざ菩提寺を移築する必要はない。したがって、信長も当時の人々と同じく、少なくとも仏教を信仰していたことが明らかなのだ。
信長は、「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を用いていた。京都では法華宗寺院を宿所に選ぶことがあったので、信長が法華宗も信仰していたのは明らかなのである。
結論を言えば、『日本史』の記述を置くとしても、日本側の史料は信長が神仏を信仰していたことを示しており、無神論者と考える必要はないのである。
渡邊大門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校・中野校講師。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社、『戦国大名の戦さ事情』柏書房など多数。
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日本民族は、多神教崇拝者である以上、無宗教論者でもなければ反宗教無神論でもなかった。
もし、民族主義者織田信長が現代に生きていたら反宗教無神論・反天皇反民族反日本のリベラル左派全体主義者を弾圧し虐殺していた。
何故なら、織田信長は宗教には寛容であったがイデオロギーには容赦しなかった。
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2月10日 YAHOO!JAPANニュース「織田信長が比叡山を焼き討ちにした止むを得ない裏事情を探る
比叡山延暦寺大講堂。(写真:イメージマート)
東映70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が上映中である。今回は、織田信長が比叡山を焼き討ちにした止むを得ない裏事情について考えてみよう。
元亀2年(1571)9月、織田信長の軍勢が坂本・堅田(滋賀県大津市)付近に放火すると、一斉に比叡山延暦寺に攻め込んだ。比叡山焼き討ちの様子は、『信長公記』に詳しく描かれている。
死者の数は、フロイスの書簡には約1500人、『信長公記』には数千人、『言継卿記』には3~4000人と数がバラバラである。坂本周辺に居住していた僧侶や住民たちは、日吉大社の奥宮の八王子山に立て籠もったが、信長の軍勢によって惨殺された。
天台宗の比叡山延暦寺は宗教的な権威として恐れられ、ときの権力者は容易に手出しできなかった。しかし、信長は比叡山延暦寺の権威を否定すべく、焼き討ちを実行に移したので、その革新性や無神論者を裏付けるような出来事であると、長らく評価されてきた。
しかし、山科言継(ときつぐ)は日記『言継卿記』で、「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と焼き討ちを非難した。仏法とは文字通り仏教であり、王法とは政治、世俗の法、慣行のことを意味する。言継は、信長の行為を批判的に捉えていた。
当時の比叡山延暦寺の様子について、『信長公記』には「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」と書かれている。
比叡山延暦寺の僧侶らは宗教者としての責を果たしておらず、放蕩三昧だった。そのうえで比叡山延暦寺は、信長に敵対する朝倉氏、浅井氏に与同した。結論を言えば、こうした僧侶らの不行儀と信長に敵対したことが、比叡山焼き討ちの原因だったと考えられる。
前年の元亀元年(1570)、信長は比叡山延暦寺に対して、「信長に味方をすれば、山門(比叡山)領を返還すること」、「一方に加担せずに、中立を保つこと」、「左の2点を聞き入れないなら、根本中堂を焼き払うこと」を通告していた(『信長公記』)。
結局、比叡山延暦寺の衆徒は回答せず、朝倉氏、浅井氏に味方したので、信長は比叡山焼き討ちを決意したのである。重要なことは、信長が仏教を否定したのではないということだ。
比叡山が焼き討ちにされたのは、比叡山延暦寺の僧侶が仏教者たる本分を忘れ、修学に励まず放蕩生活を送り、信長に敵対する勢力に加担したからだった。それだけである。
信長による比叡山焼き討ちは、仏教の否定、比叡山延暦寺の宗教的権威の否定と捉えられ、信長の革新性や無神論者であることを裏付ける行動とされてきた。しかし、今では誤りであると指摘されている。
渡邊大門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校・中野校講師。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社、『戦国大名の戦さ事情』柏書房など多数。
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2月11日 YAHOO!JAPANニュース「織田信長がキリスト教の布教を許した当たり前すぎる理由
サンタマリアマッジョーレ大聖堂。(写真:アフロ)
東映70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が上映中である。今回は、織田信長がキリスト教の布教を許した理由について考えてみよう。
織田信長のキリスト教に対する記述は、フロイスの『日本史』などに拠るしかなく、日本側の史料には『信長公記』を含め、ほんのわずかしか記録がない。
信長とキリスト教の出会いは、永禄12年(1569)のことである。イエズス会宣教師のルイス・フロイスは、修道士のロレンソとともに信長の居城・岐阜城(岐阜市)を訪問した。フロイスは京都での布教を認められなかったので、信長に助力を求めようとしたのだ。
結果、信長はフロイスの訪問を大いに歓迎し、京都におけるキリスト教の布教を認めた。以降、信長はキリスト教を保護し続けたが、自身が信者になったわけではないので、注意が必要だろう。
具体的に保護内容を述べると、信長は教会堂(南蛮寺)の建築許可、安土城下における教会とセミナリヨ(神学校)の建築許可、巡察使のヴァリニャーノと謁見するなどし、キリスト教の布教に大いに貢献した。
ところで、信長はキリスト教について、どう思っていたのだろうか。通説によると、信長はキリスト教を利用して、仏教勢力を牽制しようとしたという。しかし、信長は別に仏教勢力を根絶やしにしようと考えておらず、延暦寺や大坂本願寺は歯向かってきたので、戦ったにすぎない。
また、信長は毛利氏を牽制するために、九州のキリシタン大名と関係を深める必要に迫られたという説がある。当時、毛利氏は九州北部で大友氏と覇権を争っていたのは事実であるが、キリシタン大名と誼を通じるため、なぜキリスト教が必要なのか理解に苦しむ。
天下統一を目指す信長は、遠路はるばる来日した宣教師が命を懸けて布教に励む様子に感心し、その布教に対する使命感に共感したという説がある。しかし、こちらの説も信長自身がそう発言したわけでもなく、いささか論理に飛躍がある。
当時、特定の宗教や信仰を排撃することは、良くないことだと認識されていた。信長自身も宗教や信仰に対して、優劣を付けようとしなかった。信長が宗派を問わず寺社保護を行ったのは、一つの証左といえる。
つまり、信長はキリスト教も数ある宗教のなかの一つと考え、保護した可能性が高いのではないかと指摘されている。信長がキリスト教を特別視したと考える必要は、特段ないといえるだろう。
渡邊大門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校・中野校講師。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社、『戦国大名の戦さ事情』柏書房など多数。
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