⛩77)─1─江戸時代の愛玩動物は縁起が良い鼠であった。日本固有種の鼠は神の使い。~No.171No.172 

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 日本列島の鼠には、福をもたらす良い鼠と人に害をもたらす悪い鼠もいる。
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 2023年9月10日 MicrosoftStartニュース 朝日新聞デジタル(地域)「江戸の三大ペットや妖怪動物、浮世絵140点を展示 七尾美術館
 猫をめでる女性の浮世絵。今でいう猫好きのSNS投稿のようだ=石川県七尾美術館、土井良典撮影
 © 朝日新聞社
 動物をモチーフにした浮世絵を集めた「動物たちの浮世絵展」が石川県七尾市の石川県七尾美術館で開かれている。同館主催で、18日まで。
 明治時代の浅草公園水族館を描いた浮世絵=石川県七尾美術館、土井良典撮影
 喜多川歌麿歌川国芳ら人気浮世絵師が手がけた140点がずらり。動物は、江戸の「三大ペット」だった犬、猫、金魚のほか、労働を支えた馬や牛、舶来のラクダや象、空想上の妖怪「ぬえ」など30種を超える。
 髪飾りと同じ生地の首飾りを猫につけてペアルックを楽しむ女性や、犬に顔をすり寄せる人も描かれている。地震を起こすと信じられていたナマズを捕らえる絵や、明治時代にあった水族館の絵、動物を使った社会風刺の絵もあり、歴史も学べる。
 陸に打ち上げられたクジラに集まった観衆の絵では、腐臭からか、鼻をつまむ人の姿もあり、ユーモアを感じさせる。鑑賞した七尾市の菅田郭子さん(65)は「色がきれい。今も昔も日本人の動物好きは変わらないですね」と話した。
 入館時間は午前9時~午後4時半。観覧料は一般800円、大学生350円、高校生以下無料。(土井良典)
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 8月30日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「イヌでもネコでも金魚でもカメでもない…江戸時代の人たちがこぞって飼育していた意外な動物の名前
 『養鼠玉のかけはし 上巻』より、ネズミが入ったカゴを持つ親子の姿(画像=国立国会図書館デジタルコレクション)
 © PRESIDENT Online
 江戸の人々はどんなことに関心があったのか。総合研究大学院大学名誉教授の池内了さんは「ネズミの飼育が盛んだった。とくに大坂ではネズミを交配させ、これまでにない珍しい模様のネズミを作ることがブームになっていた」という――。(第2回)
※本稿は、池内了『江戸の好奇心 花ひらく「科学」』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
 なぜ江戸時代の人たちはネズミをかわいがったのか
 鼠は、一般に、人家に害を与えるので憎まれていたのだが、その姿や挙動の可愛いさもあって愛玩動物ともなっていた。鼠にもさまざまなタイプがあって、主には人家の周辺にたむろして台所の食べ物を狙ういわゆる「イエネズミ」(クマネズミ、ラットであるドブネズミ、マウスであるハツカネズミの3種)と、野外のみに棲息する「ノネズミ」(ハタネズミやアカネズミなど)がいる。
 前者は貯食性・貯脂肪性が低いため、屋外の食物が不足するとヒト社会に入り込むが、後者はもっぱら畑の作物を食べていてヒト社会とはやや疎遠である。イエネズミは屋根裏の器物や衣類を齧ったり蔵の中の穀類を食べたりして広がった。もともと人間とは棲み分けしていたのだが、農業社会が発達するにつれ備蓄食料が増えたことから、鼠とヒト社会との接点が増え、鼠の生息圏が人間界にも及んできたのであった。
 都市化が進行した室町時代頃から、鼠害が目立つようになった。御伽草子の『鼠の草紙絵巻』には、鼠捕り専用の仕掛けである「枡落し」のような鼠害対策のさまざまな工夫が描かれている。18世紀後半になってから発見された最も有効な鼠退治の方法は、ヒ素や黄燐、つまり「猫いらず」と呼ばれた薬を用いることであった。その薬は行商され、総称して「石見銀山」とも呼ばれたそうで、まさに銀山から採取された毒薬が使われ、鼠は駆除の対象でしかなかったのだ。
 吉祥の象徴として
 ところが、戯文の冊子である『鼠共口上書』には、石見銀山から鼠への申出書と、鼠からの願出書が面白く書かれている。鼠にも言い分があるというわけだ。
 また、害を及ぼす鼠もいるが、人に害を及ぼさない「コマネズミ」や「ナンキンネズミ」、人に富貴をもたらすとされた「福ネズミ」もいて可愛がられている。人々は鼠に対して愛憎半々であったのだ。
 というのは、鼠は種類にもよるが、おおむね1年に4~6回、各回に4~7匹も子どもを産むので繁殖力が抜群であり、厳しい環境にも負けずに逞(たくま)しく生きる動物であるため、これを子孫繁栄・商売繁盛・家運興隆という吉祥の象徴として人々は大事にしたのであった。
 『古事記』で大国主神(オホナムチ)の苦難を鼠が助けたという昔話から、鼠が大国(=大黒)の使者として大黒信仰に結びついたという説(そのためダイコクネズミと呼ばれる)もある。また、大黒は北方の神であり、北の方向は十二支の「子」にあたり、「子」は鼠であることから大黒天と結びつき、家に住む白鼠は富貴をもたらすとして大事にされた。
 事実、台所に大黒天が祀まつられ、「甲子(きのえね)」の日には大黒天を祀る甲子祭が営まれていた。
 好まれたのは「奇品」
 1750年頃には、女性の下半身の象徴として二股大根が描かれ、それを鼠が齧るという画像が流行った。夫婦和合・縁結び・子孫繁栄を表す吉祥画である。主人に忠実な番頭や奉公人のことを「白鼠」と呼んだのは、「番頭は鼠のごとし(「ちゅう〈忠〉」と鳴くから)」で、利に賢く主人を富ませるからというわけだ。
 さて、いよいよ鼠の飼育・育種についての話に移ろう。明和年間(1764~72)以降、上方を中心にして白鼠の飼育が広がり、斑や月輪など毛色の変わった鼠が持て囃され、高値で取引された。
 ここからは安田容子氏の論文「江戸時代後期上方における鼠飼育と奇品の産出」を参考にする。おそらく、鼠の飼育の入門書としては、『養鼠玉のかけはし』(春帆堂主人〈春木幸次〉、1775年)が最初である。
 第3章で植物の変わった品種のことを「奇品」と言ったが、同書では毛色の変わった鼠や形・大きさの異なる鼠を「奇品」と呼んでいる。「養鼠家」によってさまざまな「奇品」が作出されたのである。
 大坂で起きた交配ブーム
 大坂城代の家臣であった池田正樹が『難波噺』の1771年の項に、「当地(大坂)に白鼠を多く見かける。普通の鼠に地鼠を番わせれば白鼠を生ずるという。また、とらふ・紫・その他種々の毛色を生ずるも、皆つくったものである」と書いており、1773年の項では江戸と比較して大坂に白鼠が多いことを強調している。
 江戸では人気がなかった白鼠の育種が大坂を中心に広がり、「奇品」づくりが熱心に行われていたらしい。
 また、安永年間(1772~81)半ばに、暦算家であった西村遠里(1718~87)は随筆集『居行子(きよこうし)後篇』(1779年)で、「近頃、白鼠が多く出て、普通の鼠と変わらないくらいになっている。それに留まらず、熊鼠と名づけられた毛が真っ黒で、上品なものでは喉の下に白い月の輪があるものや、黒白斑のものも見られる。白鼠はもはや珍しくなく、値段も下がり、子どもの慰みものとなっているくらいだから、大黒天のお使いだと尊ぶ人もいなくなった。
 元来、黒白の鼠は稀にしかいなかったというのに。世の中の人は、何につけても奇物や珍しいものを好んで弄ぶから、そのことについて巧みな者が、あちこちでその種を探し出して雌雄を交合させて増やしている。黒白の鼠を交合させて斑の鼠を作出するようになって以来、近頃ではたくさん作るようになっている。これは人の手によって、天地自然が造形した自然の働きを奪ってしまうものだ」と書いている。
 彼は、「奇品」を作り出す世間の風潮が盛んになったことを、自然の営みを奪う行為だとして非難しているのである。
 飼育の対象はマウスではなくラット
 そのような時代に、『養鼠玉のかけはし』が出版された。この書は序文の題が「養鼠訣序」、上巻が「養鼠訣上」となっており、鼠を飼育する秘訣の書というわけだ。当時一流の絵師と彫師および狂歌師が同書の制作に関与しており、鼠の飼育法が学べるとともに、絵本として楽しめるよう工夫されている。
 上巻と下巻では以下のように内容が大きく異なっている。上巻は、鼠とその仲間の動物についての基本的な解説で、『本草綱目』に載っている「鼠類」だけでなくそこにはない「香鼠(麝香鼠)」を加え、「鼹(ゑん)鼠(ころもち)」と「鼩(きよ)鼱(せい)(はつかねずみ)」を『和漢三才図会』から引用している。なかなか博学である。
 また、鼠は家につく害獣として「その害は少なくない」が、天下太平の時代になって人々の興味が金魚や小鳥や植物に移ると、鼠も愛玩の対象になったと言っている。作者の春帆堂主人は、白鼠を愛玩しているうちに、さまざまな奇品を作り出し、これを楽しむうちに特別な奇品も得たと誇らしげである。
 飼育の対象がラットかマウスかを区別していないので明確ではないが、大きな鼠(「常の鼠」と呼ぶ)はラットと思われ、小さな鼠(「鼩鼱」は大きさ2寸〈約6センチ〉に及ばず、巣を出て20日経たった家鼠より小さいから「はつか」と呼んでいる)はマウスを指していると思われる。
 愛玩の対象は「常の鼠」であったことから、飼育の対象はラットと考えてよさそうである。
 鼠の飼育の秘訣
 下巻では、初心者を念頭において、よい鼠の選び方や繁殖のさせ方、食べ物や飼育籠の大きさなど、飼育方法を丁寧に記述している。鼠を馴らすことについては、「特別な方法があるわけではない。鼠は元来疑い深い動物だから、食べ物を与えて覚えさせてもだめで、所詮何かの拍子でうまくいくもので、ゆっくり時間をかけて馴れさせることだ。目が明かない幼い頃から養い、ともに遊んで人に慣れさせなければ手懐けるのはむずかしい」と書いている。
 そして、鼠の飼育者を「よく養うことができたら、鼠は人の言うことを弁(わきま)え、こちらの気持ちを汲くんで使いをするようなこともできる」と励ましている。
 挿絵には鼠販売店の主人が斑鼠の芸を見せる様子や、その小道具なども描かれていて、実際に人々も鼠に芸を仕込んで愛玩飼育していたことが想像できる。
 また、鼠を買って帰る子どもの姿も添えられていることから、子どもたちが鼠を飼って愛玩することが流行っていたようだ。鼠を飼育することを「養鼠」、愛玩飼育している人を「養鼠家」と呼んでいたようで、この本の書き手や鼠屋の主人こそ「養鼠家」の玄人と言える。
 読者には鼠飼育の初心者や子どもたちを想定していたようで、「幼い者が見やすいよう絵を交えており、これを楽しんで読むうちに飼育方法をよく考えるようになり、やがてこの書は不要になるだろう」と書いている。
 どこでネズミを手に入れていたのか
 この本が刊行された頃は白鼠が手にいれやすくなっていて、売られていたのは上品だが、奇品とはされない目の赤いアルビノの白鼠だったと考えられる。まだ奇品の斑鼠は数が少ないので、簡単に手にいれられない。
 そこで、養鼠家の中でも好事家たちは、仲間内(連)の品評会などで互いのものを見せ合って情報交換を行い、奇品鼠の取引を行っていたらしい。
 巻末に、品評会の場でもある「大坂鼠品売買所」として5つの店舗名が住所とともに掲げられている。そこでは、「常の鼠」である愛玩用の白鼠のみならず、「奇品鼠」にも値段をつけて販売を行っていたようだ。「奇品を得たいなら、この売買所において、その値段を決めるべき」と書いていることからわかる。
 価値が高かった6種類
 同書では、白鼠の中でも目が黒いものが奇品とされているのだが、さらにそれ以外で次の5種類を挙げている。
 「熊鼠」(同斑、熊の豆鼠):総体が真っ黒で、胸に熊のような月の輪がある。
 「豆斑」(豆の斑、白の豆):約3センチほどの大きさ。2種類がある。
 「斑鼠」(はちわれ、鹿斑):白黒の斑で、はちわれは頭から半身白黒と分かれているもの。鹿斑は大鼠で鹿のような模様がある。
 「狐斑」:腹が白く尾は短い。狐色、玉子色、薄赤、藤色、かわらけ色などがある。
 「とつそ」:丈が短く、尾も短く、顔は丸く、耳は小さく、鼻口部は丸く、毛並みが荒く、鳴き声が「ちっちっ」と聞こえる。
 これらは、いずれも大坂近郊の養鼠家によって作出されたもので、大まかに、
①毛色の珍しいもの:熊鼠、斑鼠(斑、はちわれ、鹿の子)、狐鼠
②形や大きさが通常とは異なったもの:豆斑、とつそ
 と分けられる。もっとも、後世の本に記載されていない品種もあり、奇品は一代限りなので、作り出されても維持する(同じ特徴の子孫を続ける)ことが困難であったようである。
 江戸の人たちの科学的好奇心
 この書では奇品鼠について、「奇品の鼠が出る理由として、例えば白鼠に黒鼠をかけ合わせれば斑鼠が生まれると言うのは間違いである。奇品が生じるのは別の理由があり、自然に任せるしかない。奇品が生じるのは人間の技量の範囲ではなく、造化(天地自然)が引き起こす予想不可能な事柄である。だからこそ、値段が高く珍重することになる。
 白鼠は白鼠と、斑鼠は斑鼠とかけ合わせるうちに、自然が感じ入って思いがけなく奇品が生じるものだ。以上のことがこれまで見聞してきたことで、つまるところこれこそが養鼠家の性根というものではないだろうか」とあって、奇品の作出は自然の成りゆきに任せるしかなく、養鼠家は奇品作成のための実験的なかけ合わせを行うべきではないと説いている。
 実際には、養鼠家の多くはさまざまな毛色の鼠をかけ合わせて奇品の作出に取り組んでおり、この本の作者の意見は時代遅れであったようだ。
 社会の趨勢としては、高価な奇品を作り出して一儲けしようとの欲望が強くなったとともに、親の形質が子どもにどのように伝わっていくかを調べてみたいという「科学」的好奇心に突き動かされる人が出ているからだ。

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 江戸の主役な庶民で武士は脇役であり、江戸の精神は武士道ではなく神話物語における御天道様であった。
 神殺し・仏殺しをして悦にふける現代日本人とは、無縁である。
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 日本民族が愛した鼠とは、神の使いとしての鼠であり、食糧を食い荒らし疫病をまき散らす有害獣としてのネズミではない。
 民族神話物語と鼠は深い関係にあり、日本の鼠は世界のネズミとは違っていた。
 現代日本には、神話物語は存在せず、マルクス主義の反宗教無神論や普遍宗教や中華儒教によって民族固有の神々が殺されている。 
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 Kyoto love Kyoto. 伝えたい京都、知りたい京都。
 京都通リズム
 [大豊神社]狛ネズミが出迎える医薬の神様
 2020/08/31 UPDATE神社(217) 祭(195) 祇園(128)
 [大豊神社]狛ネズミが出迎える医薬の神様
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 大豊神社について
 狛ねずみの社と呼ばれていますが本殿には少彦名命(すくなひこなのみこと)、菅原道真公、応神天皇をお祀りしております。
 少彦名命大国主命と一緒に日本の国造りをされた神様として知られ医薬の神様とも言われています。
 どうして医薬の神様なのかはのちほどお話しさせていただきたいと思いますが、そもそも大豊神社の創建は887年に宇多天皇の御脳平癒を祈願し、当時の尚侍(女官のトップ)であった藤原淑子が建てたことに起源がございます。
 そのご本殿よりも有名になったのが境内にいくつもある末社でございます。
 特に有名になったのが境内末社の大国社の狛犬ならぬ狛ねずみです。
 12年に一度の子年には前年秋からマスコミの取材がたくさん来られ、初詣では長蛇の列ができてしまいます。
 全国的にも狛ねずみがいる神社は珍しく、なぜ医薬の神様をお祀りする神社の末社にねずみがいるのか不思議に思われるようです。
 テレビ・ラジオ、新聞・雑誌に取り上げられる機会が増える子年
 ねずみと大国主命
 少彦名命とともに国造りをされた大国主命祇園祭で有名な素戔嗚尊(スサノヲノミコト)八坂神社の主祭神)の孫とも六代あとの子孫ともいわれています。
 大国主命も2回亡くなり2回蘇ったといわれていますのでこのあたりの解釈の幅が日本神話の面白いところです。
 その大国主命はあろうことか素戔嗚尊の娘のスセリヒメに恋をします。
 素戔嗚尊は娘の愛するあまり、また娘に求婚する男は一体どんな奴なのかを試すためにムカデの部屋に閉じ込めたり様々な試練を大国主命に与えます。
ある時、素戔嗚尊は自らが野に放った矢を取りに行くように大国主命に命じます。
それを取りに行った大国主命のまわりに素戔嗚尊は火を放ちます。
この大国主命の窮地を救ったのがねずみでした。
 ねずみが大国主命に呟きます。
 「外はすぶすぶ、中はほらほら」。
 つまり洞穴に逃げ口があるということでした。
 大国主命が試しに地を強く踏んでみると足元に穴があいており、その中に隠れて火をやり過ごし、さらに穴から出てみると素戔嗚尊が放った矢をねずみが持って待っていたと言われています。
 こうして大国主命素戔嗚尊の許しを得てスセリヒメと結ばれたとのことです。
 狛ねずみ~ねずみについて言われていること
 古代の遺跡からねずみも発掘されるように、古来よりねずみは人間の生活にたいへん近いところにいました。
 また利口で義理堅い生き物だと言われています。
 ねずみ同士においてAというねずみがBというねずみに餌を分けてあげたとすると、BはAに恩義を感じて次に餌を得たときにAに分け与えようという習性があるといいます。
 また災害を予知してねずみが集団で移動したりする話にもあるように、たいへん利口な生き物でもあります。
 日本の昔話でも勤勉なねずみが登場したりしますが、このようなねずみの特性は生物学的にも研究が進んでいるようで、ねずみは繁殖能力が高く、共同生活を重んじること、ご縁を大切にすることから縁結びの縁起物と言われるようになったようです。
 実は日本だけでなくヨーロッパでもねずみは縁起のよい生き物と考えられており、結婚祝いにねずみのマスコットなどを贈る習慣があるようです。
 ねずみの繁殖力の強さや、長い歴史の中での人間とのかかわりの深さが結婚祝いにふさわしい縁起物と考えられたのではないでしょうか。
ミッキーマウスが世界で愛されるキャラクターになっているのも興味深いと思っています。
 狛鳶・狛猿・狛蛇~蛇について言われていること
 大豊神社にはそのほかにも末社がございまして狛鳶や狛猿もおられます。
 天狗伝説のある愛宕社には狛鳶がおられます。
 天狗といっても鼻の高い天狗ではなく羽の生えた天狗です。
 その天狗が大空を飛ぶ鳶に習合され高いところ(山)を守る象徴と考えられたのだと思います。
 狛鳶
 また日吉社には狛猿がおられます。
 これはよく魔去る(猿)と言われるところです。
 狛猿
 そして狛蛇もおられます。
 蛇は治病健康長寿、すなわち不老不死の象徴です。
 へびが何度も脱皮を繰り返しながら成長し、自らの傷も脱皮とともに直してしまうことからそう言われています。
 救急車のマークに蛇が使われている自治体もありますし、何よりWHO(世界保健機構)のマークにも蛇が使われているのが蛇が治病健康のシンボルである証です。
 狛蛇
 だから医薬の神様である少彦名命を祀る大豊神社に狛へびがおられるのです。
そしてへびは金運の神様でもあります。
 漢字の川という字は3匹の蛇に見えます。
 川は水、水は穀物の豊作の源、その豊作から金運につながっていると言われています。
 大豊神社は縁結び、子授け安産、学業成就、治病健康のご利益を掲げていますが、ここに魔去ると豊作金運が加わり、人生と子孫繁栄の循環をお守りするお社であると言えると思います。
 神社の宣伝ぽくなってしまいましたが天敵であるはずのねずみと蛇が同じ境内にいること自体がおもしろいと思われませんか。
 大豊神社 権宮司
 小林 哲人
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 神の使い (神ってる動物たち) - infonet
 http://www.infonet.co.jp>ueyama>episode>emissary
 神の使い (神ってる動物たち) (情報の伝達)
 偉大なる神様は、 おおむね、 「使い番」 (神の使い) を従えている。
 「神の使い」 と云うのは、 その神様の郎党の者であって、 平素は、 その神の脇に侍っているが、 ひとたび命令を受けると、 現世の人々に、 その神の意向を伝える仲介者 (メッセンジャー) の働きをする。 (人間の側から神の意向を訊ねて、 その声を聞くは神職。 人間側の仲介者)
 戦国時代の大名たちは、 それぞれに使い番を持っていた。 武田信玄の十二人の使い番はムカデの旗指物を背負い、 徳川家康の使い番は 「伍」 の字の旗指物を差していた、 など。 彼らは主君の命令を、 前線に展開している諸將に馬を駆って伝達する。 だから、 神様たちもそれに習って、 吾が意を人に伝えるために、 使い番となる動物を持っていたと考えられたのである。
 有名なものでは、 大黒様のネズミ、 天神様のウシ、 お稲荷さんのキツネ、 春日さんのシカ、 日吉大社のサル、 弁才天のヘビ、 八幡様のハト、 熊野三山のカラス、 伊勢神宮のニワトリ、 などなど。
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(1) 大黒様・・・・・ネズミ  
 (第1説) 大黒天は梵語ではマハーカラ (Mahakala) 「大いなる黒」 の意味。 「黒」 は陰陽五行では北方。 「北」 は十二支では 「子」 (ネ) であるので、 使い番がネズミとされた。 なお、 大黒様は縁日も甲子きのえねの日。
 (第2説) 大黒天は日本に入ってきて、 「大国主命」 と習合した。 「大黒」 も 「大国」 も 「ダイコク」 と読むためである。 古事記大国主命の段には、 大国主命がネズミたちによって命を救われる話が出てくる。 すなわち、 広野の中で野火に囲まれて焼け死にそうになった時、 ネズミが来て、 ネズミの洞穴を教えてくれたので、 その穴の中に隠れて、 火が燃え過ぎるのを待って助かったと云う。
(2) 天神様・・・・・ウシ 
 (第1説) 天神様のご祭神の菅原道真の生まれた承和12年 (845) は乙丑きのとうしの年。 だから、 ウシが使い番になったと云う説。
 (第2説) 道真が太宰府で死去する時の遺言 「我が遺骸は牛の赴く所にとどめよ」 に従って、 亡骸を牛車に乗せたところ、 道行く途中で牛が座り込んで動かなくなったので、 そこに寺を建てて、 埋葬した。 (北野天神縁起絵巻)
 (第3説) 道真の神号は 「天満大自在天神」 (大自在天とはシバ神の仏教名)、 もしくは、 「日本大政威徳天」。 「威徳天」 とは 「大威徳明王」 であって水牛にまたがった牛神である。
(3) お稲荷さん・・・・・キツネ 
 (第1説) 倉稲魂うかのみたまを祭神とする神道系の稲荷 (伏見稲荷系) が、 荼吉尼天だきにてんを祭神とする仏教系 (豊川稲荷系) の稲荷と習合する。 ダキニテンは野干 (ジャッカル) に乗った女性の姿であるが、 中国にも日本にもジャッカルが生息しないので、 これがキツネに代わった。
 (第2説) 倉稲魂うかのみたまは穀物の精霊であり、 食物神の意味で、 御食神みけつかみとも云われた。 このミケツガミに 「三狐神」 の文字を当てたので、 キツネが稲荷神の使いになった。
(4) 春日さん・・・・・シカ 
 (第1説) 春日神社は710年平城遷都の時に藤原不比等が春日の三笠山において、 藤原氏氏神である建御雷之男たけみかづち神を祀ったのに始まる。 称徳天皇の768年、 不比等の孫の藤原永手が、 現在の地に社殿を建て、 茨城県鹿島神宮より武甕槌たけみかづち命を、 千葉県の香取神宮より経津主ふつぬし命を、 大阪府枚岡神社より天児あめのこ屋根やね命および、 その比売ひめ神の、 合わせて4柱の神をここに移した。 この時、 鹿島の神は白い鹿に乗ってここまで来た。 このためシカが春日神社の使い番になった。
 (第2説) 鹿島のタケミカヅチ命と香取のフツヌシ命の所へ、 天照大神から使者が来て、 二人で出雲の国に赴いて、 大国主命に国譲りをさせよと命じてきた。 この時の使者が鹿の神霊である天迦久あめのかぐ神であった。 これに因んでシカが春日の使い番になった。
(5) 日吉山王・・・・・サル 
 日吉神社日枝神社山王神社。 祭神は比叡山の地主神である 大山咋おおやまぐい神で、 別名は山王権現
 最澄比叡山延暦寺を開いた時に、 地主神を山王と称して祀ったのに始まる。
その使い番が猿。 何故に猿なのかはよく分からない。 山王と比叡山のイメージから猿が使い番になったと物の本には書いてあるが、 これでは何の説明にもなっていない。 さっぱり分からない。 山には熊もおり、 猪もおり鹿も棲んでいる。 何で猿なのか。 比叡山には猿が沢山棲んでいたのだろうか。
(6) 弁天さん・・・・・ヘビ 
 ヒンドウ教の三大最高神の一人ブラフマー梵天) が、 我が妻とすべき女性をサラスヴァティ河の水から作った。 それが弁才天、 弁天さんである。 従って弁才天は水の神である。
 他方、 蛇は水陸両棲の爬虫類で、 水の中を泳ぐ。 好んで水中に棲む種類もある。 このため蛇が弁才天の使い番になったと云う。
 しかし、 これには何の説得力もない。 水に棲むものと云うと、 先ず魚や亀。 何で蛇が?
 しかし、 弁才天と蛇との結びつきは強固である。 弁才天の縁日が己巳つちのとみであるだけではない。 弁才天には宇賀弁才天と云われる変形があり、 これは、 とぐろを巻いた人頭蛇身の姿である。
 とにかく、 蛇との結び付きの理由は、 どうもよく分からない。
(7) 八幡様・・・・・ハト 
 八幡様の神である応神天皇の神霊は、 宇佐の山頂の巨石から、 まず金色の鷹となつて出現し、 その後、 鍛冶の老翁に変身し、 次いで三歳の童子に変身し、 最後に金色の鳩に変わったと伝えられる。
 また、 宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ分霊した時にも、 金色の鳩が現れたと伝えられ、 これらから、 鳩が八幡宮の使い番になったと云われるが、 何だか漠然としている。
(8) 熊野三山・・・・カラス 
 古事記日本書紀によると、 神武天皇が熊野から山をわけて大和へ侵攻した時、 八咫やた烏がらすが道案内した。 それによって無事に紀伊の山中を突破して大和に入ることができた。 このために、 烏が熊野の神の使い番になったと云う。
 熊野牛王の誓紙には、 沢山の烏が描かれている。
 太陽の中に三本足の烏が棲んでいると云う伝説は世界に広く分布しており、 八咫烏は太陽の化身とも考えられている。 (太陽の烏と云うのは、 太陽の黒点である)
なお、 八咫烏は京都の下鴨神社の祭神で、 賀茂県主氏の祖神である 建角身たけつぬみ命であるとも云われている。
(9) 伊勢神宮・・・・ニワトリ 
 天照大神を祀る伊勢神宮の使い番が鶏であるのは、 古事記の中の物語に基づいている。 すなわち、 天照大神が天の岩戸に隠れてしまった時、 何とかして、 大神に岩戸から出てもらいたいと、 諸々の神々が知恵を絞る。 そして、 まず常世の長鳴鳥ながなきどりを集めて岩戸の前で鳴かせて、 大神の出御を促す。 長鳴鳥とはニワトリのことである。
これによって、 ニワトリが伊勢神宮の使い番になったと云われる。
天照大神は日神である。 ニワトリは昇る朝日に向かって鳴いて朝を告げるから、 イメージも整っている。
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 これらを通じての感想 ・ ・ ・ ・ ・ ・ その動物が、 その神の使い番になった理由は、 いずれも曖昧模糊としている。 後で作られた理屈と思われるものも少なくない。 しかし、 そんなことは、 どうでもよいのだ。 要は、 神様ともなると、 それぞれに、 伝令役の小間使い=情報伝達手段を持っていたと云うことである。
 現代なら、 手元に携帯電話もあり、 メールを送ることが出来るパソコンもあるので、 そんな使い番の従者など不必要だけれど、 神様の時代には、 そんなものがなかったと云うこと。
 【情報夜話内の関連事項】  鷲座の黒鷲
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