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真神(まかみ)は、日本に生息していた狼(ニホンオオカミ)が神格化したもの。大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)、御神犬とも呼ばれる。
真神は古来、聖獣として崇拝されてきた。また、猪や鹿から作物を守護するものとされた。人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと信仰された。また、厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。
大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化された。『万葉集』巻八には「大口の まかみの原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに」(舎人娘子)と記され、少なくとも(大和国風土記の逸文と合わせ)8世紀からみられる。この「大口の真神原」には後に飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅があったとされ、用明天皇の代に蘇我馬子が寺の建立を発願、崇峻天皇の代に館を廃し法興寺(後の飛鳥寺)の造営が始まったとされる。
現在も埼玉県秩父地方の神社を中心に、狼が描かれた神札(お札)が頒布され、信仰を集めている。このすぐ南の武蔵御岳山上の武蔵御嶽神社には『日本書紀』の記述に基づく「おいぬ様」(または「お犬さま」)の伝説があり、日本武尊の東征の折、邪神が大鹿の姿で現れたのを野蒜で退治したが、その時に大山鳴動して霧に巻かれて道に迷ったのを、そこに忽然と白い狼が表れて道案内をして、無事に日本武尊軍を無事に導いたので、尊は「大口真神としてそこに留まるように。」といったという。大口真神は江戸時代の天保年間ころより盗難除け・魔物除けとしての信仰が盛んになり、本殿のおいぬ様の狛犬はブロンズ製(1807年の作)で、本殿前の像は北村西望の作(1985年奉納)である。
関連項目
三峯神社 - (埼玉県秩父郡大滝村三峰)大口真神を祀る
山住神社 - (静岡県磐田郡水窪町山住)大口真神を祀る
大川神社 - (京都府舞鶴市大川) 大口真神を祀る
釜山神社 - (埼玉県大里郡寄居町)大口真神を祀る
武蔵御嶽神社 - (東京都青梅市御岳山)大口真神を祀る
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サライ
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お稲荷さんは何故生まれた?神様の使いがオオカミからキツネに取って代わった理由
2016/11/14 趣味・教養
8万社ともいわれる日本の神社のなかで、もっとも多いのは八幡様を祀(まつ)る神社であるが、その次がキツネを祀るお稲荷さんだ。それにしても、いったいどんな神様だろうか。
お稲荷さんはその字が示すように、稲の豊穣を守る神様だ。「稲(い)生(な)り」がその語源という。
稲のような食物を司る神を古くは「御饌津神(みけつがみ)」と言った。この神名に「三狐神(みけつがみ)」の字をあてたので、いつしか狐が稲荷神の使いになったという。
じつはこうした伝承はいくつもあって、狐は穀物を食べる野ネズミを襲うので、狐が稲の守り神になったともいう。
他にこんな説もある。
稲荷神社の総本宮は京都市伏見区にある伏見稲荷大社。かつて、と言っても2000年以上も昔、伏見の地には狩猟民たちがいた。そこへ朝鮮半島から稲作の先端技術をもった秦さんという人たちが入植してきた。
狩猟民たちは山の狼(おおかみ)を神の使いとしていたが、稲作の定着とともに狼は山に追いやられ、代わりに里にすむ狐が稲の神の使いとなったという。
北から南まで稲作文化が定着した日本列島、稲と狐との関係はますます強くなった。では狼はその後どうなったのか。
オオカミ信仰はかつて日本各地に点在していた。オオカミは人間を襲う獰猛(どうもう)な動物だが、同時に農作物などを食い荒らす野生動物も襲うので神聖視されるようになった。
しかし、稲作の発達によりオオカミ信仰はキツネの稲荷信仰(いなりしんこう)に取って代わられた。
オオカミ信仰といえば、いまは埼玉県秩父郡の三峰神社(みつみねじんじゃ)や東京奥多摩の大嶽神社(おおだけじんじゃ)などが名高い。祭神は大口之真神(おおぐちのまがみ)、たんに真神ということもある。大嶽神社のオオカミ像は非常にシンプルで、ペット犬のような愛らしさがある。
オオカミ信仰をいわば理論化したのは、山奥で厳しい修行をする修験者(しゅげんじゃ)とされている。彼らの説によると、三峰神社にイザナギ、イザナミノ尊(みこと)を祀(まつ)ったとき白いオオカミが神の使いとして現れたという。また日本武尊(やまとたけるのみこと)が山火事にあったとき、オオカミが救ったという。
日本のオオカミは明治になって絶滅した。イノシシやニホンジカなどが繁殖し畑や森林が荒らされるのは、オオカミが絶滅したためとする説がある。そこで外国のオオカミを日本に導入する案が何度か浮上しているが、それは文字通り野にオオカミを放つことになりかねない。
神様は祠(ほこら)のなかでそっとしていただいたほうがよさそうだ。
文/田中昭三
京都大学文学部卒。編集者を経てフリーに。日本の伝統文化の取材・執筆にあたる。『サライの「日本庭園」完全ガイド』(小学館)、『入江泰吉と歩く大和路仏像巡礼』(ウエッジ)、『江戸東京の庭園散歩』(JTBパブリッシング)ほか。
※本記事は「まいにちサライ」2013年11月21日、11月28日掲載分を合わせて加筆・転載したものです。
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稲荷神は、稲を象徴する穀霊神・農耕神。「稲荷」とは食物の神(ウカノミタマ)、キツネ(御食津神)、油揚げ、稲荷寿司、旅芸人が町回りで立てる細長い旗などを指す言葉。稲荷大明神(いなりだいみょうじん)、お稲荷様、お稲荷さんともいう。
「稲成り」の意味だったものが、稲を荷なう神像の姿から後に「稲荷」の字が当てられたとされる[1]。もとは古代社会において、渡来民の秦氏から伝わった氏神的な稲荷信仰であり、秦氏の勢力拡大によって信仰も広まっていった。本来の「田の神」の祭場は狐塚(キツネを神として祀った塚・キツネの棲家の穴)だったと推測されるが、近世には京都の伏見稲荷を中心とする稲荷信仰が広まり、狐塚に稲荷が祀られるようになった。
五穀をつかさどる神・ウカノミタマと稲荷神が同一視されることから、伏見稲荷大社を含め、多くの稲荷神社ではウカノミタマを主祭神としている。
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イオマンテ用に設けられたヌササン(幣場)。中心にイナウで飾り付けた熊の頭骨を祭り、周囲に捧げものとしてのイナウや供物の鮭を捧げる(大阪府吹田市、国立民族学博物館の展示物)
イオマンテ (iomante) とはアイヌの儀礼のひとつで、ヒグマなどの動物を殺してその魂であるカムイを神々の世界 (kamuy mosir) に送り帰す祭りのことである。
言葉としてはi「それを」+oman「行く」+te「何々させる(使役動詞語尾)」という意味。「それ」とは恐れ多いカムイの名を直接呼ぶ事を避けた婉曲表現であり、従ってイオマンテとは「カムイを行かせる」儀式の意である。また、語頭のiとoの間に渡り音のyが挿入されてiyomante=イヨマンテという発音になることも多い。
単にイオマンテという場合、ヒグマのイオマンテを指すことが多い。本来はカムイであればどんなカムイでも構わず、一部の地域ではシマフクロウのイオマンテを重視する。またシャチを対象とするイオマンテもある。
飼育したヒグマを対象とする儀式はイオマンテ、狩猟によって捕殺した野生のヒグマを対象とする儀式はカムイ・ホプニレ (kamuy hopunire) と呼んで区別することがある。「ホプニレ」とはho「尻」+puni「何々を持ち上げる」+re「使役動詞語尾」で「(カムイを)発たせる」の意味。狩猟で殺した直後の獣のカムイは、魂 (ramat) の形で両耳の間に留まっているという。そこでカムイ・ホプニレの儀式では祭壇を設えてヒグマの頭部を祀り、酒食やイナウを捧げてそのカムイに神々の世界にお帰り頂くのである。
概要
冬の終わりに、まだ穴で冬眠しているヒグマを狩る猟を行う。冬ごもりの間に生まれた小熊がいた場合、母熊は殺すが(その際前述のカムイ・ホプニレを行う)、小熊は集落に連れ帰って育てる。最初は、人間の子供と同じように家の中で育て、赤ん坊と同様に母乳をやることもあったという。大きくなってくると屋外の丸太で組んだ檻に移すが、やはり上等の食事を与える。1年か2年ほど育てた後に、集落をあげての盛大な送り儀礼を行い、丸太の間で首を挟んでヒグマを屠殺し、解体してその肉を人々にふるまう。
宗教的には、ヒグマの姿を借りて人間の世界にやってきたカムイを一定期間大切にもてなした後、見送りの宴を行って神々の世界にお帰り頂くものと解釈している。ヒグマを屠殺して得られた肉や毛皮は、もてなしの礼としてカムイが置いて行った置き土産であり、皆でありがたく頂くというわけである。地上で大切にされた熊のカムイは、天界に帰った後も再度肉と毛皮を土産に携え、人間界を訪れる。さらに人間界の素晴らしさを伝え聞いたほかの神々も、肉や毛皮とともに人間界を訪れる。こうして村は豊猟に恵まれるのである。熊の再訪を願うために、人間からの土産としてイナウやトノト(濁酒)、シト(団子)を大量に捧げる。イオマンテの宴で語るユーカラは、佳境に入ったところでわざと中断する。神が続きを聞きたがり、再訪することを狙うのである。
類似の熊送り儀礼は、樺太周辺のニヴフなど、ユーラシア・タイガの北極圏に近い内陸狩猟民族に広く存在している。イオマンテもその一種である。
北海道におけるイオマンテの儀式は1955年に北海道知事名による通達によって「野蛮な儀式」として事実上禁止となった。2007年4月、通達を撤回している。
イオマンテの起源
アイヌ文化期に先行する擦文文化期の遺構からは熊に関連する祭祀の痕跡が見当たらないことから、イオマンテはオホーツク文化(担い手はニヴフといわれる)からトビニタイ文化を経由してアイヌ文化が取り込んだとの見方がある。詳細はトビニタイ文化を参照のこと。
「山の神・年神・屋敷神・田の神・稲の神・祖霊神」概念との類似
日本神道における、「山の神・年神・屋敷神・田の神・稲の神・祖霊神」などの概念とイオマンテの概念との間には、類似性がみられる。
これらの概念を説明すると、
「山の神・年神・田の神・屋敷神・稲の神・祖霊神」は同一の存在の「豊穣神」であり、季節ごとにその名と姿と居場所を変える。まず、山の神が、冬の新年になると、年神となって、山から麓の村(=地上=人界)に降りて来て(年神を屋敷に迎え入れる行事が「正月」=冬祭り)、屋敷神となって屋敷と一族を守り、春になると、田に出て、田の神となり、田植え(=予祝祭や水口祭や田植祭などの春祭り)が行われ、夏の間、田の神=稲の神は、稲を見守り育て(お盆=夏祭り)、秋になると、田の神=稲の神は豊かな実りを齎し、神霊(稲霊)の宿る稲が収穫され、収穫祭(=秋祭り)が行われ、人は田の神=稲の神に収穫物を捧げて、神とともに収穫を祝い、田の神を屋敷に迎え入れて、風呂やご馳走でもてなして労をねぎらい、神を山(=辺境+高い場所=異界=天=神の国=死者の国)に送り出し、神は山に帰っていき、山の神となる。
以後も、この1年の循環(サイクル)を、毎年繰り返す。
また一族の者が亡くなると、その者の霊は、祖霊となり、村を見守る近くの山に行って、山の神となり、村と一族の守護神となり、上記の循環(サイクル)を経て、村や屋敷に帰ってくる。」
祭祀の対象が、植物である「稲」=「(上記)~の神」か、動物である「熊」=「熊のカムイ(神)」か、の違い(これは農耕民と狩猟採集民の生活基盤の違いともいえる)はあるが、どちらも豊穣儀礼であり、「神(カムイ)の霊(体ごと)を迎え、神(カムイ)の霊の宿った稲(体)が育ち、神(カムイ)の稲(体)を収穫(屠殺)し、再来を期待して、神(カムイ)の霊を、祭りを行った(もてなした)後、山(神々の世界)に送り出す」というサイクルなど、同じ構造を有している。
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熊送りまたは熊祭りとは、ユーラシア・タイガ・北アメリカ北部の内陸狩猟民族の典型的な文化要素の一つ。
概説
アイヌの熊送り(熊祭り)とは、「アイヌモシリ」(人の世界)」に熊(特にヒグマ)の姿で遊びに来たカムイ(神)の魂(霊)を、天上の「カムイモシリ」(神々の世界)に送り返す祭式儀礼のこと。熊送り(熊祭り)には、狩りで捕殺した熊を祭る「狩り熊型熊送り儀礼」(猟熊送り)と、子熊を一定期間(北海道アイヌの場合、通常1・2年、サハリンアイヌなら3年前後)飼育した後に絞め殺して祭る「飼い熊型熊送り儀礼」(飼熊送り)の二つが存在する。
「狩り熊型熊送り儀礼」がユーラシアや北アメリカ北部に暮らす先住民達に普遍的に認められる一方、「飼い熊型熊送り儀礼」は極東に暮らす諸集団(北海道アイヌ、サハリンアイヌ、ニブヒ(ギリヤーク)、ナナイ(ゴルド)、ナーヌィ(オロチ)、ウィルタ(オロッコ)、ネギダル、ウリチ、など)に偏在する。
後者の分布は北海道、樺太(サハリン)から黒竜江(アムール川)流域のハバロフスクあたりまでのナラ林帯で、アイヌのイオマンテもこれに含まれる。
アイヌは、最高神である「キムンカムイ」(山の神)に対する霊送りとして、「猟熊送り」と「飼熊送り」とを、何ら変わらぬ丁重さをもって執り行ってきた。
アイヌの「飼熊送り」は、原則、1~2月頃の厳冬期に行われた。
アイヌの「熊送り」は、擦文文化(7~8世紀頃、本州農耕社会の強い影響下にもあった、道央・道南の地で、先行する続縄文文化の伝統を受け継ぐ形で成立)よりも、樺太(サハリン)北部や黒竜江(アムール川)下流域に起源を持つ、オホーツク文化の担い手である「オホーツク集団」(6~9世紀頃、道北・道東部に展開)の、さらには、擦文文化を受容したオホーツク集団の末裔に当たる「トビニタイ文化集団」(9~13世紀頃)の、ヒグマ儀礼の伝統を受け継いだものと、考えられている。
アイヌの「熊送り」が、「オホーツク集団」のヒグマ儀礼と近縁関係にあることは疑う余地はない。しかし、その一方で、「熊送り」の淵源の一端を北海道および本州起源の文化伝統の中にも探る必要性がある。
アイヌの「熊送り」の開始時期は、「飼い熊型熊送り儀礼」は文献史料からは17世紀中頃まで遡ることができるが、それより過去は、考古学の発掘成果からは擦文文化終末期に当たる12~13世紀頃に先立つ可能性を指摘し得る。ただし、これは「狩り熊型熊送り儀礼」の確立の証左とは言えるが、「飼い熊型熊送り儀礼」の基本形態までもが、この時期に確立されていたとまでは(可能性は極めて高いとはいえ)結論できていない。
「飼い熊型熊送り儀礼」は、「狩り熊型熊送り儀礼」に後発するものであったことは、想像に難くない。「飼い熊型熊送り儀礼」は、ツングース系のトナカイを飼養する牧畜文化との接触によって派生したとみられ、ところによっては西方の騎馬遊牧民文化の影響もみられる。
なお、北米先住民の中には、イヌワシの雛を数年間飼育した後に殺して魂(霊)を天に送る儀礼を持つ部族があり、北海道ではシマフクロウのイオマンテが行われる地域がある。
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