✨38)─4─昭和天皇の広島巡幸。慰霊と激励。昭和22(1947)年12月7日。~No.165 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 昭和天皇は、「天皇の覚悟」を持って開戦と敗戦の戦争責任を一身に引き受け逃げようとしなかった。
 天皇の覚悟とは、自殺をせず、退位せず、国外に逃げる事なく、日本国内に留まり「死ぬ」その時まで、国民からの批判・非難、誹謗中傷、ウソ、石つぶてに反論せず弁護せず「無言」で耐え忍ぶと言う事である。その歴史的汚名は、死後も続いていく。
 つまり、国民の手で「リンチに遭って殺されてもやむなし」と言う事であり、国民を信じ切って命を預けると言う事である。
 歴代天皇の中で「天皇の責任」を強く持っていたのは、積極的自衛戦争を決断し裁可した明治天皇昭和天皇であった。
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 天皇の広島巡幸 1947(昭和22)年
 広島市民奉迎場(元護国神社前)における天皇の「御言葉」(12月7日)
 この度は皆の熱心な歓迎をうけて嬉しく思う、本日は親しく広島市の復興の跡をみて満足に思う、広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない、われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない
 月 日 記事
 05 33 第1回平和祭に向けての会合、広島市役所で開催。中村藤太郎広島商工会議所会頭、「8月6日の平和祭に、ぜひ天皇陛下の御臨席をお願いしよう」と緊急提言。(『天皇陛下と広島』)
 10 04 広島県議会発議書「天皇陛下広島県行幸懇請について」(『天皇陛下と広島』)
 10 25 広島市議会「広島市役所に天皇陛下御巡幸を仰ぐよう県当局に対する陳情書」(『天皇陛下と広島』)
 11 20 宮内府、天皇の中国地方視察の日程を発表。[天皇
 11 22 広島市復興局、本年7月英豪軍航空隊撮影の写真から広島市の航空写真を作成。来広の天皇に提示予定。
 11 24? 広島市天皇に原子砂漠の写真を献上することを決定。作成は文化社。
 11 30? 広島市天皇来広に際し、国旗を掲揚しないよう要望。
 12 05 天皇、国立大竹病院を訪問。外科第3病舎で同病院ただ1人の原爆病患者・畠山隆雄(24歳)を慰問。(『天皇陛下と広島』)
 12 06 楠瀬広島県知事、天皇の下問に「広島市原子爆弾の影響は現在では人体について殆ど心配なく、ただ植物に学問的に多少の影響を与えている程度であろう」旨、奏上。(『天皇陛下と広島』)
 12 06 竹内釼・広島赤十字病院院長、宮島・岩惣の行在所で天皇に進講「広島市における戦災者の傷痍について」。(『天皇陛下と広島』)
 12 07 永積侍従、天皇の命により、原爆供養塔を参拝し、日赤病院の原爆患者13人(吉川清など)を慰問。
 12 07 天皇、広島を訪問。広島戦災児育成所(佐伯郡五日市町)-相生橋広島市民奉迎場(元護国神社前)-第1授産共同作業場-袋町小学校-広島県立第1中学校-広島市役所-県庁-広島駅。
 12 10? 天皇行幸記念の平和記念塔、広島爆心地産業奨励館横に完成。
 12 12 広島市議会「天皇陛下本市行幸に対する感謝決議」(『天皇陛下と広島』)
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 昭和天皇の広島巡幸_1947.S22.12.7_背景に原爆ドーム
 【昭和天皇、広島巡幸のとき】轟く万歳の声
 昭和懐かし動画・ニュース館ニュース【昭和天皇、広島巡幸のとき】轟く万歳の声
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 【昭和天皇、広島巡幸のとき】轟く万歳の声
 ニュース
 天皇陛下の地方巡幸などは、
 当時の誰もが思いもしなかったことでした。
 殆ど警備らしい警備も無く、武器はまだ至るところにあり、襲撃の危険が大いにありました。
 「君主制は敗戦に耐えられない」というのが世界の歴史であり、常識でもあったから、マッカサーならずとも世界のインテリは驚いたのでした。
 敗戦の象徴、広島の原爆ドームが遠くに見える場所に、昭和天皇は立ち、そして帽子をとりました。
 日本国民がこれほどまでに、思いを込める天皇陛下
 広島市民からは自然発生的に
 「天皇陛下万歳」の声があがりました。
 動画をどうぞ>>>
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 昭和天皇の全国巡幸 - アメリカ大統領歴代研究ポータル
 http://www.american-presidents.info>jyunko
 甲信越北陸巡幸と中国巡幸
 全国巡幸は、近畿巡幸と東北巡幸に続いて年内に甲信越北陸と中国巡幸が行われ最高潮を迎えた。冷戦の顕在化という国際情勢の変化により、GHQは日本の保守層に対する態度を軟化させつつあったが、皇室への圧力は依然として変わらないままであった。GHQが宮家の数を減らすように指令したことはその一例である。
 GHQ内部では、日本占領を円滑に行うために天皇制を政治的に利用しようという意見と、軍国主義思想の基になるような天皇制復活を警戒するべきだという意見二つに分かれていた。巡幸を実施すること自体については両者とも異存はなく、特に後者は国民に石もて迎えられ天皇陛下が権威を失墜させるのではという憶測に基づき賛意を示していた。しかし、各地で天皇陛下をお迎えする国民のお祭り騒ぎを見るにつけ、GHQ内部では天皇制復活を警戒するべきだという意見が強くなっていた。
 甲信越北陸巡幸は、昭和二十二年10月から11月にかけて、長野県、新潟県山梨県福井県、石川県、富山県の順で行われている。長野のみは往路復路で二回に分けて行われている。  
 往路で長野県に立ち寄ることになったのは、水害のため上越線が不通になり、信越線を使用しなければならなかったからである。一日で新潟県に向かうことは無理であったために軽井沢で一泊し、長野県から巡幸を開始することになった。  この巡幸では、各新聞の報道の過熱ぶりが目立った。柏崎での休養日に昭和天皇は御宿泊所であった飯塚邸の裏山で散策をお忍びで楽しまれた。それに気が付いたカメラマンたちが、雨傘を手にゴム長を履いて山道を散策される昭和天皇をカメラにおさめようと後を追い、あまりに夢中になったために泥田に落ちたり、転倒したりする者が相次いだ。
 視察する昭和天皇
 昭和天皇  北陸では巡幸日程の前半は雨に祟られた。昭和天皇御自身、靴を泥に塗れさせ、全身から雨垂れを滴らせることがしばしばあった。新聞各紙の報道は、ますます過熱し、記者たちが締切時間に追われている様子をご覧になった昭和天皇が、彼らの車を先に行かせるようにと指示される一幕もあった。
 甲信越北陸巡幸から一カ月も経たないうちに中国巡幸が開始された。中国巡行は、昭和二十二年11月から12月にかけて鳥取、島根、山口、広島、岡山の順で行われている。特に広島では、五万人もの市民が集まった奉迎場で、昭和天皇は初めてメッセージをお読みになった。昭和天皇は、原爆による惨禍を受けた広島市民への格別の配慮をお示しになったのである。
 中国巡幸ではGHQ民生局のポール・J・ケントが巡幸のお目付け役として同行している。ケントは天皇制復活を警戒していた一人である。中国巡幸最終日にケントを激怒させた、いわゆる日の丸事件が起きた。中国地方から還幸途中に御召列車が兵庫県を通過した時に予期せぬ事態が起こった。沿線の大勢の人々が御召列車に向かって日の丸を振ったのである。当時、GHQの指令により日の丸の掲揚は厳禁されていた。その禁則が破られるのを目の当たりにしてケントは巡幸の中止をGHQの民政局に具申した。
 御製
  広島県
   ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり
●「熱烈な歓迎に嬉しく思う、広島市民の復興の努力のあとをみて満足に思う、皆の受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない」(昭和22年12月7日)
 広島市民奉迎場にお立ち寄りになった昭和天皇は、五万の市民を前にこう述べられて広島市民を激励された。
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 どんぐりっこ
 海外「な、なんだってぇ!」英機密資料「昭和天皇は戦争を阻止しようとした」に海外が大騒ぎ
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 英国で公開された機密資料に、昭和天皇が戦争を止めようとしたとの事実が記載せれていたことが話題になっていました。
 資料は、当時の駐日英国大使だった人物が、昭和天皇に対する見解を報告したもので、天皇は一貫して軍国化に反対していたが、実際に出来たのは1936年の軍事クーデターの鎮圧と、1945年の降伏のみだったのだと記されています。
 新たに判明した戦争の新事実に、東アジアの人たちからはさまざまな意見が寄せられていました。
 昭和天皇の逝去後、当時の駐日英国大使が英政府側に、「彼(昭和天皇)の権限は限られたもので、日本が軍国主義に傾いていくのを止めるには、彼は結果的には無力だった」と、天皇の戦争責任に否定的な見解を伝えていたことがわかった。旧日本軍への苦い記憶を持つ英国には天皇の戦争責任を厳しく問う声も少なくなく、当時のサッチャー英首相側は日本での議論に関心を持っていたようだ。
 戦争責任に関しては、「ヒロヒト昭和天皇)は日本の政策の方向性に違和感を持っていた」「戦争へ向かう動きを妨害するために、個人的な影響力を行使しようと一貫して試みた」などと言及。「あの時代の国家元首として、天皇が戦争責任を完全に免れることはできない」としつつも、「彼は最終的には無力だった」とし、「これが今日の日本での通説だ」とまとめている。
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 昭和天皇の全国巡幸は、祭祀王として天皇の名で始めた戦争で亡くなった人々の慰霊をおこない、天皇の責任として生き延びた人々に激励の為に行われたのであって、反省と謝罪の為ではなかった。
 天皇の行為は、政治や宗教やイデオロギーを超えたところに存在いていた。
 原爆で被害を受けた広島市民は、涙を流し歓喜の声をあげて昭和天皇を迎えた、それは皇国史観愛国心・修身教育で洗脳されていたからではない。
 アメリカ・GHQ・キリスト教会、ソ連中国共産党は、フランス革命ロシア革命、ドイツ革命のような敗戦革命が起きて、激怒した日本人達が敗戦の塗炭ををもたらした昭和天皇に対して復讐的人民裁判で裁き縛り首で殺す事を期待したが、現実はその真逆で昭和天皇と日本国民の繋がりの強さに恐怖した。
 敗戦国日本では、世界の常識であった宗教やイデオロギーによる革命は起きなかった。
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 漫画「はだしのゲン」とは、イデオロギー反戦作品として、天皇の戦争責任と天皇戦争犯罪を告発する反宗教無神論・反天皇反民族反日の政治的作品である。
 つまり、昭和天皇戦争犯罪者とする共産主義作品である。
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 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
 昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズムボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
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 保守には、正統保守、新しい保守、エセ保守がある。
 現代日本では、安倍元総理による新しい保守が増えている。
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 NHK 昭和天皇「拝謁記」
 戦争への悔恨
 国民との距離 縮めようとする姿も
 「拝謁記」には、国民との距離を少しでも縮めようとする昭和天皇の姿も記されていました。
 目次
 厳重な警備に対して
 『菊のかーてん』誠に困る
 厳重な警備に対して
 昭和26年9月29日の拝謁では、国民体育大会に出席するための広島訪問と、戦後巡幸の一環の近畿訪問が話題になり、田島長官が「前回御巡幸の時等ニ比し治安の点ハよろしくないとの事でございます 従て警備は稍厳重ニなるかと存じます」と述べたと記されています。
 これに対して昭和天皇は、「国体と近畿とハ違ふと思ふ。治安関係で警戒厳重ニなれば国民との接触目的の近畿は果して接触の目的を達し得らるや和歌山へ先年巡幸の時ハ米兵の剣付鉄砲(けんつきてっぽう)で私をとりまいて却て(かえっ)国民との阻隔(そかく)ニならぬかと思つた。終戦直後ハ大体警備は楽で所謂(いわゆる)警戒線のくずれが大阪や名古屋である程で 警戒ハ戦争前と大違ひで 其為めニ国民との親近がはかられたと思ふが 今治安やゝわるいとの為ニ 警察が万全主義で警戒を厳重ニすれば 米兵でなくても阻隔(そかく)のきらいなしとしないので 若(も)しそういふ憂あれば止(や)めた方がよいかも知れぬ」と述べ、警備を厳重にすると国民とふれあうという巡幸の目的が達成できないため、そうしたおそれがあるなら訪問を取りやめたほうが良いのではないかという認識を示したことが記されていました。
 昭和27年2月25日の拝謁でも地方訪問の際の警備の強化が話題になりました。
 昭和天皇は「その為に折角の皇室と国民との接近を害するやうになつても困る」「あまり厳重過ぎると折角出掛けても逆の印象を与へる事ニなるから困る。その辺のかねあひが六ヶ(むつか)しいネ」と述べたと記されています。
 昭和28年5月5日の拝謁では、昭和天皇が「皇室と国民の接近といふ事は今後とも計らねばならぬ」と述べたと記されています。
 昭和28年11月3日の拝謁記には、何者かが昭和天皇に直訴を試みた事件があったという記述があり、その翌日の拝謁(昭和28年11月4日)では、昭和天皇が「昨日吉田が直訴の事をいつて 警察がわるいので今後は厳重ニするといつてたので あまり厳重ニしては皇室と国民の間ニ垣が出来ては困るといつた処、それは我慢願ひますといつてた。尤(もっと)も立掛けて立つてる時でそれなりニなつたが、一人の人の誤ちから千人の人ニ迷惑をかける事ニなる。一度間違つた事があるといろいろの事ニ必要以上の注意をしすぎるやうになる事ハ此事(このこと)でなく政治全体一般ニ之ハ余程注意すべき事である。一つしくじつたとかやり損ひの事があるとその取締りの為ニ千人も万人もの人の為ニ迷惑をかける事ニなり勝ちだ。之ハ充分考へぬと政治ハいかぬと思ふ。私ハ外遊から帰つて警衛の事などあちらの見聞を取入れ 余程簡単ニするやうにいひ又一部その方向ニ実行されつヽあつたのに虎の門事件の為ニすつかり駄目ニなつて了(しま)つた。然しこれは旧憲法時代で皇室と国民の間ニ若干の藩屏といふか いろいろの垣根が法制上も認められてあつた時だが今は全然違う建前で皇室と国民とは最も多く接近すべき時ニ警衛の責任上そうはなるか知らぬが 皇室が国民と接近しやうとする事ニハ非常な害ニなるので 此点ハ余程よく吉田ニも考へて貰ハぬと困る 我慢願ひますといつて大ニ(おおい)厳重ニするつもりらしいが 之ハ長官からよく総理ニいつて貰ひたい」と述べたと記されています。
 『菊のかーてん』誠に困る
 さらにこのときの拝謁では、昭和天皇が大手新聞の報道に触れ、「『菊のかーてん』などと書き出してハ誠ニ困る」と述べたと記されています。
 これに対して田島長官が「内容を読みますれば宮内庁のやり方の批難ではありませぬがどうも標題がわるうございまして」と述べると、昭和天皇は「見出しだけで中を読まぬ人も多く『菊のかーてん』といふ言葉で想像して皇室が国民ニ接近したがらぬとの印象を与へる事ニなつてハ困る」と述べたと記されています。
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 昭和天皇の広島行幸 - かつて日本は美しかった - ココログ
 昭和天皇の広島行幸
 広島復興の起点。
 S1947
 昭和21年2月より昭和天皇は全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせるための勇気を与えることが自分の責任だとお考えになり、全国巡幸を始められました。
 そして、昭和22年12月5日~8日、昭和天皇は広島へ行幸されました。
 広島市長浜井信三氏
 「市中を展望していただくために、屋上へとご案内申し上げた。」
 「陛下は市中のあちこちを眺めておられた。」
 「『家が建ったね』。とポツンと一言おっしゃった。そして感慨深げに街の方へ目をやっておられた」
 護国神社跡で昭和天皇は巡幸の奉迎場では初めてお言葉を述べられるという被爆地・広島に対する特別の配慮がありました。
 「広島市民の復興の努力のあとを見て満足に思う。皆の受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない」
 原爆ドームを背景に集まった7万の広島市民は「天皇陛下万歳!」を繰り返します。原爆と敗戦によって打ちひしがれた広島市民はどれだけ勇気づけられたでしょうか。広島復興の起点はここにあるような気がします。私は広島で生まれ育ちましたがこの話は一度も聞いたことがありませんでした。「天皇人間宣言をした」というのは学校では教わりました。
 昭和21年1月1日昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」を発布しています。これはよく人間宣言と言われており、GHQの要望により神格化否定の一文をいれていますが、昭和天皇は自分が神だと一度も言ったことはなく、後の記者会見で昭和天皇は日本国民が日本の誇りを忘れないように、立派な明治大帝の考えがあり、日本には独自の民主主義の伝統があることを思い出して道を示すことが目的だったと語られています。昭和21年当時の国内報道でも人間宣言のことが報じられた形跡はなく、当たり前のこととして受け止められたようです。おそらく後になってGHQなり反日思想を持つ団体などが皇室を賤しめ、日本人を賤しめるため「人間宣言」と言い始めたのでしょう。
 昭和天皇の全国巡幸をGHQが許したのは「神」である昭和天皇が国民の前に姿を現すことにより、「人間」として認識させ、権威を失墜させようとする意図があったと思われます。ところがどっこい万歳三唱の雨あられであり、GHQは驚いたことでしょう。日本では「神」というのは徳のあるものを「カミ」といいますが、GHQは「GOD」と誤解釈していたわけです。また天皇陛下は神話の時代から民のために祈り、民とともにあり、欧州のように権力と財力を持って民を従わせるという威張った皇帝ではないですから、感覚の違いがあったのでしょう。この国民の反応に驚いたGHQは広島行幸後、全国巡幸を中断させました。
 「朕は、茲(ここ)に国体を護持(ごじ)し得て、忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾(なんじ)臣民と共に在(あ)り」終戦詔書の一文より。(「赤誠」とは偽りや飾りのない心 「信倚」は信じるという意味)
 「朕は爾(なんじ)等国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚(きゅうせき)を分たんと欲す」新日本建設に関する詔書の一文より。(「休戚」とは喜びも悲しみも、という意味)
 天皇陛下は国民とともにあられました。
 参考文献
 PHP新書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政(著)
 講談社学術文庫昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 幻冬舎昭和天皇論」小林よしのり(著)
 参考サイト
 Wikipedia昭和天皇」「人間宣言
 添付画像
 昭和天皇の全国巡幸(1947年・広島)(PD)
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ウィキペディア
 昭和天皇の戦後巡幸(しょうわてんのうのせんごじゅんこう)は、戦後(第二次世界大戦における日本の降伏後)の混乱期と復興期に当たる1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月までの間に、第124代天皇昭和天皇行幸して各地を巡った(巡幸)ことである。
 概要
 第二次世界大戦終結後、昭和天皇自身の発案により[1]、1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月まで、8年半をかけて全国各地(米国統治下の沖縄を除く、全46都道府県)を行幸した。
 当初は日帰り又は短い旅程であったが、次第に10日~数週間に及ぶ長い旅程のものに変化した。行幸天皇単独で行われることが多く、香淳皇后が同伴したのは1947年(昭和22年)の栃木県行幸、1954年(昭和29年)の北海道行幸の際の2回のみである(静岡県へは同一旅程であるが、皇后単独で沼津市に行啓)。
 行幸先各地では、奉迎場(学校・公営グラウンド・駅前など大勢が集える広場)や特産品天覧会場が準備された。行在所(宿泊先)も、各地の公的機関や旧家の邸宅のみならず、保養地の温泉旅館・ホテル等も選ばれている。
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 昭和天皇陛下の広島巡幸 : そよ風 - livedoor
 昭和天皇陛下の広島巡幸
 カテゴリ:天皇・皇室関係
爆心地通過(相生橋)-鳴り響く"平和の鐘"-
この日、広島市内は文字通り人の波で埋まった。
陛下が御通過の道路沿いは、何時間も前から
人垣で身動きも取れない有様であった。
広島市民20万のほか、近郊近在からの人手は
広島駅を降り立った者で約5万、市内数百件の旅館が
全て札止めになったと言う陛下のお顔を
一目でも拝したいと願う20数万人が、
草津町から元西練兵場、市役所、県庁、広島駅に至る
15キロに押し寄せ万歳の歓呼を送ったのである。

草津町水産試験場を出発したお車は、
古江、己斐、旭橋とゆっくりと市内へ
向かって進んでいった。
沿道の家々は原爆で火災は免れたものの
屋根瓦は飛び、壁は落ち、戸、障子は破れ、
戦争の生々しい傷跡を残していた。
旭橋を過ぎればそこはバラックの街であった。
陛下は沿道を埋め熱烈な歓迎をする人々に
お応えになりながらも、未だ広がる原爆の
荒涼とした景色の中に立ち並ぶバラック建て住宅、
数少ないながらも新築された建造物に
深くお目を注がれたようにうかがえた。

午後11時25分、お車は相生橋にさしかかった。
2年前の昭和20年8月6日、午前8時15分、
上空580mで爆発、18万5千余名の生命を
一瞬にして奪った原子爆弾の爆心地である。
お車は時速4キロ、歩くような速さで、欄干が倒れ
未だ50センチほどの穴も空いた相生橋を 進んでいった。

陛下は元安川の上に浮かぶ"平和の塔"を
車窓からじっと臨まれた。
この時、平和塔上の"平和の鐘"が
カーン!カーン!と冬空にこだました。
同年8月6日、原爆二周年の日に建立され、
打ち鳴らされて以来二度目の事である。
それは広島市民の原爆の悲劇から立ち上がる決意と、
平和への願いを込めて打ち鳴らした平和の鐘であった。
相生橋はその時、まさに感激のるつぼと化した。
橋を埋めた人々はドッ!とお車に崩れかかり、
万歳!万歳!の声は、
鐘の音と和して天地に響きわたった。

  広島(昭和22年)
  ああ広島平和の鐘もなりはじめ
        たちなほりみえてうれしかりけり

この御歌は広島巡幸から27年後の昭和49年公刊の「あけぼの集」に於いて発表された。この御歌を拝する時、陛下が原爆を受けた広島に対して、どれほどの深い御心をよせられたかが拝察できる。
かくして陛下は産業奨励館のドーム(原爆ドーム)を右手に見られながら、旧護国神社大鳥居の下を御通過、午前10時30分、
市民奉迎場へと進まれた。
この御歌は御在位60年を祝うにあたり、陛下の広島に寄せられた御心を
後世に伝えるため広島市南区比治山公園に御製碑として建立された。

広島市民奉迎場 -涙の式典-

相生橋上での感激もさめやらぬ中、
陛下は旧護国神社前の広島市民奉迎場にお成りになった。
ここに於いて広島市にとって決して忘れる事の出来ない、
日本人としての感動と喜びの場面が
展開されたのであった。
その感激を当時の広島市総務課長小野勝氏は
次のように記している。

市民広場には朝まだきから戦災者、引揚者、遺家族、
各種団体代表、学生、生徒、児童等を最前列に
無慮5万の市民が整然と並んでお待ち申し上げていた。
相生橋御通過を報ずる平和の鐘が響き渡るや
群衆はひしめき合い始めた。

整理員は御道筋の確保に懸命となる。
御先駆車が式場に姿を現すや会衆の歓呼は
爆発した。万歳、万歳、万歳......帽子が飛ぶ、
ハンカチが舞う。御座所近くに
御召自動車から降り立たれた陛下は、
濱井市長の御先導で数歩を歩まれたが,
待ちもうけた内外の奉迎者の群れは
御身近くまでなだれ寄って御歩行も御難しいほどの熱狂ぶり......
 式場の一隅からは広島鉄道管理部吹奏楽団の
君が代奏楽が始まる、
熱狂も一時静まり君が代の合唱、
おそらくは終戦後の広島として初めての
国歌大合唱である。
台上の陛下も御帽子をとられて共に君が代を口ずさまれる。

何の涙?言い知れぬ国民感情の涙、
拭うても拭うても流れる涙......。
 やがて濱井市長は感激と興奮に緊張した面持ちで
御座所前に進んだ、くりひろげた奉書がかすかにふるう。

奉迎の辞

謹んで広島市長濱井信三広島全市民を代表いたしまして
奉迎のことばを申し上げます。
天皇陛下にはこのたび御車を中国地方に進めさせられ
本日親しく御健康な御姿に接することは吾等市民の真に
感激に堪えないところでございます。
わが広島市は昭和20年8月6日原子爆弾により
壊滅的戦災を蒙りましたが、
全市民は凡る艱難と闘いつつ
新たなる文化都市建設のため日夜懸命の努力を
重ねております。
願わくは特種の戦災を蒙りました広島市に深き御心を
御寄せ下さいますことを謹んで御願い申し上げます。
陛下には無事御巡幸を終えさせられ
愈々御健勝に御帰還遊ばされますよう
御願い申し上げます。

力強い濱井市長の若々しい声に、
陛下はじっと聞き入られた。
市長が御前を退くと、ああ、その時、
陛下には静かに御座所のマイクの前に進まれた。
式場はドッとどよめく、
陛下にはオーバーのポケットから
小さな紙片の取り出された、御言葉だ、
御間近に拝する御体から、今、直接御聞きする御声だ、
5万の会衆の眼と耳はジッと陛下の
御口元に集中された、涙も、声もない一瞬である。

       御 言 葉
「この度は皆の熱心なる歓迎を受けて嬉しく思う。
本日は親しく広島市の復興の跡を見て満足に思う
広島市の受けた災禍に対しては同情はたえない。
我々はこの犠牲を無駄にすることなく
平和日本を建設して
世界平和に貢献しなければならない。」

一語一語、はっきりと力強く耳を心を打ったこの御言葉、
原爆の惨苦をなめた市民に注がせ給う
大御心の有難さ、かたじけなさ会衆はあの日の苦しみを
一瞬忘れたごとく御声に聞き入った。
水を打ったような静けさも御言葉が終わると同時に破れた、
どっと上がった万歳の声、
再び飛ぶ帽子、舞うハンカチ、溢れる涙、
こんな国民的感激を、
こんな天皇と国民との感情の溶け合いを、
何時、何処で、誰が味わったであろうか、
市会議長寺田豊氏が唱えた万歳の姿も声も、
眼に耳に入らぬ感激、興奮が渦巻いた。
 
寺田議長の万歳が終わっても、
陛下はしばし台上に留ませられ、
群集の熱狂振りを御満足げに見入られた、
そして御帽子を高く差し上げられて、
再三、再四遠く、近く、左に右にいとも御ていねいな
御会釈を賜りながら御座所を降りられ
御機嫌麗しく御召車に入られた、時に10時35分、
万歳の歓呼は止みもせず、
御名残りを惜しむ市民の群れは
涙とほこりにまみれながら御車を
取り囲み御後を追うのであった。

(小野勝著 「天皇と広島」より転載)

天皇陛下を広島にお迎えて
  
広島県立広島第一高等女学校 第二学年 児玉 蓮子
12月7日7時30分- 天皇陛下はいよいよ原爆の都広島の地を
おふみになった。
護国神社後まで奉迎に出ていた何万の市民は一
目でも陛下を拝見しようと
大人も子供も必死だった。
陛下はいよいよ壇上にお立ちになった。
我らの象徴たる天皇を眼前に拝して、
私は何とも言えない感激に満たされた。
陛下は間もなく広島市民に対し
お言葉をかけられた。
そのお言葉、そのお声、
陛下は如何に我々広島市民の事を
御案じになっていられるかがわかる。
又陛下は志那事変、そして太平洋戦争でさえも、
初めから御反対なさったとの事を、
前に新聞で見たが
陛下は本当に平和を心から愛されるお方だ。
今こうしてお迎えしたのはまるで夢のような気がする。
今までは天皇陛下とかけはなれていた私達だが、
今こうして目の前にお姿を拝したり、
又ラジオを通じたり直接お声を聞いたりすることの出来たのは
私達にとっての大きな喜びである。
そして今はもう、もったいない事ながら
私たちのやさしいお父様のような気さえする。
お風邪をめしながらも御巡幸になり、
一々激励のお言葉をおかけになる陛下、
おやさしくてお情深い陛下、
これこそ平和日本のシンボルに適わしいお方だ。
そして陛下は仁のお方だ。
たとえ単なる人間になられたとしても
天皇はどこまでも天皇だ、
今後天皇を中心とした、
平和な国が実現しなければうそだ。
それには若き力が必要だ。
私たちの力で、真の平和国家を建設して
陛下に安心して頂きたい。
「陛下やります。私達若き者の情熱をもって、
平和日本の建設のためにどこまでも
やり抜きます。」
私は心の中でこうつぶやいた。

天皇陛下行幸に際して

広島女学院 三年二組 梶尾 善枝
10時半過、陛下は奉迎台の上にお立ちになった。
一瞬緊張した空に破られた。
手を、帽子を、ハンケチを、狂ったように振る。
陛下は一寸帽子をおとりになり返礼遊ばされた、
やがて静かにおこる国歌
君が代は千代に八千代にさざれ石の...」 
ああ!この時沸き上る感激の涙を誰が止め得ようぞ、
長い間指折り数えてこの日をまっていた私達の
天皇陛下が今こそ私達の前に御立ち遊ばされたのである。
頬に流れ伝わる涙を拭おうともせず
唯一生懸命に歌ったのであった。
おやさしい温和そうなその御顔! 
そして一般の民と一寸も変わらぬ質素なお姿! 
今日の奉迎者のなかには、
きっときっと陛下のお召しになっている御洋服より
もっともっと立派なものを着ている人もあろうに!
 この寒空にあのような御洋服では
御風邪をおめしになっていらっしゃるのに、
ひどくおなりになりはせぬだろうか?...と心配であった。
陛下の御日常も私たちと同じように
御不自由なことが推察された。
今や終戦後、3年になるのにまだ一寸もまとまりがつかず、
陛下にもこんなに不自由な生活を
おさせ申し上げることは
非常に畏れ多いことではないか、
これも皆んな私達の力が足りないからだと思うと
あまりのはがゆさに又も涙が頬を伝うのであった。
やがて広島市長の奉迎並びに報告の御挨拶がすんで
陛下のお言葉を給った。
拡声器を流れ出て来る陛下のおやさしい御声! 
やがて湧き起こる万歳の声、
声のあらんかぎりを出して叫ぶ、
 おお!陛下にはその御帽子をお取りになり
高く高く差し上げて答礼遊ばれたではないか-
万歳万歳!-終わりの方は熱いものが
胸にこみ上げ喉がぐうぐうとなって声が出ない、
唯手を力一杯振るのであった、
そのうちに陛下は台をお下りになり
御召車にめされて静かに御退場遊ばされたのである。
じつに感激の一瞬間であった。
ああ、いつまでもいつまでも
この感激の嵐の中にもまれていたかった。

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先月広島の地を訪れました。

戦後、反日左翼、マスコミなどによって、
沖縄と同じように反戦の嵐が吹き荒れたように 、
反核平和一色だった様に伝えられています。

しかし戦後間もない昭和22年12月
昭和天皇陛下が広島を 巡幸遊ばされた当時 の、
上記の広島市民の奉迎の様子の記事を読むと
天皇陛下を赤子としてつつしみて敬い、
天皇陛下はおおみたからとして
臣民に大御心をお寄せくださる
こころあたたまるふれあいがあったと知り
理屈なく涙がこぼれました。

また昨日のブログの、朝日新聞などの敬語も何もない皇室報道に比べて、
女学校の生徒の文章などの格調高さにも、驚かされました。

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