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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2023年8月28日9:55 Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE「【図解】関東大震災の被害概要
地震は1923(大正12)年9月1日の午前11時58分に発生した。マグニチュードは7.9と推定される。近代化した首都圏を襲った唯一の巨大地震であり、南関東から東海地域に及ぶ地域に広範な被害が発生した。発生が昼食の時間と重なったことから、多くの火災が発生し、大規模な延焼火災に拡大した。
死者・行方不明者は約10万5000人に上り、約9割が焼死によるものだった。また、電気、水道、道路、鉄道等のライフラインにも甚大な被害が発生した。
地震発生後の混乱の中、横浜などで略奪事件が生じたほか、朝鮮人が武装蜂起し、あるいは放火するといった流言を背景に、住民の自警団や軍隊、警察の一部による殺傷事件が生じた。
2023年は、関東大震災から100年の節目に当たる。
出典:内閣府中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」報告書
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8月28日17:15 YAHOO!JAPANニュース サンデー毎日×週刊エコノミストOnline「100年前の関東大震災 皇室「災害お見舞い」の原点 社会学的皇室ウォッチング!/84 成城大教授・森暢平
「サンデー毎日9月10日号」
関東大震災が発生したのは今から100年前、1923(大正12)年9月1日午前11時58分である。死者・行方不明者は10万5000人を上回る。皇室では山階宮佐紀子(20)、閑院宮寛子(17)、東久邇宮師正(もろまさ)(5)の3人が建物倒壊で亡くなった。佐紀子女王は新婚かつ懐妊中で、皇室にも大きな被害を与えた。
震災時、大正天皇は事実上引退し、貞明皇后とともに日光・田母沢御用邸にいた。摂政となっていた裕仁親王(のちの昭和天皇、摂政宮と表記)は居住していた赤坂離宮を出て、宮城(きゅうじょう)(皇居)で執務に当たっていた。実は9月1日には首相は不在であった。首相であった加藤友三郎は8月24日、大腸がんのため逝去。元老西園寺公望は、海軍、薩摩閥の長老山本権兵衛を首相とすることを決断し、同28日、摂政宮から山本に対して大命降下があった。山本は組閣の準備を進めていたが、9月1日の段階でそれはならず、前内閣の内田康哉(こうさい)が臨時兼任首相を務めていた。首相不在のまま未曽有の災害に見舞われたのである。内務省、警視庁庁舎の焼失もあり、政府の初動対応は遅れた。
地震のあと、摂政宮は宮殿中庭に避難、ここで内田からご機嫌伺いを受けた。さらに宮城内の観瀑亭(かんばくてい)に避難。午後4時になって赤坂離宮に戻り、「広芝御茶屋」を仮の住まいとした。広芝御茶屋の電気が復旧したのは9月5日で、それまで摂政宮もろうそくの光の下で過ごした。この間、山本が組閣を進め、同2日午後8時ごろ、山本内閣の親任式が行われた。農商務相として入閣した田健治郎はのちに「歴史的に記録すべきところの凄壮な、電灯とてなく蝋燭(ろうそく)の光ほの昏(くら)き下で親任式は行われた」と回想する(『正伝・後藤新平 決定版』)。
現憲法下でも、首班指名はまず国会両院での選挙があり、宮殿で天皇が官記(任命書)を渡す親任式を経て、正式に首相が誕生する。今、国会で首相指名後、親任式までの間に大災害があったらどうなるか。思考実験をしておくことは、危機管理の上でも重要であろうが、そのことは措(お)く。
◇宮内省の炊き出し
地震当日午後6時ごろ、火の手は竹橋、大手町を襲い、大手門や平川門には大勢の被災者が殺到してきた。「避難者ハ潮ノ如ク平川門前ノ橋上中央マテ殺到シ、加フルニ火粉ハ一層猛襲スル」事態となったのである(宮内庁宮内公文書館所蔵「震災録4」)。皇宮警察部は平川門を開け、宮城一部を被災者に開放する判断を下した。この日、宮城前広場に集まった被災者は約2万5000人。宮城前広場には最終的に約30万人の被災者が避難し、東京で2番目に大きい避難場所となった(最大は約50万人が集まった上野公園)。
宮内省は9月3日、新宿御苑、白金御料地などに被災者を受け入れることを決めた。バラック小屋(今でいう仮設住宅)建設のためである。こうした措置は新聞発表され、東京市民に宣伝された。宮内省は自省職員だけでなく、被災者にも炊き出しを行った。摂政宮は同3日以降、東宮侍従らを神田、本郷、浅草、上野、横浜などに派遣して状況把握に努めた。震災直後、新聞社の多くが被災して東京では新聞が発行されず、情報収集は困難であった。
摂政宮自身の被災地視察は当初、9月8日実施の方向で検討されていた。しかし、積極的な戒厳司令官福田雅太郎と、後ろ向きの陸相田中義一の間で意見対立があった。東京の治安悪化が最大の懸念材料で、陸相や側近が躊躇(ちゅうちょ)した。
結局、視察は9月15日に実現した。前日14日夜、皇室記者として著名であった『婦女界』誌の高尾謙一が呼ばれ、摂政宮は同誌が撮影した映像(活動写真)を見た。「予習」である。
9月15日午前6時、摂政宮は赤坂離宮を出発し、上野、万世橋などを経て、午前8時40分離宮に戻った。このとき、摂政宮は馬に乗った。3日後の9月18日にも上野まで自動車で移動後、火災被害が大きかった下町を中心に馬で視察した。なかでも火災によって多数の死傷者が出た本所(ほんじょ)の被服廠(ひふくしょう)跡への立ち寄りがクライマックスだった。「被服廠跡では立ち上る死体焼却のけむりをながめられ畏おほくもお馬を止められ挙手、死者の霊をとむらはせられた」(『東京日日新聞』9月19日夕刊)。
◇「皆無事か」と声掛け
摂政宮の場合は「視察」に留(とど)まったが、貞明皇后は「お見舞い」に相応(ふさわ)しい被災地巡回を行った。日光に滞在していた貞明皇后は9月29日、東京に戻った。上野駅に到着したその足でそのまま上野公園を訪れ、被災者の収容施設を見舞った。浅草から焼け出された手山りん(49)という女性に「眼が悪いの?」と声を掛けた。また、御徒町(おかちまち)の富田いとが3人の子どもを抱えているのを見ると「兄弟は何人か、皆無事か」とねぎらった(『東京朝日新聞』9月30日)。皇后が現場で被災者に声掛けするのは近代天皇制下で初めてだ。
この背景には、貞明皇后が事前に報告を聞き、とくに子ども、妊産婦の医療が足りないと考えたことがある。皇后の発意によって宮内省巡回救療班が組織され、9月14日から翌年3月までの間、無料で被災者の診察が行われた。これに当たったのは臨時に宮内省に雇用された医師、看護師、産婆(今の助産師)らであった。初日(9月14日)の活動では、「驚愕心労」(災害ストレス)の結果、「乳分泌障害」のため授乳困難な母親が多かったとの記録が残っている(宮間純一「『巡療日誌』からみる宮内省巡回救療班の活動」)。
皇室が被災者を見舞うという行動は、摂政宮や貞明皇后が慈悲深い心を持っていたからという見方は、歴史的な観点から見ると近視眼的である。大正期、日本においても大衆社会が出現し、皇室は大衆からの支持を調達しなければ(皇室人気がなければ)存続しづらい状況が生まれていた。同時期、ロシア、ドイツ、オーストリアで王政が廃止された。人々と隔絶した場所にいるのではなく、人々に近い皇室(のちに大衆天皇制と呼ばれるような皇室)が求められるようになっていたのである。こうした状況下に起きた関東大震災は、皇室の存在意義を転換させるきっかけになった。
宮内庁書陵部図書課宮内公文書館編『摂政宮と関東大震災―宮内庁の記録から』(改訂版)を参照した。
■もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など
8月29日発売の「サンデー毎日9月10日号」には、ほかにも「スクープ激白! 自民党のプリンセス小渕優子 初めて明かした『首相の座』 田原総一朗がとことん聞いた!」「祝・夏の甲子園V 慶應義塾高校の〝完全研究〟 全国の三田会が感涙!! 107年ぶり全国制覇の〝底力〟」「2024年度入試 全国主要301私立大 入試スケジュール 『新課程』控え二極化進展か」などの記事も掲載しています。
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8月28日 YAHOO!JAPANニュース 週刊SPA!「皇室の伝統を壊してはならない理由/倉山満
―[言論ストロングスタイル]―
皇室には如何なる権力者も超えられない掟がある
皇室について語るとき、先例が極めて大事になる。大枠、すなわち伝統を守るためだ。先例を無視して理屈を持ち出せば、時の権力者の思いのままだが、皇室には如何なる権力者も超えられない掟があった。それが伝統であり、伝統は先例の蓄積によって成り立つ。人間界の出来事を杓子定規に再現しようとするなど愚かだが、守るべき伝統を壊してはならない。だから、吉例を探し、時代に合わせて、准じて、変えて、大枠を守る。これを繰り返してきたから、皇室は一度も途切れることが無い伝統を守ってこれたのだ。
こういう常識を踏まえて、よくある誤解について考察。マトモな研究者でも、「結婚によって民間人の女性が皇族になれたのは、近代になってから」と理解している人もいる。この後に「だから、先例を無視して何をやってもいい」と続くと論外だが。
確かに、律令と典範だけ読んでいると、そういう風に読めなくもない。大宝元(701)年に定められた大宝律令では「皇后になっても皇親になる訳ではない」と解釈されていたし、明治22(1889)年の皇室典範で「一般人の女性も婚姻により皇族となる」と明記された。この間、約1200年。明治になって突然、「結婚した女性は皇族にしよう」と思い付きで新規立法を行った訳ではない。長い歴史の中で培われた先例を整理しただけだ。典範制定の中心人物である井上毅(こわし)は、膨大な先例を調査した。
皇女である皇族と、皇女ではない皇族の区別
まず絶対の原則である。神武天皇の伝説から現代まで、皇女と皇族は違う。現在の皇太后陛下、皇后陛下、皇嗣妃殿下は、それぞれ、もともと正田さん、小和田さん、川嶋さんだったが、今は皇族だ。ただし今も皇女ではない。愛子殿下や佳子殿下は生まれながらの皇族で皇女だ。皇女である皇族と、皇女ではない皇族の区別は現代でも絶対だ。
古代では皇族同士の結婚が普通だったが、徐々に変化した。人臣最初の皇后は、奈良時代の光明皇后とされるが、第16代仁徳天皇の磐之媛命(いわのひめのみこと)が先例とされた。磐之媛命は第8代孝元天皇直系の男系女子なので、藤原氏出身の光明皇后とは厳密には異なるが、「時代に合わせて准じて変え、大枠を崩さない」と考えられた。光明皇后は当初「藤原の娘」として扱われたが、晩年は皇族に准じる権威を得て、尊敬されていた。
平安初期、特に第52代嵯峨天皇の時代は、それまでの先例を整理した時期だ。奈良時代に横行し皇室の安定を揺るがした先例破りを戒める掟が整理された。嵯峨天皇の時代に整理された先例(掟でもある)は、後世の模範とされた。その中の一つが、人臣皇后の定着だ。皇族同士の結婚よりも、人臣皇后の方が上手くいったので、変化を繰り返しながら、現代までの先例となり続いている。
嵯峨天皇の皇后は人臣出身の橘嘉智子(たちばなのかちこ)だが、生前から聡明と評判で、天皇崩御後の政界を主導、第54代仁明天皇の母として重きをなした。
時代によって変化する「天皇の妻」
では、天皇と結婚すれば即座に皇族になれたかというと、そんな単純な話ではない。天皇の妻の地位でも、高貴な身分の人だけがなれる皇后、中宮、女御があり、その下に、御息所(みやすんどころ)、更衣(こうい)もいる。もちろん、この全員が皇族の訳はない。でも、天皇の母となった女性は、「国母」としての地位を得た。
その「天皇の妻」の運用も柔軟で、時代により変化している。皇后が一人なのは変わらないが、次第に置かれなくなる。中宮は皇后の異名だったが、藤原道長の頃から二人置かれることもあった。中世以降は中宮も置かれず、後継者となる男子を生んだ女御が、かつての皇后のような地位になった。いずれにしても、皇室において、女性の地位は高かった。
鎌倉時代、第88代後嵯峨天皇の中宮だった西園寺姞子(きつし)は、持明院統と大覚寺統が激しく争った際に、幕府から裁定を委ねられたほどだ。争った当事者である第89代後深草天皇と第90代亀山天皇の実母だったからだ。
治天の君(上皇)となった「天皇の妻」も
南北朝時代、北朝が壊滅の危機に陥った際、第93代後伏見天皇の女御(この時点で未亡人)だった西園寺寧子(ねいし)は、治天の君に担ぎ出された。治天の君とは、院政を行える上皇のことである。寧子の息子の光厳・光明の両上皇、孫の崇光上皇が同時に拉致され、次の天皇を任命する上皇がいない。寧子は「皇女ではない自分が非常識な」と断り続けたが、他に方法が無い場合はやむなしと足利幕府に拝み倒されて、治天の君となった。「律令の文字を解釈すれば、結婚したからと皇族になれるわけではない」との解釈では説明がつかない事態だろう。
時代によって変わるが、特定の条件を満たした女性には、皇族としての待遇が与えられた場合が多々ある。その一つが、院号宣下だ。この場合の「院」とは戒名などで使われる意味とは全く違い、皇族としての待遇として与えられる尊号だ。藤原道長の時代に始まる。たとえば、西園寺姞子は大宮院、寧子は広義門院。江戸時代の徳川和子は、東福門院。
民間の男子が皇室に入れたことは一度も無い
古代史(しかも奈良時代までの不十分な範囲)と近代史のみに着目し、間の時代を飛ばしてしまうと、いかに皇室が柔軟な運用を繰り返しつつ、大枠を守ってきたか、わかろうか。
その最も大事な大枠が、皇統に属しない男子(つまり民間人)を皇室に入れたことは一度も無いことだ。平安から江戸まで、皇室を凌駕する権力者は多く現れた。そして、准皇族は無数にいる。
藤原氏に始まる摂関家は、皇族に准じる一族だ。摂政関白の敬称は殿下。農民出身の豊臣秀吉も殿下と呼ばれた。平氏や源氏は、皇室に起源をもつ貴種。源氏を継いだ足利氏や徳川氏も皇族に准じる家格として扱われた。実際に、准三宮(准三后)と言って、皇后・皇太后・太皇太后に准じる地位も存在、多くの身分の高い男子が就いた。
例外は死後、「法皇」の尊号が贈られた足利義満だけ
しかし、「准皇族」はいても、皇族となった男子は一人もいない。死後に「法皇」の尊号が贈られた足利義満ただ一人を例外として(それも辞退となったが)。
ここまでの歴史を通観して、ご理解いただけただろうか。前近代は何が結婚かもわかりにくいのだが、天皇と結婚した女性の立場を。皇女にはなれないが、准皇族より上だ。
こうした歴史を踏まえて、明治に「結婚した時点で皇族となる」と整理したのだ。その場の思い付きではない。
皇室は奥深い。先例を学ぶから、時代に合わせられるのだ。
―[言論ストロングスタイル]―
【倉山 満】
’73年、香川県生まれ。憲政史研究者。救国シンクタンク理事長兼所長。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中より国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務め、’15年まで日本国憲法を教える。ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰し、「倉山塾」では塾長として、大日本帝国憲法や日本近現代史、政治外交についてなど幅広く学びの場を提供している。主著にベストセラーになった『嘘だらけシリーズ』や、『13歳からの「くにまもり」』を代表とする保守五部作(すべて扶桑社刊)などがある。『沈鬱の平成政治史』が発売中
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歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義やマルクス主義に染まっていった。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
マルクス主義・共産主義の階級闘争史観やキリスト教の最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義・天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
日本を動かしているのは学閥である。
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保守には、正統保守、新しい保守、エセ保守がある。
現代日本では、安倍元総理による新しい保守が増えている。
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儒教の易姓革命(禅譲・放伐)と天命思想(受命思想)を、中国と朝鮮は無条件で受け入れ、日本は換骨奪胎して受け入れた。
天皇を易姓革命と天命思想から守ったのは、伝統文化である、天孫降臨の記紀神話(古事記・日本書紀)と民族の神話物語、庶民物語であった。
天皇は天命思想を引き受け、庶民は易姓革命を拒否した。
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天命思想とは有徳、徳治の事で、人徳と陰徳を体現したのは第45代聖武天皇・光明皇后であった。
日本風天命思想は、天皇の御威光、皇道主義である。
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被災した日本人は、救いをキリスト教やイデオロギーではなく天皇・皇室に求めた。
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被災者救済を行ったのは貞明皇后と裕仁親王であり、支払った救済金は皇室の私有財産であった。
その事実を知りながら、日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストは裕仁親王(後の昭和天皇)を惨殺する為に付け狙っていた。
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日本において人道貢献を行っていたのは、天皇家・皇室であり、支払われた金は税金ではなく皇室財産であった。
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現代の歴史教育は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本として、天皇家・皇室がおこなった数々の人道貢献を歴史から抹消して子供達に教えない。
エセ保守とリベラル左派は、天皇制度を廃絶し、皇室の伝統を破壊し、天皇家・皇室を消滅させようとしている。
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