➰4)─6・B─摂政の昭和天皇や皇后、現地に 皇室被災地訪問の原点 関東大震災100年。~No.18 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 天皇家・皇室が被災者・病人・怪我人や社会の弱者に寄り添うのは、聖徳太子聖武天皇光明皇后の頃から戦前まで受け継がれてきた宗教的伝統であった。
   ・   ・   ・   
 2023年8月18日 YAHOO!JAPANニュース 時事通信「摂政の昭和天皇や皇后、現地に 皇室被災地訪問の原点 関東大震災100年
 関東大震災の被災者慰問で上野公園を訪れた貞明皇后(中央)=宮内庁宮内公文書館所蔵
 9月1日で関東大震災から100年。
 当時皇太子で摂政だった昭和天皇は発生から2週間後に被災地を視察し、貞明皇后大正天皇の皇后)も被災者を見舞った。明治以降、皇后や皇太子が災害発生後に現地を訪れた初の事例だったとされる。識者は、天皇や皇后が被災地を訪れる現代の皇室の活動と「結び付くところがある」と話している。
 宮内庁宮内公文書館に保存されている側近部局の日誌などによると、昭和天皇は栃木・日光の御用邸で静養中の大正天皇に代わって発生時から震災対応に当たり、1923(大正12)年9月15日、馬に乗って上野など東京都心部を視察。同月18日には焼死者が約3万8000人に上った陸軍被服廠跡など東京の下町方面を訪れ、10月10日には神奈川県の横浜、横須賀両市に足を運んだ。
 震災は、同11月の香淳皇后との婚儀の準備が進む中で起き、皇族3人が亡くなった。昭和天皇は最初の視察の翌日、婚儀延期の意向を表明し、執り行われたのは24年1月だった。被災者向けの「救恤(きゅうじゅつ)金」1000万円も下賜され、東京や神奈川などに分配された。
 一方、貞明皇后の意向で、被災者診療のための「宮内省巡回救療班」が組織された。案内用のビラでは、皇后が出産前後の女性や子どもの病気に手当てが行き届かないことを心配して設けられたと説明された。皇后は23年9月29日に日光から帰京し、上野公園の被災者収容所などを慰問。救療班の日誌には「無心の小児にまでも一々御慈悲深き慰問の御言葉を賜ひたるは、今に始めぬ事なから誠に畏き極みなり」と記されている。
 宮内公文書館の元研究員で中央大の宮間純一教授(日本近代史)は「明治以降の皇室では、皇后の弱者に寄り添う姿勢が強調されてきた。当時の活動はその積み重ねの上にあった」と指摘。昭和天皇については「近代国家における天皇の在り方を学んできた摂政だからこそ、できた振る舞いだったと言える」と話した。 
   ・   ・   ・   
 9月2日 MicrosoftStartニュース 産経新聞「災害列島~関東大震災100年 摂政の昭和天皇自ら被災地視察 皇室活動の「原形」に
 関東大震災で被災した東京・麹町を馬に乗って視察する昭和天皇を描いた絵画(東京都復興記念館提供)
 © 産経新聞
 大正12(1923)年9月15日、関東大震災から2週間が経過した被災地を、大正天皇の摂政(せっしょう)を務めていた皇太子時代の昭和天皇が視察した。貞明皇后も同月末以降、医療関係者や被災者を見舞うため、病院や救護所を訪問。明治以降、皇太子、皇后がそれぞれ被災現場に足を運んだ初めての例とされ、専門家は「皇室の活動の原形となった」と指摘する。
 「この建物は何に使っているか」「追々(おいおい)寒気に向うが、罹災者の被服はどうするか」
同16日付の新聞「時事新報」は、15日早朝に馬で赤坂離宮(現・迎賓館)を出発し、上野公園との間を往復した昭和天皇が被災地で随員に質問する様子をこう伝える。
体調が悪化していた大正天皇は、長期間にわたり御用邸で静養する生活を送っており、震災発生時は貞明皇后とともに栃木県の日光に滞在していたため、東京での対応は当時、22歳の昭和天皇にかかっていた。昭和天皇は被害状況の把握に努めるとともに、法令の裁可、署名、首相任命など、多忙を極めていた。
 その中で行われた被災地視察。翌日、昭和天皇宮内大臣(当時)の牧野伸顕を呼び、「今回の大地震に際し其(その)程度範囲も甚大、見聞するに従い傷心益々(ますます)深きを覚ゆ」(牧野伸顕日記)と述べたという。被害を目の当たりにした昭和天皇は、この年の秋に結婚予定だったが、「之(これ)を進行するに忍びず、故に延期したしと思う」との意向を明かし、結婚は実際に翌年に延期された。
 関東大震災の被災地を視察する貞明皇后=大正12年9月29日、東京・上野(宮内庁宮内公文書館所蔵)
 © 産経新聞
 昭和天皇が晩年まで震災を心にとめていたことをうかがわせる絵画が、昭和天皇記念館(東京都立川市)に展示されている。震災翌日の9月2日、ろうそくの明かりの下で行われた親任式で、昭和天皇と、頭を下げる山本権兵衛首相が向かい合う姿が描かれている。

 テレ朝news 【関東大震災100年】被災者支援に女性が団結 映像の西洋人女性は誰?
 記念館の梶田明宏副館長によると、この絵画は昭和天皇の意向で制作され、住まいの吹上御所に飾られていたという。梶田氏は「ご即位を機にどう国を背負っていくかを考え、当時の苦労を忘れないようにとのお気持ちだったのでは」と話す。
 一方、大正12年9月29日に帰京した貞明皇后は、皇居に戻らず直接、上野公園に向かい、被災者を見舞った。時事新報によると、貞明皇后は「罹災者の実情を」と述べて周囲を巡り、救護関係者に「ご苦労でした」と言葉をかけたといい、12月まで、各地の病院、救護所訪問を続けた。
 現代では、天皇、皇后や皇太子の被災地訪問は皇室の活動の一つと考えられているが、中央大文学部の宮間純一教授(日本近代史)は、「直接被災地を視察したのは関東大震災が初例」と指摘する。宮間氏は「被災地訪問はその後すぐに定着したわけではないものの、関東大震災の際の対応は、現代の皇室の活動の原形となったといえるのではないか」と話した。(橋本昌宗、村嶋和樹)
 御料地開放など支援に奔走 宮家妃殿下「衣類お縫いに」
 関東大震災で、皇室は被災地訪問に加えて、御料地の開放、救恤(きゅうじゅつ)金(義援金)や衣類の下賜(かし)など、さまざまな方法で被災者支援に奔走した。
 「宮内省臨時災害事務紀要 大正十二」(宮内庁宮内公文書館所蔵)によると、震災後、避難者が仮小屋などを建てられるよう、芝離宮など計約6万3000坪(約20万8000平方メートル)の御料地を開放。御料地の木材や、千葉県内の御料牧場(当時)の牛を都内に移動させた上で採取した牛乳も下賜している。
 また、貞明皇后をはじめ、宮家では衣類の下賜も実施。大正12年9月27日付「時事新報」は、宮家の「妃殿下方」が自ら針と糸を手に「昼夜を分たず、衣類をお縫いに」なったと伝えている。
 一方、震災では約10万5000人もの死者、行方不明者が発生しており、皇室も例外ではなかった。
 「昭和天皇実録」によると、建物の倒壊で、前年結婚したばかりの山階宮妃佐紀子女王、まだ5歳だった東久邇宮家の師正(もろまさ)王、高校在学中だった閑院宮家の寬子女王の3人が薨去(こうきょ)。被災下のため、拝礼は近親者のみとするなど、葬儀は簡素化して行われたという。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
   ・   ・   ・   
 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
   ・   ・   ・   
 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
   ・   ・   ・   
 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
   ・   ・   ・   
 少数の高学歴出身の裕福資産家・AI強者 vs. 多数の低学歴出身の貧困労働者・AI弱者。
   ・   ・   ・