💄20)─1─町人相手の女郎・遊女・芸者・妾に落ちた武士の妻女。遊女・白拍子。女性差別や女性蔑視はない。~No.42No.43 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 女性は時代の準主役。
 女性がいなければ物語は成立しない。   
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 化外の民。
 後白河法皇は、天皇の権威と法皇の権力を守る為に遊女や白拍子を保護した。
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 花街。御茶屋。江戸の吉原。京の島原。長崎の丸山。             
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 サムライ・武士は、本を辿れば、氏素性も解らない名もなき百姓であった。
 百姓は、ムラ人共に荒れ地を開墾して作った田畑を、盗賊から守る為に武装してサムライとなった。
 サムライは、百姓に戻る事に抵抗感はなかった。
 サムライ・武士と百姓は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)によって裏打ちされた土地神話を共有する同族であった。
 サムライと武士と百姓は、祭祀王・万世一系男系天皇(直系長子相続)と深い絆で結ばれていた。
 神話から続く万世一系男系天皇(直系長子相続)を否定する者あいは廃止しようとする者は、サムライとも、武士とも、そして百姓とも無縁の存在である。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を拒絶する者は、サムライでも、武士でも、百姓でもない。
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 町人は、職業で自由に居住を替えていた。
 百姓は、新たに開墾されたムラへ自由に移り住んだ。
 日本の地域社会は、「よそ者、若者、愚か者」によって暗く硬直化せず、柔軟性ち活き活きしと明るかった。
 庶民の活動範囲は日本全国にわたっていた為に、人の移動は勝手気ままに自由であった。
 サムライは陰気で暗かったが、庶民は陽気で明るかった。
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 江戸初期。幕府は、反徳川になりそうな外様大名を些細な事を理由にして領地を召し上げて改易した。
 当然、大名の家臣達も家禄を失って浪人となった。
 江戸中期頃まで。幕府内の権力闘争で敗北した大名は、領地の一部を召し上げられるか、最悪の場合は改易させられた。
 その苛酷な処分は、譜代大名であろうと、親藩であろうとも容赦はなかった。
 その恐怖政治で、有力大名から野心を奪い、幕府の命令に従わせ、謀反を防止した。
 徳川幕府は、室町幕府の様に有力大名の謀反に悩まされる事はなかったし、鎌倉幕府の様に有力家臣に支配される事もなかった。
 だが、仕える藩を失い浪々の身となった武士(失業サムライ・浪人)の生活は悲惨であった。 百姓町人の様に生活するだけの技術を持っていなかった為に、見栄も外聞もなく、町の非人部落に流れ込み土方人足の仕事で生活する事を余儀なくされた。
 百姓町人の様に働く事を嫌うサムライは、素浪人としてヤクザの用心棒となり狂犬と嫌われ、ヤクザの抗争では真っ先に斬り込みヤクザに半殺しにされた。
 素浪人が殺されれば、名もない骸として、身包み全てを奪われ、死体への尊厳もなく墓穴に放り込まれた。
 生活が苦しくなるや、妻子を豪商や豪農の妾に差し出して生活費を恵んで貰うか、下男下女として豪商や豪農に差し出した。最悪の場合は、女郎(売春婦)や芸者や旅芸人などに売った。
 百姓町人は、エタ・非人となった没落サムライに対して同情するどころか、武士であった時に受けた屈辱を晴らすかの様に軽蔑し差別した。
 結婚できない町の男どもは、売られてきたサムライの妻女を買って憂さを晴らしていた。
 江戸中期以降は、取り潰される大名が減少した為に、サムライの悲劇は減少した。
 武士にとって、守るべきは主君である大名ではなく、家禄を支給してくれる藩・御家であった。
 武士の忠義の本質を、建前的にどう言いくるめようとも、本音はそこにある。
 武士の身分とは、商いを守銭奴と嫌う武士道によって危ういものであった。
 下級武士は、家禄が少なく生活が苦しかった為に、商人に頭を下げて内職仕事を回して貰い、手間賃を稼いで生活の足しにしていた。
 武士・サムライは、見た目ほど楽な身分ではなかった。
 下層民に落ちたサムライの子孫は、這い上がる事なく、軽蔑され、差別されるエタ・非人として生涯を閉じた。
 江戸時代の身分制度とは、大陸の階級制度とは異なるものであった。
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 吉原の遊郭は格式が高く、花魁と呼ばれる遊女の知的水準は高く、相手にするのは大店の主人や大名や藩の重臣達であった。
 相手の話に合わせて、下世話話から文芸・宗教・人生・気候風土さらには御政道の助言までと多彩な為に、読み書きソロバンは常識として、古典書や漢書などを万感の書を読み、日本舞踊から鼓・笛、茶道や華道などの諸芸にも通じていた。
 客とは話した事は絶対に他に漏らさないという義理と人情をわきまえ、秘密を話せと折檻・拷問されようとも決して話さず、殺されても秘密は守った。
 花魁は、男に金で買われる売春婦・娼婦ではなく、命と肉体を張って生きる知的な女サムライであった。
 花魁を贔屓にする豪商やサムライは、大金で高級娼婦を侍らして享楽にふける大陸の王侯貴族や資産家とは何処か異なる。
 それ故に、歌舞伎や浄瑠璃の演目に成り、小説の題材にもなっている。
 日本の性文化は、外国では想像も付かない次元に存在する。
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 年齢制限で吉原から身を退いた花魁のなかで芸達者な者は、芸事の師匠として弟子を取って生計を立てていた。
 女師匠の多くは、元芸者や元花魁が多かった。
 町衆は、元の職業が芸者であろうと花魁であろうといっこうに気にしないどころか、その芸が優れていれば尊敬して頭を下げて習いき、娘にも花嫁修業の一環として弟子入りさせた。
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 廓遊びで梅毒などの性病に感染した男達は、結婚して妻に性病をうつした為に生まれた子供は先天的感染者であった。
 江戸時代の乳幼児死亡率が高かった一因は、ここにもあった。
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 現代日本に於いても、日本は性のモラルが低く性風俗が盛んで、日本人はもちろん外国人の女性を性風俗関係に売り買いする事で有名である。
 日本男性はもちろん、日本女性も、そう見られている。
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 江戸時代の全般にわたって、百姓や町人は中間層として識字率は高く定職を持って生活が安定していた。
 下層の貧困層である零細農家・小作人は、天候不順で凶作になるや、家族が餓死しない為に娘を年季奉公に売らざるを得なかった。
 キリスト教倫理観では、女性の人権否定の人身売買による契約的年季奴隷制度であった。
 売られた娘は、遊女・娼婦・女郎・売春婦として、借金を返す為に強制的に1日平均5人の客を取らされた。
 芸者も、芸を売ると共に身体も売っていた。
 日本文化の一つとされる性風俗は、人身売買による売春であった。
 親に売られた娘にとっては、毎日が救いのない絶望の生き地獄であった。
 「日本には奴隷制度はなく、公娼制度は奴隷制度ではない」といっても、世界は公娼制度を女性の人権無視の奴隷制度と認識している。
 高級遊女の花魁道中とは、大金を出して呼び出した客の所に売春をしに行く性奴隷の姿である。
 日本の数々の悲劇は、人災ではなく自然災害という天災が原因であった。
 日本の伝統文化には、潜在的に性奴隷が存在していた。
 その代表的な姿が、花魁である。
 花魁道中をイベントとして美化する事は、人身売買と性奴隷を世界に向かって文化として容認している事を公言するに等しい。
 だが。花魁が紛れもなく存在していた以上、日本人の恥として隠す事なく、堂々と誇らしげに表に出すべきものである。
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 花街にある御茶屋とは、芸舞妓が客をもてなす場である。
 京に於ける御茶屋は、諸大名の家臣、神社仏閣への参拝者や旅人を相手にした水茶屋が起源であった。
 最初は酒や料理を出し、舞や三味線で客をもてなした。
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 江戸時代には、幕府公認の三大遊郭があった。
 江戸の吉原。京の島原。大阪の新町。
 京の島原で名の知れた名物太夫は、芸事はもちろんの諸般の教養に通じ気位が高かった為、大金を払うが無教養で粗雑で無粋な客を嫌い、相手にする事を拒否して追い返した。
 遊女達は、金の為に身体を売る卑しく苦しい売春から少しでも救われたいと、客を選べる太夫に憧れ、自分も名の知れた太夫になるべく芸事の稽古と数多くの書物を読み、高度な教養ある品の良い客の相手を喜んでした。
 数多く店を構えた遊郭にも格式が有り、遊郭は少しでも格式を上げる為に名物太夫を育てた。
 金があり、教養があり、品格のある人物と認められた男のみが、格式高い遊郭に出入りが許された。
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 庶民社会では、金さえあれば特権的に何でも出来るというわけではなく、金があっても教養がなく品格・品位にかけるの者は影で「つまらぬ奴」と馬鹿にされた。
 日本社会は、表と裏が有り、相手に向かって真実や本音を言わず、裏でコソコソと人物の品評を囁き合ってあざ笑う陰湿な面がある。
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 2017年1月16日 産経ニュース「若い女性も興味津々? 吉原に日本初の「遊郭・赤線」専門書店 希少文献を復刻
 店主の渡辺豪さん
 日本で最も有名な色町として知られる東京・吉原地区(台東区千束)。江戸の遊郭以来の特色ある歴史を持つこの街に昨年秋、日本初の遊郭・赤線専門書店「カストリ書房」が開店し、話題になっている。
 赤線とは、戦後の日本に存在していた売春の実質的公認地帯のこと。戦前の遊郭などの流れをくみ、営業可能区域が地図上に赤い線で区分されていたので“赤線”と呼ばれた。昭和33年の売春防止法完全施行により消滅し、現在ではどこにあったかさえ分からなくなってきている。
 遊郭跡地に建つ同店は、自社刊の遊郭関係復刻本のほか、戦後のカストリ雑誌など性風俗関係の古書などを扱う。店主の渡辺豪さん(39)は元IT企業勤務で、6年ほど前から趣味として全国の遊郭・赤線跡を探訪し、場所の特定や関係者への聞き取りなどを行っていた。「調べるうちに、遊郭関係の文献がなかなか見当たらないことに気付いた。国立国会図書館にも所蔵がない本がたくさんある。古書店で探すしかないが、1冊10万円とかの値段になってしまう」。近年、遊郭についてテレビ番組や探訪記などでサブカルチャー的に注目が高まっている流れもあり、希少文献の復刻に需要があると判断した。
 そこで平成27年に勤務先を退職し、遊郭関係の書籍を復刻販売する「カストリ出版」を設立。当初はもっぱらネット通販を行っていたが、販路拡大のため昨年9月に同書房をオープンした。戦前に刊行された遊郭情報本『全国遊廓案内』(昭和5年刊)や、戦後の赤線の網羅的ルポ『全国女性街ガイド』(同30年刊)など、資料性の高い希少書の復刻本が売れ筋だ。
 開業から4カ月。客層は意外にも若い女性が多い。リピーター客も増えており、その9割が女性という。渡辺さんは遊郭研究の面白さについて「置き去りにされていた分野なので、自分で発見したことが実は誰も書いておらず、定説が覆るようなことが多い。すごく調べがいがある」と話している。(磨井慎吾)」
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 5月18日号 週刊文春「私の読書日記 遊女のドラマ、斎王のドラマ 酒井順子
 大阪は日本橋国立文楽劇場にて、『曽根崎心中』を観る。近松門左衛門によるこの名作は、遊女のお初と醤油屋の手代である徳兵衛の、悲恋の物語。
 お初と徳兵衛は、今で言うなら、風俗嬢と中小企業の主任クラスの男性、といった感じか。恋人同士である二人の前には立場の違いや金絡みの問題が立ちはだかるのだ。
 心中物ではたいてい、男の方が情けない性格。徳兵衛もお金で失敗しているのである、積極的に死へと誘うのは、お初の方。
 お初がなぜ潔く死へと向かっていくのかといえば、彼女は遊女、それも堂島新地に生きる下級の遊女だから。徳兵衛と結ばれる夢が消えた時、彼女は来世で夫婦となることを願って、死を選んだ。
 春をひさぐ仕事をする女性は、今も存在する。世界最古の仕事は、滅多なことで消えることはないだろう。が、『曽根崎心中』の時代の売春と現代の売春とでは、かなりイメージも違う模様。
 『江戸の売春』(永井義男 河出書房新社 1700円+税)を読むと、江戸時代に身体を売って生きていた女性達には、様々なランクがあったことがわかる。吉原のような遊郭は、公認の売春街であり、歌舞伎等でおなじみの傾域は、おちらの所属。対して非合法の遊里である岡場所には私娼達がいた。それ以外にも、夜鷹(よたか)、地獄、船饅頭といった、様々なタイプのフリーの私娼もいたのだろう。
 吉原等の遊女達は自分の意思で遊女になったわけでなく、『親に売られた結果の身の上』なのだからして『親孝行をした女』として見られ、蔑視されなかった、と本書では強調される。『年季を終えて素人に戻った元遊女を、とくに経歴を隠さず妻に迎えた』というケースもあった、と。
 だからこそ、文楽や歌舞伎の演目においても、遊女達はしばしば登場するのだろう。今、ゴールデンタイムに風俗嬢がバンバン登場するドラマが放送されることは考えにくい。が、当時は当たり前のように遊女が存在し、男性は遊里通いを堂々としていたからこそ、遊女達は社会の視線から隠蔽されずに生きていたのではないか。
 とはいえやはり、ランクによってはつらい思いをした遊女も多かった違いない。ちなみに堂島新地は、江戸で言う岡場所、すなわち私娼街。お初と徳兵衛と未来にかすかな夢を見たのだけれど、やはりそれは叶うことがなかった。当時はうっそうとした森だった曽根崎の地で、お初はあたら19歳の命を散らしたのである。

 私娼の立場は悲惨だったけれど、公娼については今で言うところのキャバクラ嬢くらいの感覚だったのかも、と想像してみる私。並みの女性よりよほど教養豊かな遊女もいたらしい。
 また『江戸の売春』には、吉原には芸者もいて、基本的に芸者は芸をするのみで身は売らなかった、とおあった。芸者は遊女よりも格下の存在だったそうだが、中には密かに身を売る芸者もいて・・・といったことを読むと、芸を売ることと身を売ることの区別が難しくなってくる。
 そもそも、遊女は芸を売る存在だった模様。『中世の〈遊女〉』(辻浩和 京都大学学術出版会 3800円+税)によると、鎌倉中期まで、遊女とは芸能を生業としていた女性達を指す言葉だったのであり、蔑視されることもなあったのだそう。
 12世紀には、貴族や武士等と遊女の間に子が生まれるケースが見られ、後白河は遊女や傀儡子(くぐつ)を身近に召し、遊女との間に子を生(な)している。
 この頃、貴族女性は男性に顔を見せることはなく、歌ったり踊ったりすることもなかった。そういった『男性との接触制限が強化されていく中で』『〈遊女〉たちが貴族男性の需要をみたしていく』ようになったのだ。後白河や後鳥羽は、今様や白拍子舞といった芸能を好み、芸能の民として彼女達と親しく接している。
 それが変化してきたのは、鎌倉後期で、遊女達は軸足を買収に移していくように。次第に、蔑視される存在となっていく・・・。
 最高位にある帝や院が、身分の差を超えて芸能の民と交わりを持ったという事象は、興味深い。『乱舞(らんぶ)の中世』(沖本幸子 吉川弘文館 1700+税)では、この時代を『乱れた中世』と表現している。
 保元・平治の乱に始まる様々な戦乱が起こり、天皇側や宗教においても、新しい動きが見られたこの時代。即興的な舞である『乱舞』も、流行した。
 本書によるとこの時代に人々は、リズムに乗ることの楽しさに目覚めたのだそう。そして貴族達もまたその楽しさを知り、夢中になった。自ら流行歌を歌い、のみならず遊女や傀儡子といった芸能の民達も、身分の上下にかかわらず共に楽しんだのだ。階級というものもまた、この時代に乱れだしたのかもしれない。
 遊女と、貴族世界に生きる女房や女官は『親近感・互換性』を持つという説があると『中世の〈遊女〉』には記される。地方官の下向に同行したり、貴族等の愛人になるという点で共通点がある、等と。
 確かに、両者は共に、この時代における希少な『働く女性』。男性に立ち混じる機会もあったのであり、そういった意味でも近い立場にあったのかもしれない。
 しかし前述の通り、貴族女性は基本的には顔を見せず、歌い踊ることをしなかったのに対して、遊女は歌い踊り、宴席に侍ったりもしている。そこには、今で言う『素人』と『玄人』的な立場の違いがあった。
 様々な制約を受ける『素人』さんである女房と比べて、遊女はあくまで自由そう。売春を主たる生業とする前の遊女達は、思いの外生き生きとしていた。

 自分から遠い存在として、文楽や歌舞伎における遊女ものを好む私。同時に貴族でもない私は、反対のベクトルにいる遠い存在として、斎王のことも気になる。
 斎王とは、伊勢神宮賀茂神社に、天皇に代わって仕えた、未婚の内親王または王女のこと。伊勢に仕えたのが斎宮、賀茂に仕えたのが斎院と言われる。
 『斎王研究の史的展開』(所京子 勉誠出版  3600円+税)によると、伊勢斎宮の制度が整えられたのは、天武天皇の頃、以降後醍醐天皇の時代に廃絶するまで、六百数十年間にわたって続いた。卜定(ぼくじょう)された内親王または王女が、数年から、長い場合は数十年にわたって、神に仕えたのだ。
 平安文学においてもしばしば感じる、斎王の存在感。賀茂斎院では『和歌文芸サロンが形成され、これが和歌の隆盛に寄与』していた。彼女達もまた、一種の『芸』の担い手だったのだ。
 中でも私にとって印象的な存在は、平安時代に57年間もの長きにわたって斎院を務め、『大斎院』と呼ばれた、選子内親王。選子のサロンは、文芸の面でも非常に優れていたらしい。中宮彰子の女房、すなわち彰子サロン所属であった紫式部も、その日記で選子サロンをライバル視している模様が見てとれる。
 選子より前の徽子内親王も、特異な人生を送っている。斎王退下後は独身を通すケースが多い中で、徽子は退下後に村上天皇と結婚。娘もまた斎宮にト定され、娘と共に再び伊勢に下向したのだ。
 そして紫式部は、徽子内親王の人生に『これは』もと思って模様。『斎宮となった娘と共に伊勢へ』という徽子の行動は、源氏物語における六条御息所のモデルとなった・・・。
 未婚すなわち処女の女性が、ト定されたら最後、神に仕える身にならなくてはならないというのは、今で言うなら人権侵害である。しかしそこに『縛り』があると、ドラマが生まれるのも事実。上つかたであれ遊女であれ、制度やしがらみに縛られた女達のドラマを楽しむ自由を享受する自分の周囲にドラマが発生しないのもまた、当然なのだろう」
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 6月18日号 サンデー毎日牧太郎の青い空 白い雲
 常々考えていることだが、世の中に『絶対に正しいこと』は存在しない。
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 日本でもかつて『教育勅語』にある『一朝事ある時には進んで国と天皇家を守るべきこと』こそ絶対に正しい!と信じ、多くの若者が戦火の犠牲になった。『絶対に正しい』は時に悲劇を生む。
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 もちろん『絶対に悪いこと』も存在しない。
 例えばセックス産業。管理売春は法に触れ『悪いこと』だろう。だが江戸時代、吉原の花魁は(大奥女中を除くと)『一番稼ぐ女性』だった。太夫、格子、端(はし)、局(つぼね)、散茶、梅茶などのランクはあるが、最高位は1年間に800両(今に換算すると1億円以上)も稼いだ(武揚隠士『世事見聞録』)。
 その一方で、稼ぎの悪い遊女が病死して、引き取り手がいないと楼主は回向もせず『投げ込み寺』に穴を掘って埋める。吉原では、通称・土手の道哲の西方寺、大鷲(おおとり)神社前の大音寺、洲崎では深川猿江の重願寺などが有名だった。こんな無慈悲なことがまかり通った『セックス産業』ではあるが、売買春行為そのものに対する人々の価値観は時代によってだいぶ違う。
 古代から『圧倒的な需要』に支えられているからだろう。世間は『悲しいことだが、絶対悪というより必要悪』と心得ている。」




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