💄24)─1─江戸文化は百姓や町人の「庶民文化」で遊女や芸者らによる「花街文化」であった。〜No.50No.51 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 落語の「廓話」は、日本独自の話であり、外国文学の娼婦物語や売春婦物語ではない。
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 現代日本の標準語の多くは、江戸廓言葉の影響を強く受けている。
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 2019年3月29日号 週刊ポスト「今回は3人の『美歴女』が案内します!
 『吉原遊郭』と『花魁』
 女もときめく聖愛奥義
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 そうした性文化の温故知新を牽引してきたのは、〝歴史好き=歴女〟たち。とりわけ、彼女たちの関心と興味を集めているのは、江戸時代を代表する遊郭『吉原』だ。
 『破廉恥なんかじゃない』
 〝歴女ブーム〟が叫ばれて久しいが、彼女たちの関心の対象は、乱世の世を戦い抜いた武将に留まらず、『花街』にまで広がっている。
 花魁道中を江戸時代さながらに再現するイベントや、気付けや化粧を施す花魁体験が人気を集め、成人式の振り袖や花嫁衣装に花魁風のデザインを選ぶ若い女性も増えているという。
 そんな中、吉原遊郭を徹底研究し、著書まで出版した女性がいる。『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭』(PHP新書)を上梓した堀口茉純氏だ。
 堀口氏は大学時代に演劇論を学び、女優として活動中。一方で、歴史好きが高じて江戸時代の研究に熱中。08年には歴史文化歴史検定1級に当時最年小の25歳で合格した。『江戸に詳しすぎるタレント』、アイドルならぬ『あ江戸ル』の異名を持ち、江戸の文化や歴史に関する講演活動もおこなっている〝美歴女〟だ。
 なぜ堀口氏は、それほどまでに吉原遊郭に惹かれたのか。
 『私はもともと〝もしタイムカプセルがあったら、江戸時代の桜の季節の吉原に行って、花魁道中が見てみたい〟と思っていました。でも、講演会でそのことを話すと、「破廉恥」とか「不謹慎」という反応が少なからずあった。吉原遊郭アンタッチャブルな話題になっているのだと思いました。
 しかし、吉原遊郭は幕府に認められた〝公に開かれた場所〟で、遊女たちは独自のルールにもとづき、プロ意識をもって働いていた。私はそんな女性たちのプライドや強さに興味を持ったんです』
 『遊女は〝憧れの的〟だった』
 堀口氏が強調するのは、当時の吉原遊郭は『文化の中心地』といえる場所だった。
 『「太夫(だゆう)」とよばれる当時の高級遊女は、一流の女優やトップタレントのような、当時の女性たちの〝憧れの存在〟でした。容姿の美しさはもちろん、幼い頃からの英才教育によって文学や歌舞音曲、茶道、生け花などあらゆる教養をマスターしていました。数多くの浮世絵や美人画に描かれて、土産物として人気を集める〝トレンドリーダー〟でもありました。
 そのため、男性は事前に予約をしないと目当ての太夫に会えないこともありましたし、遊女が気に入らない客は、たとえ大名であっても〝振る〟ことができたのです』(堀口氏)
 それだけに、客には厳しい条件が課せられていた。とくに、同じ遊女のもとに『3回通って初めて行為に及ぶことができる』という〝不文律〟があったという。
 『当時は、初めての登楼(とうろう)を「初会(しょかい)」といい、必ずしも同衾({どうきん}ひとつの寝具で一緒に寝ること)できるとは限りませんでした。〝初会には壁に吸い付く ほど座り〟という川柳が残っていて、お供を連れて座敷に入ってきた遊女は当然のように上座に座り、遊客(ゆうかく)はものすごく遠く離れた位置に座るのが常でした』(堀口氏)
 2回の登楼は『裏』、同じ遊女を指名することを『裏を返す』と言った。〝裏の夜は 四五寸近く 来て座り〟と読まれたように、2回目でも、初会より少し近づけるだけだったという。
 『遊客は3回目にしてようやく「馴染」として認められます。当時の風俗誌「守貞謾稿(もりさだまんこう)」によると、最高位の花魁と馴染みになった場合、関係者や奉公人なども含めて一度に100万円ものチップを払っていたようです』(堀口氏)
 それでも男性客の心を掴んだ〝テクニック〟とはどんなものだったのか。
 堀口氏はこう語る。
 『3回目からは遊女は「馴染」に対して、〝デレる〟ようになったといいます。「客人」ではなく名前で呼ぶようになり、遊女が床入りで初めて細帯を解く、つまり全裸になってくれたんです。朝の見送りもそれまでは建物の玄関までだったのが、外の門まで付き添ってくれ、次の次の日には引手茶屋(案内所)まで迎えにきてくれる。
 そのように、遊女が見せる〝ツンデレ〟の姿が、遊客を夢中にさせたのかもしれません』
 『馴染』になると『浮気は厳禁』という厳しいルールもあった。 
 『十返舎一九が綴り、喜多川歌麿が挿絵を描いた「吉原青楼年中行事(よしわらせいろうねんじゅうぎょうじ)」によると、〝浮気〟がバレた遊客は遊女と妹分たちにボコボコにされ、慰謝料まで払わされたと記されています。正直なところ、吉原で遊ぶのおって面倒臭さうですよね。でも、遊女が男性に見せる「恋のかけ引き」は、現在の女性たちも思わず真似したくなるようなテクニックが満載なんです』(堀口氏)
 抜かずの『ぬか六』
 吉原の文化については学術的研究も進み、女性研究者も分析を行っている。
 国際浮世絵学会常任理事で、多摩美術大学非常勤講師の山本ゆかり氏が語る。
 『遊女が馴染の遊客に対して効果的に使ったのが「文(手紙)」です。〝本当に想っているのはあなただけです〟〝早く逢いたくて心が辛い〟といつた恋焦がれる思いを手紙にしたため、頻繁に送って男性の心を掴んでいたようです。
 また、吉原遊郭を描いた春画には、〝もう少しここに居なよ〟と男性を引き留めたり、〝もう帰っちゃうの?〟と『延長』をお願いしている場面も頻繁に見られます。』
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 『……吉原遊郭が簡単に行けない憧れの場所だったことも考えると、男性にとってのファンタジーとして言い伝えられ、吉原人気を支えたとも考えられるのではないでしょうか』(山本氏)
 遊郭通いは〝浮気〟じゃなかった
 では、当時の男性たちが吉原遊郭に通うことを、妻たちはどう捉えていたのか。堀口氏は『吉原通いは浮気とは認識されていなかったようです』と話す。
 『江戸の武家社会では同じような家柄や身分の間で結婚相手が決まったので、本当に好き合った同士が夫婦になることは稀でした。男性にとって、容姿はもちろん教養もある吉原の遊女たちは、理想的な色恋の相手として映ったのでしょう。妻も「自分のお金で遊べる範囲なら」と大目に見ていたようです』(堀口氏)
 吉原での色事は、あくまでも〝疑似恋愛〟として黙認されていたのだという。
 さらに、〝男性としての嗜み〟という側面があったと分析する。
 『当時の吉原遊郭は、単に性行為を目的とするだけじゃなく、幕臣も一般藩士も商人も身分に関係なく訪れる〝社交サロン〟のような役割も果たしていました。そのように身分制度を飛び越える唯一の場所だったからこそ、江戸の文化や芸能を支えていたのだと思います』(堀口氏)
 約300年の時を経て再び注目が集まっているのは、吉原遊郭が、現在にはない〝奥深さ〟を備えていたからだろう」
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 江戸時代の風狂な庶民文化を徹底的に破壊したのは、明治時代の近代教育に深く入り込んだ男尊女卑の朱子学と家父長主義のキリスト教であった。
 特に深刻な破壊を行ったのは、戦後のマルクス主義共産主義)でった。
 マルクス主義共産主義)のおぞましい毒が、歴史教育を悪意をもって改造し、修復不可能な常態へと歪曲・捏造・改竄した。
 そうした歴史教育で洗脳されたのが、高得点を取った高学歴出身知的エリート達である。
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 日本は病的とも言うべき異常な潔癖症も、明治から始まった。
 明治までの日本民族日本人は、世界の上位に移置するほどに綺麗好きではあったが、現代の日本人ほどに極端に神経質な潔癖ではなかった。
 つまり、美醜感覚は、現代日本と昔の日本人とは違う。
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 不浄・穢らわしいについて、日本神道・日本仏教と朱子学キリスト教では根本的に違う。
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 日本の花魁は、大陸の高級娼婦ではない。
 同様に、日本の遊女が大陸の売春婦とは違う。
 当然の事ながら、日本の花魁・遊女は、朝鮮の妓生(キーセン)や中国の遊び女とは違う。
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