- 作者:徳川林政史研究所
- 発売日: 2012/02/20
- メディア: 単行本
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
町人とサムライ達は、漢訳書籍で西洋天文学を学び、中国の暦を捨て日本独自の暦を作成した。
・ ・ ・
江戸時代中期。刀を抜いて斬り合った事のないサムライは、脇差しで切腹ができなくなっていた為に扇子を脇差しに見立て、介錯人は相手が扇子を手に瞬間に首を落とした。
時代と共に、切腹は形式化され扇腹、扇子腹が主流となった。
大人の仲間入りとして元服したサムライの子息は、大人としての責任の取り方として切腹の作法を教えられた。
百姓や町人などには、社会への責任がない為に元服式も切腹の作法とは無縁で、何か不始末を犯せば江戸を捨て上方へ走るか、地方の農村地帯に逃げ込んで帰農して新たな生活を始めた。
サムライは特権を持つ武士としての「死」を伴う制約を受けていたが、庶民は特権を持たなかったが故にわりかしと自由であった。
・ ・ ・
武士道に於ける「武士に二言なし」を信条とするサムライは、発言した事に対して責任を持ち、間違っていたら職も録も返上して浪人となって放浪し、主家に迷惑をかけたら潔く切腹した。
サムライは、品格や品位を守る為に分別なき浅はかな事は言わなかったし、その場の激情で暴言を吐いて迷惑をかけたら見苦し言い訳をせず切腹して果てた。
それが、汚い言葉を口にしない「言霊」信仰である。
悪い事や不吉な事が起きるから言葉にしないというのは、言霊ではない。
サムライとて、言葉の為に死にたくはないから、思慮を深めて慎重に言葉を選んで意見を述べた。
主君や上司から意見を求められたら自分の考えを述べ、反対意見を言わなければ命じられた事は嫌でも従った。
『葉隠』れは、サムライも人である以上は死ぬ事を嫌う情けない浅ましき生き物であるとして、名誉を重んずる武士であれば、主君の為主家の為世間の為に何時でも死ねる覚悟を持てと諭している。
サムライは、口にした言葉に責任を持ち、未熟ゆえの誤りがあれば訂正して謝罪したが、騙す意図を持った嘘があれば責任をとる為に切腹して果てた。
「命を賭けて戦う」と口に出したら、命を捨てて敵と死闘を繰り広げて殺すか殺されるか。
それが、サムライの生き方である。
志を高く持って正々堂々と生きる。
心を清くして卑怯卑劣をしない。
命を捨てるのが嫌なら、サムライを止めて乞食に身を落とせば良かったのである。
『葉隠』、武士道は、そんな意志の弱い惨めな浅ましいサムライを庇いはしなかった。
山本常朝は、サムライとは、生を求めれば死が手に入り、死を求めれば生が手に入るから、常に死ぬ身であるとして覚悟して生きろと喝破していた。
「武士道とは、死ぬ事と見付けたり」
・ ・ ・
幕府は、「誰の為に死ぬか」を明記しなかった『葉隠』は危うい書物であるとして「禁書」に指定した。
・ ・ ・
日本に遊郭文化があり、借金の返済が終わり、年齢制限としての年季が明けると、遊女は一般人に戻り普通の結婚が出来た。
江戸などの都市では、男性よりも女性が少なかった為に、結婚できずに一生を終える独身男性が多かった。
男性を結婚させる為には、結婚前に女性がどんな職業についていたかなど問題にするゆとりがなかった。
家柄・格式を気にする武士や豪商・豪農はともかくとして、百姓町人などの独身男にとって結婚できれば女性の身許など関係なかった。
ゆえに、遊女を卑しい罪深い職業と軽蔑していなかった。
真っ当な町人であれば、家の事情で吉原に売られた不幸な女性に同情こそすれ、軽蔑せず差別もしなかった。
町人のカカァは、吉原での公娼による女遊びは男の嗜みとして許したが、素人女相手の浮気は絶対に許さなかった。
・ ・ ・
苦難・困難に遭った時。関東人は、サムライの体面からやせ我慢して耐え抜いた。
関西人は、商人感覚として堪える事が出来ず、絶えず「あほらしいくおもろい事」を探して笑い飛ばしていた。
自然災害多発地帯で生きる知恵とは、今の悲しみ苦しみ辛さを涙を流しながら耐えたり、逃避して誤魔化す為に半狂乱となって泣き喚いて暴れ回るのではなく、楽しく笑顔が溢れていた幸せな昔の日々を思い出す事であった。
故に。自然災害多発地帯の人々は、穏やかによく笑い、明日を信じて楽しく働く。
過ぎた自然災害に唖然呆然として立ち尽くし、うじうじ、ぐずぐず、と何もせずにいても何も始まらないどころか、次の自然災害がやって来るのでる。
・ ・ ・
江戸時代の公衆浴場である銭湯や温泉では、男女混浴であった。
男と男が裸の付き合いをしていたのと同様に、女と男も裸の付き合いをしていた。
ドイツのサウナは、男女が裸ではいる混浴であった。
・ ・ ・
財政難に苦しむ各藩は、領地内で取れた物産を特産品・名産品として江戸・京・大阪で売る為に、地方を隠す事なく、寧ろ土地柄を前面に押し出して差別化を図った。
各藩は、百姓や職人に競って売れる特産品や名産品を作る様に督促した。
百姓や職人は、町人が興味を持って買ってくれる様に、時代の流れや変化に合わせて独自で技術を磨いて新たな特産品や特産品を産み出し続けた。
日本の物作りは、江戸時代から始まっていた。
・ ・ ・
第117代後桜町天皇・女帝(1762〜1770)。日本の歴史には、8人10代の女帝が存在するが、これ以降の女帝は即位していない。
だが。女性天皇は、結婚せず、独身を貫いて子供を持たなかった為に、次期天皇の為に皇族の中から養子を取って皇太子とした。
歴代の女性天皇は、即位してから結婚する事はなかった。
明治に入り。伊藤博文は、皇統の断絶を避ける為に、「皇室制規」の草案で、男系皇族が絶えた場合には女系継承を認めようとした。政府は、女系相続を否定した。
『皇室典範』「大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子之を継承す」
古今東西、何の王国でも女系の国王や女王は存在しない。
王国・王朝の世界常識は、男系であって、女系ではない。
女系を主張する者は、王朝打倒のマルクス主義革命家である。
・ ・ ・
1762年 パリ高等法院は、前年に起きたカリフォルニアのマルティニク島事件で、全フランス領からイエズス会師の追放を命じた。
1764年 フランス国王ルイ15世は、国内のイエズス会解散を宣言した。
イギリスは、より強力な権限を持った新たな東インド会社(大半の株をユダヤ人銀行家が所有)を設立した。
特権階級は、香港やインドなどの非白人植民地を政府の命令を受けない直轄地として経営して、国家・国民に関係なく冨を吸い上げて莫大な利益を独占した。彼等は、帝国支配を地球上に拡大するべく、中央銀行の融資を受けてロンドンに英王立国際問題研究所(RIIA)を新設した。
欧州諸国も、私的銀行から融資を受けて半官半民の貿易会社を設立して植民地拡大と植民地経営を一任し、地元民が暴動や内戦を起こせば強力な軍隊を派遣して、容赦ない虐殺で鎮圧した。
イギリス政府は、オーストラリアを流刑植民地として利用した。オーストラリアに移住したキリスト教徒白人には善良な庶民もいたが、大半が兇悪な犯罪人や強欲な一旗組であった。
熱烈なキリスト教徒は、宗教的人種差別主義である白豪主義を打ち立て、オーストラリアの原住民アボリジニーらを人間と見なさず、カンガルーなどの野生動物の同類として動物狩りのように虐殺した。原住民の女性は、単に猛り狂う性欲の解消の対象として強姦し、強姦してから非人間として殺害した。
暴力を嫌う原住民は、抵抗せず、ひたすら逃げ隠れしてい生き延びようとした。その結果、30万人以上いた原住民は100年後に6万人前後に激減し、タスマニア島では全島民が死滅した。
ポルトガルやオランダなどの他のキリスト教国も、植民地で似たような政策を行った。
一神教にとって、非白人の多神教徒は滅ぼすべき悪魔であり、人として同情する価値のない血に飢えた獰猛な獣にすぎなかったのである。
キリスト教会は、世界がキリスト教に改宗すれば戦争はなくなり、「神の王国」が実現すれば平和が訪れると確信していた。
・ ・ ・
1763年 第117代後桜町天皇の即位式を見学する為に夥しい庶民が京都御所に押しかけ、あまりにも騒々しい為に厳粛さが妨げられた。
歌舞伎は、天皇の即位式を演目として取り上げていた。
・ ・ ・
1764年 平賀源内は、エレキテルなど人々が驚くような受験を行い興味を集めた。
新し物好きで飽きっぽい日本人は、一瞬、珍しく面白い実験に関心を持ってもそれで終わった。
『放屁論』「万人の目の見えない人間達より一人の有眼の人を思って、仮にも追随軽薄を言わないので、時にあわないのは生まれながらの性格である」
日本人にとっては、斬新な実験とはびっくり箱と同じで、最初は関心を持っても何時かは飽きて忘れる。
実験は、日本人の好奇心を駆り立てても、それ以上の発展は起きない。
・ ・ ・
1764(〜67)年 ジェヴォータンの獣事件。フランス・ジェヴォーダン地方で、オオカミに似た獣によって、60人から100人が殺された。
宗教戦争による陰惨な虐殺の増加で、首都パリの近郊でもオオカミの群れが出没し、各地でオオカミによる被害が相次いでいた。
ここから、オオカミ男の伝説が生まれたと言われている。
・ ・ ・
オランダは、自国に都合の悪い事は隠して、国際情勢を書簡として江戸幕府に提出した。
江戸幕府は、オランダを通じて、鎖国をしながら国際社会の動きを知っていた。
・ ・ ・
1766年 仙台藩。穀田屋十三郎。
・ ・ ・
1767年 明和事件。幕府は、尊皇絶対思想を吹聴し幕府を転覆する陰謀を企んだとして、山県大弐を死罪、藤井右門を斬首・獄門、竹内式部を流罪とした。
山県大弐は、『孟子』から「天には二日無く、民に二王無し」を引き、『柳子新論』で天命を失った君主は排除すべきであるという放伐論を容認した。
「湯王や武王の放伐は、無道の世においても有道のことをする事ができたので、これらの人は天子と為り、相手の紂王や討王は賊になった。たとい臣民の地位にいる者でも、この革命の原理を善用して人民の害を除いて、人民の利益を興す事を志すならば、君主を放伐する事さえも仁と認めることができる」(利害 十二)
「悪知恵的な腕前や投機的なやり方には、取り締まりも法律もないので、彼らの思いのままである。かくてその冨はほとんど大名と対抗するほどである。……全て商人に独占されるので、物価の急激な高騰は推測できない。そして天下の貨幣は全て商人仲間に集まる。……農民や職人はいずれも借金を返済するだけのゆとりがないのである。やりくりがつかないと商人から借金をする。1年間の利息は、元金の二倍にも五倍にもなる事があり、あげくの果ては、衣服や品物を質に入れ、または妻や子を抵当に入れる者さえ生じる」(通貨 十一)
スペイン国王カルロス3世は、国内にいる全てのイエズス会士を一晩で逮捕して国外に追放する様に命じた。
・ ・ ・
1768年 建部綾足 『西山物語』
・ ・ ・
1768年(〜79年) イギリスの探検家、ジェームズ・クック提督(キャプテン=クック)は、3回にわたって太平洋方面を探検と調査を行った。
真の目的は、ロシア帝国と組んで日本を侵略してその富を山分けする事であったが、北太平洋の大海原を踏破して遠征航路を開拓できなかった。
その代わり、中部太平洋から南太平洋にかけて島嶼が多い海域を探検・調査してオーストラリアやニュージーランドなどを発見した。
・ ・ ・
1770年4月21日 明和7年の佐渡島百姓一揆。明和4年の天候不順で幕領・佐渡島は不作となったが、佐渡奉行は疲弊している農民から年貢の徴収を命じた。
佐渡国雑太郡長谷村の住職・遍照坊智専ら主立った者は、飢えに苦しむ百姓を酷税から救うべく代官所への強訴を呼び掛けた。
代官所は、智専ら首謀者を捕らえた。
智専は、全ての罪を負って死罪に処せられた。
佐渡奉行は、全ての百姓を処刑して大量の血をがせば百姓一揆が広がる事を恐れがあるとして、恩情を与えて他の者達を無罪放免とした。
佐渡の民は、全島を上げて智専への追慕と供養を行った。
こうした義民物語は、日本全国に数多く存在している。
4月29日 キャプテン・クックはエンデバー号に乗り、オーストラリア・シドニー郊外のボタニー湾に上陸した。8月にケープヨーク付近で、オーストラリア東岸部はイギリス王室の領有であると宣言した。
・ ・ ・
1771(明和8)年 伊勢神宮への御陰参り。
百姓や町人らは、商売繁盛や豊作祈願の目的で寺社参詣するべく「講」を組み、旅費を積み立て、代表者をくじ引きで選んで送り出していた。
豪農や豪商など私財の或る者は、独自で名代を立てて送り出した。
百姓や町人の中には、娯楽を兼ねて、寺社参詣から名所旧跡や温泉旅行に出た者もいた。
旅をした者は、各地の土産物を購入し、各地の土産話をした。
伊勢神宮・外宮の神主は、犬連れ立ち入り禁止の神宮にも拘わらず、山城国(京都)から参拝に来た一匹の犬に感心して記録にとどめた。
全国から、犬、馬、牛、豚、鶏が飼い主を伴わず伊勢神宮詣でをした記録が数多く残っている。
神宮詣をする動物は、伊勢詣での目印として、飼い主や住所を書いた木の名刺を首にかけていた。
不思議にも、動物による神宮詣での中に猫や猿は存在しない。
根岸肥前守(江戸町奉行)「犬が伊勢参りするのは珍しくもなんともない。しかし最近、伊勢からの知らせによると豚が伊勢参りをしたそうだ。これは珍しい」(『耳袋』)
暁鐘成(大阪の犬研究家)「最近、豚が伊勢参りしたという噂を聞いて嘘だと私は思っていたが、とうとう御札や旅銀を身に付けた豚が通った」
・ ・ ・
手紙事件。ハンガリー人ベニョヴィスキーは、「ロシアが日本の領土を狙っている」という偽情報をオランダ商館長に知らせた。
幕府は、偽情報を信じて、ロシアの脅威に恐怖して警戒を強めた。
・ ・ ・
1771年3月10日午前8時頃 明和の地震、大津波。八重山諸島東方沖海底で推定マグニチュード7.4〜8.7の大地震が発生した。
大津波が、先島諸島と八重山諸島を襲い甚大な被害をもたらした。
大津波による宮古・八重山両列島の被害は、死者・行方不明者約1万2,000人、家屋流失2,000戸以上
八重山全体で人口の3分の1にあたる9,313人が犠牲となった。
石垣島では、震源地側の島東部と南部の被害が甚大で、東南端の白保地区は住民1,574人のうち生存者は28人で残りは津波にさらわれた。
翌72年 大量の海水を被った耕作地は塩害で農作物の生産が激減し、飢饉が発生して多くの餓死者を出した。
環境衛生が極度に悪化し、伝染病である「疫痢(イキリ)」の流行は石垣島の白保村から始まり八重山諸島にも広がり多くの病死者が出た。
八重山では、地震・大津波の影響による飢餓と疫病で人口が減って回復せず、明治時代初頭の人口は地震前の1/3程度にまで減少していた。
・ ・ ・
1772年 行人坂の大火。
田沼意次は、相良藩5万7,000石の大名に取り立てられ、老中を兼任した。
田沼意次は、幕政改革として、米による年貢では肥大化した幕府の財政は支えきれないとして、国内商業の開拓と海外交易の促進を推進した。
交易を行う為には、祖法である「鎖国令」を改め「海外渡航の禁」と「大型建造禁止令」を廃止する必要があった。
密かに、オランダ商館長チチングに外洋航海用大型船を造れる船大工の派遣を打診した。
商品・貨幣経済への移行で大金を手にした豪商らは、幕府に運上金と田沼に賄賂を送った。
田沼は、賄賂を懐に入れる事なく、将来投資として蝦夷地探索や印旛沼干拓や河川改修工事の費用として注ぎ込んだ。
その日その日の生活に困窮する庶民は、豪商から賄賂を取る田沼を憎んだ。
儒教的身分制度に拘る保守層は、身分低い者を登用したり、金儲けをする卑しい商人と金勘定する悪徳・田沼を失脚させ、御政道を米中心の正しい姿に戻すべく陰謀をめぐらせた。
第一回ポーランド分割。ロシア帝国・オーストリア帝国・プロイセン王国の三国は、王位継承権の内紛で混乱していた選挙王政のポーランド王国に介入して領土を獲得した。
田沼意次は、年貢米を本にした旧来の財政では幕府は立ち行かなくなる事が分かっていただけに、商業を新たな財源として、国内だけではなく国外との交易を考えていた。
商業蔑視の朱子学を信奉する保守派は、農業重視の祖法を破壊しようとする田沼の商業重視政策に嫌悪感を抱いていた。
だが。日本は、朝鮮や中国と違って、上から圧力を加えて政治を行う朱子学の理想が通用しない所まで、百姓・町人ら庶民の経済的上昇志向が高まっていた。
江戸は、今だ田沼の行財政改革を受け入れる所まで達していなかった為に、祖法重視の朱子学信奉者によって田沼の商業促進による税制改革は潰された。
・ ・ ・
1773年 ローマ教皇クレメンス14世は、イエズス会解散令を出した。
中国のイエズス会は、教皇書簡を受け取り、今後はパリ国外宣教会やフランシスコ会などの支持を受けた。
イエズス会による中国布教は後退し、再開されるのは1842年以降である。
イギリスは、相次ぐ国外戦争で財政難となり、アメリカ植民地に対して過酷な課税を行った。
アメリカ植民地は、東インド会社がイギリス本国から茶の独占専売権を手に入れた事に腹を立て、ボストンで暴動を起こした。ボストン茶会事件である。
・ ・ ・
江戸の庶民信仰 年中参詣・行事暦・落語 (大江戸カルチャーブックス第10巻)
- 作者:山路 興造
- 発売日: 2008/10/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)