関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
皇太子継宮明仁親王(当時、11歳。平成の御代の今上天皇)の日記
『新日本の建設』
「昭和20年8月15日、この日、我が国3000年の歴史上初めての事が起きました。そしてこの日が日本人に永久に忘れられない日となりました。畏れ多くも天皇陛下が玉音で米英支ソ四ヵ国の宣言を御受諾になるという詔書を御放送なされました。私はそれを伺って非常に残念に思ひました。無条件降伏といふ国民の恥を、陛下御自身で御引受けになって御放送になった事は誠に畏れ多い事でありました。
今度の戦で我が忠勇な陸海軍が陸に海に空に勇戦奮闘し、殊に特攻隊は命を投げ出して陛下の御為笑って死んで行きました。又国民も度々の空襲で家を焼かれ、妻子を失っても歯をくいしばってがんばりました。この様に国民が忠義を尽くして一生懸命に戦った事は感心な事でした。けれども戦いは負けました。それは英米の物量が我が国に比べ物にならない程多く、アメリカの戦争ぶりが非常に上手だったからです。初めの内は準備が出来なかったので敗戦しましたが、ざ準備が出来ると猪武者の様な勢いで攻めて来ました。その攻め方も上手でなかなか科学的でした。数百隻の軍艦、数千機の飛行機、数万トンの爆弾を以て攻めて来ました。遂には原子爆弾を使って何十万という日本人を殺傷し、町や工場を破壊しました。それで我が海軍はほとんどなくなり、飛行機を作るアルミニュームの製産も18年頃に比べて4分の1に減って大事な飛行機が作れなくなり、遂に戦争が出来なくなりました。その原因は日本の国力が劣っていた為と、科学の力が及ばなかった為です。それに日本人が大正から昭和の初めにかけて国の為より私事を思って自分勝手をしたために今度の様な国家総力戦に勝つ事が出来なかったのです。
今は日本のどん底です。それに敵がどんな事を言ってくるか解りません。こからは苦しい事辛い事どの位いあるか解りません。どんなに苦しくなってもこのどん底から這い上がらなければなりません。それには日本人が国體護持の精神を堅く守って一致して働かなければなりません。日本人一人とアメリカ人一人を比べれば、どんな点でも日本人の方が優れています。唯団体になると劣るのです。そこで此からは国體訓練をし科学を盛んにして、一生懸命に国民全体が今よりも立派に新日本を建設しなければなりません。殊に国が狭くなったので、此からは農業を一層盛んにしなければなりません。それが私達少国民の役目です。
今までは、勝ち抜く為の勉強、運動をして来ましたが、今度からは皇后陛下の御歌の様に、次の世を背負って新日本建設に進まなければなりません。それも皆私の双肩にかかっているのです。それには先生方、傅育官の言う事をよく聞いて実行し、どんなに苦しさにも堪え忍んで行けるだけの粘り強さを養い、以て最としっかりして明治天皇の様に皆から仰がれるようになって、日本を導いて行かなければならないと思います」
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1945年8月 宇都宮連隊内の抗戦派は、降伏と武装放棄を拒否し、日光に疎開していた明仁皇太子を拉致して会津若松に立て籠もって本土決戦を行うという叛乱計画を立てた。
皇太子の侍従達は、万一の場合は、皇太子を連れて奥日光の山岳地帯に逃げ込み、群馬県の沼田から前橋方面に逃れる計画を立て、準備に取り掛かった。
宇都宮連隊の暴発はなかったが、同様の事例は全国の陸海軍部隊で起き、混乱を極めていた。
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2012年 韓国大統領は、今上陛下に対して、訪韓するなら昭和天皇暗殺に失敗して処刑された朝鮮人テロリストに謝罪すべきであると発言した。
韓国世論は、自国大統領の反天皇的発言を、勇気ある発言であるとして支持した。
韓国マスコミは、日本国民の統合的象徴である天皇を「日王」と蔑称で呼び捨てにして、他国の君主への外交的礼儀を完全に無視している。
韓国の権威ある歴史関係者達は、天皇の祖先は朝鮮の下層階級出身者であると軽蔑し、東アジア世界では自国に存在した国王よりも下位の存在であると公言している。
韓国人・朝鮮人は、日本人が命を犠牲にして守ろうとした天皇に対して一片の礼節を持つ事はないし、日本人が如何に天皇に畏敬の念を抱いて敬愛しているかも理解する事はない。
歴史的事実として、韓国人・朝鮮人と日本人は、中国人と日本人同様に水と油の様に幾ら話し合っても理解し合う事はありえない。
相互理解は、金銭的な利益を伴った政治的産物としてあっても、感情的にはあり得ない。
お互いの立場や考え方や価値観を確認し了解し合う事は出来ても、心の底から理解し合う事は出来ない。
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だが。そうした非日本文明的天皇観は、韓流ブームと共に現代日本人の間でも滲透し始めている。
現代の日本人は、東アジア人化・中国人化と共に、昔の日本人とは別人の異質な日本人となりつつある。
韓国人・朝鮮人と中国人は、歴史や文化からして同根である。
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天皇家・皇室が、日本人ではなく、朝鮮人であるとかユダヤ人という情報がインターネット上を駆け巡っている。
そうした怪情報を真に受けて信じ込んでいる日本人が、若者を中心に増え始めている。
現代の若者の間には、天皇や皇室への関心が薄れ始めている。
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横山大観「気魄と人格の拠り所は、私達が日本人だといういう意識を持つ事、それ自体の中にある。国粋主義とか、民族主義とかいう考えより、もっと深い所にある『日本人であるのだ』という個性を腹の底から認める事だ。私が絵を描く自信も喜びもここに根ざしている」
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2014年 PHP研究所『ボイス』6月号
小川榮太郎
「保守とは何か
考へ、戦ふ作法
我が国は今や歴史上経験した例のない程深く、ボロボロになりつつある。
だから、我々もかつて存在したことのない種類の日本人にならなければならない。
『感覚』とイズム
保守主義を英語で言えばコンサーヴァティズムです。
……
保守政治思想の研究が皆無
フランス革命の時、革命への幻想的な賞賛に溢れていたヨーロッパ知識社会に強い警告を与えたエドモンド・パークの『フランス革命の省察』が、今日まで、イギリス保守主義の古典とされ、規範とされてきた。この本は、伝統社会の緒を断ち切る革命の野蛮性と危険性、イギリスではそんなことを起こす必然性が全くない理由を解明したものであす。
人間には、進歩や革命的な変化への抑えがたい衝動がある。そもそも、人類は、男性性が、破壊と創造といふ形で、本能の外にはみ出してゆくことによって、他の生物群から離脱した。この進化創造への衝動を否定することはできない。だが、変革や進歩は、必ず破壊や喪失をも伴う。事を起こす前にはバラ色に見える革命も、やってみた後には、寧ろ生じる副作用や疲弊の大きい事がしばしばだ。パークは言ふ、『〝美徳なき自由〟とはいったい何でしょうか。それらはすべての害悪の中で最大の害悪です。悪徳です。狂気です』
パーク以降、イギリスの保守主義は、19世紀から20世紀にかけて、革命の夢が共産革命となり、平等への希求が全体主義へと形を変へ猖獗(しょうけつ)を極める中、常に、それらへの理論的な反論として成熟し続けた。革命理論との、絶えざる理論闘争が土台となって、200年にわたり、近代という革命と進歩の時代、過激な変化を歓迎する世界的な潮流の中で、イギリスは革命を起こさず、王室を守り、父祖伝来の国のあり方を崩さぬまま、国のあり方を少しづつ改良してゆく漸進主義を成熟させ、さうした政治や国民精神を維持してきた。今となっては、超大国としての地位こそ過去のものになった。が、寧ろ、超大国から転落したにも拘わらず、今に至るまでいじされているその隠然たる国威、揺るがぬ威厳と自信の方こそ、注目せべきでせう。
要するに、イギリスがこの漸進主義と、それによる安定的な国威を保持し得たのは、理論と実践双方での、革命思想との絶えざる対決によって、多年、土台を更新し続けてきたからだ。……
日本では、そもそも、アカデミズムで保守政治思想の研究が皆無に近いまま今日に至っている。日本の政治思想研究は、今に至るまで、フランス革命かマルクス主義の系譜を引く大陸政治思想の研究に極端に偏重している。
この二つに加へ、近年ではアメリカの政治思想が輸入されているが、アメリカの政治思想も、建国当時の保守主義から大きく逸脱し、左翼と原理的に過激化する保守との間を激しく揺れ動いている。
そうした社会を不安定化する政治思想ばかりが好んで輸入される一方、我が国の政治学は、日本の政治思想史や政治的現実から自前の政治学を組み立てる努力がまるでなく、又、日本の政治風土に最も近いモデル理論となる筈(はず)のイギリス保守主義の研究伝統もない。
これまでは日本の保守主義が理論的に成熟しないのも無理はありません。アカデミズムな土台がないから、思想史としての保守主義が共有されていない。史的な共有がなければ、イズムの積み重ねも行はれない。理論形成もなさない。アカデミックな人材育成がゼロなのだから、エリート層に保守思想が定着する筈もなければ、具体的な政策や戦略を生む知的階層も形成されない。霞ヶ関の頭脳に保守主義の理論は全く入っていないのだから、保守政治家が総理になっても、個々の政策にはどんどん保守主義とは相反する政策が混入し続ける。マスコミや出版界にも保守の理論をきちんと踏まへた人材は殆どいない。精々いるとして、保守の『感覚』を共有しているという所までだ。保守思想を専攻した保守系言論人の存在も希求で、良質の啓蒙書も殆ど世に出ない。
……
日本は元来が保守的な社会
……
日本は元来が保守的な社会である。四囲の海が、物心ついて以来の我が国を、大陸の影響から、やはらかく守る続けてくれた。外からの軍事的な侵入、侵略は殆どなく、思想や学問は、充分咀嚼できる距離感を以て輸入できた。仏教による古神道の破壊といふ事は言われるが、寧ろ、神仏習合の歴史を辿ってみれば、仏教によって神道の自覚は深まり、豊かにされてきたと言ってもいいでせう。何よりも、キリスト教やイスラム教といふ一神教に殆ど晒されず、それらに起因する伝統破壊が全くなかった。案外指摘されないことだが、これは世界史でも稀な事例だと思ふ。数千年にわたって、いかにも穏やかに己の国柄を育てることができたのが、日本文明であった。
有史以降一つの王朝が存続為たのも世界史の例外と言へる。民族の自発的総意として権力を失った王朝を1千年以上にわたり守り、最高権威として尊重してきた、これ程保守的な民族はあるまい。文化も政治制度もさうです。漢字といふ文字が入り、更に、仏教、儒教、支那の国制が輸入されるが、いづれも少しづつ日本流にこなし、決して唐来物に文化的主導権を手渡さなかった。
……
要するに、日本の場合、外来思想が全面的に取り入れられるやうに見えても、それは、観念論として成長して日本古来の思想や国のあり方を原理的に変革したり、政治的な秩序解体を起こしたりはしなかった。対立せずに受容するが、入れた後には自己流にこなす。その過程は往々にして無自覚であり、時間の流れに任せながら、気づくといかにも日本的な立ち姿に仕上がっている。自前の極めて高度な文学史と思想史を持つ──この意味で、日本は、支那の周辺民族といふより、自前の文明圏と見るべきです。日本が支那の付属文明だなどと言ひめたら、ではヨーロッパはユダヤの周縁文明なのか、といふ話になってしまふ。が、そんな言ひ争ひが仰々しく聞こえる程、とにかく日本はやわらかい。
日本人は、殆ど自然宗教のやうに保守気質と保守的な方法論を身に付けている民族である。
外来の意匠を着こなさねば滅亡する非常事態
ところが、この伝来の自然的な保守気質では対処できない事態が起きました。言ふでもなく、欧米からの開国要求です。外来の暴力から適度な距離感を置いてゆったり成熟してきた日本は、突如、帝国主義と科学技術と成長経済で沸騰する力の坩堝に、準備なしで飛び込まざるを得なくなった。それまで自分の速度で外来の文明と思想を消化してきた我々が、瞬時に外来の意匠を着こなさねば、滅亡するといふ非常事態に遭遇した。
今までのやうな無自覚な保守気質では切り抜けられない初めてのケースです。ちょんまげを切り、和服を脱ぎ、刀を捨て、儒仏を排し、郷里を忘れ、美しい都市の景観をぶち壊した。日本固有の倫理観や美意識とは正反対の『富国強兵』を国策として、選択した。それまで『武士は食わねど高楊枝』と言っていたのが、富むことがいいのだといふエートスを国として選ぶ、これは今では想像も付かない程、面倒な心理的事件だった筈です。『武士道とは死ぬことと見つけたり』という美学を捨て『強兵』を国策とした。死んでしまったら『強兵』ではない。『強兵』といふのは自分が死ぬ美学ではなく、敵を容赦なく殺す思想である。かうして、武を美学にした士は消滅し、無数の敵を殺す兵隊が生まれた。
つまり明治維新とは、天皇に国政の大権をお戻しするという意味では、確かに日本本来のあり方への回帰ですが、その時、同時に敢行されたのは、日本人の在り方、生き方の大胆な切り捨てであり、転換だったのです。
戦前の日本には、少なくとも今我々が言ふやうな保守主義の政治思想はありません。富国強兵といふ一線に、基本思想は全国民が一致していたからです。西南戦争で、西郷隆盛が一気に過去を葬ってくれた後は、遮二無二進歩に国の運命を賭ける以外道はなかった。進歩と保守の思想的対立が生じなかったのではなく、そんなものを生じさせては国は亡びるといふ深い合意が、国家有為の人材の間に共通してあった。政府と野党、言論界は、進歩を競ひ合った。
鍵となったのは、和魂洋才といふ発想です。折衷主義のつまらない合言葉だ、『和魂』の実体がないなどといふ批判もあるが、さう馬鹿にしたものでもない。洋才に割り切って突っ走らねば国が間に合わない、だからこそ、和魂を合言葉にした。なかなか含蓄深い智慧ではないかと思ふ。
文学の場での保守的なエートス
イギリスの保守主義は、先ほど述べたやうに、フランスの革命思想からイギリスの国柄を守るといふ自覚から始まりました。ところが明治維新は、日本の在り方を、自ら否定して、革命しなければ国が持たないといふ事態の中で成立した。その革命を成就する事でしか、日本は守れず、日本が守れなければ和魂を守りやうもありません。革命=洋才を大胆に選択することと、大和魂を守る事は一体、思想的にも政治的にも、対立しあってはどちらも潰れてしまふ。つまり、革命的な変革そのものが日本の保守だった。だから、心得は、日本精神を忘れないといふ一言で足りた、少なくとも維新第一世代の日本人まではそうだった、それが和魂洋才でした。
従って、日本の本来のあり方を破壊する外来思想や政治活動から日本を守るといふ、イギリスの意味でのコンサーヴァティズムは明治の日本にはありません。強い国を創ってゆくという目標に一丸となっている時に、喪はれてゆくものを思ふ余裕はない。国柄が揺らぐ危機以前に、国家の存亡が危険に晒されている。必要なのは保守思想ではなく、強い国になることそのものだった。
日本人は多年に渡り、殆ど無自覚に保守的な『感覚』により豊かな国柄を育て続け、明治維新になると、保守によってではなく進取によって国柄を守る、自分で自分の過去を断ち切ることで、寧ろ日本であることを積極的に守らうとした。つまり、世界一保守的な民族であるにも拘わず、我々はこの段階まで、イギリス流のイズムとしての保守を一度も必要としなかったのです。
第一次世界大戦と前後して、かうした明治の精神は終焉します。
それまで手本にしていたヨーロッパ自身の自信喪失、ロシア革命の成功とコミンテルンの世界侵略、日本経済の相次ぐ恐慌の中、日本では、左右の革命思想が、知識人、軍人の中に、浸透し初めたのです。
ところが、ここでも保守思想は成立しなかった。戦前の日本では左翼は官憲が取り締まった。思想としての保守が左翼を理論的に否定する前に権力がこれを抑へてしまったのです。一方、右翼は少壮軍人と結託して、輿論を誘導し、仕舞には事実上、国政を簒奪する。和魂の追求がより成熟した保守思想になる前に、怒声と共に、権力そのものと化してしまった。かうして、ここでも又、思想としての保守は成熟する機会のないまま、大東亜戦争を迎へる。
寧ろ、大日本帝国下では、政治や思想の領域ではなく、文学の中で、日本の保守的なエートスは、静かに成熟し続けた。……
つまり、文学といふ静かな場で、保守の『感覚』が近代的な意匠の下で成熟する一方、思想と政治の世界は、左右の全体主義の怒号に引きちぎられ続けた。それが昭和戦前でした。
共産化はさせないといふ危機感
日本で保守主義が政治思想上の概念として明確に打ち出されるのは、従って、戦後に入ってからです。GHQのプレスコードによって戦前の価値観が一切否定され、同時に知識階級が雪崩を打って共産化してゆく。新聞、雑誌、書籍から学校教育、大学の先生まで、その主流が共産主義者やそのシンパに占拠されてしまふ。
QHQによる日本否定と、左翼言論の猛威が吹き荒れたのが、戦後日本の精神的な風景でした。そうした風潮の中でいよいよ日本でも知的な保守主義の営みが必要になった。今でも著名なのは、昭和29年、福田恆存の『平和論の進め方についての疑問』といふ雑誌論文に端を発する平和論論争でせう。
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日本の保守は、かうして、左翼の思考停止を撃つことから育ち始めまぢた。絶対的な少数派だった。が、当時の保守派には、極めて重大な責務がありました。左翼全盛の日本を、とにかく共産化だけはさせないといふ目標です。平たく言へば、日本をソ連の属国、つまり共産国にしないといふ事だ。社会党が政権をとったら、ソ連の魔手が日本に伸びるのは確実だった。アメリカは無論黙っていない。日本を戦場にした第二の朝鮮動乱は確実に起きたでせう。
この危機感が、日本の戦後保守主義の原点です。
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あの頃、政治家どころか、言論人さへ、命を張るといふ覚悟の上で、日本を共産圏から死守した。逆に言へば、多勢に無勢、防戦に精一杯で、当時の保守派言論界は、保守を理論化したり、歴史叙述を通じてマルクス史観に対抗するやうな余力はなかった。また、戦後左翼の空想的平和主義の馬鹿馬鹿しさや憲法死守論の理論的低級さへの油断も、多分にあった。日本人の保守気質、庶民の手堅い常識感覚への過信もあった。江藤のやうに保守を『感覚』と云ってしまふのも、さうした日本人への過信の現れでせう。
以上を要するに、第一に日本民族は、古来、自然気質として、保守的傾向が強く、又、恵まれた歴史の中で、自国の伝統を創造し続けられた事だ、日本で、保守の理論化が進まなかった根源的な原因である。
第二に、大日本帝国時代には、保守思想が成立する意味も余地もなく、国民一丸となって富国強兵に専念する一方、戦後初めて左翼への言論上の防御が必要となった時には、防戦一方となり、ここでも保守の理論化は進まなかった。
それに加へて、アカデミズムが保守思想の研究に全く取り組んでこなかった。
保守派の油断。
かうして、日本独自の保守思想が生まれる事のないまま、ソ連の崩壊により冷戦が終わりました。日本は赤化から、何とか逃げ切れた。ところが、今度はその事が日本の保守派を、又、油断させてしまった。
冷戦が終はった後、我々は、戦後左翼の理論と組織を徹底的に検証すると共に、今こそ、日本に安定した保守思想が定着する理論的な努力を開始すべきでした。そうすれば、冷戦終結といふ根本的な国際秩序変更によって新たな敵が出現しつつある姿が見えた筈だ。その敵とは何か。国内に残存して偽装転向した旧左翼達であり、新たな国際社会そのものです。ソ連が崩壊したからと言って、国内の隅々に行き渡った左翼人脈や左翼イデオロギーが消えるわけはなかった。
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我々は、絶えず目の前に出現する小さ過ぎる問題を針小棒大に論じ続けてしまった。日本型経営の放棄、ジェンダーフリー、公務員改革、構造改革、郵政改革、地方分権、マニフェスト選挙──極めて内向きな上、形を換えた左翼政策だらけだ。さうした問題がさも正義と進歩と問題解決の決定打のやうに立ち現れ続けた。が、これらの『改革』には歴史的文脈も国際社会に於ける新たな日本像の提示もなく。戦略性もない。
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自覚的に戦ふ日本人といふ存在
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日本は世界史上最も豊饒な保守の王国でした。保守的である事と創造的であることが余りに自然に歴史になじんできた。その無自覚な高度さ故に、近代以後、外敵と暴力に対して無防備過ぎた。その輻輳(ふくそう)する暴力により、我が国は今や、歴史上経験した例しのない程深く、ボロボロになりつつある。だから、我々も又、かって存在したことのない種類の日本人にならねばならない。日本を守る為に、思想においても戦略においても、自覚的に戦ふ日本人といふ存在に」
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アンドレ・マルロー「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは、世界のどんな国も真似できない特別攻撃隊である。スターリン主義者達にせよナチス党員にせよ、結局は権力を手に入れる為の行動であった。日本の特攻隊員達はファナチックだったろうか。断じて違う。彼等には権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂う貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり逆上と紙一重のフェナシズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。
戦後にフランスの大臣としてはじめて日本を訪れた時、私はその事をとくに陛下に申し上げておいた。
フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人のなかには、特別攻撃隊の出撃機数と成果を比較して、こんなに少ない撃沈数なのになぜ若い命をと、疑問を抱く者もいる。そういう人達に、私は何時も言っている。『母や姉や妻の命が危険に晒される時に、自分が殺されると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのを黙って見過ごせるものだろうか?』と。私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着も全てを乗り越えて、潔く敵艦に体当たりをした特別攻撃隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである」
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- 作者:加瀬 英明
- 発売日: 2008/09/19
- メディア: 単行本