💎13)─2─生前退位(譲位)を放置して来た無責任な政治家や官僚、そして日本人達。~No.40No.41No.42 @ 

天皇霊と皇位継承儀礼

天皇霊と皇位継承儀礼

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2016年9月号 WiLL「天皇の『生前退位』」の衝撃!
 渡部昇一 ……長期的に考えなければならないのは、王位継承権を持つ方が高齢により現在ほとんどいなくなっていることです。皇位の継承は、①『種』の尊さ、②神話時代から地続きである──この2つが最も重要です。
 歴史的には女帝も存在してましたが、妊娠する可能性のない方、生涯独身を誓った方のみが皇位に就きました。種が違うと困るからです。たとえば、イネやヒエ、ムギなどの種は、どの畑に植えても育ちます。種は変わりません。しかし、畑にはセイタカアワダチソウの種が飛んできて育つことがあります。畑では種が変わってしまうのです。
 混同されやすいのですが、女性天皇女系天皇は意味が違います。男系は『種』を重視しますが、女系は『畑』を重んじる考え方。女性天皇の配偶者が皇族の人なら『男系の女帝』、民間人であれば『女系の天皇』となります。皇室は男系であることを守り続けてきた。
 皇室にも紆余曲折の歴史があり、男系が途絶えそうになることも度々ありました。その場合は臣籍降下をした元・皇族に皇室に復帰してもらうのです。
 今上天皇は125代目ですが、今から約1500年前に即位した第26代継体天皇は先代の武烈天皇とは10親等も離れた皇族でした。男系の種を継続することがいかに大切で尊いかということです。
 戦国時代には皇室は微力になりましたが、それでも種が継続していることによって奉(たてまつ)られたのです。徳川時代の皇室の知行高(ちぎょうだか)は3万石から4万石といわれてます。それに対して、時の将軍は600万石から800万石でした。それでも天皇の勅使が来ると将軍家はひじょうに緊張した。元禄忠臣蔵吉良上野介は勅使接待の責任者でした。
 種には資産の大小に関係がありません。種の尊さというのはそこにあると思います。それさえ守り続ければいいのです。
 今は悠仁殿下がおられるので問題ありませんが、その後にはあるいは愛子さまに皇后になられる道もあるでしょう。皇室から離れている男系を皇室に戻して、その方の皇后になる道もあります。しかし、愛子さま天皇になり配偶者が民間人であれば、男系の歴史が途絶えてしまいます。それは日本の歴史上、類を見ないことです。それをしなかったから天皇制は続いてきたのです。
 世界を見渡してみれば、神話時代から現代の皇室まで地続きなのは日本だけです。どの国も王室の歴史は神話から切り離されています。
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 加地伸行 ……つまり退位規程などないほうが皇室にとって安全なのである。
 ⑥ いや、皇室だけではない。日本国にとっても安全なのである。なぜか。
 天皇が存在し、権威があり、明記されてはいないものの元首であることによって、一般人は、いかなる者もその地位に立つことが出来なかった。これは日本において独裁者が出現できない制約となっているのである。日本国では、首相は政治上の最高権力者ではあるものの、天皇を越えることはできない。天皇の存在は、独裁者出現の抑止力となっているのである。これは得難い抑止力であり、どの国も真似ることができない。
 世界的に見て、日本が安定して安全な国家であるのは、独裁者が出ようにも出られないからである。そういう意味で、天皇、広くは皇室に存在感がある。これをわれあれ国民は大切にしなくてはならない。……」
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 9月号 Hanada「陛下の『ご譲位』をどう受け止めるべきか 高森明勅
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 だがその一方で、これまでの陛下のなさるようから考えると『さもありなん』との感慨を抱くのも事実である。よく知られているように、陛下は何事にも手を抜かない。国事行為でも、ご公務でも、祭祀でも同じ。すべてに全身全霊で取り組まれる。
 『天皇とはいかにあるべきか』『象徴とはいかにあるべきか』──陛下はそのことだけを生涯にかけて、真摯に誠実に、脇目も振らず、ただ真っ直ぐに追求してこられた。
 そのご姿勢を支えてきたのは強烈な使命感であり、厳粛な責任感にほかならない。
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 望ましい天皇
 まずと『象徴』いう立場の至難さについて、私どもは改めて肝に銘じておく必要がある。
 天皇といえば普通、ただちに『象徴』という言葉を連想する人が多い。憲法の第一条に『天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴』と既定してあるのだから、当然と言えば当然だろう。だが、生身の人間が『日本国』や『日本国民統合』の〝象徴〟として振る舞い、暮らさねばならないということがいかに困難であるか。そのことを改めて想像してみようとする人は、ほとんどいない。
 その数少ない例外の一人が福田恆存(つねあり)氏だった。氏は以前、このように指摘していた。
 『天皇の身になってみれば、自分を認める者と認めない者……相反する両者の象徴というふ性格を作り上げ……行動せねばならず、さもなければ『日本国民統合の象徴』と言へない。さういふ事を一個人の天皇に期待するのは、天皇を『元首』以上に神格化する事ではないでせうか。さもなければ、これは正に人権無視の拷問であります』(初出は昭和40年)と。
 さすがにすぐれた洞察力と言わねばならない。『朝日新聞』などが『天皇の〝元首化〟反対』などと見当違いで自閉的な(世界中の国々はとっくに天皇を元首として遇している!)スローガンを掲げていたのを尻目に、憲法が定める『象徴』こそ『「元首」以上に神格化』だし、『人権無視の拷問』と喝破している。
 たしかに、天皇にはあらゆる自由が認められない。国民一般に保障されている権利も全面的に制約されている。選挙権・被選挙権がないのはもちろん、表現の自由、居住移転の自由、職業選択の自由、外国移住・国籍離脱の自由、プライバシーの権利などが、原則として何一つ与えられていないのだ。さらに、どんなに〝私的〟な場面でも、常に『象徴』たるにふさわしい行動を求められ続けている。およそ想像を絶したご不自由このうえないご境遇と言えよう。
 だが、天皇陛下はそうした苛酷ともいうべきご生涯を、自ら受け入れて下さった。改めて、陛下ご自身のお言葉を想起しておく。
 『日本国憲法には、皇位世襲のものであり、また、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると定められています。私は、この運命を受け入れ、象徴として望ましい在り方を常に求めていくよう努めています。したがって、皇位以外の人生や皇位にあっては享受できない自由は望んではいません』(平成6年6月4日)と。
 ならば、陛下にとって『象徴としての望ましい在り方』とは具体的にどのようなものだったか。その回答を、私どもは陛下ご自身のこれまでの実際のご行動によって知ることができる。
 たとえば、被災地へのお出まし。現代の日本人は、大規模な災害があれば陛下のお出ましを仰ぐのが当然のような感覚になってきている。だが、これは皇室の長い歴史のなかでも初めてのこと。今上陛下の強いお気持ちによって始まった。それが被災地の人々にどれだけ大きな慰めと励ましを与えたかは、改めて言うまでもあるまい。また陛下は戦跡を訪ねて、沖縄や硫黄島などのほかに、海外にまでお出ましになっている。これも、これまでの皇室の歴史に全く前例がないことだ。筆舌に尽くしがたいご負担を伴うこの行為が持つ意味についても、ことさら言及するには及ばないだろう。
 さらに、国内に14あるハンセン病療養所の全施設の入所者と直接、お会いになり、手を握り、お声をかけて励ましてこられた。どれだけ過大なご負担になろうと、『公平』の観点から〝全施設〟の人々とお会いにならねばならぬ、と固く心に誓っておられたに違いない。
 以上は、ごく一端にすぎない。だがこれらだけからも、陛下はさまざまな形で辛く悲しい思いをしている人々に、とりわけお心を寄せてこられたことが窺える。あるいは、政治や法律だけでは『届かない』人々の苦しみに対して、懸命に手を差し伸べ続けてこられた。こそが、陛下にとって天皇の『望ましい在り方』だったのだろう。
 ところがご高齢のため、ご自身が十分に納得できる形でそうしたお務めができにくくなったと自覚された時、自ずと『譲位』という選択肢が浮かび上がったのではないか。天皇としてのご矜恃(きょうじ)にかけて。
 摂政でなく『譲位』
 然るに近代以降、譲位の可能性は全く排除されてきた。その理由は何か。これについては、以下のような明快な説明がある。
 『天皇以外に存世の先帝の存在されることは、長いいくたの歴史の実績によって見るに、国民精神の統合といふ点から、はなはだしく制度的に好ましくない……天皇が即位されるといふことが、もともと私的自由意思に基くものではなく、皇祖皇宗の意思に基き、御自身のためでなく、日本国のためになされる行為である。それがただ一私人と同じく、皇祖皇宗の意思でもなく、日本国のためでもなく、御自身のために退位なさることは、論理が立たないことになる』(皇室法研究会『現行皇室法の批判的研究』)。
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 唯一の『自由』
 このたび、陛下の生前退位のご意向が明らかになり、多くの国民が驚いた。しかし、陛下はそこまで真剣に『天皇』という途轍もない重いお立場を背負い続け、その尊厳を傷つけまいと必死のご努力を続けてこられたのだ。その年齢的、身体的な極点が見え始めた時、皇位の神聖さを守り抜くために、その輝きをわずかでも衰えさせないために、静かに譲位をお考えになったのではないか。
 改めて振り返ってみると、私ども国民は、これまで天皇陛下はじめ皇室の方々の沈黙のご努力とご忍耐に、一方的に甘えっぱなしだったのではあるまいか。……」
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 2016年8月30日号 エコノミスト天皇憲法
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 現代天皇の権威の源泉
 象徴を体現する『生き方』 橋場義之(元毎日新聞東京社会部皇室担当記者)
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 公的行為に象徴の姿
 天皇の務めとして憲法が規定する国事行為は、お言葉を述べ、書類に判を押すなど、定められた枠や形の中で形式的、儀礼的に行うものがほとんどだ。そこに個性を反映させることは難しい。一方で、天皇の行為には『公的行為』もある。これは『象徴という地位に基づいて公的な立場で行われるもの』などと解釈されているが、特段の具体的な既定はない。象徴の姿を具体的に国民に伝えたいと思えば、この『公的行為』の中に見出そうとしても不思議はない。『国民と同じ目線』は、同じ時代を生きる者として大事にする価値観を国民と共有することにつながる。男女平等などの人権感覚、全国各地や被災地訪問による国民との直接の触れ合い、家族同居や自らの手による子育てなど新しい家族像の率先、天皇と皇后は一体であり、常にともに考え、可能な限りともに行動する──。
 父性に通じる栄典の授与
 87(昭和62)年秋のことだった。昭和天皇が病気のために天皇としての務めを果たしにくくなっていることが明らかになっくると、国事行為の委任の時期と、その方法が『摂政』か『臨時代行』なのかが焦点となった。昭和天皇の側近である侍従の一人に取材をした際、侍従から逆に質問された。
 『憲法の国事行為のうち、陛下が絶対手放したくないと思っていらっしゃることは何だと思いますか』
 憲法で6条から7条にかけて12項目の国事行為が定められている。いずれも形式的、名目的なもので、国政にはかかわらない。その中で『天皇として一番大事にしているもの、こだわっているものは何か』というのだ。答えに窮していると、侍従はこう教えてくれた。
 『栄典の授与ですよ』
 栄典の授与とは、文化勲章や大綬章などを与えることだ。国民の仕事を通じての国への貢献度を評価する。『これを天皇の名で行うことが、天皇の権威の源とお考えなのです』と解説してくれた。受賞者を選ぶのは内閣だが、選ばれた人の実績に関する書類にはことさら入念に目を通していたという。
 国事行為の委任は、憲法4条で『天皇が行う国事に関する行為は、法律の定めるところにより、委任することができる』とし、『国事行為の臨時代行に関する法律』が定められている。また憲法5条では『皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行う』としている。
 前者は委任期間が過ぎれば天皇は公務に復帰するが、後者は、重篤な疾患の場合には人事不肖も想定して摂政が実質的に天皇として国事行為を行うことになる。
 このとき選択されたのは『臨時代行』だった。病気療養に伴い87年9月22日から亡くなるまで、国事行為『全般』が委任されたが、手術入院した88年10月からの一時期だけは、委任を除外する一部の権能に『栄典の授与』が含まれた。つまり、昭和天皇が自身で行うことになっていたのが。
 大日本国憲法下の戦前は『国の元首、統治権の総攬(そうらん)者』、そして戦後の新憲法下で国と国民統合の『象徴』となった昭和天皇は、一人の中に相異なる『天皇像』を抱くことになった。皇后や家族のあり方にしても、天皇はかつての日本の家族の形である『家父長制』の体現者であり、皇后は一歩下がった存在としてあり続けた。戦前の『恐れ多い』イメージが残りながら『象徴』となっても、権威の源泉は『栄典の授与』にあるという強い思いを見せた。
 変わる権威の源泉
 天皇の権力と権威は、平安から明治まで武家との力関係の中で振り子のように揺れ動きながら変遷してきた。時代によって違いはあるものの『持ちつ持たれつ』の関係が続きながら、徐々に武士に奪われていった。
 それを法的に明確化したのが、『禁中並公家諸法度』の制定だった。天皇の務めは諸芸能にあり、中でも学問が第一とし、天皇の持つ栄典授与権である紫衣(しえ)の勅許などにも干渉し、自由にさせなかった。天皇は政治に関せず、学問・文化の〝パトロン〟的存在としてのみ、その権威を維持する存在とされた。明治の憲法では権力と権威を併せ持つ〝強い〟天皇制が復活。しかし、第二次世界大戦後の新憲法で『象徴』として権威のみの存在として再び性格付けられたのだ。
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 『天皇家の総意として尊重を』保阪正康
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 知恵が試される
 天皇にとって最も重要なことは、皇統を守ること、つまり天皇制を維持することだ。皇統にとって最大の危機が『戦争』であることは、11歳で終戦を迎えた陛下は実体験で理解しており、陛下は平和憲法を大切に守ろうとしている。現憲法に基づいた政体(国のあり方)を重視した発言をしている点は、国体(天皇制)を政体の上に置いてきたこれまでの天皇と異なる。
 だが政体と天皇がともに歩いていく上で、政体側の支えになっている皇室典範はいろいろと問題を抱えているということを陛下はおっしゃっているのではないか。生前退位のみならず、女性天皇の問題など、現在の皇室典範は議論すべき問題を数多く抱えている。
 そもそも天皇制は固定したものではない。伸縮自在に変化しながら、2600年にわたって続いてきたと言える。近代天皇は終身在位と定められたが、江戸時代は終身在位ではなかった。天皇のあり方は時代によって変わってきたことは明らかだ。
 また、江戸時代のように権力としての幕府と権威としての天皇を分けていた時代もあれば、近代日本のように権力と権威を一体化させる天皇を神として奉り、無益な戦争に進んでしまった時代もある。天皇を政治、軍事に取り込んではいけないというのは近代の教訓でもある。
 神話から生まれた天皇という存在を、この国は時代ごとにさまざまな形で抱き続けてきた。科学技術が発達した今、天皇という存在は不要という極端な意見を持つ人もいるが、それは後の時代に、正しい判断だと評価されるだろうか。抽象化した存在の天皇を抱くことは、長年にわたって続いてきたこの国の約束事だと思う。天皇を社会の中でどのように位置づけるか、現代を生きる私たちの知恵が試されている。
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 自発退位はパンドラの箱 森暢平
 生前退位実現のハードルは高い。それは憲法との関係をどう整理するかという点にある。
 退位には、天皇が自らの希望で地位を降りる『自発退位』と、政府または国会が主体となって天皇を更迭する『強制退位』がありうる。今回は明らかに天皇が希望した『自発退位である。憲法4条は、天皇が『国政に関する権能を有しない』ことを明記しており、〈天皇の地位を皇太子に譲りたい〉という申し出は、憲法に違反している疑いが強い。これが前例になると、今後、自発的に皇族お降りる自由を認める、あるいは、天皇に即位しない自由を認める──などという整合性が保てなくなる。
 これはパンドラの箱である。退位の自由、即位拒否の自由、皇籍離脱の自由を否定・制限してきた過去の政策を変える、天皇・皇族に身分に関する自由を与えるということだ。
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 天皇相続税を支払う 皇室の財布
 第二次世界大戦前の皇室は世界でも有数の資産家だった。皇室の資産は特別扱いされ、御料地、御料林などの広大な不動産、林野を所有していた。『杉の林を切れば、必要なお金はすぐに調達できる』と言われるほどの大富豪ぶりだった。
 敗戦と同時に連合国軍総司令部(GHQ)は、皇室財産を調査し、戦時利得区税と財産税の対象として速やかに処置する方針を決定、皇室財産を凍結した。
 その詳細は1947(昭和22)年、財産税申告の際に明らかになった。総額は約37億5,000万円。内訳は貯金現金約5,000万円。御料林などの不動産、日銀など29社の社債国債、美術工芸品などだ。ちなみにこの年の当初予算は約1,145億円だった。
 戦後は憲法で皇室が戦前のように経済力を持たず、特定の人物と経済的に強く結びつかないよう規定された。88条で『すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない』と、皇室経済法が成立された。
 皇室は財産のほとんどを国に納めた。御用邸京都御所などの土地建物は国有財産となり、特別に『皇室用財産』として皇室のために供されることになった。美術品は、正倉院と帝室博物館のほかはそのまま皇室が所蔵した。
 こうして昭和天皇は現金1,500万円と身の回りの調度、装飾品のみで戦後を始めた。新憲法下で、天皇と皇族のために充てられているのは『皇室費』という国の予算だ。内廷費皇族費宮廷費に分けられる。47年の新制度初めての皇室予算は、内廷費733万円、皇族費4,988万円、宮廷費2,870万円。
 優遇措置はない
 皇室費とは別に、宮内庁職員の人件費などの予算も宮内庁費として計上される。皇室費宮内庁費を合わせた額が、皇室を支えている税金の総額だ。予算は毎年国会で承認を得ており、物価の変動などに応じて改定されている。
 天皇家の財産は、毎年の余剰金や本の出版に伴う印税などの収入が少しずつたまっていった。一方で、子供の結婚時に『支度金』として相当額を取り崩すこともあった。
 昭和天皇が亡くなると、遺産の相続が行われ、相続税の課税対策について戦後始めて本格的な皇室財産の調査が行われた。
 相続手続きは89(平成元)年7月7日までに終わり、昭和天皇私有財産の全容と相続財産が明らかになった。金融資産は約20億円。戦後も所蔵していた美術品はこの時初めて整理され、計5,000件に上ることがわかった。課税対象となったのは、金融資産から葬儀費用と内廷職員の退職金、寄付などを差し引いた約18億円と、相続した美術品800件(評価額数千万円)。基礎控除の後約17億4,000万円を皇太后天皇が2分の1ずつ相続し、天皇相続税約4億2,000万円を支払った。美術品の大半は国に寄贈された。三種の神器や、明治以前の歴代天皇の直筆文書など約600件は皇室経済法の『由緒物』とされ、相続税法の特例規定により非課税とされた。
 皇室の財産が明らかになるのは天皇や皇族の死去に伴う相続が行われた時だけで、それも支払い相続税額が2億円以上の場合しか公開されない。皇室制度が税金で支払われているとい実態は、もっと国民が意識すべきだ。皇室財産の透明性についても議論する必要があるだろう。(橋場義之)」
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 10月10日08:35 産経ニュース「【生前退位】明治の元勲・伊藤博文はなぜ譲位容認案を一蹴したのか? 「本条削除すべし!」 明治天皇に燻る不満「朕は辞表は出されず」
 1月2日の新年一般参賀に集まった人たちに手を振られる天皇、皇后両陛下と皇族方。「生前退位」の議論は今後の皇室のあり方を大きく変えることになるかもしれない=皇居(長尾みなみ撮影)
 明治20(1887)年3月20日、東京は前日から晴天が続いていた。午前10時半、初代首相だった伊藤博文(1841〜1909年)は高輪に持つ別邸の一室で、法制官僚で宮内省図書頭(ずしょのかみ)の井上毅(こわし)(1844〜95年)と、公家出身で臨時帝室制度取調局総裁の柳原(やなぎわら)前光(さきみつ)(1850〜94年)らと向き合った。
 大日本帝国憲法を制定し、立憲君主制の近代国家になることを目指していた明治政府は、慣習と伝統によって長年守られてきた皇室制度も近代法制として明文化する必要に迫られていた。伊藤は皇室典範策定に向けて大方針を示すべく、井上が宮内省案などをたたき台に策定した皇室典範原案をじっくりと読み込んだ。
 原案では第12条で譲位に関する規定を盛り込み、終身在位は正統だとしながらも、天皇が身体や精神に重い疾患を抱えた場合、例外として譲位を容認していた。この条文を見た伊藤は即時に異を唱えた。
 「不治の重患を抱えていても摂政を置けばよい。譲位の事例は過去に確かにあったが、それは仏教の弊害によるものだ。陛下が罪を犯してはならないのと同様、その地位を退くべきではない。本条削除すべし」
 井上は食い下がった。「退位を望む王の在位は国益を損なう」とするスイス出身の法学者が唱える譲位容認論まで引用して説得を試みたが、伊藤は「一学者の私見にすぎないではないか」と一蹴した。
 この瞬間、皇室典範から譲位に関する規定は消えた。この会議は「高輪会議」として今も語り継がれる。伊藤も、まさかこの130年後に「生前退位」という表現で譲位が再び議論の場にのぼるとはつゆも思わなかったのではないか。
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 高輪会議の主要なやりとりは「皇室典範草案談話要録」に残されている。
 井上は、大日本帝国憲法教育勅語などに携わった明治期の法制官僚。井上を「忠実無二の者」と高く評価していた伊藤が、譲位については一切耳を貸さなかったのはなぜか。
 実は歴代天皇崩御より譲位による皇位継承の方が多い。特に初めて譲位をした皇極(こうぎょく)天皇(第35代)以来、歴代天皇は次々に譲位を行い、明治天皇が即位する前までの92代(重祚(ちょうそ)、北朝5代含む)のうち譲位は64代を数える。
 皇室典範策定直後の明治22年4月に井上が伊藤の名で著した『皇室典範義解(ぎげ)』では、譲位が続いた中世をこう批判している。
 「権臣の脅迫によって両統互立を例とすることがある。南北朝の乱は、ここに原因がある」
 おそらく伊藤は、譲位を認めれば、いつか上皇法皇による院政が復活し、皇統の危機を招きかねないと考えたのだろう。さらには、近代国家としての日本を不安定にしかねないと危惧したとみられる。
 確かに、皇室典範で譲位を容認すれば、天皇の意思を踏みにじる強制退位もあり得ない話ではない。旧皇室典範下の昭和初期には、陸軍皇道派が、協調外交路線を重視した昭和天皇を批判し、弟の秩父宮天皇にすげかえようと画策したこともあった。
  × × ×
 伊藤と明治天皇の関係は相当な緊張感があったと思われる。
 高輪会議の数年前、漢籍に通ずる明治天皇は、伊藤が文部省顧問に西洋的な教育論者を就任させたことに反発し、病気を理由に数カ月間、伊藤との面会を拒絶したこともあった。
 大日本帝国憲法下の天皇は、統帥権を持ち、重要な国策に意思を反映させる大権を有していた。それだけに伊藤は、天皇が自らの進退を決めることを認めれば、近代国家であっても国家の存亡を左右する事態を招きかねないと考えたのだ。
 しかも高輪会議が開かれた当時、明治天皇に成人の息子はいなかった。唯一の息子である7歳の明宮(はるのみや)嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の健康が優れないこともあり、万一明治天皇が譲位すれば、皇統断絶の恐れさえあった。
 実際、明治天皇皇室典範で認められたならば、譲位を行った可能性が十分ある。侍従武官長だった岡沢精(くわし)(1844〜1908年)は大正5年の「出張記」にこう記している。
 「(明治天皇は)皇室典範に抵触なければ御退隠の上京都に住居も哉と思(おぼし)召(め)されし程推し奉りし」
 明治34年5月、伊藤が4度目の首相の辞意を上奏した際も、明治天皇はこう語ったという。
 「卿等は辞表を出せば済むも、朕は辞表は出されず」(奥原慎平)」
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 10月10日09:44 産経ニュース「【生前退位】GHQも退位を認めなかった… 「野心的な天皇が退位して首相になっては困る」 政府「天皇に私なし。すべては公事」
 先の大戦に敗北した日本は占領下に置かれ、連合国軍総司令部(GHQ)に「象徴天皇制」を含む新憲法を突きつけられた。
 GHQは皇室制度の存続だけは認めたものの、天皇の神格化を排除するため、大日本帝国憲法(旧憲法)第1条の「大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス」を放棄させ、新憲法第1条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定した。
 さらに第2条で「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と定め、大日本帝国憲法と同格だった皇室典範を一般法に格下げした。
 GHQは他にも天皇の権威を失わせる施策を次々と推し進めたが、天皇の譲位(生前退位)には慎重だった。
 昭和21年8月30日、民政局のサイラス・ピークは、内閣法制局第一部長の井手成三を呼び出し、生前退位をめぐり次のようなやり取りをした。
 ピーク「天皇ノ退位ヲ認メヌ理由」
 井手「上皇制度ナド歴史的ニモ弊害アリ寧(むし)ロ摂政制度ノ活用ヲ可トス」
 ピーク「昔ハ退位ハアツタカ」
 井手「然リ」
 ピーク「退位ヲ認メルト今上陛下ニ影響スルコトヲオソレタカ」
 井手「ソノヤウナ顧慮ニ出デタモノデハナイ。寧ロ一般抽象的ナ論究ノ結果ナリ」
 会談は3時間に及んだ。女性天皇の是非も議題になったが、井手が男系維持を説明するとピークはそれ以上追及しなかった。
 外務省特別資料部の調書「皇室に関する諸制度の民主化」(23年10月)によると、GHQは当初、天皇の自由意思を認める意向を示していたが、「野心的な天皇が退位して政治運動に身を投じ、首相にでもなることがあっては困る」と考え、生前退位を認めない方針に転換したという。
 GHQとの交渉の末、政府は皇室典範草案を完成させ、21年11月26日、第91回帝国議会衆議院本会議に提出。男女平等や民主主義をうたった新憲法との整合性についてさまざまな議論が繰り広げられた。
 社会党衆院議員の及川規(ただし)は衆院本会議で生前退位に関してこう主張した。
 「天皇の絶対的自由なる御意思に基づく御退位は、これを実行せられ得る規定を設くることが、人間天皇の真の姿を具現する所以(ゆえん)であると確信する」
 貴族院でも京都帝国大名誉教授の佐々木惣一が「個人的の立場からじゃなしに国家的見地から、自分はこの地位を去られることがよいとお考えになることもないとは限らぬと思います、こういう場合に、国家はこれに付きまして何らかの考慮をしなくてもよいものでありましょうか」と語った。
 これに対し、国務相の金森徳次郎は「天皇お一人のお考えによって、その御位をお動きになるということは恐らくはこの国民の信念と結びつけまして調和せざる点があるのではないか」と反論した上で、こう断じた。
 「天皇に私(わたくし)なし、すべてが公事であるという所に重点をおき、ご退位の規定は今般の典範においてこれを予期しなかった」
 結局、衆議院貴族院合わせて約1カ月の議論の末、皇室典範案は無修正で可決され、翌年の1月16日に公布、5月3日に施行された。(広池慶一)」
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 日本民族日本人にとって、天皇皇后両陛下、皇族の方々のように敬愛を持って無条件で接する事ができる人は存在しない。
 世界が認める優れた指導力がある総理大臣であれ、選挙でトップ当選した政党党首であれ、誰もが納得する有り難い法話・説教を語る宗教家・哲学者であれ、人に感動を与える才能豊かな芸能人であれ、誰一人として足下にも及ばない。
 日本国と日本国民統合の精神的象徴たりえるのは、日本天皇しかいない。
 東日本大震災の被災者達は、慰問された、天皇皇后両陛下や皇族方に接して心が癒やされ亡くした家族の慰霊に安堵した、人気のあるAKB48などの芸能人に歓声を上げて群がり元気を貰い、失言や過言が多い菅直人総理や政治家には腹立たしさで罵声を浴びせた。
 政治的権力を振るう政治家は、自民党民進党あるいは公明党日本共産党、其の他の政党でも変わりはしない。
 宗教的権威を持つ、神道の神主でも、仏教の僧侶でも、キリスト教の神父・牧師でも、その他の有象無象の宗教関係者であっても変わりはない。
 たとえ、バチカンローマ教皇はもちろん枢機卿大司教であろうが、そして他の普遍宗教の大教主などの聖職者や宗教家であろうとも同様である。
 まして、天皇を否定し天皇制度を廃絶しようとする者は、同じ事が出来ない以上、信用も信頼もされないし、真面な人ではないとして相手にもされない。
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 日本天皇が有して 日本天皇は、正統性において、人類が生み出した如何なる皇帝や王侯よりも最上位にあり、そして全ての教団における教皇や教主などよりも最上位の聖職者である。
 だからといって、特別に優れた存在ではないし、人類史や世界史に記録すべき事でもない。
 日本天皇の正統性は、日本神道日本民族心神話=天孫降臨神話に基き、日本列島に閉じ籠もって生きる日本民族を束ねる象徴に過ぎない。
 日本列島と日本民族が海外と断絶して生きてきた以上、その中心をなす日本皇室が持つ価値観による生き方は国外まで及ばない。
 日本天皇の正統性とは、死なない天津神最高神天照大神(女性神)の血と心と志を継承する事である。
 国津神は、死ぬ神である。
 最高神・女性神の血と心と志を受け継ぐ事を神聖なる使命として祭祀を行い得るのは、拝殿奥で一子相伝として受け継がれた祭祀王家の一族のみである。
 皇祖皇宗の女性神天照大神と男性神神武天皇を祖先とする、現皇室がその一族である。
 日本国は、2000年以上の昔から、神の裔・日本天皇を中心とした国體を国柄としてきた。
 皇統が万世一統の血筋に由来する以上は、その血筋の主家に繋がらない者には日本天皇にはなれない。
 国際的反天皇派勢力や反天皇派日本人は、日本天皇家を滅ぼし、天皇制度を廃絶すべく、国連などの諸機関で暗躍している。
 国内外の反天皇派が滅ぼそうとそているのは、女性を絶対不可侵の最高神と崇め奉る信仰である。
 2000年以上継承されてきた女性神の血筋という正統な皇統を護る為に、日本民族は闘ってきたし、日本民族が生き続ける限り闘い続ける。
 2000年の歴史を持つ民族の心と志を守る為に、最高神・女性神の血を引く正統な皇室を、国際社会でで味方がなきとも、国際社会を敵に回しても、一人孤独に闘う。
 それが、伊勢神宮であり、明治神宮であり、靖国神社護国神社である。
 これが、日本の民族主義であり、ナショナリズムである。
 自己犠牲精神で、戦死を覚悟して、ポーランド人戦争孤児達、ロシア人避難学童達、ユダヤ人やロシア人避難民を、血に飢えた残虐極まる共産主義者の魔の手から救い出した。
 八紘一宇精神で、身を挺して、数人万のユダヤ人避難民をヒトラーナチス・ドイツホロコーストから守り保護した。
 惻隠の情として、人為的に起こされた自然災害で餓死しかけている数百万人の中国人被災者を助けるべく、医薬品や食糧などの軍需物資を敵の猛攻を排除し戦死者を出しながら、中国人被災者を助けたい一心で運び込んだ。
 それが、女性神から続く万世一系の日本天皇を戴く日本民族である。
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 キリスト教教義から、ローマ・カトリック教会も男系継承として男子しか教皇にはなれない。
 キリスト教は、儒教と同様に男尊女卑である。
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 日本の宗教価値観において、絶対神の恩寵による奇跡や救済は存在せず、救い主たる救世主・メシア・メサイアも存在せず、さらには霊魂の存在はあっても永遠の命は存在しなかった。
 普遍的宗教観からして、日本民族は神や仏を信じる有神論者であっても本質的には無宗教論者といえた。
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 ユダヤ教キリスト教イスラム教そして儒教道教など大陸の宗教や思想・哲学は、自然災害が少ない平穏な環境で生まれ、逃げ道を認めない不寛容な唯一絶対的価値観で「人」を論じ、生きる意味を論理的合理的に見極め、正しきモノ・正義を確定し悪しきモノ・不正義を排除する為に言語化して激論を重ねた。
 キリスト教の教会、イスラム教のモスク、儒教の聖堂などは、人が集まる都市・町・村の中心に豪華絢爛として人を威圧する荘厳な建物として建設された。
 日本神道と日本仏教は、自然災害多発する気の休まる時が少ない環境で生まれ、逃げ道の多い多種多様な相対的価値観で「自然」を論じ、逃げられない現実の中で生きる意味を情緒的感情的に見定め、美しき和魂・御霊と醜き荒魂・怨霊を共に気配として感応し尊きモノとして受け入れ、閑に祀り静かに祈った。
 日本神道の神社や日本仏教の寺院は、都市・町・村の外で、人が住まない土地で、農地に適さない土地にみすぼらしいほどの簡素な建物を建てた。
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 一心不乱に絶対神に祈って、自然災害の1つでも無くしてくれるという奇跡を起こし、山崩れや洪水で流されている今この時に救世主が突然現れて救ってくれるのなら、信じる。
 日本には、そうした奇跡や救済が起きたという歴史的宗教的例しがない。
 自然災害多発地帯日本列島で生きてきた日本民族日本人は、苦労承知で自分が行動する為の心の支えとして神仏の霊験や御利益を信じたが、身を捧げ行動しない「貴方任せ」の安楽な奇跡や救済は信じなかった。
 目の前に洪水や山崩れで流されてきた巨大な大岩を動かすのは、人の力であって信仰ではなかった。
 急いで大岩を動かさないと、別の自然災害で新たな巨木が流れてきて甚大な被害を出すかもしれない。
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 日本に、キリスト教共産主義など大陸生まれの不寛容にして他者を排除する絶対的価値観も根付きづらいのはこのためである。
 日本に浸透する為には、日本の気候風土の洗礼を受け、気候風土に適応するよう根本から変貌する必要があった。
 仏教はそれが完全にできて日本仏教となったが、儒教は中途半端なままで日本儒教となった。
 キリスト教は、日本化を拒絶して日本との対立を選び、日本キリスト教となった少数派異端者を排除した。
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 日本天皇は、日本に於ける唯一の統治者として、神代、古代、約2000年以上にわたって、
 政治面で豪族の位階授与、将軍宣下、大名や旗本などの位階授与、
 宗教面で全神社の格式認定と位階授与、仏教を含む全ての宗教の普及、
 生活・仕事での元号と暦の制定、
 文化・芸能・学問などで日本国語の源泉である大和言葉の保護を行っていた。
 将軍職などの格式を伴う位階授与・榮誉授与・叙勲は、天皇の名の御墨付きがなければな無価値であり、時代を超えるて残る事はない。
 もし、徳川家が将軍宣下を受けられなかったら、徳川家は将軍として日本を統治できなかった。
 将軍宣下と大名・旗本の位階授与ができるのは、日本天皇のみであった。
 それ故に、将軍や大名は、日本皇室を超える事も、日本天皇を廃絶する事もできなかった。
 足利義満は、日本統治の正統性を日本天皇ではなく中華皇帝・明国皇帝に求めた。
 例えれば。反天皇反日的日本人が日本に君臨する為に、中国共産党イデオロギーキリスト教の教義に日本支配の正統性を求めたと言う事になる。
 もし、日本天皇が存在しなければ、日本の支配者は琉球国王や朝鮮国王などと同様に中華帝国朝貢冊封し、中華皇帝に土下座して臣下を誓い日本国王の認証を受けなければならなかった。
 日本天皇は、日本統治の正統性を栄典授与で認める絶対的最終的最高機関である。
 日本天皇を失うと言う事は、政治的・宗教的・文化的・生活的に日本統治の正統性を認めることができなると言う事である。
 つまりは、日本統治は、その時代・その時の無責任な人気投票、日本人特有の移り気な主体性のない浮気性の国民投票で決められる事になる。
 その場の空気に支配され空気に流され易い日本人では、能力ではなく人気で決める事になる。
 その弊害は、歴史上最低無能な民主党鳩山由紀夫菅直人両政権や2015年から2016年にかけての東京都知事選を見れば、日本人の無責任さが分かる。
 人気に乗って空気で決めやすい日本人は信用できない為に、日本の揺るぎない不動と柔軟な心柱として神聖不可侵の万世一系男系天皇制度(直系長子相続)が編み出された。
 天皇制度は、日本人は間違った方向に暴走しやすい愚民であるから正しい方向に導かねばならないという上から目線で人工的に作り出された制度ではなく、日本人自身が自分たちでは正しい判断ができるか不安な為に生み出した下から目線の制度であった。
 ゆえに、日本はトップダウンではなくボトムアップである。
 御上の言う事はご尤もという合意はこうして生まれた。
 権威や権力があるから「御上」に従うわけではなかった。
 何故そうなったか、それは自然災害多発列島日本に生きる定めだからである。
 多発する自然災害に、物理的に対処するのは政府や権力者だが、精神的に癒やせるのは天皇御一人しかいなかった。
 困った時の神頼みは、その先に日本天皇が存在するから御利益があるのである。
 御利益と奇蹟とは別物である。
 御利益は、自分が正しい行いで自らが働いて手に入れる事である。
 奇蹟は、絶対神が自分を信仰した事に対しその対価として授ける恩寵の事である。
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 日本天皇は男系であって為に、権力者は娘を入内さ皇太子を生ませ、その子を天皇に即位させるべく時の天皇を強制的に退位させた。
 もし女系天皇であれば、息子を女性天皇と結婚させて生まれた子供を天皇に即させた。
 女系天皇女性天皇であれば、結婚する相手が皇族男子でも臣下の男子でも誰でも良い事になる。
 場合によっては、日本人ではなく、中国人でも、朝鮮人でも、ユダヤ人でも、それ以外の外国人でも構わない事になる。
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 皇室の私有財産を強奪したのは、ニューヨーク・ウォール街とロンドン・シティーの国際金融資本であった。
 日本の経済・金融そして製造は、国際資本の支配下に置かれた。
 日本のもの作りは、日本や日本国民の為ではなく、国際資本が認めた枠内でのみ許可されたもの作りである。
 日本は、ユダヤ系国際資本に支配されている。 
 もの作りが韓国や中国に移るや、日本のもの作りは不要となり、日本製品は国際市場から駆逐され、日本製品は売れなくなった。
 さらに、東南アジアやアフリカにもの作りが移るや、中国や韓国のもの作りも捨てられた。
 ユダヤ系国際資本は、国際共産主義の理想とする、ヒト・モノ・カネが自由に行き来できる国境が廃止された統一世界、1つの価値観で管理されたグローバル世界を目指していた。
 ユダヤ系国際資本は、グローバル世界の完成の為に、日本民族主義の要である日本皇室の廃絶を目論んでいた。
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 皇室の私有財産は、国民から圧政・悪政で搾取して貯め込んだ不正・不当な強奪資産ではなく、他国に戦争を仕掛けて奪って築いた犯罪的略奪資産でもなかった。
 日本皇室資産とイギリス王家資産とは、根本的に違うのである。
 日本皇室資産は、敗戦で破綻した日本国を救い、戦後経済の再建と発展に寄与し、国民の生活を安定させる為に役立った。
 日本の皇族は、世界の王族・皇族のように、戦争に負けるや国民を見捨て、持てるだけの私有資産を持って国外の逃亡・亡命する事をしなかった。
 孤独で閉鎖的な日本皇室の亡命を受け入れてくれる国家、王家、宗教団体は、世界のどこにも存在せず、逆に戦争犯罪として極刑を求める声が全てであった。
 昭和天皇は、戦争責任を退位せず在位し続ける事で引き受け、国内を巡幸して戦没者の慰霊と国民を励まし国の復興を祈願した。
 その結果、大虐殺による大流血という共産主義の敗戦革命は阻止された。
 日本皇室の私有財産と日本国家の金塊の大半が、侵略戦争で不法に強奪した犯罪資金としてユダヤ系国際金融資本が指導する占領政策の一環として没収された。
 アメリカ・GHQは、今、日本占領政策に利用するべく一時的に皇室を存続させたが、将来的に消滅させるべく皇族を直宮以外の皇籍を剥奪し皇室資産の大半を没収した。
 アメリカ世論は、王侯貴族などの特権階級廃止の理想論から、キリスト教徒弾圧を行った日本皇室の存続を認めてはいなかった。
 日本国憲法昭和憲法平和憲法の隠れた意図は、共産主義者キリスト教徒による日本天皇の廃絶と日本神道の消滅であった。
 護憲派は、その隠された意図を守ろうとしている。
 昭和天皇は、日本国民、日本民族日本人が日本皇室を護ってくれる事を信じて、占領下で成立した(押しつけられた)日本国憲法を受け入れた。
 キリスト教徒白人にとって、非キリスト教徒非白人の日本人がキリスト教徒白人によって奴隷として家畜のようにアジア・アフリカ・中南米などに売りさばいた事よりも、敬虔なるキリスト教徒が異教徒日本人によって弾圧された事が許せなかった。
 共産主義者にとって、数十万人の逃げ惑う日本人(主に女性や子供)がロシア人共産主義者に強姦され虐殺され、中国人や朝鮮人によって身ぐるみ?がされ裸で捨てられたて事よりも、暴力的共産主義革命を企てた共産主義者が弾圧された事が許せなかった。
 共産主義者キリスト教徒は、日本国を日本民族日本人が幸せになる国に再建するのではなく、日本民族を消滅させ日本皇室を廃絶させるべく戦後平和教育を徹底させた。
 それが、日本人極悪人史観・東京裁判史観に基づいた歴史教育である。
 日本人キリシタンキリスト教徒日本人には罪はなく、排他的攻撃的不寛容な宣教師達によって絶対神の恩寵による奇跡や隣人愛の信仰で白痴の如く盲目にされたからである。
 日本人共産主義者は、血肉を分けた同胞である日本人の女性や子供が大虐殺された事など全てを知りながら、イデオロギー同志であるソ連(ロシア人)や中国共産党に都合の悪い事実を歴史の闇に消した。
 キリスト教イスラム教などの普遍宗教を信じる信者にとって、血肉を分けた異教の同胞より信仰を共にする兄弟・姉妹の方が大事であったがゆえに、異教の同胞を人間以下の家畜・獣と決めつけて惨殺するか奴隷として売った。
 日本皇室の存続の危機は、2016年に、天皇陛下の「生前退位」として表面化した。
 日本政府が憲法で皇室・皇族の行動を公私ともに監視し、国会が予算で皇室・皇族の生活を支配している。
 政治家や官僚達は、国の方針に従って皇室・皇族を利用している。
 政治利用の好例が、天安門事件後の天皇皇后両陛下による中国ご訪問であった。
 日本統合の象徴たる皇室の消滅後に日本をまとめる核として、キリスト教徒は欧米諸国の様に非寛容なキリスト教を、共産主義者は宗教否定と人権弾圧を行う中国共産党政府のように共産主義を、それぞれ考えている。
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