六人の総理大臣が誕生 最強の出世開運スポット 強運パワーの「高麗神社」
- 作者:高麗郷文化研究会
- 発売日: 2013/04/03
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
第125代明仁(あきひと)天皇、第124代昭和天皇の第一皇子。母は香淳皇后。
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香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年(明治36年)3月6日〜2000年(平成12年)6月16日)は、昭和天皇の皇后。今上天皇の実母。名は良子(ながこ)、久邇宮家出身で、皇后となる以前の身位は女王。
歴代皇后の中で最長寿である(満97歳没)。
家系
久邇宮邦彦王の第一女子。母は12代薩摩藩主公爵島津忠義の七女俔子(ちかこ)。祖父の朝彦親王は男子9人を儲けており、東久邇宮稔彦王は叔父の一人である。また、五女・島津貴子の夫島津久永は母方の従弟に当たる。
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台中不敬事件は、1928年(昭和3年)5月14日、台湾を訪問中の久邇宮邦彦王が朝鮮人趙明河に襲われた暗殺未遂事件である。
台中不敬事件の発生地点、台中州立図書館。現在の合作金庫商業銀行台中支店。
おりから台湾を訪問中の久邇宮邦彦王はこの日台中を巡視していたが、その沿道で趙明河が短刀を投げつけた。しかし短刀は邦彦王には当たらず暗殺は失敗、趙明河はその場で取り押さえられた。趙明河は台湾総督府の高等法院上告部において同年7月18日に刑法75条(対皇族危害罪)および殺人未遂の罪により死刑の宣告を受け、不敬事件は一審制のため即日刑が確定、同年10月10日に死刑を執行された。この事件で上山満之進 台湾総督、後藤文夫 総務長官、本山文平 警務局長、佐藤続 台中州知事が6月から7月にかけてこの事件の責任を取る形で辞任している。
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天皇・皇后両陛下はもちろん皇太子・同妃両殿下そして他の皇族方も、余ほどの理由がない限り韓国訪問は絶対にあり得ない。
もし皇室・皇族の韓国訪問を求める日本人がいるとすればその日本人は、万死に値する不敬、道義に反する重犯罪者、日本民族への裏切り者である。
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朝鮮人テロリストによる、伊藤博文暗殺事件に何らかの同情・理解を寄せるところがあったとしても、現皇室の昭和天皇と久邇宮邦彦王の殺害失敗事件だけは「断固」許すわけにはいかない。
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2017年20日 産経ニュース「両陛下、見頃のマンジュシャゲご鑑賞 埼玉・日高市
ヒガンバナの群生地「巾着田曼珠沙華公園」を散策される天皇、皇后両陛下=20日午後、埼玉県日高市(代表撮影)
天皇、皇后両陛下は20日、私的旅行で埼玉県日高市の巾着田曼珠沙華(まんじゅしゃげ)公園を訪れ、見頃を迎えて真っ赤に咲き誇った約500万本のマンジュシャゲ(ヒガンバナ)を鑑賞された。
私的旅行では四季折々の自然を楽しまれるのが恒例。両陛下は身体を寄せ合い、遊歩道を約20分間散策し、天皇陛下は「今の時期がいいんでしょうね」、皇后さまは「美しいですね」と笑顔で話されていた。
これに先立ち、7世紀に滅亡した朝鮮半島の高句麗から同市を中心とした地域に移住した渡来人ゆかりの高麗神社も参拝された。
今回の旅行は1泊2日の日程で同県内にご滞在。21日は深谷市で同市出身の実業家、渋沢栄一の記念館などを見て回られる。」
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9月21日 産経ニュース「両陛下が3年ぶりの埼玉県内ご訪問 日高市民ら1万人が歓迎
埼玉県日高市の巾着田曼珠沙華公園に到着された天皇、皇后両陛下=20日午後3時6分(代表撮影)
天皇、皇后両陛下が20日、埼玉県日高市を訪問された。市民ら約1万人が沿道や目的地付近で歓迎し、両陛下は笑顔で手を振られた。県によると、両陛下の県内ご訪問は平成26年に大雪被害の大きかった深谷市を訪問して以来、約3年ぶり。(川上響)
両陛下は最初に、高麗神社(同市新堀)をご訪問。同神社には昭和51年に皇太子さまも訪問されている。同神社は、約1300年前に朝鮮半島の高句麗から来た高麗王若光が建立した。それ以来60代続く神社で、境内には大臣や国会議員、韓国の大使らの献木が多くある。
両陛下を案内した高麗文康宮司は「陛下が来られることは想像もしていなかった。名誉なこととしか言いようがない」と話した。
市民らの間では「車の中から笑顔で会釈してくださってうれしかった」などと喜びの声が聞かれた。
次に訪問されたのは、同市のヒガンバナの名所である「巾着田曼珠沙華(まんじゅしゃげ)公園」。500万本の赤い花々のなか、ゆっくりと歩を進められた。
同市産業振興課の国分央(なかば)課長から園内で見られる動植物について説明があり、両陛下は熱心に耳を傾けられていた。河原では、木々の間からカワセミが姿を現す場面もあった。
国分課長は「今日、何回下見してもお目にかかれなかったのに」と驚き、「皇后さまが『ヘビは出ないんですか』とカワセミの心配をされていて、とても優しさを感じた」と話した。
同市の谷ケ崎照雄市長は「初めてお会いしたので緊張したが、想像以上に親しみやすいお人柄で、国民から愛されるのはもっともだなと改めて実感した。市民から連日のように電話があり、実際にお目にかかれて喜んでいると思う」と1日を振り返った。」
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親日派知日派は、百済、高句麗、古代新羅、渤海。
反日派敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮。
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韓国が反日派敵日派である証拠は、昭和天皇や久邇宮邦彦王の暗殺に失敗した朝鮮人テロリストを国家の英雄と讃えているからである。
故に、韓国は知日派でもない。
韓国は、日本天皇に訪韓したければ「土下座して謝罪」する様に求めている。
世界は、日本の説明より、韓国の主張・訴えを正当であるとして支持している。
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帰化人と渡来人とは違う。
帰化人は、日本天皇・日本国・日本民族の味方である。
渡来人は、日本天皇・日本国・日本民族に関心を持たないか敵であった。
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高麗神社
高麗神社の由来と歴史
高句麗
高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。
最盛期は5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。
若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。
『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。
■ 高麗郡建郡と高麗神社
若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。
高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になります。
高麗郡は明治29年(1896年)入間郡に合併されましたが、当社はその後も広く崇敬を受けてまいりました。特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、平沼騏一郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と広く知られるようにもなりました。現在は年間約40万人の参拝があります。
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられました。将軍標は平成17年に大韓民国民団中央本部によって奉納されたものです。」
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高麗神社 (こまじんじゃ)は埼玉県日高市に鎮座する神社。旧社格は県社。
概要
現在の埼玉県日高市の一部および飯能市の一部にあたる高麗郷および上総郷は716年武蔵国高麗郡が設置された地である。中世以降、郡域が拡大し、日高市・鶴ヶ島市のそれぞれ全域と、飯能市・川越市・入間市・狭山市のそれぞれ一部が高麗郡の範囲となった。668年に唐・新羅に滅ぼされ亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を朝廷はこの地に移住させた。703年には高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっている。高麗若光が「玄武若光」と同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになる。この高麗若光も朝廷の命により高麗郡の設置にあたって他の高句麗人とともに高麗郡の地に移ってきたものと推定されている(新編『埼玉県史』)。
高麗神社はこの高麗若光を祭っている。神仏習合の時代には高麗家は修験者として別当を勤めていた。また、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていた社号は、明治以降は高麗神社と称されるようになった。境内隣接地には江戸時代に建てられた高麗家住宅がある。
入口付近の敷地には、2005年10月23日に在日本大韓民国民団(民団)より寄贈された花崗岩製の将軍標がある。これは、1992年に設置された木製のものが破損し腐食したことから再寄贈されたものである。また、駐日大韓民国大使らの参拝もある。
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高麗神社(こまじんじゃ)は静岡県掛川市にある神社。
由緒
永徳元年(1381年)沖之須前の海上がにわかに光って南風が吹き起こった。人々は不審に思って浜辺に行って見たところ、それは高麗で兵武神として崇敬していた韓神であった。
神は集まった人々の中から正直柔和の者を選んで、ご託宣を下された。村人はその教える所にしたがって仮殿を建てて敬い祀った。
その後、横須賀城主大須賀康高がこれを聞いてことのほかに感激し、その神をお城の鎮守として新たに神社を立て祀った。 当神社で所蔵する彫刻「伎楽面」は神社創立と深い関係があるものと思われる。面は元大須賀町指定の文化財でもある。
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高來藭社(たかく じんじゃ)は、神奈川県中郡大磯町高麗(こま)に鎮座する神社。高麗神社とも呼ばれる。旧社格は郷社。
社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる[2]。
由緒
中世の戦乱等により書物が焼失したため起源は明らかでないが、神武天皇の時代の創建とする記録があるという。
かつては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、左の峰に毘沙門天を勧請して「高麗三社権現」と称した。
また古来武門の信仰が篤く、鎌倉期に将軍源頼朝が正室北条政子の安産祈願をして、戦国時代には後北条氏がわずかな領地を寄進したという文献があるという。
相模国淘綾郡(高麗寺領)高麗寺村、のち高麗村、大磯町高麗に位置した。
祭神
神皇産霊尊
天津彦穂邇々伎尊
応神天皇
神功皇后
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- 作者:森田 悌
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