🌏18)─2─島地黙雷は新たな仏主神従の国家神道を創設した。伊勢派と出雲派の祭祀論争。~No.61 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 島地黙雷は、キリスト教の侵略・浸潤から日本を護る為に新たな仏主神従の国家神道を創設した。
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 幕府の長州征伐に際し、長州の仏教僧は郷土を守る為に僧侶隊を結成し、奇兵隊に参加して戦った。
 宗教は、戒律で「人を殺してはならい」と説き争いをしないように諭したが、現実には、戦争に参加し、攻めてきた敵軍と戦い、そして敵兵を殺していた。
 「宗教は平和を説き戦争を否定する」とは、真っ赤な嘘である。
 そう遠くない昔、日本の仏教諸宗派は僧兵を養って武装し、そしてお経を唱えながら殺生を繰り返し、仏像の前で女人を抱き、酒をあおり、金銭を貯めていた。
 「宗教は戦争を嫌い平和を求める」と信じる者は、宗教の本質が見えない狭い教条主義の明き盲である。
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 仏教の僧兵は、キリスト教の戦う教皇庁騎士団や聖教徒騎士団ではなかった。
 仏教寺院の僧兵団は、キリスト教会の異端者や異教徒と絶滅・殲滅・根絶やしにする十字軍でもなあった。
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 2017年9月15日号 週刊ポスト「逆説の日本史 井沢元彦
 近現代編 第三話 大日本帝国の構築 Ⅱ
 宗教の整備と教育勅語 その(20)
 『敵』であるキリスト教を研究し『親近感』すら抱いた僧・島地黙雷(しまじもくらい)
 引き続き、廃仏毀釈以降の明治政府の『宗教の整備』について分析したい。
 ここで注目すべきキーパーソンは島地黙雷(1838〜1911)であろう。勤王僧であった月性(げっしょう)と同じ周防国の出身の浄土真宗本願寺派(いわゆる西本願寺)の僧であり、長州藩出身の志士たちとはきわめて親しかったから、月性の後継者といってもいいだろう。年齢は黙雷のほうが21歳年下である。のちに盟友とも言える関係となった長州の木戸孝允は5最年下、高杉晋作よりは1歳年上である。その高杉が下関戦争で欧米列強に惨敗して武士階級の不甲斐無さに怒り市民軍とも言うべき奇兵隊を結成したとき、その趣旨に賛同して黙雷は僧侶中心の部隊『金剛隊』を結成し戦闘に参加した。
 同じ木戸の盟友であった鴻雪爪(おおとりせつそう)がめざしていたと思われる『僧兵の復活』、そして『戦士だが家に帰れば良き父で夫』という戦国の一向宗の姿を、黙雷は幕末にすでに実現していたのである。高杉の死後、天成の調整家である木戸が自分の『宗教の整備における代理人』に黙雷を選んだのも、『あの男は単なる口舌(こうぜつ)の徒では無い。ともに戦った同志だ』という思いがあったからに違いない。そして、この下関戦争は欧米列強との戦いであり、それはとりもなおさず『キリスト教徒白人』との戦いであったことを、現代人のわれわれは見逃しがちだ。しかし、前にも述べたようにイギリスが清に仕掛けたアヘン戦争はまさに『ヤクザのやりくち』であった。そんな無法国家がキリスト教という『邪教』によって団結し東洋の植民地支配を進めている。それが日本人の共通認識であった。これを朱子学による異文化蔑視のもたらす変見とは言えまい。キリスト教邪教(黙雷は妖教と呼んでいた)であるという決めつけはともかく、『右の頬をぶたれたら左の頬を差し出せ』(『新約聖書』マタイ伝)などという教えを受けたはずのイギリス人が東洋に行なっていることは、『先手を打って右も左も急所も殴り徹底的にぶちのめす』というやり方であった。これはまったくの事実である。この時代になるとキリスト教の内容も断片的ながら日本に伝わっていたが、彼らが東洋に対して行っている蛮行から類推すれば、キリスト教はこのような蛮行を奨励するとんでもない邪教(妖教)ということになる。とくに彼らと実際に戦い、(おそらくは)同志を殺された黙雷はそう痛感したはずだ。そこで本質的には宗教人である黙雷はなんとかこの『妖教の浸潤』を防がねばならないと考えた。しかし、日本が開国政策に転じた以上これまでのように『キリスト教禁教令』を出して『防御』するわけにはいかない。日本の伝統的宗教を強化してキリスト教に対抗するしか無い。ここのところ鴻雪爪の提唱した『内教の強化』に似ているが、決定的な違いは雪爪の言う内教とは神道および仏教に儒教も含みどちらかと言えば『神主仏従』であるのに対し、黙雷はそれを仏教しかも真宗を中心とした『仏主神従』いや『真主神従』にすべきと考えていたことだ。
 黙雷は欧米列強との実戦経験がある。すなわち『日本刀で攘夷(外国排撃)ができる』などと考えるような夢想家つまり『朱子学バカ』では無い。むしろ、その反対で徹底的なリアリストであり、中国に範を求めるなら朱子ではなく孫子を選ぶだろう。その孫子に『敵を知り己を知らば百戦危うからず』とある。戦いに勝つためには敵をじゅうぶんに知らねばならない。
 そのために黙雷が選んだのは、明治初頭に西洋先進国を歴訪した岩倉使節団の一員となり、欧米で宗教の実態調査をすることだった。正確に言えば当初から岩倉使節団に参加同行したのでは無く、後を追う形で渡欧した。資金は西本願寺が負担したのだが、途中岩倉使節団の福地源一郎が特命を受け少数でオスマン帝国の内情を探りに行ったときは、正式に同行している。長州代表の木戸孝允の意向あってのことだろうが、黙雷はキリスト教だけで無くユダヤ教イスラム教まで現地で学んだ。キリスト教の分野では西方のカトリックと東方のギリシャ正教との違いにも注目しているほどだ。『大宗教の東西分裂』ということなら本願寺も同じであり、黙雷にとって他人事では無かったのだろう。また黙雷はヨーロッパから中東のエルサレムにも行った。日本人として初めての訪問だったかもしれない。また帰途インドにも渡り仏跡巡りもしている。そのあたりのことは彼が著した旅行記『航西日策』に詳しい。
 『航西日策』をざっと見てみて印象的なのは、僧侶であるにもかかわす黙雷にとって仏跡巡りはそれほど重要なことでは無く、むしろキリスト教研究が主眼であったということだ。インドの仏跡とは実在の人物ゴータマ・シッダッタ(釈迦如来)の足跡の地であり、釈迦では無く阿弥陀如来を唯一の仏として『選択』した黙雷にとっては、さほど重要では無かったかもしれない。しかし、それ以上に黙雷がキリスト教にのめり込んだのは、岩倉や木戸も驚愕した西洋文明を生み出したのは他ならぬキリスト教であり、妖教などでは無い大宗教だという発見があったからだろう。そればかりで無く黙雷はどうやら『敵』であるはずのキリスト教に『親近感』すら抱いたらしい。それは次のようなことである。

 黙雷は、キリスト教の歴史を、現在へと進化してきたものとして把握した。ミトロジー(神話。黙雷は古神教{こしんきょう}などと訳している)からカトリック(旧教)、そしてプロテスタン(新教)という進化をたどり、進化の頂点に立つ新教が、キリスト教として最高の地位にあるという理解である。そして彼はこの図式を日本にも適応する。ミトロジー神道、旧教に真宗以外の仏教諸宗派、そして新教に真宗をあてて、真宗は、卜占(ぼくせん)や祈?(きとう)を禁じる点、肉食妻帯を認める点そしてなにより阿弥陀仏へ一元的に帰依する点で、『本邦(ほんぽう)の新教』であるという。『日本宗教史』において進化の頂点に立つのは真宗だというのである。(『島地黙雷 「政教分離」をもたらした僧侶』山口輝臣著 山川出版社刊)

 つまり『真宗のほか、日本に宗教らしいものはない。一神教でなければ世界でものはいえず、そして幸いなことに、真宗は一仏である』(引用前掲書)というのが、キリスト教を徹底的に分析研究した黙雷のとりあえずの結論であった。
 しかし、この結論には大きな問題点というか落とし穴があった。それはこの本の著者である山口輝臣九州大学大学院准教授(当時)も指摘していることだが、この結論では真宗とともにキリスト教も優れた宗教ということになってしまう。これではその排撃を正当化するのは難しくなる。実際、後のことだが黙雷はこの件でとんでもない『しっぺ返し』を受ける。黙雷には9人の子供がいた(3人は夭逝{ようせい})が、次男の雷夢がなんとキリスト教に改宗してしまったのだ。
 その理由は雷夢の内心の問題だから今に至るまで不明だが、父親のキリスト教研究の結論である真宗と新教の類似性の指摘が、息子のキリスト教への親近感を生み出したことは間違いないだろう。しかし、その『親近感』はもとは言えば父黙雷がキリスト教に強烈な敵愾心を持っていたから生まれたものだ。だからしっぺ返しなのである。
 『同じ土俵』で戦えば真宗は必ず勝つ
 宗教人としての黙雷の課題は、真宗と新教の類似性の発見などでは無く、仏教とくに真宗キリスト教より優れているという『証明』をすることだったが、彼にはその時間も余裕も無かった。この点は次世代への課題として申し送られることになった。そのことについてはいずれ触れることになるだろう。
 そこで、黙雷がとりあえずめざしたのはなんと『政教分離』『信教の自由』という、近代社会に欠かせない理念による体制の確立であった。黙雷がそれをめざしたのは一見不思議に見えるかもしれないが、真宗絶対主義とも言うべき彼の立場に立ちその視点で見ると理解できる。
 まずライバルである神道に絶対的優位を与えないためだ。国家主導の『宗教の整理』を容認すると、どうしても天皇家と結びついた『神主仏従』の形になってしまう。現に神仏儒の三教融合のスローガンのもとに造られた国家組織『大教院』では、芝の増上寺境内に置かれた礼拝施設も『古事記』に出てくる天地創造の神『造化三神 天之御中主神{あめのみなかぬしのかみ}、郄御産巣日神{たかみむすひのかみ}、神産巣日神{かみむすひのかみ}』に皇室の祖先神である天照大神を合祀したものであり、次のような根本的なルール『三條教憲』を発布した。

 第一條 敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事
 第二條 天理人道ヲ明ニスヘキ事
 第三條 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事
 
 これは明らかに『神主仏従』で『仏』という言葉はどこにも無い。そこで黙雷の主導で多数の信徒を抱える東・西本願寺がここから離脱した。このため大教院は廃止に追い込まれた。黙雷は真宗こそ日本の宗教界の頂点に立つべきもっとも優れた宗教であるから、国家の統制さえ受けず自由競争の状態であるのらば必ず勝てると踏んだのだろう。これはキリスト教についても同じこと。時代に逆行するキリスト教禁教令など必要は無く、むしろ時代に適合した政教分離(=信教の自由)という『同じ土俵』で戦うべきなのである、それで勝てるし勝てば良いのだから。その戦略は『次男の裏切り』という想定外の大誤算も生んだが、全体的には成功であった。日本がキリスト教に染まってしまうという事態はなんとか避けられたからである。
 これは私独自の見解だが、黙雷はそもそもそれほど危機感を抱く必要は無かったと思う。本来キリスト教儀礼であるクリスマスなどがこれだけ『日本の祭り』として取り込まれている現在でも、日本のキリスト教徒は全人口の約1パーセントである(文化庁『宗教統計調査結果』)。日本人の何でも取り入れる『多神教的体質』と、純然たる一神教はそもそも水と油で、キリスト教一神教から来る独善的で排他的な傾向は日本人の精神と根本的に相いれないのだ。真宗だって『一神教』ではないかという疑問が浮かぶかもしれないが、真宗キリスト教の決定的違いは、十字軍を認めたキリスト教と違って真宗は反対者の撲滅を許さない、というところにある。こうした『マイルド』さが真宗が日本人に受け入れられた理由だろう。
 また注目すべきは黙雷が『敵に学ぶ』さまざまな新事業を始めたことである。他の仏教宗派は、前にも述べたとおり肉食妻帯を認めるかどうかで逡巡していたが、すでに鎌倉時代に宗祖親鸞が妻帯に踏み切っている真宗は文字どおり一歩も二歩も先を行っていた。仏前結婚式やミッションスクールをモデルにした仏教系女学校など、黙雷がキリスト教国家で行われていた儀式やシステムを仏教式に改変して日本に受け入れたものである。
 しかし、ここで黙雷もあえて言及を避けていたと思われる重大な問題点について触れておこう。西洋のキリスト教真宗の大きな違いである。それはキリスト教国においては国王や元首がその信者であるのに、日本においては天皇真宗の信者では無いということである。この決定的な違いをいかにして克服すべきか。それは神道を他の宗教とは別物の『天皇家の祭儀あるいは儀礼』としてしまうことである。そうすれば神道真宗が『同じ土俵』で相争うというもっとも憂慮すべき事態も回避することができる。
 そうした運動を進めていた仏教勢力に対し、それを傘下に置こうとするなら一致団結せねばならぬ神道勢力に大きな内紛が起こった。それまで『造化三神プラス天照大神(皇祖神)』の四柱を祭るのが明治政府の神道祭祀だったが、これに対し『幽界の支配者』である大国主命(おおくにぬしのみこと)を合祀し五柱とすべきだという声が『出雲派』の神官たちから上がったのである。
 これを祭祀論争という。」
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 9月22日号 週刊ポスト「逆転の日本史 井沢元彦
 祭神論争とは、明治12年(1879年)、当時国家機関である神道事務局の神殿に『古事記』に登場する『天地創造の神』とも言うべき造化三神天之御中主神高御産巣日神神産巣日神)に皇室の祖先神である天照大神を加え合計『四柱』の神が祭られていたのに対し、当時出雲大社宮司であった千家尊福が『大国主命』も合祀すべきだと主張したことに対して賛否両論の声があがり、神道界を真っ二つに割る大論争に発展したことを指す。
 なぜ『出雲派』は大国主命も合祀すべきだと主張したのか。それは『顕界(げんかい)』の支配者である天照大神に対し、あの世である『幽界(ゆうかい)』を支配するのが大国主命だという教えが、日本神道史のなかで発達を遂げていたからだ。国学者であった本居宣長は『死後の世界』の存在は確信していたが、そのはケガレに満ち何の救いも無い絶望の世界だった。愛妻に先立たれた国学者神道家でもあった平田篤胤は、この『地獄』には耐えられなかったのか、大国主命が『幽界』の支配者で死者はそこへ行って救われると説いた(……)。
 このあたりから大国主命に新しい神格が加わり、出雲系の神社の神官たちは熱烈に支持するようになった。当然、教えは日本中に広まった。千家宮司大国主命の合祀を熱烈に主張したのはそういった背景があった。
 ところが、この論争に出雲派は敗れる。伊勢神宮(祭神は当然、天照大神)を中心に団結した『伊勢派』が断固拒否したからである。
 伊勢派はなぜ拒否したのか?基本的には大国主命を幽界の神とする信仰が、伊勢派の反対を押し切るだけの力を持っていなかったことがある。しかし私が考えるに、なにより大きいのは天照大神にそもそももっとも『ケガレ無き』状態から生まれた神であり、そのもっとも清浄な神に、幽界(死後の世界)のケガレにまみれた神を近づけることは許されないと伊勢派が考えたからではないか。じつはそういうことを書き残した史料は、私の知る限り存在しないのだが、日本の文化に連綿として受け継がれてきた『ケガレ忌避』の伝統が、このときも守られたと私は解釈している。
 もし、このとき神道勢力が『天皇を現人神とする国家神道』をぜひとも立ち上げたいと考えたのなら、この件については伊勢派は出雲派に妥協すべきであったと考える。なぜならば、これから帝国建設のために多数の戦死者(犠牲者)を出すことにあるであろう大日本帝国が、国家として死者を祀る『祭祀権』をいったん放棄してしまったということだからである。
 これは仏教の息の根を止めたかった人々にとってもマイナスであった。薩摩人はそう考え葬儀も神式で行うようになり、国家の葬祭礼儀も神道式に統一しようと考えていたのだが、この結果真宗と連携した長州人を利することになり、仏教は相変わらず『葬祭』つまり『ケガレ部門』を担当するという形で生き残ったからである。もちろん、その陰にはそうした形で生き残りをめざす島地黙雷などの真宗関係者の政治工作がったことも間違いない」
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 出雲大社紫野教会
 「国家神道とは何か
 国家神道という言葉が、内容もよくわからないままに使用され、さらにそれが常識として通用している、というように感じます。
 「明治維新から第二次大戦敗戦までの八十年間、日本の国家、政府は神道を宗教として国民に強制した」というのが現在の世間のおおよその認識であろうと思います。しかし、実はその定義は事実とはかけ離れています。実際に政府が神道において導入したのは「神社非宗教論」だったからです。
 神社が非宗教、と言われると不思議に思われることでしょう。神社って宗教施設だし、そこで行われていることは宗教行為ではないのか、と思うのが自然かもしれません。また、注意しなければならないのは、神道非宗教論ではなく、あくまでも神社ということです。さらに、そもそも宗教という言葉は何を意味するのかということも考えなければなりません。これらの疑問はその当時も問題になり、第二次大戦敗戦まで続きました。
 ともかく、神社非宗教化が行われた歴史を見ていきます。
 国家神道の定義
 このような歴史を追っていくと、とても「国家が神道という宗教を国民に強制した」とはいえない、ということがわかると思います。
 ただ、ここで反論があるかもしれません。「神社がどうなのかという狭義の話ではなく、天皇崇拝、教育勅語靖国神社や海外の神社、宗教弾圧なども含めた広い範囲のものが国家神道として問題視されているのである」と主張する人もいるでしょう。

 日本の近現代インテリに共通するものとして、宗教に対する関心のなさがあるように思います。自分がいわゆる無宗教なのは自由なのですが、他の宗教に対しての理解が薄いのではないでしょうか。教育勅語というのを読んではっきりと思うことは、これは神道ではないということです。天神地祇に誓う、とか神を敬えとか神社に参拝しろとか一切出てきません。もちろん仏教でもキリスト教でもありません。強いて言えば儒教でしょうか。教育勅語というのは道徳の話であって、日本は道徳において儒教の言葉を用いてきましたから当然かもしれません。明治天皇の信任が厚かった儒学者元田永孚が元を作り、伊藤博文の懐刀であった井上毅が宗教色を徹底的に除いています。勅令ではなくて、勅語となっています。中身を見れば、これがなぜ神道と結びつけられているのか不思議です。天皇だからでしょうか。天皇神道国家神道という発想なのかと推測するしかありません。
 なお、明治〜昭和初期の天皇崇敬については、ずっと神道非宗教化を主張し続けた浄土真宗キリスト教でさえも変わりありませんでした。浄土真宗は大谷家という貴種を戴き、東西本願寺門主門首)は伯爵をもらい、また運動して、親鸞に対して見真大師の号を明治天皇から戴いているくらいです。欧州のキリスト教国を見れば王や皇帝がたくさんいました。この二宗派が嫌らったのはとにかく他の神を拝まされる、ということでした。よって、この頃天皇崇敬というのは全宗派当たり前のことでした。当時の日本を国家神道と呼ぶなら、国家仏教でもあり国家キリスト教でもあったと言わなければ片手落ちといえるでしょう。

 靖国神社については別で語るほどの内容であるので一つだけ申しますと、神社を管轄する組織は主に内務省でしたが、靖国神社は創建以来陸海軍省の管轄でした。また、海外の神社については、朝鮮の神社は朝鮮総督府が、台湾の神社は台湾総督府が管轄しました。また、教育については文部省が担当です。今もそうですが、役所の管轄が違えばなかなか統一して効果的な行動が出来ません。神社についてももちろん、各部署が自分たちのやり方、都合でやっていましたので、統一してイデオロギーを吹き込むなどということはできませんでした。

 宗教弾圧について、弾圧した理由を見ていくと、一つには天皇不敬ということがありますが、主因は急に大きくなりすぎて目をつけられた、ということにあります。さらにあまり触れられていない事実として、明治政府は基本啓蒙主義であり、非科学的なことやオカルトを嫌いました。この頃急に大きく大きくなる宗教団体のほとんどすべては、霊能者、霊媒、まじない、占いなどオカルト的要素がありました。これがないと人が集まりません。高僧が入った風呂の水に御利益があると取り合うように持ち帰った、というようなことが珍しくない時代でしたし、医療も不十分で、病気になれば拝み屋さんに頼むしかないという時代でしたから自然なことかもしれません。ただ、明治政府やその官僚には科学的合理主義の思想が強く、オカルト性が強い宗教は、神道的な団体も含めて激しく弾圧されたのです。 」
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 中世キリスト教会とイエズス会などの修道士会は、日本を国ごと民族ごと改宗させる為に日本に有能で敬虔な積極的戦闘的宣教師や修道士を派遣した。
 布教活動資金を持たない宣教師や修道士等は、白人キリスト教徒奴隷商人の日本人奴隷貿易に協力し、高額な仲介料を得た。
 日本人奴隷貿易とは、白人キリスト教徒奴隷商人と日本人商人の間で行われていた、火薬・大砲などの武器と日本人奴隷の交換売買である。
 日本人奴隷を全国とくに西国で、日本人が狩り集めていた。
 日本民族日本人とは、そうした「えげつない」民族である。
 中世キリスト教会とイエズス会などの修道士会は、長崎などで土地を得て教皇領として武装キリスト教軍事要塞都市を建設し、日本から切り離し小国家として独立させようとしていた。
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 国際連合教育科学文化機関ユネスコ)は、日本人を奴隷化して布教活動した中世キリスト教会の子孫であるキリシタンの弾圧と隠れて信仰を守った事を世界記録遺産として後世に残すべきだと認定したが、中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人によって世界中に奴隷として売られた日本人の過酷な歴史は価値がないとして認定していない。
 国際社会も、日本人が行った連合軍捕虜虐待や第1回南京虐殺従軍慰安婦を取り上げて日本を非難するが、中世キリスト教会や白人キリスト教徒奴隷商人が行った日本人奴隷貿易は認めず、なかったものとして歴史の闇に放り込んで抹消した。
 日本人は忘却の民族として、踏んだ事を忘れまいとして実行しなかった事を創作して日本人極悪人史観を煽り立てるが、自虐史観として踏まれた事は綺麗サッパリ忘れる努力をしている。
 日本民族日本人とは、そうした「おぞましい」人間である。
 その象徴が、昭和天皇の戦争責任とA級戦犯達が合祀された靖国神社問題である。
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 国際社会は、日本人奴隷貿易を合法的取引であったとして歴史問題化していない。
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 戦国時代、輸出する日本人奴隷と輸入する武器(火薬・大砲)という奴隷貿易は、中世キリスト教会とイエズス会などの修道士会の仲介で現実に行われていた。
 南蛮交易とは、前半は日本人奴隷貿易・後半は日本人傭兵貿易である。
 日本の鎖国は、南蛮交易を遮断し、日本人奴隷貿易を容認するキリスト教を禁教とする、自衛の国策であった。
 徳川幕府が断行した鎖国キリスト教禁教及び弾圧は、国・民族を護る為の正しい選択であった。
 が、オランダを通じて経教分離の制限付き限定的海外貿易は続けていた。
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 世界を知らない日本人は、論語を読んでも儒教を理解せず、聖書を読んでもキリスト教を理解しない。
 日本人が理解する儒教キリスト教は、表面的に取り繕った綺麗事のみである。
 中華儒教(正統派儒教朱子学)は、聖人君子の漢族でない日本人を無知無能な小人あるいは人にあらざる獣として「倭人」と蔑称で呼び捨てにし、差別し軽蔑し見下していた。
 中世キリスト教会は、日本人を絶対神に愛された白人とは明確に峻別し、日本人を人の姿をした人あらざる下等生物と定め、金銭で売買してもいい奴隷と認めていた。
 日本人は人ではないというのが、世界の常識、人類の認識、歴史的事実であった。
 西洋や中華が日本に求める、「歴史を鑑として歴史に学べ」あるいは「賢者は歴史を学び、愚者は自分の経験を教訓とする」とはそういう事である。
 同様の事を報道して日本を非難・批判する、反天皇反日的日本人記者や反日派外国人報道記者も国内外に数多く存在し、国際世論を反日へと誘導している。
 日本は、西洋や中華が強要する「独善的歴史」を拒絶し否定する必要がある。
 それが、不撓不屈の精神で「個にして立つ」と言う事である。
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 現代日本の内部には、日本人を狩り奴隷として売った大金を稼いだ日本人のような、日本天皇・日本国・日本民族を国際的反日勢力に売り飛ばして利益を得ている日本人が存在する。
 日本は、昔から、大国に媚び諂う利敵裏切り者の日本人が潜んでいる。
 そうした人の道に外れた陰湿にして陰険な利敵裏切り者を「売国奴」と呼んだ。
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 現代の日本はいざ知らず、昔の日本には一切の非はなく非難中傷される謂われもなく、ましてや罪に問われ厳罰や制裁を甘受する責任はない。
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 平和を絶対視する現代日本人と戦争も辞さずの昔の日本人は、全く違う日本人である。
 日本人奴隷貿易に加担する日本人は前者に近く、日本人奴隷貿易を拒絶する日本人は後者である。
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 軍事力・経済力・宗教力で日本人奴隷貿易を行う者に対して、日本人奴隷貿易を止めさせるには、譲歩する平和的な話し合いではなく、戦争覚悟の強硬談判しかない。
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 キリスト教の白人諸国は、軍事・経済の大国・強者であり、文明技術を持った文化度の高い先進国であった。
 日本は、軍事・経済の小国・弱者であり、文明技術も持たない文化度の低い後進国であった。
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 もし、歴史的に報復・復讐する権利があるとすれば、それは白人によって人間以下の扱いを受け、奴隷として世界中に売り飛ばされた日本人にある。
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 日本、アフリカ、中南米は、同じように白人キリスト教徒によって奴隷として売買されたが、その後の歴史は異なる。
 最大の違いは、アフリカ諸国や中南米諸国は諸手を挙げて世界宗教キリスト教を受け入れたが、日本は民族宗教を守ってキリスト教を頑なに拒絶した、事である。
 アフリカ諸国や中南米諸国は欧米列強やロシアにへりくだる安樂な道を選んだが、日本は一国で孤立するという気概を持って自存自衛を貫く茨の道、苦難の道を選択した。
 それは楽な道ではなく苦し道を何故か選びたがる、日本民族日本人の悪い性癖である。
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 日本は小国ながら軍国主義政策を採用して強力な軍隊をつくり、大国であるキリスト教の欧米列強やロシアと国力(軍事力・経済力)で不利と分かっていても勇猛果敢に戦争をした。
 奴隷にされた日本と奴隷にした西洋との戦争で、何処が悪く、何処が戦争犯罪となるのか。
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 無宗教国家神道は、日本人を奴隷とした中世キリスト教会から日本天皇・日本国・日本民族・日本の伝統・文化・宗教・言語・習慣・風習を守る為の自衛的楯であった。
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 長州藩長門国周防国)・毛利家は、勤皇として天皇家・皇室を敬い、敬虔な仏教徒として浄土真宗本願寺派西本願寺と強い絆を結んでいた。
 国家神道をつくったのは、明治政府内で仏教色が強かった長州系高官達であった。
 靖国神社の原型は長州系神社であったが、明治天皇はそれを日本民族氏神・祖先神信仰の総氏神神社にかえた。
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 廃仏毀釈を徹底して行ったのは薩摩系高官で、出身地の鹿児島県にあった全ての寺院は徹底的に破壊された。
 長州系高官達は、行き過ぎた廃仏毀釈を止めさせ、神道を仏教と儒教で管理・監視する無宗教の「国家神道」を創設した。
 明治から戦前まで表面的には神道国家神道が覆っている様に見えていたが、その実、宗教・精神面は仏教が、道徳・修身面は儒教が、それぞれ支配していた。



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