⛩28)29)─1─平安神宮。第50代桓武天皇、第121代孝明天皇。明治28(18953)年に創建。平安神宮放火事件。〜No.65No.66No.67No.68  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
 男系天皇は、唯一無二にしして神聖不可侵の神の裔である。
 女系天皇や女系宮家では、正統な神の裔にはなれない。
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 日本には、古代から、天皇への忠誠を拒否し、日本国への愛着を持たない日本人や渡来人が少なからず存在し活動していた。
 ヤマト王権大和朝廷は、中国や朝鮮に対抗する為に日本を一つにまとめるべく、前方後円墳、文化、物品、金銭などの統一規格を全国に広め、地方の有力豪族との姻戚関係を行った。
 日本の統一は、非暴力方法で行われた。
 日本統一の過程で、特殊な血筋・血統を正統とする特別な一系統の家系を大王家・天皇家・皇室とした。
 それが、万世一系男系天皇(直系長子相続)である。
 正統な血筋・血統とは、最高神である女性神天照大神の血筋・血統の事である。
 一系統の家系のみを神聖不可侵としたのは、日本国の揺るぎない心柱にする為であった。
 その陰で、日本では中国や朝鮮のような王朝交代と大虐殺は起きなかった。
 日本は、万世一系男系天皇が途絶える事なく続いたお陰で平和で、穏やかで、ゆっくりと時代が続き、日本民族日本人は生き幸せに、豊かに、死んで行った。
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 第20代安康天皇は、即位3年8月9日に皇后の連れ子である眉輪王(7歳)に暗殺された。
安康天皇実弟大泊瀬皇子は、眉輪王を含めた多くの皇族を殺して、第21代雄略天皇として即位した。
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 第32代崇峻天皇は、即位5年11月3日(592年12月12日)に、朝鮮渡来人の東漢駒(やまとのあやのこま)によって暗殺された。
 蘇我馬子は、多数の皇族・群臣の同意を得た上で天皇暗殺を東漢駒に命じた、宮廷クーデターであった。
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 弘仁新羅の乱、弘仁11(820)年。
 新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で反乱を起こした。
 天皇への忠誠を拒否した渡来人達は、地方の反大和・反天皇勢力と結びつき反乱を起こしていた。
 帰化人達は、反天皇反日的渡来人達を滅ぼしていった。
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 親日派知日派は、百済高句麗・古新羅渤海であった。
 反日派敵日派は、統一新羅・高麗・李氏朝鮮(朝鮮)・大韓帝国であった。
 韓国・朝鮮には、親日派知日派も存在しない。
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 第50代桓武天皇 誕生 天平9(737)年。即位 天応元年4月13日(781年5月10日) 崩御 延暦25年3月17日(806年4月9日
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 平安神宮について
日本文化の祖神さま平安神宮
 ●ご祭神
 第50の代 桓武天皇
 桓武天皇光仁天皇の皇子として天平9年(西暦737年)にご誕生され天応元年(西暦781年)に第50代の天皇として即位されました。英明な天皇平城京の規模が小さく、日本の国都として適していないことを察せられ、まず山背国(山城)乙訓郡長岡に都をおうつしになり、さらに最も都に適した処として、延暦12年(西暦793年)同国葛野・愛宕両郡を選び都の造営を始められました。翌13年10月22日新京にうつられた天皇は、ここを平安京と称せられ、延暦15年はじめて大極殿において百官の拝賀を受けられたのです。
 桓武天皇は在位25年の間に律令を正し難民を救済し、文教を興しよく内政を整えられるとともに広く海外とも交易して大いに我が国の発展に努められました。以来京都は明治に至る1千余年の間、日本の国都として栄えてきたのです。天皇延暦25年(西暦806年)に崩御せられ、御陵は柏原陵(京都市伏見区桃山)です。
 第121代 孝明天皇
 孝明天皇仁孝天皇の皇子として天保2年(西暦1831年)にご誕生され、弘化4年(西暦1847年)に第121代の天皇として即位されました。天皇の治世は近代日本の胎動期で、幕末の内外騒然とした誠に難しい時期でありましたが、天皇はよく世の推移を察せられ、明治維新の基を開かれました。「さまざまに泣きみ笑ひみ語りあふも国を思ひつ民おもふ為」と憂国済民の熱い志を抱かれつつ、慶応2年(西暦1866年)12月25日、36才の若さをもって崩御せられました。御陵は後月輪東山陵京都市東山区泉涌寺)です。
 ●創建由緒
 創建 
 明治28年3月15日 皇紀2555年 西暦1895年
 平安神宮は平安遷都1100年を記念して、明治28年に遷都のおや神様である第50代桓武天皇をご祭神として創建されました。
 当時、京都の衰退ぶりは目を覆うものがありました。幕末の戦乱で市街地は荒廃し、明治維新によって事実上首都が東京へ遷ったことは人々の心に大きな打撃を与えました。
 その状況下で京都を救ったのは、京都復興への市民の「情熱」と全国の人々の京都に対する「思い入れ」でした。数々の復興事業を展開し、教育、文化、産業、生活などすべての面において新しい京都が模索され、同時に古き良き京都の維持継承に力が注がれたのです。
 これらの熱意と一連の町おこし事業が見事に結実して、平安神宮が創建されました。
 千年以上も栄え続けた雅やかな京都を後世に伝えるために、京都復興にかけた多くの人々の遺志を後世に伝えるために、四海平安の祈りを込めて創建されたのです。
 その後、皇紀2600年にあたる昭和15年には、市民の懇意によって平安京有終の天皇、第121代孝明天皇のご神霊が合わせ祀られ、「日本文化のふるさと京都」のおや神様として広く崇敬を集めることとなりました。
 ●社殿
 平安神宮の社殿は、桓武天皇が開かれた当時の平安京の正庁、朝堂院が約8分の5の規模で再現されています。大極殿(だいごくでん・外拝殿)・応天門(おうてんもん・神門)・蒼龍楼(そうりゅうろう)・白虎楼(びゃっころう)・歩廊・龍尾壇(りゅうびだん)などは明治28年(西暦1895年)の創建当時に造営されたものです。
 その後昭和15年(西暦1940年)孝明天皇ご鎮座にあたり、本殿・祝詞殿・内拝殿・翼舎・神楽殿(かぐらでん・儀式殿)・額殿(がくでん)・内外歩廊斎館(祭典の為参篭する館)・社務所などが増改築され、これまでの社殿も大修理が行われました。また、昭和50年からは主要な建物の屋根葺替が行われ、この間51年に社殿の一部が災禍に会いましたが、54年にはその復興もあわせて完成し現在のような壮麗な社頭が整いました。
 ここを訪れた方には、今から1200年前、京都が生まれたばかりの風景をさながらに体感し、大宮人の気持ちを彷彿していただくことができるのです。
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 京都三大祭 時代祭
 ●時代祭とは…
 時代祭は、毎年10月22日(雨天順延)に行われる平安神宮の大祭で、京都が日本の首都として千有余年にわたって培ってきた伝統工芸技術の粋を、動く歴史風俗絵巻として内外に披露することを主眼としています。このため各時代行列に使用する衣裳や祭具の一つ一つが、厳密な時代考証をもとに作製された"本物"であるところにその特徴があります。 山国隊の奏する笛、太鼓の音色を先頭に約2,000名・約2キロにわたる 行列は順次、明治維新時代から平安京の造営された延暦時代にさかのぼり、歴史と伝統の都・京都三大祭の1つとして、京都の秋を代表する祭となっています。
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 時代祭の由緒
 時代祭の創始と都人の誇り
 時代祭は、平安神宮の創建と平安遷都1100年紀念祭を奉祝する行事として、明治28年に始まりました。明治維新によって著しい衰退を見せた京都の町おこし事業の集大成として平安神宮が創建され、そこに寄せられた人々の熱意の象徴として、まったく同じ意志のもとに創始されたのが時代祭です。
 その意志は、京都の誕生日10月22日に「一目で京の都の歴史と文化が理解できるものを」「京都をおいて他にはまねのできないものを」というもので、京都人の心意気と誇りがふんだんに織り込まれています。
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 全市民奉仕の「平安講社」
 時代祭行列は、京都全市域からなる市民組織「平安講社」(全11社)によって運営されています。当初は6列、人員500名の規模でしたが、現在では明治維新時代、江戸時代、安土桃山時代室町時代、吉野時代、鎌倉時代、藤原時代、延暦時代の8の時代を20の行列に分けて1列ずつ担当しているほか、江戸時代婦人列、中世婦人列、平安時代婦人列は京都の5花街が輪番で奉仕するなど、総勢で約2000名もの人々が参加する一大行列となっています。
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 遥かな「平安」の祈り
 そしてこの祭りの真の意義は、この壮大な行列が神幸列にお供する祭列であるということです。
 つまり平安神宮のご祭神、桓武天皇孝明天皇のご神霊に京都市中を巡行していただき、市民の暮らしぶりを親しくご覧いただく事と、京都全市民が心を一つにゆくさきの平安を祈る祭礼、それが時代祭なのです。
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 平安神宮の初詣情報
 大鳥居は京都のランドマークの一つ。「時代祭」でも有名
 平安遷都1100年を記念し創建。桓武・孝明両天皇を祭神とする。幕末の戦乱によって荒廃した京都で、市民の熱意による町おこしの結晶として創建された。社殿は平安京の正庁を模しており、白砂に朱色の柱が映える。社殿のまわりには約3万平方メートルの広さの日本庭園・神苑があり、サクラやハナショウブなどが季節を彩る。10月に開催の「時代祭」は京都三大祭りの一つ。ご利益は、開運招福・商売繁盛・厄除け・縁結び・学業成就。大晦日は境内すべての灯籠に火を灯す終夜万燈が行われ、1月1日6:00からは歳旦祭が開かれる。
 例年の人出 約50万人
 人気度 全国2位 京都府内で1位
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 ウィキペディア
 平安神宮放火事件(へいあんじんぐうほうかじけん)は、1976年(昭和51年)1月6日に京都市左京区平安神宮で発生した放火テロ事件で、日本の新左翼活動家である加藤三郎が起こした事件である。
 建造物の来歴
平安神宮は1895年(明治28年)に「平安建都1100年記念事業」として創建された神社で、平安京を建都した桓武天皇を祀っている。加藤は「自らの権威誇示のため、民百姓に塗炭の苦しみを与えるような平安京を造営し、また領土的野心のために蝦夷を侵略し、蝦夷人を虐殺・奴隷化した」桓武天皇を祭神として祀ることは「神」に対する冒涜と思い込んだ。やがてその思いが高じて平安神宮へ放火するに至った。
 事件の概要
 加藤は1976年の正月三箇日の初詣参拝客にまぎれ事前偵察を行った。そして犯行は1976年1月6日午前3時35分頃行われた。加藤は平安神宮内拝殿へ放火し逃亡した。京都市消防局は最高レベルの「全出動」を発令し、市内各消防署、消防団から消防車が駆けつけたが、既に内拝殿や本殿に燃え移っており、外拝殿(大極殿)への延焼を食い止めるのがやっとであった。
 平安神宮は明治時代の創建であったため文化財指定を受けておらず、当時の消防法の規定では自動火災報知設備の設置が義務付けられていなかった。そのため発見が遅れ、大火事となってしまった。
 その後、加藤は平安神宮の近くにあった京都会館京都市美術館に犯行声明の電話をかけ、闘争の存在を誇示した。ところが「電話があった」という報道しかされず、あまり話題にならなかった。
 続いて2月11日に、加藤は「世界赤軍日本人部隊・闇の土蜘蛛」名義の犯行声明文を新聞社に郵送した。犯行声明文には「桓武朝廷軍による蝦夷征伐を継承する天皇制日本帝国に対して宣戦布告する」旨が記されていた。しかし、何日経っても犯行声明文が公表されることはなかった。
 実際はただのイタズラ電話だと判断されただけだったが、加藤はこれらの過程で「反天皇制闘争」を黙殺して葬り去ろうとする「天皇制日本国家の陰謀」と感じ、ますます敵対意識を強めることになった。その結果、加藤は黙殺できない大きな事件を起こすため爆弾テロを行うことになった。
 本事件の最高裁判例(最高裁平成元年7月14日第三小法廷決定)は、刑法学上、現住建造物放火罪(刑法108条)における建造物の現住性の判断において重要な判例とされている。
 第一審(東京地判昭和61年7月4日判時1214号34頁)、控訴審(東京高判昭和63年4月19日判時1280号49頁)ともに現住建造物放火罪の成立が認められたことに対し、弁護人は、「平安神宮社殿は、人が現住していた社務所などの建物とは別個の建造物であるから非現住建造物放火罪が成立するにとどまる」旨を主張して上告した。しかし最高裁は放火された社殿が、現住建造物である社務所などと物理的機能的に一体性を有するので現住建造物であると判断して、弁護人の上告を棄却し現住建造物放火罪の成立を認めている。  ・  ・  
 反皇室闘争(はんこうしつとうそう)とは、日本の新左翼による政治闘争の一つ。
『警察学論集』(警察大学校編 1989年5月号)では、反皇室闘争を「革命運動の一環として皇室の存在を否定し、暴力的な手段でその廃絶を企図する各種の活動」と定義付けている。
 本項では、皇室を標的とした非合法活動について解説する。
 沿革
 戦後、共産主義活動が合法化され、左翼団体が再建・結成された。しかし戦後混乱期の下では経済的要求が主要テーマであり、新憲法公布によって象徴天皇制となった皇室は、国民の支持を得ることとなった。
 1970年代
 1957年以降、新左翼勢力が台頭してきたが、新左翼が公然と反皇室闘争を掲げるようになったのは1960年代後半になってからである。
 例えば中核派は、機関紙「前進」で「自党派こそが天皇制と闘ってきた革命党」と自負し、その淵源を1967年より始まった建国記念の日反対闘争としている。
 1970年代に入ると更に過激化し、第1次坂下門乱入事件や第2次坂下門乱入事件など皇室関連施設を狙ったテロ事件が発生し、遂には皇太子御夫妻に危害を加えようとしたひめゆりの塔事件や昭和天皇暗殺を企図した東アジア反日武装戦線の虹作戦まで起こるに至った。
 このように反皇室闘争は、「君主制の是非」云々というよりは「昭和天皇の戦争責任追及」など実質的に「昭和天皇糾弾闘争」の側面が強かった。昭和末期になって、ようやく「天皇という制度に反対する闘争」という側面を前面に出し、皇位継承となっても反皇室闘争が継続できるよう理論構築が迫られることになった。
 昭和末期と平成初期
 1988年9月に昭和天皇が重病になったことで、反皇室闘争は一つの転機を迎えることになった。
 当時の新左翼は、昭和天皇の命日を一種のハルマゲドン・終末として捉え、「天皇が死んだら白色テロの嵐が吹き荒れ、左翼は皆殺しにされ、ファシズム政権が樹立される」というプロパガンダが当時の左翼の間で横溢し、異様なカルト的悲壮感が漂っていた。当時の闘争の渦中にあり、現在はファシストに転向した外山恒一は、「今思えば、天皇が死んでなんで右翼が暴れなきゃならないのか」「一から十まで脈絡が意味不明」「まるでオカルト」と当時を振り返っている。
 新左翼各派は彼らの主要闘争である三里塚闘争と結び付けて「天皇制打倒」を呼号し、この時期に数多くのテロ事件を起こし続けた。
 また特定の党派に属さないノンセクト・ラジカルの中にも、この時期に反天皇制運動連絡会反天皇制全国個人共闘・秋の嵐など、反皇室闘争と主要テーマとして掲げる組織が登場している。
 現状
 現在、反皇室闘争は縮小の一途を辿っている。これは象徴天皇制が国民の間に定着したことが主要な理由であるが、新左翼運動全体の退潮により活動家の高齢化が進行し、過激な闘争を展開できる人物が激減しているのも原因の一つである。
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