⚔49)─1─江戸時代、幕府に「鎖国」という言葉は存在しなかった。~No.211 

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 2021年9月18日 MicrosoftNews JBpress「江戸時代、幕府に「鎖国」という言葉は存在しなかった
 玉木 俊明
 © JBpress 提供 1824~1825年頃に描かれた出島の鳥瞰図(アイザック・ティッチング, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
 江戸時代の日本は、一般に「鎖国」政策をとっていたと言われます。じつはこの「鎖国」という用語は、五代将軍・徳川綱吉の時代に2年ほど出島に滞在していたドイツ人の医師エンゲルベルト・ケンペル(1651〜1716)が著した『日本誌』のなかで使った言葉だとされます。
 より正確には、1801年にケンペルの著書の中の一部をオランダ語版から翻訳した蘭学者の志筑忠雄が、それを「鎖国論」という題にしたことが、「鎖国」という言葉の始まりでした。
 つまり、江戸幕府が「鎖国」という言葉を使ったり、公式に「他国との貿易をやめ、国を閉ざす」などと宣言したりしたことは一度もありませんでした。鎖国という言葉が一般に知られるようになるのは明治時代になってからのことでした。
 日本の鎖国と中国の海禁政策、違いはどこにあったのか
鎖国」という言葉には、なんとなく海外諸国と完全に断交したようなイメージがありますが、当時の日本は完全に国を閉ざしていたわけではありませんでした。
 日本は、長崎、対馬、薩摩、松前の「四つの口」を通じて海外とつながっており、そこを窓口に幕府の管理下で貿易が行われていました。
 対外交易を一部の場所だけに限定する「海禁政策」は、実は当時のアジアでよく見られたものでした。要するに、民間の自由な貿易を禁じ、国家が貿易を管理する体制だったのです。たとえば中国では、明朝~清朝の時代に海禁政策がとられていました。その時々によって厳格化されたり緩和されたりしていましたが、1757年、清朝乾隆帝の時代には、外国との貿易を広州一港に限定し、貿易は特許を与えられた商人だけに認められ、政府が貿易の管理をする体制にしました。これは、日本の鎖国体制下の貿易と似た側面を持っていました。
 国家が貿易を管理するとは、考えてみれば当然のことです。そしてそれが可能だったのは中央集権体制が進んでいたからです。
 すでに日本の律令制度を論じたときに(連載第72回)、中国では皇帝の独裁政治による中央集権体制が整っていったと述べました。
 (参考)中国の最新鋭国家運営システム「律令制」はなぜ日本で消滅した
 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65928
 それに対し日本で中央集権体制が整い始めるのは、織田信長(1534〜1582)と豊臣秀吉(1536/37〜1598)の時代になってからのことでした。
 家臣の功績や力量に応じて領地や領民を与えていくのが信長が築いたシステム
 信長は、家臣の個々人の力量に応じて、領地・領民・城郭を預けるという政策をとりました。家臣はこれらを私有しているのではなく、信長から「預かって」いるにすぎないという関係です。こうして、家臣と領地との関係は中世と比較して薄くなりました。これは、本来なら封建制の否定といえるほどの事態です。
 信長は容易に家臣の領地を替え、自身が征服した土地を家臣に預けることができました。この政策を踏襲したのが、秀吉でした。秀吉が家康を駿河から関東に移動させることができたのは、信長のこの政策を受け継いでいたからでしょう。
 秀吉は政策面でも信長の後継者と言えました。逆に言えば、秀吉の政策は信長の発想と似ています。もし本能寺の変がなく信長が天下を統一していたなら、おそらく秀吉の朝鮮出兵と同様に海外遠征を実行していたことでしょう。
 秀吉の失敗を見て家康が新たに創出したシステム
 家康がつくった徳川幕府もまた、信長の政策を継承し、国替えを実施しました。国替えされた大名は、そのたびに力を削がれます。幕府に牙をむく可能性がある大名は江戸から離れた地に国替えさせられますし、わざと力のある大名の領地と隣接する地に封じられました。こうして徳川幕府は、反乱の芽を事前に摘み取っていったのです。
 この「国替え」によって、中世ヨーロッパでは当たり前だった領主と領地が結びついた封建制とは様相の異なる日本独自の封建制が築かれます。
 「海禁」という政策は、このような状況において実行されたのです。
 秀吉や家康が天下統一を成し遂げる前の戦国時代、各武将の国家運営は、領地がどんどん大きくなるという拡大のシステムに基づいていました。戦いで功績を挙げた武将はより広い領地が与えられる。信長や秀吉といった権力者は、配下の武将に分け与える領地を確保しなければなりません。しかし、国土が一定である以上、このシステムはどこかで必ず行き詰ります。
 そして秀吉は、実際に武将たちに配分する土地がなくなってしまったのです。そこで目をつけたのが朝鮮半島でした。部下に分け与える土地を求め、秀吉は朝鮮に大規模な出兵を行いました。ところがこれが大失敗でした。秀吉は朝鮮出兵で大量の人命と巨額の資金を失ってしまったのです。
 この失敗を目撃した家康が、自らの天下統一後に創出しなければなかったのは、戦国時代とは異なる、拡大を前提としない統治システムでした。帝国主義的拡大を前提としていたヨーロッパのシステムとは異なるこの仕組みは、国替えや参勤交代などを駆使して、大名が突出した力を持つことを抑えつつ、功績のあった者には報いるというものでした。そしてまた「海禁」も、徳川幕府の拡大を前提としないシステムの一環だったと言えるのです。
 海外との貿易に熱心だった家康だったが・・・
 江戸幕府を開いた徳川家康は、当初、外国との貿易に非常に積極的でした。明やタイ、カンボジアベトナムとの通商にも積極的でしたし、スペイン人が運航するマニラ船に対して関東に寄港するようかなり熱心に誘致したようです。
 江戸時代が始まった頃の日本では、中国から綿、砂糖、生糸、茶などを輸入しており、貿易収支は赤字でした。それを補填するため、日本は銀を輸出せざるを得ませんでした。17世紀前半の日本の銀産出高は、世界の3分の1を占めていたとも言われています。
 これは日本に大量の銀があるうちは問題なかったのですが、あまりに大量の銀が流出し、また国内の金山・銀山の産出量が大きく減少してきたため、国内で使用する銀が不足する事態に直面することになりました。
 そこで徳川幕府は、金や銀の海外流出を完全にストップさせることにしました。同時に日本経済は「大転換」を余儀なくされることになりました。
 すなわち、銀輸出量が減少し、海外からの輸入が難しくなったため、日本は、中国から輸入されていた綿、砂糖、生糸、茶、さらに朝鮮から輸入されていた朝鮮人蔘などを国内生産に切り替えるようになったのです。いわば、輸入代替産業を発展させることになったのです。長期的にみれば、これは日本の産業革命に大きく貢献することになりました。
 これらの商品作物の栽培に日本の気候は適しているとは言えませんでしたが、徐々に綿、砂糖、生糸、茶、朝鮮人蔘などの国産化に成功していきます。朝鮮との貿易は、朝鮮人蔘の国産化により大きく減少したのです。
 時代が下がって明治時代になると綿、砂糖、生糸、茶は、日本の主要な輸出品にまでなります。江戸時代、銀産出量減少に伴い、やむなく国産化に取り組んだことで、結果的に日本は重要な輸出品を獲得することができたと言えるのです。日本は江戸時代のうちに、欧米経済に追いつくための潜在力を身に付けていたという見方も成り立つのです。
 銀の流出を抑制するのが「鎖国」化の狙い
 このように、銀の産出量の減少に伴い、日本の対外貿易は縮小されました。日本の「鎖国」化は、キリスト教布教を名目に日本を植民地化することを狙っていた西欧諸国を排除するという目的もありましたが、幕府が貿易を管理し、銀の流出を防止するというのも大きな狙いでした。第一、各地の大名が勝手に外国と貿易をし始めると、幕府を脅かす力をつけることにもなりかねません。それは絶対に避けなければならない事態でした。
 このような状況のもと、日本の海禁政策は進んでいきました。
 一方、同じ海禁政策と言っても、中国のそれはずいぶん違っていました。中国では明朝や清朝が管理する正式な貿易以外に、実は民間の貿易もかなり発展していたのです。
 スウェーデン人の歴史家リサ・ヘルマンの研究によれば、海禁政策をとっていた当時の中国政府は、広州に4〜5名の通訳しか置いていなかったそうです。中国人商人と外国人商人は、この政府から派遣された通訳を介してコミュニケーションをとらなければなりませんでした。しかし、これでははっきりいって人数が足りません。唯一の外国貿易港である広州の貿易量が増大すると、役人たちはアシスタントを雇うほかありませんでした。
 「外国語を話せる中国商人はほとんどいなかったので、英語ないしポルトガル語を話すことができる人を雇っていた。だから、フランス人、オランダ人、デンマーク人は、このどちらかの言語を話す必要があった」というイギリス人の記録もあります。通訳を介すると、商売の条件などが役人に筒抜けになります。中国の商人も、ヨーロッパの商人も、本心ではこの通訳の介在を喜んではいませんでした。
 そのうちに、中国の役人の干渉を避けるために、中国商人とヨーロッパ商人は共通の「言語」を創出するようになりました。これは、中国語やマレー語、ポルトガル語、英語などを合成した、人工的な言語でした。この言語でのコミュニケーションなら通訳は必要ありません
 商人たちは自力で国家の干渉を受けない言語をつくり、独自の貿易ネットワークを形成し、ビジネスを続けていったのです。
 ヨーロッパ人は、このような工夫をして中国との自由な貿易を確保しました。しかし、同じような工夫は日本に対してはしていません。それは、ヨーロッパ人にとって、中国は日本よりはるかに重要な取引相手だったからです。貿易をめぐって、二国の海禁の実情は大きく違っていたのです。
 日本は、しょせん極東の島国でした。一方、中国は世界一豊かな国であり、ヨーロッパ人は何としてでも中国での貿易で利益を得ようとしました。西欧諸国の中では唯一、日本との独占的貿易を続けていたオランダにとっても、この商売はそれほど利益の出るものではなかったようです。
 『見開き2ページでわかる! 「世界史×日本史」エピソード100』(玉木俊明著、星海社新書)© JBpress 提供 『見開き2ページでわかる! 「世界史×日本史」エピソード100』(玉木俊明著、星海社新書)
 われわれ日本人は、「鎖国」という対外政策を非常に重要な意味を持つものとして教わってきました。そして、対外的に閉ざされていたこの時代に、西欧諸国で唯一貿易を続けていたオランダの関係を非常に重要なものと捉えがちです。
 しかしそもそも徳川幕府が対外貿易を縮小させる方向に舵を切っていましたし、「四つの口」の存在が示すように、必ずしも外国に対して閉ざされていたわけではありません。そして、出島で日本と接点を維持し続けたオランダにとっては、実は中国のほうがより大事な貿易相手でした。
 江戸幕府による鎖国と、明朝・清朝海禁政策。一見、極めて似た政策でしたが、その狙いはずいぶん違うものでした。そこには、当時の日本と中国の「国力の差」が反映されていたと言うべきなのかもしれません。」
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🌏50)─1─明治新政府・大日本帝国・国民国家の骨組みは長州藩の「尊皇攘夷」であった。~No.171No.172No.173 ⑯ 

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 明治の専横的藩閥政治体制は、大雑把に、4割が長州、2割が薩摩、残りの4割が土佐・肥後の討幕派、公家、旧幕府と佐幕派、そして庶民からできていた。
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 2021年9月17日号 週刊朝日司馬遼太郎もうひとつの幕末史 講演録再録
 (1989年12月3日 山口市民会館ホール 山口県文書館開館30周年記念事業 原題=歴史の中の防長2州)
 戦国から幕末の『防長二州』
 幕末の勝利者は『薩長土肥』だが、討幕の主役は長州だろう。司馬さんは戦国から幕末までの長州の特異性を語る。明治国家にさきがけ、すでに国民国家が成立していたという。
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 私がはじめて山口県を訪れたのは昭和30年代のはじめごろだと思います。長州というところは、風土として、お行儀のいいところですね。
 ……
 今日は山口県の方々に、自分たちの風土を思い出していただきたいと思います。長州の原形を考えていきたいのですが、まず長州人の顔の話からしましょう。
 長洲人には整った顔が多いと昔から言われています。
 美男美女が多いという。これは外国人が見てもそうだったんです。
 明治初期、御雇(おやとい)外国人にチェンバレンという人がいました。東京帝大の文学部、言語学の教授でした。朝鮮語を学び、アイヌ語を研究もし、日本語がどこから来たかということも研究した人です。チェンバレンは日本人の顔には2つあるといっております。
 薩摩タイプと長州タイプだと。薩摩人はお芋さんみたいだけど、長州はノーブルで整った顔をしていると言っています。
 長洲人は教養が高いが現実把握にやや欠ける
 チェンバレンが日本に来たころは薩長の天下で、東京で偉い人といえば薩摩人と長洲人でした。薩長の顔ばかり見ていたものだから、2つのタイプがあると思ったのかもしれません。日本人のルーツを考え、南方系と北方系、あるいは渡来系のちがいを言いたかったのかもしれません。
 明治維新を起こしたのは、その薩摩と長州、それと土佐でした。ほかの藩にも優秀な個人はいましたが、この3藩は面として、グループとして優秀でした。時勢に敏感で、危機感覚に優れていたといいましょうか。もっとも3藩とも非常に性格が違ったグループではあります。たとえば西郷隆盛明治維新の代表的な顔です。長州の顔は高杉晋作でしたが、維新寸前に亡くなった。そのため薩摩の顔が維新の顔になった。
 西郷さんはいまの社会に生まれていれば、とても山口高校には入学できませんな。西郷という人は、型どおりにはできていない。
 これは薩摩全体の風でもあります。侍に勉強させると屁理屈ばかり言って弱くなるというのが、戦国末期からの薩摩の方針でした。
 ところが長州はよく藩士に勉強させる藩でした。幕末もそれ以前もそうでして、庶民もよく勉強しました。農民に至るまでレベルの高い土地柄だったのです。しかし人間というのは難しいですね。勉強したからといって、ものがわかるわけではありません。
 長洲人は教養が高いのに、現実把握に欠けるところがありました。この点ではずいぶん薩摩がすぐれていた。そのため長州はずいぶん痛い目にあっています。これは長州の場合、自分たちが身につけていた教養が邪魔したからだと思われます。当時の教養とは、朱子学です。道学ともいい、人に道を教えます。黒といえば黒、白といえば白、グレーの世界はないと教える。しかし現実は白黒で割り切れるものではありません。すべての人の価値観はグレーともいえます。
 長洲人は攘夷、攘夷で燃え上がりました。長洲人は論理的でありすぎるところがありますから、全藩が攘夷で沸騰した。ここまでは朱子学イデオロギーの世界ですね。
 ところがイギリス以下4ヵ国の艦隊と下関で戦いまして、これで長州の攘夷は終わりました。
 外国は強い、攘夷と言ってる場合じゃないんだと、大転換した。朱子学的なイデオロギーで凝り固まっていたら、この転換はありえません。ほどほどに朱子学を学んだよさでした。薩摩に比べればやはり頭でっかちではありましたが。
 しかしどうして、そんなに長洲人は勉強が好きで、農民に至るまで民度が高かったのでしょう。
 もともと中国地方は先進地域でした。4、5世紀に鉄の国内生産が始まります。鉄が国産化され、木製だった鍬(くわ)が鉄製になります。実りが多くなる。鉄は農業革命を起こしたんですね。その鉄は中国地方の山中、出雲や広島県の三次(みよし)地方などで生産されました。鉄の生産があると、その付近はまたたくまに水田が広がります。人口が増えて社会の密度が濃くなり、人間の知能が発達します。
 岡山県広島県の東部は古代では、吉備(きび)国と呼ばれていました。古代では、出雲、大和、それに吉備国に力がありました。大和に対抗する一大勢力でしたが、奈良朝時代には衰え、ローカルな存在になってしまいます。しかし人材はそこに残りました。伝統があり、民度の高い中国地方を毛利氏は従えたわけです。
 中国地方というのは、11ヵ国ありました。いまで言えば、島根、鳥取、山口、広島。岡山。毛利氏の領土は、しれに兵庫県まで入ります。
 豊臣秀吉織田信長の代官として、中国攻めに向かいます。毛利征伐ですね。その最前線は兵庫県でした。毛利の本拠は広島です。兵庫県ですったもんだやっているうちに、毛利の本隊は岡山まで進出する。そして両軍がにらみあっているうちに、本能寺の変がおこります。和議を結んで、秀吉は岡山から『大返し』をします。山城(京都府)の山崎へ向かい、明智光秀と決戦して勝つのはご存じのとおりですが、このとき秀吉がしくりに言った言葉が、『中国者の律儀』でした。
 中国者は口に出したら実行するし、だまさないという。毛利元就だって、岡山の宇喜多直家だって、実に陰険な権謀術策もやってはいます。しかし、中国者というのは概して、うそはつかないらしいよいう印象が戦国時代にはあったようですね。
 その言葉は秀吉の死後に証明されることになります。毛利元就の領地は、中国地方の大部分を占めていました。元就の死後に秀吉の勢力下に入り、なおも大勢力であり続けた。豊臣恩顧の大名たちが次々と離反するなか、関ケ原の戦いを迎えます。
 毛利は西軍につきました。しかし総帥の毛利輝元は経験もなく、家康と天下の取り合いをする能力はありません。大軍を擁しつつも、軍配は石田三成にあずけました。
 三成にとって毛利の存在は大きかった。三成の領土は琵琶湖の周辺で、19万石ほどしかありません。
 対する徳川家康は255万石は持っている。たとえ家康が一回ぐらい負けたとしても、家康と一緒にやっていればそのうち恩賞をもらえると考える人がいても当然です。19万石ではそうはいかない。しかし、あの毛利が応援するという。毛利という大資本が後ろ盾になってくれることで、三成の振り出す小切手が信用された。あれだけの大きな戦いになりました。
 しかし、石田三成に味方したものの、関ケ原の毛利勢は一兵も、一発も鉄砲も撃ちませんでした。
 毛利軍を率いてきたのは、吉川広家という人でした。この人は賢い人でしたから、けっして石田の天下にはならない、なっても弱い天下だと思っていました。
 ……
 さて、本家の毛利家は大変なことになりました。広大な領土を取り上げられ、防長2州に押し込められることになりました。しかし、旧領地の侍たちはみな山口を目指しました。給料が下がるかもしれないし、もしかしたらもらえないかもしれない。もらえなくてもいいという人もいて、その人たちは百姓になりました。とにかく本家についてきた。
 律義の本領ですね。山野を開拓し、海を干拓し、少ない石高を増やし続けた。そういう人々が幕末の長州藩をつくったのです。
 幕末の長州には、奇兵隊という組織がありました。これは近代的な軍隊です。百姓、町人が志願して兵隊になる、志願兵制度をとっていました。
 こんな軍隊は、会津藩ではありえません。会津藩の殿様は美濃から来て、百姓を統治している。藩がどうなろうが、それは殿様の問題であり、百姓の問題ではない。会津藩だけではなく、どこの藩でもそうでした。仙台藩で似たような庶民の軍隊がありましたが、奇兵隊のように藩の主力軍になるということはありませんでした。
 要するに、藩の運命は自分の運命だと考える百姓は誰もおりません。私は百姓の子孫ですから、その感覚はよくわかるのです。これが幕藩体制というものでした。
 ところが長州藩は違ったのです。
 幕府が長州征伐をしようとして、四方の国境から攻めてくる。四境を守ろうと、庶民が志願してきた。そして戦えば常に、侍たちよりも強かった。
 侍と農民が作った意識
 奇兵隊から国民国家
 自分たちは江戸時代を百姓で過ごしたけれど、もともとは萩で威張っているご家中と、先祖は同じようなものだった。安芸にいたとき、あるいは石見(いわみ)にいたときは、自分たちは彼らより上だったかもしれない。運命により自分たちは百姓になり、彼らは萩のご家中になったんだ。そういうことでしょうね。戦国時代に侍という階級があったわけではなく、当時の侍は農民の大いなる者でしたからね。
 一方、萩の侍たちにも似た認識がありました。長州の百姓は自分たちの祖先と同じなのだと。
 そうでなければ伊藤俊輔(博文)のような人は成立しないのです。
 伊藤俊輔のお父さんは農民でしたが、やがて田畑をなくしました。田畑を持たない農民は、江戸時代では立っている場所がない。田畑だけが百姓としての存在のすべてでした。
 結局、お父さんは萩に出てきて、知り合いの侍に頼んで、奉公することになります。幼い伊藤俊輔は手習いに通うようになった。それが松下村塾でした。松下村塾吉田松陰のときから政治学校のようになりましたが、その前からあった塾で、もともとはただの手習い学校でした。
 ……
 来原良蔵という人がいました。のちに江戸屋敷切腹してしまうのですが。この来原良蔵が俊輔を気に入り、扶養家族にしようとした。長州にしかな制度で、『育(はぐみ)』といわれる制度でした。
 来原良蔵は中クラスのちゃんとした藩士です。俊輔も、来原の『育』になると来原の家族として遇され、お侍になる。藩士の格好をして、よその藩に行くときは、『長州藩伊藤俊輔』と名乗ることができます。若き日の伊藤俊輔は松陰の手紙を持ち、肥後藩士の宮部鼎蔵を訪ねたりしています。宮部は当代一流の名士であり、『育』にならなければ、とても会うことはできませんでした。長州にはこんな抜け道があったのです。
 長州は不思議な所ですね。侍と百姓が問題意識をともにしていたと思えるぐらいです。EC(欧州共同体)がどうなのか、東欧はどうなるのかと、そういうことをわがことのように思えるのが知性というものでしょう。長州藩の、日本の未来を、ペリー来襲の意味を、侍も百姓も考えていた。……
 明治維新以前に、すでに『長州』という国民国家が出現していたのです。
 奇兵隊ができていた。さらに藩の政治は内閣制をとっていました。多くの藩では家老が、それも門閥家老が藩内政治をとりしきるのですが、長州は違いました。有能な人が首相となり、大臣になる。もちろんそういった名称はありませんでしたが、とにかく責任内閣をつくっていた。さらに藩主はアクションをしませんでした。毛利の殿様は政治行為をしない、象徴だった。こう考えていくと、長州という藩は今でいうと『法人』のようになっていました。
 法によって人格をもつのが『法人』ですね。私個人は『法人』ではなく、ただの『自然人』です。さきほど伊藤俊輔が肥後に行った話をしましたが、彼はあいさつすうときに、『毛利大膳大夫(だいぜんのだいぶ)家来伊藤俊輔』とは言わずに、『長州藩伊藤俊輔』だったと思います。本来は『家来』と言うほうが正式なんですよ。赤穂浪士の討ち入りを思ってください。『浅野内匠頭家来大石内蔵助』でしょう。
 桂小五郎木戸孝允)は京都にいて駐在外交官といった仕事をしていましたが、彼も『家来』とは言わなかったと思います。むしろ新選組のほうが『会津中将御預新選組』などと古風に言っていました。
 だいたい藩という言葉が定着するのは、滑稽なことに明治以後です。維新が始まり、『廃藩置県』までの間にやかましく使われてようやく定着した。
 幕末のころはまだ、『藩』はモダンな、トレンディーな言葉でした。あまり幕末の人は使わなかった。
 しかし長州では使っていました。『藩』という法人のもと、筋目の桂小五郎も、そうでない伊藤俊輔も、奇兵隊も『長州藩士』になります。長州藩士ということに興奮する。奇兵隊の隊員が越後長岡で戦死したとしても、『公』のために死んだのであり、『自然人』の毛利大膳大夫のために死んだわけではない。こうして全員のグループが一体となり、上下がなくなっています。
 薩摩は違います。薩摩は長州のような国民国家ではなく、階級社会でした。薩摩の士族1万数千人が田原坂その他で死ぬことにより、ようやく侍の時代が終わった。それぐらい薩摩では侍と農民との間に、隔絶した上下がありました。
 防長2州という小さな単位ながら国民国家を成立させていた長州の特異性をお話ししてきました。幕府との戦いを通じて、その国民国家はできあがっていった。それ以前はただの大名とさほど変わりません。吉田松陰一人が出るに及んで、長洲人は火がついたように叫び始め、急速に一体化した。
 すでに明治が長州で始まっていたのです。」
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 ウィキペディア
 文久元年2月3日(1861年3月14日) ロシア軍艦対馬占領事件は、幕末にロシア帝国の軍艦が対馬芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件。ポサドニック号事件とも呼ばれる。
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 百科事典マイペディア「ロシア軍艦対馬占領事件」の解説
 ロシア軍艦対馬占領事件
 対馬事件とも。1861年2月からロシア軍艦ポサドニック号が対馬占領を企て滞泊した事件。英国の対馬占領の野心を牽制(けんせい)するため船体修理を口実に対馬浅茅(あそう)湾に停泊したポサドニック号は3月芋崎(いもざき)に兵舎を建設,付近の永久租借権を要求。対馬藩や島民は激烈に抵抗し,幕府も外国奉行小栗忠順を派遣して撤退を求めたがロシア艦は動かず,英公使オールコックの協力申し出により英艦2隻が派遣され威嚇,8月ようやく退去した。
 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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・薩英戦争:文久3年旧暦7月2日–4日(1963年8月15日–17日)。
・下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件):文久3(1863)年と同4(1864)年。
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 長州と薩摩の攘夷は、初期は吉田松陰水戸藩と同じ「先攘夷」であったが、薩英戦争と下関戦争に敗北してからは幕府が目指した「後攘夷」に変更し、日本を軍国主義国家へと暴走させた。
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 明治維新・近代化の目的は、大国・ロシアの侵略から小国・日本を武力で守る事を最優先課題とした、近代的天皇制度統一国家の新設、挙国一致で対外戦争ができる中央集権体制への変更、強力な軍隊を作る為の財政改革、兵士を増やす為に世襲制武士層から国民皆兵への変更、全ての国民を徴兵する為に四民平等という身分制度の廃止、強靭な兵士を育成する為の近代教育、その他である。
 つまり、大陸侵略戦争(積極的自衛戦争)ができる近代的軍国主義国家の建設であった。
 ロシアとの絶望的祖国防衛戦争に勝つ為には、手段・方法など選んでいる余裕はなく、兵力を集める為には四民平等として根刮ぎ動員した。
 日本列島・日本国に住む日本国籍を持つ全ての日本人・アイヌ人・琉球人を日本国民として否応もなしに強制徴兵し、身分・出自・家柄も関係なく士族や庶民だけでなく偏見と差別された賤民(非人・穢多)や部落民(山の民・川の民・海の民)さえも戦える男子を全て狩り出して戦場に送った。
 それが、日露戦争であった。
 だが、朝鮮人日本国籍を持っていても日本軍兵士・皇軍兵士にしない為に徴兵しなかった。
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 明治維新とは国家の軍国主義化で、ロシアとの戦争に勝つ為に、260年間平和に生きてきた日本人を戦争が出来る好戦民族に改造する事であった。
 日本民族は、尚武の民族ではない。
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 DIAMOND online
 【山口県】頭脳明晰で弁が立つ 無類の負けず嫌い
 都道府県データ:Vol.45
 岩中祥史:出版プロデューサー
 2011.1.27 0:01
 270年近く続いた江戸幕府をひっくり返し、近代日本の扉を開いた明治維新。それを推進したのは薩長土肥とされているが、一番の中心は長州=山口県だという強い思いが、山口県人の頭にはある。幕末の「八月一八日の政変」以来、ことごとく長州に敵対してきた会津福島県)の人々に対し、「許すまじ」という姿勢を今なお崩さないのも、それと深くかかわっていそうだ。無類の負けず嫌いと言っていい。
 その山口県は本州の西の端にあり、トンネルをくぐれば九州、海を越えればそこはもう韓国である。だが、そんな辺境の地にあったからこそ、人々の信望が厚かった藩主・毛利氏の下、長州人は一致団結して事に当たった。
 吉田松陰伊藤博文桂小五郎高杉晋作など、維新回天を推進した人物も数多く輩出しているから、長州こそ日本で最優秀の藩であった、いや県であるという誇りを失わずにいるのが山口県人である。
 もともと中国地方全域を支配していた毛利氏に仕えていた人々が多いだけに、発想の幅も行動力も想像以上にスケールが大きい。それに見合った使命感・責任感もあるから、一国の大事も喜んで引き受ける。事実、これまで山口県からは総理大臣が8人も出ている。薩摩(鹿児島県)の3人、土佐(高知県)の2人、肥前(佐賀・長崎県)の1人に比べれば、その差は歴然。しかも、そうした思いが一般人にも息づいている。
 ただ、それが時として、他県出身者に対し高飛車な言動として表れることもある。教育熱心な県民性の影響だろう、頭脳明晰な人が多い。弁も立つから、山口県人と議論して勝つのは難しそうだ。
 また、そのエネルギーがビジネスに向かうと、ユニクロ柳井正やゼンリンの原田康、古くは鮎川義介(日産)、久原房之助(日立)、藤田伝三郎(藤田組=現DOWAホールディングス)等といったビッグカンパニーの創業者を生み出す。
 誇り高い山口県人に対しては、それを常に認める姿勢を見せることが大事になってくる。それを忘れてしまったときのしっぺ返しが怖いことも覚悟したい。
山口県データ◆県庁所在地:山口市/県知事:二井関成/人口:144万6874人(H22年)/面積:6114平方キロメートル/農業産出額:654億円(H19年)/県の木:アカマツ/県の花:夏みかんの花/県の鳥:ナベヅル
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 女性自身TOP > ライフ > 暮らし > 郷土意識の強い県民性…大河で注目の「山口県トリビア5」
 記事投稿日:2015/02/07 12:00 最終更新日:2015/02/07 12:00
 「山口県の県民性は、歴史の重さなのか、ほかの県よりも郷土意識がすごく強い。血縁、先輩後輩のつながりを非常に大切にしますね。本をただせば、毛利元就の三矢の教えからきていると思われますが、世話好きで、仲間意識が強いのが特徴でもあります」
 こう語るのは、県民性研究の第一人者、ナンバーワン戦略研究所の矢野新一さん。吉田松陰をはじめ、明治維新の原動力となった幕末の志士たちが誕生した地、山口県。今年の大河ドラマ『花燃ゆ』の舞台が長州藩とあって、今年最も注目されている場所の1つだ。
 そこで、矢野さんの協力のもと、今年話題の“山口県の素顔”をトリビア形式で探ってみることにした!
【1】首相輩出8人は全国最多!
 「薩長土肥で明治政府を作った。そのなかでも長州藩がいちばん功績があった。そして首相の輩出人数が最も多いということからも、山口県人は“日本の政治は山口が引っ張ってきた”という自負がありますね」(矢野さん・以下同)
 初代内閣総理大臣伊藤博文(光市)をはじめ、山県有朋萩市)。通算在職日数の最長記録(2千886日)を持つ、桂太郎萩市)。寺内正毅山口市)、田中義一萩市)、岸信介田布施町)。ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作田布施町)、そして現在の安倍晋三長門市)まで計8人を輩出。
【2】主要官庁のエリート官僚を量産している!
 「以前、私どもが独自調査した“エリート官僚輩出率”というものがあります。『政官要覧』(平成21年秋号)から中央省庁の課長以上の出身地を調べ、各都道府県の人口10万人当たりで何人いるかを割り出したデータです。その結果、全国第1位は東京でしたが、第2位がなんと山口県でした」
【3】県民性は保守的で頑固。プライドが高い!
 「すごく保守的。その理由は、米と塩と紙の三白政策(生産を奨励する政策)というのがあって、昔から豊かな生活を送っていたから、物事を変えることを望まないんです。頑固で、白黒つけたがるのも特徴。山口県の人は男女ともに“まあまあ”というのが嫌い。はっきりと決着をつけたいという性格の人が多いですね」
【4】ガードレールが黄色なのには理由があった!
 県内には、約1,200キロにおよぶガードレールが設置されているが、その大部分が白ではなく黄色。その理由は、’63年の山口国体の開催の折、景観整備の一環として、特産で県花でもある“夏みかん”の色に統一したためだ。現在も引き継がれ、県民からもよく目立つ色として好評だとか。ここにも“わが道を行く”山口らしさが出ているかも。
【5】東京そっくりの地名がいっぱいある!
 「周南市内(旧徳山市)には、有楽町、銀座、自由が丘、新宿といった、東京の地名がいくつもある。市役所に聞いたところ、昔、徳山市ができて住民から希望の地名を聞いたとき東京の地名を挙げる人が多かった。それが採用されて、今でも残っているんです。中央への憧れ、上昇志向を感じますね」
 山口県民は、郷土意識が強く、義理人情にも厚いが保守的で頑固。そして政治が好きでエリート官僚も多く輩出。薩長土肥なんて遠い昔の話と思いがちだが、じつは今でもニッポンを牛耳っているのかもしれない。
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 PRESIDENT Oniline
 なぜ、山口は官僚輩出率が高いのか?
 PRESIDENT 2012年3月5日号
 江藤 誌惠 ライター
 苦手なあの人との距離を縮めたいと考えるなら、ぜひ、この法則を試してほしい。「出身地のDNA」を読み解けば、コミュニケーション上手になること間違いなし。これで、仕事も出世も恋愛も思いのままだ!
 自己顕示欲が強い、政治好きの保守派
 山口県民気質
 明治初期の官僚は、当然のことながら「薩長土肥」出身者で占められていたが、なかでも長州の人間が多かった。官僚は歌舞伎役者やタレントのように、父親が官僚だと息子も官僚になる確率が高い(外務官僚に東京出身者が多いのもそのため)。
 山口男は議論好きで、総理大臣が8人も出た地域だけに政治好きも多い。金には細かくないが、体裁を気にするかっこつけしい。そのうえ、負けず嫌いで見栄っ張り。郷土意識も強く、先輩・後輩のつながりも大事にするのも大きな特徴。
 「薩摩の大提灯、長州の小提灯」という言葉があるが、これは薩長が江戸入りしたとき、薩摩は大きな提灯を先頭にして歩いたが、長州は全員が小さな提灯を持って歩いたという話。自己顕示欲が強いことの表れである。
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 山口県民――『義』を損なえばたちまち不機嫌になる。前時代的な武士気質
 PRESIDENT PLUS 2013年5月15日号
 北海道から沖縄までタテに細長いニッポン。気候も違えば人々の性格も違い、価値観はもちろん、相性さえも変わる。脈々と形成され、遺伝する出身県DNA。ここでは、47都道府県民それぞれの性格を大解剖。
 長州藩を前身とする、プライドの高い、山口県
 山口県民の脳内をチェック!
 明治維新で活躍した長州藩を前身とする山口県。今日の日本の建国に貢献した自負と、これまで8人の総理大臣を輩出したことから、プライドが非常に高いのが特徴。また、米、塩、紙の三白で豊かだったこともあり、保守的な性格に。武士的体質で「年上に従う」のはあたり前。「男尊女卑」の前時代的気風も多少残っている。負けず嫌いで見栄っ張り。カネにはおおまかでも借金は嫌い。頑固で好き嫌いもはっきりしている。安易に妥協することがなく、自己中心的なので、ペースに合わせて付き合うのが大切。「義」を大切にするので、他県人のちょっとしたふるまいに、突如不機嫌になることがあるので態度、言動に要注意。
●良評
 ・義理人情に厚い、人たらし(東京・男)
 ・男らしく、正義感のある人が多い(千葉・女)
●悪評
 ・人柄が悪く、急に切れて怖い(山形・女)
 ・自分が偉いので、他人の話は聞かない(佐賀・男)
上司――野心家で独善的な男上司。ストレートな女上司
●男上司
 常に野心を持ち体裁にこだわるタイプが多い。独善的で、部下の意見は聞かないところもある。形式主義で上下の秩序が乱れるのを嫌う傾向も。そのわりに、新しいものでも受け入れる。実力で評価するので、業績を上げる努力を怠らないこと。メンツをつぶさず、常に立てておけば、機嫌がよい。
●女上司
 何事も心に留めておけない性格だから気が強く、ときに怖さも感じるが気にしないこと。ストレートなものの言い方をするので、最初は面食らうが、情に厚く気配りもできるので安心を。姉御肌で度量が広く、部下の面倒見もよいから、仕事に限らずマメに相談すると、意外とかわいがってくれるようになる。
部下――自己主張の激しい男部下。向上心の高い女部下
●男部下
 口先ばかりで行動が伴わない。ただし、何事も中途半端にすることはなく、まあいいかと安易に妥協もしないので案外仕事はこなせるほう。情にも厚く年上への礼儀をわきまえているので、決して上司に反発することはない。自己主張の激しさをライバルとの競争心に向けてやれば、さらに頑張るタイプだ。
●女部下
 サッパリとした性格で、社交性に富み活発、行動半径も広い。苦労をいとわずテキパキと仕事をこなす。向上心もあり、ミスをしても落ち込まない。おおらかで小さいことにも悩まず持続力もあるのが特徴。考え方も生活もすべてに堅実。家族想いの人が多いので、ときに家族の話を聞いてあげると◎。
取引先――義を大切にして付き合う山口の顧客
 山口の顧客は保守的な性格から、人間関係重視型が多い。最初はうまくいかなくても、時間をかけて信用を得ること。一度信頼されれば、別の顧客を紹介してくれるほど情に厚く、義を重んじるタイプが多い。ただし、こちらも義をもって付き合わないと、知らず知らずのうちにプライドを傷つけ、恨みを買うことも。メンツをつぶさないように充分に注意して対応することが大切。盆暮れの挨拶も欠かさずにすることが望ましい。
●営業ポイント
 1..信用を得るまでは、足繁く訪問
 2. 義をもって、義を制す
3.担当者は一定させよ
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 長州の眼の前にある国境の国・対馬は、古代から幾度も中国・朝鮮に侵略され虐殺・強奪・強制連行されるという甚大な被害を被り、幕末には短期間であったがロシア海軍が不法上陸して居座り軍事用租借を要求しロシア領になる危険があった。
 日本の民族主義国粋主義軍国主義国家主義、古典的近代右翼・右派を生み出したのは、周辺諸国の日本侵略による国家存亡の危機で発狂的暴走をした長州とその周辺であった。それが外敵を打つという「尊皇攘夷」であった。
 長州藩で「尊皇攘夷」思想が過激化し爆発したのには正当な理由があったが、現代日本の歴史は拝外思想であると否定的である。
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
   ・   ・   ・   
 長州藩は、他藩とは違って、武士と百姓が藩を守る為に共に戦う挙国一致藩であった。
 歴史的事実として、藩の為・主君の為に戦うのは武士だけで、領民であった百姓や町人は藩や主君を見捨てて逃げた。
   ・   ・   ・   
 薩摩藩西郷隆盛大久保利通黒田清隆東郷平八郎らは下級武士で、長州藩吉田松陰乃木希典らは下級武士で山県有朋足軽伊藤博文小作人からの養子で、星亨は庶民であった。
 彼らには地方の片田舎での血縁や地縁はあっても、中央・中枢・都市での血縁や世襲制には無縁であった。
 明治の底力は、豊かな江戸・京・大坂などの中央・都市ではなく、貧しい地方の片田舎にこそ存在し、地方から日本は変わり先進国・近代国家、世界の五大国にまで発展・成長したが、1990年頃のバブル崩壊とともに地方の片田舎は限界集落となって活力・底力は日本から消えた。
   ・   ・   ・   
 現代の日本と昔の日本は違う。
 昔の日本でも江戸後期・幕末・明治の日本と現代の日本とは別世界のように違う。
 江戸後期・幕末・明治の日本と現代の日本とは途絶して繋がっていない。
 当時の日本人と現代の日本人は安全なる別人のような日本人である。
 現代の日本人には当時の日本人が理解できない。
 何故、現代の日本人が当時の日本人が理解できないかと言えば、現代の日本人が自分を武士・サムライにたとえ武士道精神を極めようとするからである。
 当時の日本人は、下級武士や庶民など身分低い出身で、天皇の下での四民平等をスローガンとして、武士などの世襲制支配層を没落させたからである。
 西郷隆盛大久保利通らは下級武士で、山県有朋足軽で、伊藤博文小作人であった。
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 明治初期の日本の総人口は、人生50年時代で若者多く老人が少ない約3,000万人で、当時の日本人を世界から見れば年齢は若くそして知識・教養・技術など多方面で拙く幼かった。
 当時の日本人の唯一の武器は、未成熟・未経験で世間知らずで恐い物知らず・恐れ知らずの無鉄砲・無茶、好奇心と探究心が旺盛で新しい物好きで、日本はおろか世界でナンバーワンとオンリーワンでなければ納得できない「熱き血潮の若さ」であった。
 人生100年時代の老人が多く若者が少ない現代の日本(総人口約1億2,000万人)には、その全てが失われている。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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💖2)─4・B─日本人の美徳と悪徳。~No.5 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本人は、いい事もするが、悪い事もする。
   ・   ・   ・   
 日本人には、いい日本人が2割、悪い日本人が3割、毒にも薬にもならない傍観者で同調圧力に流されるダメな日本人が5割。
 悪い日本人とダメな日本人にとって日本人の美徳は、迷惑で、邪魔で、煩わしく、鬱陶しいだけである。
 傍観者で同調圧力に流される日本人は、いい事よりも悪い事をする方が多く、そのためイジメ・意地悪・嫌がらせが絶えず最悪相手を自殺か自暴自棄の殺人まで追い込む。
 子供社会では、イジメ・意地悪・嫌がらによる子供の自殺が絶えない。
   ・   ・   ・   
 日本は世界で信用されている、日本人は世界で愛されている、はウソである。
   ・   ・   ・   
 ブックバン Book Bang
 『世界が憧れた日本人の生き方』
 著者 天野瀬捺 [著]
 出版社 ディスカヴァー・トゥエンティワン
 ISBN 9784799320242
 発売日 2016/12/27
 価格 1,100円(税込)
 外国人たちの目から見た、日本人ならではの美徳と生き方
 レビューメディアジーン lifehacker [レビュー] (日本史/倫理学・道徳)
 外国人たちの目から見た、日本人ならではの美徳と生き方
 [レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)
 {本書は、私たちの住む日本という国が、古代から膨大な時間をかけてじっくりと培われた、本当の意味で人間らしく、健康的で平和で、かつ満ち足りた理想的な社会であったということを示すものです。(「はじめに──日本が本当の豊かさを取り戻すために」より)}
 こう記すのは、『世界が憧れた日本人の生き方 日本を見初めた外国人36人の言葉』(天野瀬捺著、ディスカヴァー携書)の著者。禅寺に生まれ、禅の教えを体感しながら育ったという人物。しかし外国での豊富な生活経験を持つ祖父母に影響され、成人後は自らも海外に出ることを決意したのだそうです。その結果、ヨーロッパ、オセアニア、米国、カナダと、20年近くにわたって海外に住み続けてきたのだといいます。
 そんななかで実感したのは、日本人にとっては常識であるような礼節や、人に迷惑をかけないマナー(約束や時間を守る)、品格、基本的な生活習慣(体にいいものを食べる)といったことにまったく関心を示さない人が、海外には少なからずいるということ。
 そして異文化に長く身を置いた経験があったからこそ、日本の長所を強く、身をもって実感することができたというのです。つまり本書の軸になっているのは、そうした経験。シーボルトからアインシュタインまで、16世紀以降に日本を訪れた外国人たちの記録のなかから、現代人にも通用する「生き方のヒント」を抜き出したものです。
 きょうは第5章「自然とともに生きる」から、日本に魅了された2人の外国人に注目してみたいと思います。
 精神的に自然と通じ合う
 {自然の美しさに対する独特の感応、すなわちその自然環境とのある種の精神的合意は、日本人の精神の際立った特徴である。
 パーシヴァル・ローウェル天文学者/世界漫遊家)
 1883年、アメリカより来日
 (90ページより)}
  パーシヴァルはボストンのインテリ一家、大富豪の息子として生まれた人物。実弟ハーバード大学学長であり、彼もハーバード大學で物理学や数学を修めたものの、火星に大きな関心を持ったことから、やがて天文学者に転じたのだそうです。
 日本には1883年から1893年までの間に計5回訪れており、日本の風俗の調査と、専門である天文学の研究を行うことに。来日の動機が日本と東洋への強い関心だったことはいうまでもありませんが、知り合いを尋ねるという目的もあったようです。その知り合いとは、のちに東京大学で動物学教授を務めることになるエドワード・モース。ふたりは旧知の仲だったようで、エドワードが来日した際、彼の大学での講義を聞くために、パーシヴァルは日本を訪れたということです。
 1889年には、秘境の地であった能登半島の調査のために来日。その帰路、長野の時又(ときまた)へ船で到着した人々の様子を次のように表現しています。
 {「ここでは、親切な村人たちが、総出で船の陸上げ作業を手伝ってくれ、その中の幾人かは、われわれの前を小走りに歩いて、宿屋まで案内をしてくれた」(92ページより)}
 彼はこのとき、天竜川の川下りや御嶽山の登山など、日本の自然とアクティブに接したのだといいます。そして最後に来日したときには6インチの望遠鏡を携えていたほど、日本に天文台を建てようと真剣に考えていたといわれていたそうです。
 日本での旅生活のなかで、パーシヴァルは日本人の気質を次のように観察しています。
 {「われわれが自分たちのやり方で、自分たちの視点から直観的に見る事柄を、彼らは彼らの視点から全く正反対の立場で直観的に眺めるのだ。(中略)順序を逆にするということは、表現様式から始まり、さらに深く彼らの思想の奥底にまでわたっている」(92ページより)}
 つまりパーシヴァルは、日本人の世界観がある面において西洋人のそれと反対であることを、コミュニケーションのなかから見てとったというわけです。
 また、「個々の人間の知性の差の大きいのに慣れたわれわれにとって、日本における大衆の芸術愛更新には驚かされるものがある」という言葉に表れているとおり、大衆への文化の浸透度合いにもパーシヴァルは目を見張っていたといいます。平凡なお茶屋の娘が礼儀作法の手本であり、労働者たちが仕事の合間に将棋を指す姿を見るにつけ、日本の文化が少数の人々のためのものではなく、一般大衆の共通の財産であることを観察したいたわけです。
 このように、筋金入りの実証主義者であったというパーシヴァルは、当時の日本人の姿に、自分たちと逆の世界の存在を強く感じていたということです。(90ページより)
 自然の循環のなかに生きる
 {農民の仕事はとても大変なのに彼らは自然と格闘しているようには見えません。彼らは、むしろ、成長しては滅びることを繰り返して永遠に再生し続ける自然界の一員であり、そしてまたこの循環のあらゆる過程を美しいものとして味わうことができる優れた感受性を持っている人たちなのです。
 キャサリン・サンソム(外交官夫人)
 1928年、イギリスより来日
 (102ページより)}
 イングランド・ヨークシャーの風光明媚な渓谷地帯で、大自然に囲まれながら育ったというキャサリン・サンソム。地元で有名な存在だった父親の影響を受け、自然に対する愛情や豊かな情緒を身につけたのだそうです。つまり、そんな彼女が日本の自然と人々のあり方に感銘を受けたのは、ある意味で必然だったのかもしれないと著者は推測しています。
 成熟した英国婦人であったキャサリンは、つねに落ち着いた優しいまなざしで、昭和初期の東京の街と人々の暮らしを見つめ、ていねいに記録したといいます。同時に父親としての立場からも、日本の衣食住や家庭、子ども、教育について観察し、あるときは高貴な女性の視点で女性の社会的地位、百貨店、車校、伝統などについても目を配ったそうです。
 とりわけ日本の自然と人々に対する観察は深く、日本人の最大の特徴を、「自然と交わり、自然を芸術的に味わう感性にある」と見定めたのだといいます。キャサリンが目撃したのは、じっと座って何時間も同じ景色を眺めるという、日本人特有の習慣。その姿を、「日本人は自然と見つめることで精神の大事な糧を得ている」と考えたという点が印象的です。
 そして、自然に対するそのような姿勢こそが、「落ち着いた心」という日本人らしい精神性の基礎になっていると見たわけです。そのうえでキャサリンが導き出したのは、「日本人は自然を愛するだけでなく、私たちとは違って、今でも自然の中に生きています」という洞察。
 そして、日本に来て彼女が驚いたことのひとつが、「富士山の魔法」というエピソードです。イギリスへの帰国休暇を終えカナダ経由で1月の日本に帰ってくる途上、真冬の航海がとても辛かったこともあり、長旅の疲れとともにキャサリンは陰鬱な気分に。ところが窓越しに日本の海岸線が見えてくると、彼女はどうしても富士山を見たくなってしまったというのです。
 {寒さを堪えて甲板に出て、それがあるはずの方向に目をこらしていたキャサリンは、層雲の上に富士山が見えたその瞬間、「心臓が止まってしまいました」という。彼女にとって富士山は、「まるで天から垂れ下がっているよう」に軽やかで美しく、まさに天国に近づくように感じたというわけである。(104ページより)}
 富士山の美しさに心を打たれたことで、キャサリンの気分は回復し、波止場に着いた時には陽気になっていたのだとか。しかも満面に笑みを湛えた日本の人々のおもてなしに迎えられ、気分はさらによくなったのだといいます。日本の自然と日本人の細やかな心づかいが、彼女の日本人に対する印象に好影響を与えたのでしょう。(102ページより)
 昨今はテレビをつければ、日本人の素晴らしさをクローズアップした番組を目にする機会が増えました。しかし本書で紹介されている人々の言葉からは、それら以上に大きな説得力を感じることができるはずです。
 「今年は、どんなことをして、どんな年にしようか?」と考えることの多い時期です。改めて自らのルーツを再確認するという意味でも、このタイミングで読んでおきたい1冊だといえるでしょう。
 (印南敦史)
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 致知(ちち)出版社
 人間学を探究して四十三年
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 日本とポーランドにはこんなに熱い絆があった! 歴史に学ぶ日本人の美徳
 2021年05月25日
 歴史
 東欧の大国・ポーランド共和国キュリー夫人や首都ワルシャワはなじみ深くとも、日本とポーランドを近しい国としてイメージする人は少ないのではないでしょうか。しかし、世界40か国以上を取材で訪れてきたノンフィクション作家・河添恵子さんは、ポーランドは世界一の親日国であり、ポーランドとの歴史を知ることは日本人としての誇りの再認識に繋がるといいます。
 ◉誰の人生にも、よい時と苦しい時があり、その時々で心に響く言葉は違う。仕事にも人生にも、真剣に取り組む人たちの糧になる言葉を――月刊『致知』のエッセンスを毎日のメルマガに凝縮! 登録特典〝人間力を高める三つの秘伝〟も進呈しております。「人間力メルマガ」はこちら
 日本とポーランドの急接近
〈河添〉
 両民族が急接近するきっかけは、日露戦争でした。当時、ポーランド志士(愛国者)らは不屈の精神で国の再起を目指しており、政治犯として極東シベリアへ流刑にされる者も多かったのですが、独立に向けた地下活動を行っていました。「日本の勝利は、ポーランドが独立する千載一遇のチャンス」と考えた独立活動家らが日本政府ヘの接触を試みたのです。
 その一人が、1918年の独立回復時に初代元首となったユゼフ・ピウスツキです。彼は「日本軍のためのポーランド人の軍隊を召募する」とまで提案し、日本と協定を結び同盟関係になる使命を背負って訪日したとされます。
 しかも、日露戦争で早々に投降して愛媛県松山市の収容所などに送られた中には、「ロシア軍兵士」として半強制的に徴兵されたポーランド人兵も多かったのです。彼らは、日本の勝利をまるで自国の勝利のごとく狂喜乱舞しました。この時期、日本で捕虜生活を送った数千人のポーランド人の日本への好印象が、ポーランドにおいての親日感情の原点となっています。
 日本赤十字から派遣された看護師の献身的な働きはもちろんのこと、市民から〝おもてなし〟を受けるなど癒やされたのです。
 開国そして近代化に着手して僅か40年余りの日本が、ポーランド人の宿敵で強大なロシア帝国との戦いに挑み、しかも大勝利という結果は彼らに強いインパクトを与え、日本関連書物の出版ラッシュとなりました。
 ポーランドを代表する作家でジャーナリストのボレスワフ・プルス氏(1847~1912年)の論文の一部をご紹介しましょう。日本で譬えるところ、夏目漱石のような著名な作家であるプルス氏は、日本人の国民性について次のように記述しています。
 {「日本人の魂の奥深くにある特質は、個人の尊厳といった偉大なる感覚であり……その尊厳の柱となっているのは勇気である。それは、あえて強調する必要もないが、先の大戦で日本人が頻繁に証明したものである。……死をものともしない点において、日本人を超える国は存在しない。そしてそれが彼らの本当の強さを形作っている。……日本人のその他の偉大なる美徳として、自己抑制が挙げられる。自らの怒りや悲しみ、喜びを制御できない者は、日本では野蛮人と見なされる。……日本人は常に礼儀正しい微笑で会話をする。しかし、たとえ拷問されたり殺されたりしても、秘密を明かさないだろう。
 同様に素晴らしいのは彼らの社会的美徳であり、その中で最も優れているのは愛国心である。日本人の愛国心は外国人への憎しみや軽蔑に根ざしたものではなく、己に属するすべてのものに対する愛情に基づいている。軍のために何人かの者がその命を犠牲にして任務を遂行する必要が生じた場合、何人かではなく、何千人もの者が自らその任務に志願するだろう……尊敬されたいと思うなら、皆、彼らを手本として努力しなければならない」}
 さらにプルス氏は「日本人の勇気、名誉、個人の尊厳、自己犠牲の精神、忠実性は、ポーランド人が模倣すべき気質である」とも記しています。
 また、逆に日本人でポーランド人の特性について詳細を語った大尉がいます。1919年からワルシャワにて活動し、1921年より日本公使館付き武官となった山脇正隆大尉です。山脇大尉は、早期からポーランドとの国交を強化すべきだと主張しました。その理由を3つ語っています。
 1つ目は、日本社会の中で人気のある国であること。2つ目は、ポーランド人は背骨の真っ直ぐな、まっ正直な人間であったこと。3つ目は、長期にわたる抑圧に耐え抜いて言語や文化を護り抜いたこと。そして日本と同様、両親を敬う人たちで、家族のあり方と教育が基礎になっているということでした。
 1世紀以上にわたる〝日ポの絆〟
〈河添〉
 その後も、日本とポーランドの絆は続きます。1914年からの第一次世界大戦、1917年のロシア革命に続き、1919年にコミンテルン共産主義インターナショナル)が結成され、シベリアの各地で反革命軍が赤軍と交戦、血で血を洗う内戦となりました。
 その内戦により、シベリア在住のポーランド人も少なからず戦死し、ポーランドからの難民も餓死、病死、自殺、凍死、虐殺など次々と命を落としていったのです。
 想像を絶する悲惨な環境の中で、両親と生き別れ、死に別れ、死の淵を彷徨っていたポーランド人孤児たち(計765人)を救出したのが他ならぬ日本でした。孤児たちは東京や大阪で一時を過ごしましたが、飢餓状態、虱だらけだった子供たちを日本人が献身的にケアし、心身共に生まれ変わったかのような状態にして、ポーランドまで送り返したのです。
 天皇陛下が2002年にポーランドを訪問された際、存命だった3名が両陛下と日本大使館で交流の時間を持っています。孤児たちは帰国後も「日本への感謝の念を忘れない」が合言葉だったようで、「日本から受けた親切を宝物として生きてきました」「日本はまるで天国のようなところでした」などと溢れる涙で語ったそうです。この時のお話は、当時の兵藤長雄大使が書籍『善意の架け橋?ポーランド魂とやまと心』に残しています。
 「命のビザ」で約6,000人のユダヤ人他を助けた杉原千畝リトアニア共和国カウナス日本領事館領事代理の秘書2人も、ポーランド人でした。インテリジェンス全般に長けたポーランド軍の一部が、日本陸軍に暗号解読技術を高める指導も行ったのです。
 小野寺信・ストックホルム駐在武官にヤルタ密約を知らせたのも、ロンドンに置かれたポーランド亡命政府の情報士官ミハール・リビコフスキー氏が手配した人物でした。「世界で最も危険な密偵」と、ゲシュタポから命を狙われていたリビコフスキー氏を、リスクを冒してまで守り通した小野寺武官。二人の関係は生涯続きました。
 (後略)
 (本記事は月刊『致知』2019年7月号 連載「意見・判断」から一部抜粋・編集したものです)
 【著者紹介】
河添恵子(かわそえ・けいこ)
 昭和38年千葉県生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、61年北京外国語学院、62年遼寧師範大学(大連)へ留学。平成6年に作家活動を始め、学校教育、世界が日本をどう見ているか、移民問題などをテーマに40か国以上を取材し、情報発信を続ける。『産経新聞』や『正論』『WiLL』『週刊文春』『新潮45』『テーミス』などに執筆。『トランプが中国の夢を終わらせる─プーチンとの最強タッグが創生する新秩序』(ワニブックス)『世界はこれほど日本が好き』(祥伝社)など著書多数。
   ・   ・   ・   
 庶民にとって、領主が誰であったも関係ない。
   ・   ・   ・   
 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
   ・   ・   ・   
 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
   ・   ・   ・   
 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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💖37)─1─9・11同時多発テロのグランド・ゼロに駆け付けたJAPAN・FIRE、11人。〜No.155No.156No.157No.158 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 JAPAN・FIRE(消防士)の11人は、政府や消防署の上司からの渡米禁止命令を無視し、解雇・懲戒免職を覚悟して、アメリカ飛び、ニューヨークのグランド・ゼロに降りたって活動した。
 アメリカは、悲惨な現場で共に働いてくれたJAPAN・FIRE、11人への恩返しとして、東日本大震災アメリカ軍に対して「トモダチ作戦」を命じ被災者に対する救援活動を行った。
 日米の協力関係は、日米安保条約による日米同盟があっての事である。
 これこそが、ギブアンドテークであり、ウインウインの関係であり、相互依存・相互補完の共生関係である。
 が、日本と中国共産党政府・韓国・ロシアとの間にはそうした相互扶助の信頼関係は存在しない。
 もし日米安保がなければ、アメリカは如何に人道ためと言っても国益にならなければ日本を見捨てて助けなかった。
 国と国・人と人の関係で、友好国と同盟国とでは温度差が違う。
   ・   ・   ・   
 2021年9月19日号 サンデー毎日「9.11事件から20年
 グランド・ゼロで私が見たもの」
▶日本人消防士11人がテロ直後、NYへ飛んだ
▶現場からの帰り、市民が駆け寄りハグを求めた
▶我々が9・11事件で再確認した決意
 米ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機2機が激突、2,600人以上が死亡した。そのうち343人は同市消防局、60人は警察の所属人員だった(9・11委員会公式報告書による)。テロから25日後、日本から『爆心地』に入り、活動した消防士の一人が語る。
 志澤公一
──どんな経緯でニューヨークに向かったのですか。
 志澤公一 事件の3カ月前、『世界警察消防競技大会』に参加するため米インディアナポリスに行きました。2年に1度、世界各国の警察官や消防士が集まり、技を競う大会です。私は日本チームの一員として消防競技に参加し、優勝しました。その時、我がことのように喜んでくれたのが、ニューヨーク市消防局16分署に所属する消防士のディビッド・ロドリゲスでした。数年来の付き合いでした。
 2001年9月11日の事件のすぐ後、彼の安否確認のメールを送りかしたが、返事は来ませんでした。16分署は(ニューヨーク市中心部の)マンハッタンにあり、世界貿易センタービルの所轄署です。事件に巻き込まれたのではないかと心配していたところ、たしか3週間後にメールが届いたんです。『仲間の消防士が8人亡くなった』とあり、『Please belp us(助けてくれ)』と書いてありました。それを読んで動かない消防士はいません。
──米国政府は国際テロ組織アルカイダの犯行と断定し、対テロ戦争を宣言しました。厳戒態勢の中、入国するのは難しかったのではないですか。
 志澤 国際的NGO(非政府機関)や自衛隊が救援隊を派遣すると申し出ましたが、米国政府は断ったそうです。政府がノーと言う状況の中、横浜市消防局は『行ってこい』と言える立場ではありませんでした。『行くことは許さない』と強く止められました。私の娘は当時5歳と2歳。私が何をしようとしているのか分からなかったでしょう。妻は『もしあなたに何があったら』と心配しましたが、最後は『その正義感があなたなのよね』と賛同してくれました。
──現地に赴いた消防士はどんなメンバーでしたか。
 志澤 世界大会に出場したメンバーを中心に、趣旨に賛同した東京、埼玉、大阪、愛知など全国の消防士11人です。皆、上司の反対を振り切っての米国行きでした。『私たちにしかできない』『助けを求める人を見捨てるわけにはいかない』という思いだけでした。
 ニューヨークのケネディ国際空港は閉鎖したままでした。ニューアーク国際空港(ニュージャージー州)行の飛行機に乗りました。10月5日だったと思います。救助活動に必要な破壊工作機などを持ち込んでいたので、空港で随分と調べられました。被災現場に入るためのIDカード(身分証)を発行してもらう手はずでしたが、デイビッドに連絡すると『無理になった』。
 IDカードがなくて活動できるのか不安に思いつつ、ホテルに向かう道中、街には人影が見えず、音もしませんでした。要所要所に小銃を手にした兵隊が立っていました。戦時下というムードでした。
 沖縄戦を戦った牧師が説得した
 翌朝、16分署で夜勤明けのデイビッドと再会できました。酒好きで人一倍陽気な普段の彼とは大違いで、目の下のくまが目立っていました。私は『IDカードはなくても、おれたちにできることをやらしてほしい。炊き出しでも荷物運びでもいい』と訴えました。でも『無理だ』と一言。現場は連邦政府が所轄することになり、地元の消防署が口を挟めないというのです。
 その時、私たちのやり取りをデイビッドの同僚、ミッキー・クロスが聞いていました。軍隊時代に死地をくぐり抜けてきた『伝説の消防士』です。彼が割り込んできて『おれがグランド・ゼロ(爆心地)に連れて行ってやろう』と言うのです。
 16分署の消防士は勤務が終わっても帰宅せず、車で仮眠を取ると、非番の者も現場に戻っていました。勤務が終わったばかりのミッキーは私たちを車3台に乗せ、被災現場に向かいました。誰もが知る伝説の消防士が率いているからか、検問はそれほど厳しくなく、私たちはグランド・ゼロに入れました。
 倒壊した世界貿易センターの北棟と南棟だけでなく、周囲のビルも崩れ落ちていました。穴から噴き出す黒煙はプラスチックが燃える臭いがし、穴の中に炎が見えました。
──突然現れた志澤さんたちに現場の人たちはどう反応しましたか。
 志澤 私たちが来ていた消防士の活動服の背中に『JAPAN FIRE』と書いてあったので、日本の消防士と分かったようでした。彼らは歓迎してくれました。極端な人手不足に陥っているといい、瓦礫の下にいる市民や仲間を助けようとしていました。でも消防局の現場責任者は『IDカードを持たない外国人に作業させるわけにはいかない』と私たちが活動することを許可しません。午前中に現場に入ったのに何もできないまま、時間が過ぎました。その時、たまたま被災者に祈りを捧げていた牧師が私たちに気付き、こう言いました。
 『自分は沖縄戦を戦い、日本人に銃口を向けたことがある。そんな人間の住む国を助けたいのか』
 大きくうなずくと、牧師は現場責任者に向かい、何やら指示を出しました。牧師は消防局の元幹部で、かつて現場責任者の上司だったというのです。どんなやり取りがあったのか分かりませんが、午後4時半すぎになって、現場責任者が交代するまでの間、救助活動をする許可が出ました。
 テロから1カ月 近くたち、生存者はもういません。私たちは瓦礫を取り除き、2チームに分かれて遺体を探索しました。ちぎれた指、髪の毛が残った頭皮、頭蓋骨の破片を一つ一つ収集し、後でDNA鑑定ができるように記録しました。消防士の酸素ボンベやロープも発見しました。仲間が埋まっているのかと思うと、いたたまれませんでした。
 約束の時間が過ぎ、皆の所に戻ると、大きな拍手が起きました。作業員の一人は、瓦礫で十字架を作ってプレゼントしてくれました。活動できたのは数時間でしたが、『自分たちにやれることはやった』という思いでした。
──米国の消防士も喜んでくれたのですね。
 志澤 見放されていると感じていたようです。帰路は送ってもらうわけにもいかず、歩いて大通りを目指すと、街を歩いていた人が駆け寄ってきてハグし、『助けに来てくれてありがとう』と次々に礼を言うのです。夕方のニュース番組が私たちの活動を取り上げたそうです。その後、乗ったタクシーの運転手からも『あなたたちを知っている。ありがとう』と言われました。
 3・11トモダチ作戦のきっかけ
──上司の反対を押し切っての渡米でした。帰国後どうなりました?
 志澤 今だから話せませんが、クビを覚悟して渡米しました。ところが、私たちの活動が米国でも好意的に報道されたことで、周囲も理解してくれました。横浜市の高秀秀信市長からねぎらいの電話をいただいたほどです。やるべきことをやったのだと改めて思いました。
──10年後の2011年9月11日、米国のジョン・ルース駐日大使は東京の公邸で、9・11事件から10年の追悼行事を開いた際、現地入りした日本の消防士に言及したそうです。大使は『あなた方はグランド・ゼロの瓦礫の中、仲間と肩を寄せ、我々と連帯しました。その姿とあなた方がそこにおたことは、決して忘れられることはありません』と賛辞を贈りました。13年に就任したキャロライン・ケネディ大使も志澤さんたちに言及したそうですね。
 志澤 ケネディ大使から直接聞いたわけではないのですが、日米の消防士が集まる式典で、『トモダチ作戦』(米軍による東日本大震災後の救助活動)は私たちの活動がきっかけだったと口にされたそうです。出席した消防の幹部から『お前たちの名前が出たので驚いた』と聞きました。
──ニューヨークで活動したことで、志澤さんにどんあ変化がありましたか。
 志澤 『自分たちにできることがある』と気付いたのは大きかったですね。現場の人手が足りないことをニューヨークで嫌というほど実感しました。だから9・11事件の3年後、非番の仲間を集めて災害ボランティアとして新潟県中越地震の被災地に入りました。私たちプロは『何が必要か』『何をすべきか』が瞬時に分かります。東日本震災の被災地はもちろん、先日の熱海市で土石流災害が起きた後も現場でサポートしました。今はこのような活動に賛同する全国各地の消防士によるボランティア団体があります。困っている人がいたら最善をつくして助ける。自分たちにしかできないことをする。9・11事件で再確認したことです。(肩書は当時)
 構成/ライター・角山祥道」
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 杉原千畝は、東京・外務省からの再三にわたる日本通過ビザ発給不許可指示に従わず、天皇の御稜威に基づく人道貢献としてポーランドユダヤ人難民への通過ビザを発給したが、戦後、公務員の職務として政府・本省・上司の命令に従わなかった事が怠慢(生意気)とされ、勇気ある世界的人道貢献は考慮されず人員整理を口実に解雇され外務省から追放された。
 それが、日本独自の永田町(政)・霞が関(官)における減点優位・内向きの「内輪の論理」であった。
 日本陸軍の親ポーランド派と東條英機松岡洋右満州派は、政府や外務省の不満をよそに杉原ビザを無効にする事は天皇・国家・民族の名誉・体面に関わるとして、ナチス・ドイツの外圧や国内の親ドイツ派・反ユダヤ派・右翼・右派らの圧力を無視し、親ユダヤ・反ヒトラー昭和天皇の希望を叶えるべく、逃げてきた数万人のポーランドユダヤ人難民を敦賀・神戸・横浜や満州・上海などで陰ながら便宜を図り助けた。
 戦後、親ドイツの政府方針に逆らった、ポーランドユダヤ人難民を助けた親ポーランド派や親ユダヤ派は処分された。
 靖国神社には、八紘一宇の精神に基づく歴史的な人道貢献が存在する。
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ニューヨークの英雄/9・11の消防士たち
9.11後の現代史 (講談社現代新書)
ナインイレヴン 運命を分けた日(字幕版)
暴かれた9.11疑惑の真相
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 昔の日本人は、現代の日本人とは違って自分だけの利益・金儲けという損得勘定で動く事を恥として嫌い、自己犠牲的に「情けは人の為ならず」と固く信じて他人に尽くした。
 「情けは人の為ならず」の本当の意味を、昔の日本人は知っていたが、現代の日本人は知らない。
 人は平等・公平といっても、好かれる人は助けられ、嫌われる人は助けてもらえない。
 好かれて助けて貰える人間になる為には、人に言えない努力や苦労を重ねなければならない。
 つまり、人に好かれて助けて貰うのは人間の権利ではない。
 ただし、誠意や親切心が伴わない機械的マルクス主義的生活サービスは金で自由に買える。
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 1990年、湾岸戦争。日本国(保守自民党政権)は、平和憲法に従い、イラクに侵略されたくクウェートを救援する目的で組織された多国籍軍への自衛隊参加を拒否し、戦場に向かい他国の若者に130億ドル(約1兆5,000億円)を軍資金として提供した。
 他国の若者が戦闘で負傷し戦死している時、日本の若者達は遊び呆けていた。
 その結果、日本は世界から「日本はカネを出すが血も汗も流さない」と厳しく非難された。
 日本が主張する平和と自由はその程度でしかない事と、日本人がドス黒いエゴの塊である事が、世界中に知れわたった。
   ・   ・   ・   
 自衛隊派遣に猛反対し、日本人の若者の命を守る為に他国の若者の命を買うべきだと主張したのは、マルクス主義者・共産主義者、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、護憲派・反自衛隊派、反米派・反安保派・反米軍基地派、反天皇反民族反日的日本人、反戦平和市民団体、その他であった。
 現代の日本人は、人の命は金で買える事を知った。
   ・   ・   ・   
 世界で、日本国は信用されている、日本人は愛されている、はウソである。
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 日本人は、不言実行・有言実行の民であって、有言不実行を嫌う。
 日本民族の歴史において、総論賛成・各論反対はあり得ず、総論賛成であれば各論賛成、各論反対であれば総論反対ではっきりしていた。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は昔の日本人のような武士・サムライや百姓ではなく、その子孫でもない。
 つまり、現代の日本人は昔の日本人とは別人のような日本人である。
 同調圧力、自粛警察、マスク警察、そしてSNSで匿名でイジメ・嫌がらせを繰り返す卑怯者も日本人ではない。
   ・   ・   ・   
 日本軍部・日本陸軍は、シベリア出兵でも、日中戦争でも人道貢献を行っていた。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人は、戦場で敵兵士を殺す戦争犯罪を行ったが、同時に、被災した戦場で敵国の被災者を助けるという人道貢献も行った。
 それが、靖国神社の心・志・気概であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族は甚大な被害をもたらす同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である日本列島に数万年前の石器時代縄文時代から生きてきただけに、戦争と災害を別物とし、敵兵士と被災者とはをけ、敵兵士は殺したが被災者や弱者(女性や子供、老人、障害者、負傷者・病人、他)は敵国人であっても助けた。
 日本には、中国や朝鮮の様に「川に落ちた犬は叩く」という非情な原則はなかった。
 何故か、それは、日本民族が数千年前の生時代・古墳時代から天皇家・皇室の日本中心神話、高天原神話、八紘一宇、皇道主義、御稜威、大御心を大切に信奉してきたからであって、約100年前に外圧で強制されて明治に受け入れた「薄っぺら」な世界的な普遍的なキリスト教のボランティア精神からではない。
 が、マルクス主義者、共産主義者、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、そして反天皇反民族反日本的日本人は否定している。
   ・   ・   ・   
 日本人と中国人・朝鮮人・韓国人とは、正反対といっていいほどに違う。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人にとって、昨日の敵は今日の友であり、今日の敵は明日の友であった。
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 真の友・親友と言えるのは、死ぬ恐れがある絶望的な状況であっても、困っている友人を見捨てず助ける為に死を覚悟して死地に飛び込み、生還を目指した共に戦う戦友の事である。
 友・友人、親友、戦友の証明は、言葉ではなく行動であり、高額の支援金ではなく共に瓦礫を取り除く人の存在であった。
 日本人にとってのそうした友・友人、親友、戦友とは、同盟国のアメリカ人や友好国のイギリス人・インド人・オーストラリア人そして台湾人などであった。
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💍14)─1─2021年自民党総裁選。女系天皇反対。旧皇族の皇籍復帰案。旧宮家養子案。〜No.67No.68No.69 ⑭ 

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 2021年9月8日17:31 産経新聞河野氏旧宮家養子を含む中間整理を尊重「全く異論ない」
 記者会見する河野太郎ワクチン担当相=8日午後、東京・永田町の中央合同庁舎8号館(酒巻俊介撮影)
 自民党総裁選(29日投開票)に出馬意欲を示している河野太郎ワクチン担当相は8日、安定的な皇位継承策を検討する政府の有識者会議(座長・清家篤慶応義塾長)が旧宮家の男系男子の養子縁組を選択肢の一つと位置付けた中間整理を尊重する意向を記者団に示した。河野氏は過去に女系天皇を容認する姿勢を示していた。
 河野氏は中間整理について「非常に現実的ないい方向性を示しているので、その結果を尊重することに全く異論はない」と述べた。「天皇陛下は国民広くから支持されるのが大事だ」とも語った。中間整理では、旧宮家の男系男子の養子縁組と、女性皇族が婚姻後も皇室に残る案の2つを軸に検討するとしている。」
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 9月8日18:43 産経新聞高市氏、旧皇族皇籍復帰案「支持」
 自民党総裁選への出馬表明を行う高市早苗総務相=8日午後、国会内(春名中撮影)
 高市早苗総務相は8日、国会内で記者会見し、皇位継承に関し、男系維持の重要性を強調した上で「旧皇族皇籍復帰を可能にする案を支持している。万世一系の皇統が正統性の源だ」と述べた。」
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 9月9日13:23 MicrosoftNews KYODO 共同通信女系天皇に反対と自民岸田氏
 自民党総裁選に出馬表明している岸田文雄政調会長は9日、女系天皇に関し「反対だ。今、そういうことを言うべきではない」と述べた。東京都内で記者団の質問に答えた。
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 9月9日17:12 MicrosoftNews「河野氏女系天皇容認」事実上修正か 自民総裁選、安倍前首相と会談 脱原発論は「再稼働はある程度必要だ」とトーンダウン
 河野太郎行革担当相は8日午後、安倍晋三前首相と面会した。河野氏は、安倍氏自民党総裁選への出馬の意向を伝え、党内保守派などが問題視している「女系天皇容認論」「脱原発論」などについて説明したとみられている。
 面会は、議員会館内の安倍氏の自室で行われた。河野氏が「ご懸念には及びません」と述べたとの報道もある。
 河野氏はその後、皇位継承のあり方について、「男系で続いているのが日本の天皇の一つのあり方だ」と記者団に述べ、政府有識者会議の議論を尊重する考えを示した。女系天皇を容認する発言をしてきたが、事実上修正したようだ。
 また、原発政策について、「安全が確認された原発を再稼働していくのは(温室効果ガス排出量を実質ゼロにする)カーボンニュートラルを目指すうえで、ある程度必要だ」と主張をトーンダウンさせた。ただ、「いずれ原子力はなくなる」「来年にやめろとは言わない」とも語った。
 権力を握るために持論を曲げたとすれば、国民の信頼を得られるのか。
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💖5)─4─映画 「イルティッシュ号の来た日」。島根県民は日本海海戦で沈没した敵輸送艦の乗組員を助けた。~No.17 

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 歴代の近代天皇国家元首として国際貢献を望み、皇軍の日本軍は大元帥である天皇の大御心・御稜威を実行した。
 昔の日本人は、日露戦争中に、兵士としてロシア人兵士と殺し合ったが、人として困っているロシア人を助けた。
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 SNSでの同調圧力やイジメ、自粛警察、マスク警察、自称正義の味方、差別主義などを行う現代日本人と、殺し合う敵を助けた昔の日本人とは、別人のような日本人である。
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 いい日本人が2割、悪い日本人が3割、何もしない傍観者で同調圧力に流れて動く日本人が5割。
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 2021年9月1日16:11 MicrosoftNews 時事通信「ロシア船員救助、史実を映像化=日露戦争日本海海戦
 © 時事通信 提供 8月31日、モスクワの日本大使館で上映された日露戦争中のロシア船員救助の歴史に関するドキュメンタリー映像
 【モスクワ時事】日露戦争中の日本海海戦(1905年)で被弾し、沈没したロシア・バルチック艦隊の輸送船「イルティッシュ号」の乗組員を日本人が救助した歴史にまつわるドキュメンタリー映像がロシアで制作され、在ロシア日本大使館で8月31日、試写会が行われた。
 日本艦隊の砲弾を受けたイルティッシュ号はロシアに戻ろうとしたが、島根県沖で航行不能となった。船を捨てて投降したロシア人の乗組員たちを現在の島根県江津市和木町の住民らが救助。乗組員200人以上の命が救われたという。和木町では救出劇を後世に伝えようと「ロシア祭り」が例年実施されている。
 映像はロシア歴史協会の後援で制作された。敵国兵と知りながら、必死で救助に当たった住民らの人道的な行動やその後の日ロの子孫の歩みを丹念に追った作品となっており、ロシアのテレビ局での放映を目指している。」
   ・   ・   ・   
 9月1日16:34 MicrosoftNews  KYODONEWS 共同通信日露戦争で沈没の輸送艦、映画に 「イルティッシュ号の来た日」
 © KYODONEWS 映画「イルティッシュ号の来た日」で、ロシア兵らを救助した住民の子孫、小川斉子さんが登場するシーン(共同)
 【モスクワ共同】日露戦争日本海海戦で沈没したロシアの輸送艦「イルティッシュ号」の乗組員全員を、島根県江津市和木町の住民が救助した逸話を題材にしたドキュメンタリー映画「イルティッシュ号の来た日」の試写会が8月31日、モスクワの在ロシア日本大使館で開かれた。
 バルチック艦隊に所属したイルティッシュ号は1905年5月に対馬沖で被弾。極東ウラジオストクへ向かう途中、島根県沖で航行不能になり、ボートで脱出した約260人の乗組員を現在の同市和木町の人々が海で救助、上陸させて傷の手当てや食事の世話をした。
 映画はこの実話を基に、ロシアの制作会社がつくった。」
   ・   ・   ・   
日本海海戦から100年―アルゼンチン海軍観戦武官の証言
日本海海戦の真実 (読みなおす日本史)
日本海大海戦 [東宝DVD名作セレクション]
   ・   ・   ・   
 昔の日本人は、現代の日本人とは違って天皇の臣下・勤皇派・尊皇派として、自国民を犠牲にしても敵国人を助け、戦場以外であれば戦えない敵国軍兵士を助けて捕虜とした。
 それが、戦陣訓の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」である。
 昔の日本人は武士・サムライや庶民(百姓や町人)として、殺し合いと助け合いは別であった。
 呆れるほどの「お人好し」のバカである日本民族は、惻隠の情として、心の底から生きたいと念ずる弱者・敗者・かたわ者に手を差し伸べ、助かりたくて懐に飛び込んできた窮鳥は殺さず、川に落ちて溺れも生きる為にもがく犬は助けた。
 日本民族日本人は、漢族中国人や朝鮮人とは正反対であった。
 現代の日本人、右翼・右派・ネットウヨク、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない為に、昔の日本民族日本人の心・心情は理解できない。
   ・   ・   ・   

💖36)─1─皇室・日本赤十字社・障害者スポーツ。パラアスリートや弱者に寄り添う天皇家。〜No.151No.152No.153No.154 

   ・   ・   ・   
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 皇道とは、多様性と調和で、弱者も障害者・身障者も一人の人間と認め、見捨てず、見放さず、何度でも繰り返し寄り添う事である。
   ・   ・   ・   
 2018年1月16日 オリパラ Back To 1964「障害者スポーツを照らす陛下 原点は皇太子時代のパラ
 半世紀前に「東京パラリンピック」があった(3)
 東京パラリンピックの貴賓席で入場行進に応える皇太子夫妻(日本障がい者スポーツ協会提供)
 1964年の東京パラリンピックを語るうえで忘れてはならないのは皇室の果たした役割だ。なかでも皇太子夫妻だった天皇、皇后両陛下は大会前から強い関心を寄せられ、結果として、まだ黎明(れいめい)期だった日本の障害者スポーツを後押しした。
 パラ出場の卓球選手に勝負挑まれる
 まず下の表をみていただきたい。東京パラリンピックを訪れた主な皇族の一覧である。会期は直後に開かれた国内大会と合わせて7日間。そのうち皇太子夫妻の出席は開会式、閉会式を含めて6日間に及んだ。大会の名誉総裁だったとはいえ異例の頻度といえる。
 天皇、皇后両陛下に長く仕えた元侍従長の渡辺允は手記のなかで、こんなエピソードを紹介している。
 17年10月に開いたねむの木の運動会で声援を送る宮城まり子さん
 「五輪と一緒ダメなの?」 宮城まり子さんが語るパラ
 インタビューに答える宮城まり子さん
 宮城まり子さん、盟友はパラ生みの親 ともに障害学ぶ
 「両殿下(筆者注、皇太子夫妻)は、この競技を是非当時の天皇皇后両陛下に、もしそれがかなわぬのであれば皇后陛下御一行にでもご覧になっていただく可能性がないだろうかと宮内庁長官に相談され、その結果、開催4日目の午後には、両殿下のご案内で香淳皇后がアーチェリーと車いすバスケットを観戦なさっています」(『若き日の両陛下と東京パラリンピック文芸春秋2013年2月号)
 1962年、ストーク・マンデビル大会の出場選手と談笑する皇太子(日本障がい者スポーツ協会提供)
 64年東京パラリンピックの入場行進。貴賓席前を第1陣の英国チームが通過(日本障がい者スポーツ協会提供)
 アーチェリーを観戦する香淳皇后(奥の中央)と皇太子夫妻(日本障がい者スポーツ協会提供)
 当時の天皇、皇后両陛下はともに30歳。障害者スポーツのことをできるだけ多くの人に知ってほしいという、若い情熱が伝わってくる。香淳皇后の出席は当初予定されておらず、大会関係者の間でも驚きをもって受け止められたという。
 天皇、皇后両陛下は障害者スポーツについて見聞きするだけにとどまらず、生身の障害者のことを知ろうとされていた。テニスと並んで卓球を得意としていた陛下は、パラリンピックの卓球選手と面会するたびに勝負を挑まれたという。
 東京パラリンピックの運営を担った「国際身体障害者スポーツ大会運営委員会」の会長、葛西嘉資(後に厚生事務次官)は皇太子時代の姿を明かす。「選手がなかなか強くて、(中略)皇太子さまが勝たれたのは、コーナーをお上手にパッパッとねらわれるんです。(筆者注、車いすを固定してプレーする選手にとっては)いちばん、つらいところですからね。しかしそれでも苦戦をされたように、わたしは拝見しました」(『時の素顔』週刊朝日1964年10月23日号)
 障害の有無にとらわれず、車いすの選手とまっすぐ向き合おうとされている陛下の姿勢がうかがえる。それは子供の教育でも一貫していた。厚生省の職員だった井手精一郎は、東宮御所でこんな場面を目撃した。
 「ストーク・マンデビル(筆者注、パラリンピック)に出場した卓球の選手が皇太子殿下(同、天皇陛下)のご子息(現、皇太子殿下)と卓球をしたのですが、車いすの選手に対していい加減なことをやったら悪いと思ったのか、皇太子殿下が浩宮殿下に、しっかり相手をしなさいと言われていました」(『スポーツ歴史の検証』笹川スポーツ財団
障害のある人はかわいそうだ、守らなければならない――。そんなふうに思われていた時代に、天皇、皇后両陛下は鍛えた能力に限界がないことを身をもって感じられていたのかもしれない。
 東京パラリンピックに続いて開かれた国内大会でのあいさつには、そんな陛下の思いがにじんでいる。「この大会が皆さん自身にも、その友人にも必ず大きな自信、勇気、希望を与えることを信じます。同時に我が国ではなお不十分といわれる障害者に対する理解を深め、関心を強めるのに良い機会と思います」(『東京パラリンピック大会報告書』国際身体障害者スポーツ競技会)
 「国内でも毎年、開いてほしい」
 天皇、皇后両陛下が障害者スポーツに関心を持ち、常に気にかけておられるという事実は、それに関わる人々を勇気づけ、広く国内の関心を集めてきた。むろん両陛下に特段の権限があるはずはなく、そもそも国政への関与は憲法で禁じられている。だが重要な局面では結果として、何らかの影響を及ぼすことがあった。
 たとえば62年8月、まだ東京パラリンピックの開催が正式に決まる前のことだ。皇太子夫妻だった天皇、皇后両陛下はロンドンのパラリンピック(当時の呼称はストーク・マンデビル)に日本人として初めて出場した選手を東宮御所に招かれた。大会の様子に耳を傾けた後、「2年後の東京大会は、ぜひ開催してもらいたい」(『東京パラリンピック大会報告書』)と希望を述べられたという。
 当時は、国立別府病院整形外科医長の中村裕らが東京パラリンピックの開催に向けて政官界に働きかけるなど奔走していた。選手との面会の席には中村も同席しており、皇太子の言葉は大きな励ましになったと思われる。
 東京パラリンピックの後に開かれた国内大会で、皇太子夫妻はグランドに降りて選手たちを激励した(日本障がい者スポーツ協会提供)
 また今でこそ国民体育大会(国体)の後に同じ場所で全国障害者スポーツ大会が開かれているが、その端緒をつくったのも皇太子時代の陛下といわれる。
 東京パラリンピックの終了後、陛下は大会の役職員をねぎらったうえで次のように話された。「このような大会を国内でも毎年行ってもらいたいと思いますし、皆さまもこれから身体障害者の福祉向上のためさらにいっそう努力されることを希望します」
 これを受けてパラリンピック運営委員会の会長を務める葛西は「国内大会は今後毎年国体の後を追いかけて開催するようにいたしたいと思っております。今後とも、私どもは皇太子殿下のご趣旨にそいたてまつるよう身障者福祉のため最善を尽くすことをお誓いいたします」と答えたという(『東京パラリンピック大会報告書』)。
 そうした経緯もあって65年11月には岐阜国体の後、同県で「第1回全国身体障害者スポーツ大会」が開かれた。「『3~4年前から準備している国体で、1年をきった段階でそんなことを言われてもとても無理だ』と断られたところを、なんとか進めました」(『スポーツ歴史の検証』)と厚生省職員だった井手は振り返る。
 東京パラリンピックの衝撃は全国身体障害者スポーツ大会(2001年から全国障害者スポーツ大会と改称)に受け継がれ、日本の障害者スポーツの発展を後押ししてきた。皇太子時代の陛下が74年11月に茨城県の第10回大会に出席された際のあいさつには、ある種の達成感が表れている。
 「顧みますと、この10年今もって私の脳裏を去らないのは、岐阜県で開かれた第1回大会の光景であります。秋空の下、大勢の観衆の前を力強く入場する選手の姿がまことに印象的でありました。それから10年、(中略)身体障害者に対する理解と関心には、まだ不十分な面がありますが、今日までの間にずい分と大きく変わったことと思います。発足当時は、選手のほとんどが施設からの参加者でありましたが、回を追うごとに社会人の参加者が増えてまいりました。10年前、日本で開かれたパラリンピックの際、外国選手の多くが社会人であったことを思い合わせると、この間の我が国の歩みを感じるものであります」(『創立20年史』日本身体障害者スポーツ協会)
 出場選手のなかに交じっていた戦傷者
 東京パラリンピックに対する皇室のかかわりについて、日本財団パラリンピックサポートセンター理事長の小倉和夫は「第2次世界大戦との関係もあるのではないか」と指摘する。天皇の名のもとで戦い、敗れてからまだ19年。日本には戦地や内地での戦闘、空襲で傷を負った人々がたくさんいた。
 出場選手にも戦傷者が交じっていた。国立別府病院整形外科医長の中村裕による外国選手のアンケート調査では、回答した193人のうち27人にのぼった(『中村裕伝』水上勉井深大ら編)。小倉によれば、日本選手には少なくとも2、3人はいた。東京パラリンピックは結果的に、そうした戦争の傷を癒やした可能性がある。
 最後に天皇、皇后両陛下の障害者スポーツに対する思い入れを示すエピソードで、この回を締めくくりたい。76年6月に皇太子夫妻として英国を訪れた際、障害者の治療の拠点でありパラリンピック発祥の地でもあるストーク・マンデビルに足を延ばされた。そこでパラリンピックを提唱した医師のルードイッヒ・グットマンと再会し、東京大会への支援に改めて礼を述べられたという。
 元侍従長の渡辺允は当時をこう回想している。「この時まで、ストーク・マンデビルは女王陛下のご訪問をいただいていませんでしたが、後日、両陛下のご視察によって英国女王の初のストーク・マンデビルご訪問への道が開かれたという(筆者注、グットマン)博士からの感謝の伝言が葛西さんの元に届けられました」(『若き日の両陛下と東京パラリンピック』)
 (敬称略、次回に続く)
 (オリパラ編集長 高橋圭介)」
   ・   ・   ・   
 近代天皇家は、明治から今日の令和に至るまで、国家・国民・民族の模範になるべく率先して国際貢献(平和貢献・人道貢献)、自然保護・動物保護、その他を行ってきた。
 が、それを否定し潰そうとする反天皇反民族反日的日本人達が、明治から今日の令和に至るまで日本国内に存在する。
 天皇・皇室は、強い者や富裕者・上級民ではなく、むしろ弱い者や貧困者・困窮者・下級民に寄り添ってきた。
 命を捨てても天皇・皇族・皇室を護ろうとした勤皇・尊皇の民族派(非マルクス主義者)は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、偏見と差別される賤民・部落民・異能の民・異形の民・芸能の民・その他の身分が低い下層民に多かった。
 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
   ・   ・   ・   
 2021年8月22日 YAHOO!JAPANニュース 産経新聞「皇室、パラ支える人たちにも寄り添われ 陛下、開会ご宣言へ
 前回東京パラリンピックで、日本赤十字社の通訳奉仕団として活動した際の写真を前に、当時を振り返る吉田紗栄子さん=横浜市(緒方優子撮影)
 天皇陛下は24日、東京パラリンピックの名誉総裁として開会を宣言される。皇室と障害者スポーツの関わりは深く、上皇ご夫妻が前回東京パラ(昭和39年)の開催実現を後押しするなど、その黎明(れいめい)期から見守られてきた。選手だけでなく、競技環境を支える人々にも向けられてきたまなざしは、今大会の関係者にも力を与えている。
■福祉の人材輩出
 「若い工夫と暖かい心のゆきわたった大会になりますよう祈っております」
 昭和39年4月、東京の日本赤十字社本社で行われたパラリンピックの「通訳奉仕団」結成式。皇太子妃だった上皇后さまは、各国のパラ選手らを支援するために集まった有志の若者らに、激励の言葉をかけられた。団員約160人は期間中、通訳だけでなく食事や買い物など日常的な介助に従事。その後、日本の福祉を担う人材も輩出した。
 その一人、吉田紗栄子さん(78)は、選手村にスロープが設置される様子を間近に見て、バリアフリー建築の道に進んだ。「大会は日本のバリアフリー、障害者福祉の大きな転機になった」と振り返る。
 奉仕団はその後「赤十字語学奉仕団」と名を変え、活動を継続。新型コロナウイルス禍の今大会では選手らとの交流は限られるが、インターネット上で東京近郊のバリアフリー情報の提供などに取り組む。吉田さんは「前回パラの経験は生涯の宝。今回の大会が今の若い人たちにとっても、何かのきっかけになれば」と話す。
■「裏方」にも光
 上皇ご夫妻は、障害者スポーツを支える技術者らにも寄り添われてきた。
 リオデジャネイロ大会を翌年に控えた平成27年12月、ご夫妻は千葉市車いすメーカー「オーエックスエンジニアリング」の工場で、競技用車いすの製造工程をご覧に。説明に当たった技術者に「選手のためにいいものを作ってください」とエールを送られた。同社の石井勝之社長(41)は「光の当たらない裏方にも、しっかりと目を向けていただいていると感じた」。
 同社はアトランタ大会以降、競技用車いすで122個のメダル獲得に貢献。今大会でも車いすテニスの国枝慎吾選手ら19人に製品を提供しており、石井社長は「世界の大舞台でどこまで通用するのか。競技用車いすを通じ、アスリートとともに限界にチャレンジしていく」と意気込む。
■ご自身で体験も
 今回名誉総裁を務める陛下は、趣味のジョギングを通じ、より身近に障害者スポーツに親しまれてきた。
 ご即位前年の平成30年6月。陛下はお住まいのある赤坂御用地で、リオ大会女子マラソン視覚障害)銀メダリストの道下(みちした)美里選手の伴走を務められた。前年の園遊会で道下さんが提案したのに対し、陛下が「(パラ競技について)理解するいい機会」とご快諾。伴走用のロープでつながる道下さんに「左にカーブします」などと伝えながら、約20分間伴走された。
 その後、伴走者の研修会などを行う「日本ブラインドマラソン協会」には大きな反響があったという。原田清生(すがお)事務局長(61)は「伴走者に対する理解も広まったのではないか」。コロナ禍では研修会の開催が難しい状況が続くが、協会では感染対策を講じながら、ランナーが安全に走る環境の確保に努めている。
 ある宮内庁OBは「上皇ご夫妻は障害者スポーツの『育ての親』ともいえる。今の陛下はそのなさりようを間近に見てこられた」と説明。「競技者だけでなく、支える人をどう育てるか。皇室はそうした関係者の地道な活動にも目を向けられている」と話している。(緒方優子、橋本昌宗)
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 【皇室と障害者スポーツ】 上皇ご夫妻は前回東京パラリンピック(昭和39年)の実現を強く願い、開催に向けて尽力する関係者を支えられた。大会名誉総裁を務めた上皇さまが大会終了後「このような大会が国内でも毎年行えれば」と口にされたことをきっかけに、40年から全国身体障害者スポーツ大会(現全国障害者スポーツ大会)が始まり、リハビリの一環とされていた障害者スポーツは国内でも浸透。上皇ご夫妻は同大会へのご臨席を続け、平成2年に天皇陛下に引き継がれた。長年にわたり普及を願われてきた経緯も踏まえ、30年からは車いすテニスなど障害者スポーツ4大会に天皇杯皇后杯が贈られるようになった。」
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 8月23日13時32分 JIJI.COM 「時事ドットコムニュース>社会>障スポ、上皇さまが礎築く 64年パラ後、国内大会提案―組織委…
 障スポ、上皇さまが礎築く 64年パラ後、国内大会提案―組織委理事「意識変化を」
 東京パラリンピックの開会式に出席された上皇ご夫妻。当時皇太子だった上皇さまは大会の名誉総裁を務めた=1964年11月、東京・代々木
 リオデジャネイロパラリンピック視覚障害者女子マラソン銀メダリスト、道下美里選手(左)の伴走をされる天皇陛下=2018年6月、東京都港区の赤坂御用地宮内庁提供)
 天皇陛下が名誉総裁を務められる24日開幕の東京パラリンピック。歴史をひもとけば57年前、当時皇太子だった上皇さまが名誉総裁を務めた1964年の東京大会が、日本の障害者スポーツの夜明けとも言える転換点だった。
パラリンピックへの思い 【リメンバー1964】
 東京五輪パラリンピック組織委の理事で、障害者スポーツの歴史に詳しい日比野暢子・桐蔭横浜大教授(スポーツ政策学)は、64年大会を「関係者の意識を変えた大会」と位置付ける。
 64年11月8日に開幕した大会は、第1部の国際大会、第2部の国内大会で計7日間行われた。上皇さまは国内大会の開会式で「わが国ではなお不十分といわれる身体障害者に対する正しい理解を深め、関心を強めるため非常に良い機会であると思います」とあいさつ。大会後、関係者をねぎらった場で「このような大会を国内でも毎年行ってもらいたい」と述べた。
 これを契機に、翌65年から全国身体障害者スポーツ大会(現・全国障害者スポーツ大会)が毎年、全国各地で開かれるようになり、上皇ご夫妻はほぼ毎回出席。平成の初めに当時皇太子だった天皇陛下が引き継ぎ、令和になって秋篠宮ご夫妻が継承した。
 上皇さまは退位前最後の記者会見(2018年12月)で「障害者自身がスポーツを楽しみ、それを見る人も楽しむスポーツとなることを願ってきました。パラリンピックをはじめ、国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を、皆が楽しんでいることを感慨深く思います」と語った。
 上皇さまの障害者への思いは天皇陛下にも継承されている。陛下は18年6月、赤坂御用地で、視覚障害者女子マラソンの道下美里選手(44)の伴走を行った。
 リオデジャネイロ大会銀メダリストで、今大会にも出場する道下選手は、17年秋の園遊会に招かれた際、陛下に一緒に走ることを提案。陛下がパラリンピック競技について「私自身も理解するいい機会」と快諾し実現した。陛下は書物や動画を見て事前に準備し、約2.3キロにわたり声を掛けながら道下選手をリードした。
 日比野教授は「皇室の支えもあり、障害者に対する国民の意識は変わってきている。今大会が、さらに広く国民のその意識を変化させるものになってほしい」と期待を寄せている。」
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 8月25日 YAHOO!JAPANニュース 日テレNEWS24「東京パラリンピック上皇ご夫妻の夢(下)~思い受け継ぐ天皇陛下
 8月24日、天皇陛下の開会宣言と共に、東京パラリンピックが開幕しました。遡ること57年前、1964年の東京でもパラリンピックが行われています。「障害者スポーツ」がまだ一般的でなかった時代、大会の実現に向けては当時の皇太子夫妻―─今の上皇ご夫妻のひとかたならぬ尽力がありました。そしてこの大会を機に、日本の障害者をとりまく環境は大きく変わっていきます。(日本テレビ報道局・社会デスク兼皇室担当 森 浩一)
 ※冒頭の動画は、「パラ陸上・道下美里選手の“伴走”をする天皇陛下」(2018年6月 赤坂御用地
■1964年東京パラリンピックに寄せられた「希望」
 1964年11月8日 東京パラリンピック開会式 (写真:毎日新聞社/アフロ)
 1964年11月8日、第2回パラリンピック東京大会は、21か国378人が参加し開幕しました。日本選手団の団長は「日本の障害者スポーツの父」と呼ばれた中村裕医師。上皇さまは名誉総裁として開会式に臨み、「全世界の身体障害者の人々の上に希望と幸福がもたらされることを念願してやみません」と挨拶されました。
 1964年11月7日 東京パラリンピック レセプションパーティー(写真:毎日新聞社/アフロ)
 また開会に先立ち、上皇后さまも日本赤十字社の通訳ボランティアの結成式に出席し、「参加される多くの方たちが、自分たちのうちにひそむ、新たな可能性に喜びを持たれ、明るい希望を未来に託される上に、この大会が、何かの役割を果たせますよう望んでおります」と述べられています。
 お二人が共に使われたのは「希望」という言葉でした。外国人選手は、多くが社会に出て自立した生活を送りながら競技生活を行っていました。そのいきいきとした姿は日本人を驚かせます。
 当時中村医師に誘われ車いすバスケットボールを始め、東京パラリンピックをスタンドから観戦した上野茂さん(故人)は、その時の様子を6年前こう話してくれました。「そりゃ、僕らから見たらもう驚くことばかりです。表情なんかも外国選手は社会人だから明るい。日本の選手は病院にいるから外国と比べたら暗い感じ。外国の選手はいつもにこやかで身振り手振りでキャーキャーやっていました」。外国人選手の姿は、日本の障害者にも文字通り「希望」を与えたようです。
上皇さまの思いで誕生「全国障害者スポーツ大会」
 第3回全国身体障害者スポーツ大会(1967年 埼玉)
 7日間の期間中、5日間会場に通い、外国のパラアスリート達の快活な姿に触れた上皇さまは、大会終了後、大会関係者を前に「このような大会を国内でも毎年行ってもらいたい」と希望されました。これを受け、翌年から国体の後に「全国身体障害者スポーツ大会」──のちの「全国障害者スポーツ大会」が開催されるようになります。ご夫妻は、皇太子時代ほぼ毎年この大会に足を運び、障害者アスリートたちと交流し支援を続けてこられました。
 1975年 上皇ご夫妻と中村裕医師 (提供・社会福祉法人 太陽の家)
 一方、中村裕医師も翌1965年、就労やスポーツを通じて障害者の自立を支援していく場として「太陽の家」を設立しました。理念は「No Charity,but a Chance!(保護より機会を)」。やがて大企業が出資し、障害者が健常者とともに働く工場やオフィスも施設内に作られます。上皇ご夫妻は、折に触れて「太陽の家」や関連施設を訪れ、障害者の自立への道を見守ってこられました。
■“真のスポーツ”として──上皇さまの夢
 1998年3月 長野パラリンピック(写真:毎日新聞社/アフロ)
 1998年長野冬季五輪の後に行われた長野パラリンピックでは、競技会場で自然と生まれた「ウェーブ」に上皇后さまが参加された姿が大きな話題になりました。その直前、上皇さまが「今日,障害者への関心が高まり、福祉も充実し、障害者スポーツも盛んになってきていることに深い感慨を覚えます」と語られた通り、障害者を巡る環境は1964年ごろとは大きく変わっていました。
 2016年リオパラリンピック後の誕生日の文書回答で、上皇后さまは「健常者、障害者を問わず、優れた運動選手が会心の瞬間に見せる姿の美しさには胸を打つものがあり、そうした写真の幾つも切り抜いて持っている」と明かした上で、1964年の東京パラリンピック直後に上皇さまが願われた“夢”が実現したと喜ばれました。
 「陛下は、リハビリテーションとしてのスポーツの重要性は勿論のことながら、パラリンピックがより深く社会との接点を持つためには、障害者スポーツが、健常者のスポーツと同様、真にスポーツとして、する人と共に観る人をも引きつけるものとして育ってほしいとの願いを関係者に述べられました。今回のリオパラリンピックは、そうした夢の実現であったように思います」
■再び東京へ・・・思いを受け継ぐ天皇陛下
 日本車いすバスケットボール選手権大会(2017年5月)
 そしてこの夏、57年の時を経て、パラリンピックは再び東京に戻ってきました。160を超える国と地域など約4400人が参加、22競技539種目が行われるという規模です。
 名誉総裁の天皇陛下は、皇太子時代、「全国障害者スポーツ大会」に毎年出席されてきました。2018年の記者会見では、皇后さま、愛子さまと共に車いすバスケットボール選手権大会を観戦したことなどについて、「障害のある方が日頃からのたゆまぬ努力の成果を出すべく一生懸命に競技に取り組む姿には,私のみならず,雅子も愛子も,深い感銘を受けました」と振り返られています。
 さらに陛下は「障害者を始め,子どもや高齢者など、いわゆる社会的に弱い立場にある人々が、周りの人たちの支援も受けながら、社会の中で能力を発揮し、活躍できるような環境がつくりだされていくことが一層求められている時代だと改めて感じています」と長年取り組んでいるSDGs(持続可能な開発目標)の考え方も踏まえた思いを明かされました。
■陛下自らパラ選手の「伴走も」
 パラスポーツそのものへの理解も深められています。2018年6月、陛下はリオパラリンピック視覚障害ラソンの銀メダリスト道下美里選手の「伴走」を赤坂御用地内で務められました。園遊会で道下選手から「ご一緒する機会があれば」と声をかけられ、陛下は「選手の人たちがどのように競技に臨んでいるのか理解するいい機会」と喜んで受けられたといいます。「伴走の方がどのように選手をリードされているのかということも分かって、大変いい経験になった」と振り返られています。
 今回の東京パラリンピック、コロナ禍がなければ、陛下は57年前にご両親がそうしたように、実際に会場に足を運ばれたかっただろうと思います。ご一家はテレビでパラアスリートたちの活躍を熱心に応援されることでしょう。大変厳しい環境の中で行われる今大会ではありますが、どのような「夢」が実現されるのか見守りたいと思います。(終)」
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 8月28日 MicrosoftNews JBpress「天皇家を米メディアが賞賛、半世紀超えるパラアスリート支援に
 高濱
 © JBpress 提供 東京パラリンピックの開会を宣言される天皇陛下(8月24日、写真:AP/アフロ)
 アスリートの重症化案じられた天皇
 東京パラリンピックが8月24日、天皇陛下の開会宣言で開幕した。
 感染力の強い新型コロナウイルス・デルタ株の勢いは衰えず、日本国内の新規感染者減少は見えてこない。
 非常事態宣言は開催地・東京を含む21都道府県に拡大、「まん延防止等重点措置」が適用された自治体は12県になった。
 そうした中で東京パラリンピックが始まった。
 天皇陛下が「呼吸機能の弱いアスリートや基礎疾患を抱えるアスリートの重症化のリスク」を心配される(国際パラリンピック委員会IPO=幹部へのご挨拶)中でのパラリンピックの開催強行だった。
 世界はどう見たか。
 意外なこと(?)に、海外メディアは、五輪の時とは異なり、好感を持って開幕の模様を報じた。
 全米地方紙が掲載するAP通信の特派員はこう報じた。
 「五輪の時と同じく無観客の開会式だったが、パラリンピック開催に反対するデモは少人数で、開催にこぎつけた安堵感とパラリンピック・アスリートへの歓迎ムードにあふれていた」
 東京五輪報道では、最初から最後までケチばかりつけていた韓国メディアは別として、米メディアは総じて五輪が無事閉幕したことを安堵し、「日本は本当によくやった」というジョー・バイデン大統領のコメントで締めくくった。
 御多分に漏れず、一部メディアは五輪が終わった後も国際オリンピック委員会IOC)の傲慢さを批判していた。
 ところがパラリンピック報道姿勢は、一変してどこまでもポジティブだ。
 米有力紙、ニューヨーク・タイムズのモトコ・リッチ東京支局長*1は開会式の前触れ記事でこう書いている。
 「天皇陛下(His Majesty the Emperor of Japan, Naruhito)が東京パラリンピックの開会を宣言する。日本の皇室にはこれまで長きにわたりパラリンピックを支持・支援してきた歴史がある」
 「天皇の両親である上皇上皇后は、皇太子、皇太子妃だった時から1964年の東京パラリンピックを実現させることを主要な活動の一つと考え、開催を実現させた」
 「日本の皇族について詳しいポートランド州立大学のケネス・ルオフ教授はこう指摘している」
 『当時の皇太子・皇太子妃のパラリンピック支援は身障者に対する日本人の意識・態度を徐々に変える出発点となった。今は信じられないかもしれないが、当時の日本では身障者は公の場には出さない、隠しておく存在だった』
 『皇族は日本社会に大きな影響力を持っている。皇太子は、身障者は健常者と同じようにスポーツを楽しむべきだし、社会復帰のためのリハビリとしてだけでなく、スポーツそのものをエンジョイするためのものだと主張した』
 『1964年以降、皇太子夫妻は記者たちを同行させて身障者のいる病院や施設を定期的に訪問し、身障者に対する世間の関心を喚起してきた』
 *1=リッチ氏(52)は東京生まれ、母親は日本人、父親は米国人。小学校4年生の時に帰米。イエール大学を経て英ケンブリッジ大学を卒業、ファイナンシャル・タイムズ、ウォールストリート・ジャーナルを経て2003年から現職。
 64年東京パラ実現が夢だった上皇上皇后
 リッチ記者の記事の行間には、天皇陛下の東京パラリンピック開会宣言が、国際イベントでの「名誉総裁」が行うありきたりの儀礼的な宣言ではない、というニュアンスがにじみ出ていた。
 (https://the-japan-news.com/news/article/0007707994
 天皇陛下は、8月24日、国際パラリンピック委員会(IPC)のアンドルー・パーソンズ会長らと面会された際には、パラリンピックに対する皇族の継続的な支持・支援を強調され、英語でこう述べられた。
 「障害者スポーツの発展に強い関心を持ち、1964年の東京パラリンピックを温かくも守られた上皇上皇后からいろいろと話を伺った」
 「パラリンピックは私たちが一人ひとりの個性のかけがえのなさ、尊さ(Irreplaceability and preciousness of individuality)に改めて思いをいたす機会となる」
 「これを機会に、障害がある人もない人も、お互いを尊重し合い、思いやること(Respecting and caring for one another)を、これまで以上に大切にしながら共に生きていく社会づくりが進んでいくことを願う」
 日本では、天皇陛下のご挨拶は意外にあっさり報じられた。だが海外メディアは日本の天皇の英語での生の声として強い感銘を受けたようだ。
 皇太子ご夫妻に競技を紹介した日本人医師
 一体なぜ皇族は障害者のスポーツにこれほど関心を抱いているのか。
 日本テレビの皇室担当記者、森浩一氏によると、当時、皇太子、皇太子妃と障害者スポーツを結び付けたのは故中村裕・整形外科医だったという。
 同氏は、1960年、英ストーク・マンデビル病院国立脊椎損傷者センターに留学し、車椅子の障害者たちがスポーツを通じて社会復帰していく姿に衝撃を受けた。
 同氏は、その年にローマで開かれた「障害者国際競技大会」を参観、1962年には英国で開かれた障害者スポーツ大会に2人を連れて参加した。
 その話を耳にした皇太子妃が皇太子とも相談され、中村氏を招いて実情を聴取し、東京パラリンピック開催構想が浮上したという。
 参考:東京パラリンピック上皇ご夫妻の夢(上)|日テレNEWS24 (https://www.news24.jp/articles/2021/08/25/07928910.html
 天皇陛下のIPC幹部への発言を読んだ元米外交官H氏はその意義をこう指摘する。
 「天皇が2世代にわたってパラリンピックに関わり合いを持っていることが目に見える形で世界に伝えられたことは、日本のイメージアップになること間違いない」
 「今や、世界中の人たちは遅まきながら、障害者に真摯な同情と理解を示すことをポジティブに受け止め、それが世界の良識になっている」
 「そのことを半世紀にわたり実践してきた日本の天皇家は素晴らしい。まだ誰も見向きもしなかった頃からパラリンピックに関心を持ち、東京誘致に一生懸命だった上皇上皇后は素晴らしい。日本はこうした皇族を誇りに思っていい」
 「対照的なのが米国だ。ついこの間まで国家元首だった人物(ドナルド・トランプ前大統領のこと)は、十年来の知り合いだった腕が不自由な新聞記者が気に入らない記事を書いたのに怒って、選挙キャンペーンの遊説の際、その記者の不自由な動作をまねして茶化していた」
 「集まった支持者はそれを見て笑いこける。最低な連中が支持する最低な男だった」
 「この話は一時、メディアで騒ぎとなったが、この人物は謝罪していない。米国とは、そんな男が大統領になった国だ。日本とは雲泥の差だね」
https://www.nbcnews.com/politics/2016-election/trump-s-worst-offense-mocking-disabled-reporter-poll-finds-n627736
 42億5000万人が東京パラリンピック視聴
 パーソンズ会長は言う。
 「障害者と健常者との違いは障害者にとっては力になる。不自由さは弱点ではない。パンデミック以後の世界はこれまでよりもより良い世界にせねばならない」
 「その社会とは、すべての人々にとって好機をもたらすものでなければならない」
 「パラリンピックの成功を踏み台にしてわれわれは『WeThe15』ヒューマン・ライツ運動を展開する。世界全人口の15%は障害者だ。12億人の人たちが障害を持っている」
 「この人たちには健常者が謳歌している権利を同じように享受する権利があるのだ。スポーツはその一部に過ぎない」
https://apnews.com/article/paralympics-2021-opening-ceremony-807f5ea1cc994ecbab2b5f7a50d59945#:~:text=TOKYO%20(AP)%20%E2%80%94%20The%20Paralympics,the%20recently%20completed%20Tokyo%20Olympics.
  8月24日から始まった東京パラリンピックの模様は177か国と地域の150のテレビ、ラジオ、オンラインで報道される。
 IPO関係者は「視聴者は全世界で累計42億5000万人」と予想している。前回のリオ・パラリンピック41億人を大きく上回る。
https://www.paralympic.org/news/tokyo-2020-paralympics-set-break-all-broadcast-viewing-records
 東京パラリンピックは世界を変える起爆剤になるかもしれない。」
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