🎑26)─2─日本の言霊は敗者や弱者の最後の精神的拠り所である。〜No.67 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2021年9月2日号 週刊新潮「夏裘冬扇  片山杜秀
 日本が〝言霊の幸ふ国〟になったわけ
 真に力強い日本語を久々に聴いた。東京五輪を実況するテレビから聴こえて来たその激烈さと言ったら!
 『ディフェンスの方がきついと思うよ。何でそのプレッシャーに負けるの!何で頭つかってないの、最後まで!真ん中にクラッシュして、ボール強くもって、カッティングして、相手にファウルさせるしかないじゃないですか!』
 女子バスケットボールの準優勝。……これぞ指導者の言葉だ。素晴らしい日本語だ。心射抜かれた。一度聞いただけなので、書き取りにやや自信はないけれど。
 もちろん叱っている。言い方次第では、身が縮こまりかねない。ところがそうではない。切れの良いリズムがあり、しかも語尾が猛烈に跳ね上がる。陰でなく陽。怒られているのにどんどん高まる。真面目に観戦していたわけでもない私のような者さえ、偶々(たまたま)耳に入っただけで興奮状態に陥ったのだから、選手には千人力、万人力の言葉だったろう。事実、この後、日本チームは積極性を取り戻し、勝利した。
 何しろ監督の叱り声の調子が、手塩にかけた選手たちに対する絶対的信頼の上に立っている。叱咤即激励。共感共苦する力が凄い。そこに魔力がある。だが、それだけではない。当然、即興のはずなのに、脚韻(きゃくいん)が決まっている。
 ……
 はて、この監督とは?生粋の米国人だ。白人だ。トム・ホーバスという。……
 そんな人の日本語だから立て板に水には程遠い。いちいち考えては振り絞って出てくる。しかもその微妙な間に、日本語を良くも悪くも特徴づける『あのねえ』とか『えーと』みたいな間投詞は使わない。そうして紡がれる、拙いが曖昧さもない誠実な日本語が、土壇場の日本人をその気にさせる。それを言霊という。ホーバス氏は、強豪国に背丈で負ける日本の女子バスケットボールには気力がとりわけ大切で、そこで働くのは言葉の力と確信しているらしい。フェノロサ小泉八雲も、日本精神の理解者だ。
 古代日本での言霊思想の確立者は、柿本人麻呂山上憶良だろう。彼らが物よりも言に力を求めようとしたのは、中国への対抗意識ゆえと言われる。背丈もとい富み科学技術で張り合えぬなら、せめて気持ちで勝ちたい。言を信じて気力を振り絞れば、事の成ることもある。言葉の調子と声の力を相乗させ、歌を詠む人々をどこまでその気にさせられるか。劣位の国の勝負の仕方。言霊思想の神髄である。
 わが国の首相が『安心安全』と繰り返すのも言霊信仰に由来するそうな。が、肝心要を外しているのでは?言霊とは、相手を信頼しつつ、真心を一杯に込めた、土壇場の熱烈な叫びでなければ、働かないものでございましょう。」
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 言霊には、良い言霊と悪い言霊がある。
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 「全ての日本人には言霊がある」とはウソである。
 日本独自の「言霊思想」を持っていたのは、日本民族帰化系日本人で、渡来系日本人にはない。
 現代の日本人と昔の日本人は別人のような日本人である。
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 日本人と中国人・朝鮮人は別種のアジア人である。
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 日本民族は、中国大陸や朝鮮半島における弱肉強食の戦争や陰謀渦巻く政争に敗れた者や虐殺に恐れをなした弱者で、阿鼻叫喚の地獄から命辛々に逃げ、幸運にも日本列島に流れ着いた人々の子孫である。
 ゆえに、日本的な〝言霊思想〟は日本しかない特殊・特別な精神修養である。
 現代日本から、民族的な古典的伝統的文化的宗教的〝言霊思想〟が消えて久しい。
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 言霊とは、キリスト教や中国・朝鮮など反天皇反日本の外国勢力から母国日本を守る為の最強・究極の国防兵器であった。
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 日本の言霊=言魂は、キリスト教の神の言葉やイスラム教の預言者の言葉とは全然違う。
 中華儒教は、日本の言霊=言魂を認めず否定している。
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 創世記(口語訳)
 聖書 > 口語旧約聖書 > 創世記(口語訳)
 『聖書 [口語]』日本聖書協会、1955年
 旧約聖書 〜創世記〜
 第1章
1 はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
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 ヨハネによる福音書
 <聖書<口語新約聖書 『口語 新約聖書日本聖書協会、1954年
 ヨハネによる福音書([リンク])
 第1章
1:1 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
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 言霊信仰(読み)ことだましんこう
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「言霊信仰」の解説
 言霊信仰 ことだましんこう
 言語そのものに霊力が宿っているという信仰。ある言葉を口に出すとその内容が実現するという,一種の宗教的信仰ともいえるもので,祝詞 (のりと) ,忌言葉もその現れである。日本においては,江戸時代の音義説にまでこの思想の流れがみられる。われわれの日常の言語生活にもある程度このような思想がみられる。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 世界大百科事典内の言霊信仰の言及
 【言霊】より
 …ことばに宿る霊の意。古代の日本人は,ことばに霊が宿っており,その霊のもつ力がはたらいて,ことばにあらわすことを現実に実現する,と考えていた。言霊という語は,《万葉集》の歌に,3例だけある。山上憶良長歌に,〈そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国 言霊の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり〉(巻五)とうたわれ,《柿本人麻呂歌集》にも収める歌には,〈言霊の八十(やそ)の衢(ちまた)に夕占(ゆうけ)問ふ占(うら)正(まさ)に告(の)る妹(いも)はあひ寄らむ〉〈磯城島(しきしま)の日本(やまと)の国は言霊の幸(さきは)ふ国ぞま幸(さき)くありこそ〉とうたわれている。…
 ※「言霊信仰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
 出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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言霊と日本語 (ちくま新書)
言霊――なぜ、日本に本当の自由がないのか (祥伝社黄金文庫)
言霊の法則 (サンマーク文庫)
言霊の思想
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」

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🏞86)─1─文化露寇。徳川幕府はロシアのアラスカ開発とアメリカ大陸植民地支配計画を潰した。〜No.360No.361 ㉚ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 文化露寇のロシアも元寇フビライも、日本に求めたのは戦争ではなく平和的な交易であった。
 戦争になった原因は、国境を開放して開国し国交を正常化させ自由なヒトの交流と制限のないモノとカネの交易を求めたロシアとモンゴルの要請を、「国是・祖法・前例で拒否し日本列島=国=ムラの殻に閉じこもろうとした」排他的な百姓気質(農耕生産地が命)の日本にあった。
 日本人農耕民の危機感とは、「日本の国土・村の土地・祖先の田畑が外国人に奪われる」であった。
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 2021年9月号 Voice「歴史論争  渡辺惣樹
 アレキサンドル1世の『遁世』
 ロシア史に輝く名君
 アレキサンドル1世(1777年生)といわれても、この人物を知る読者は少ないに違いない。しかしロシア史においては名君である。治世中(在位:1801~25)には、ナポレオン率いる常勝軍の領土内侵攻を許しながらも、モスクワを逃げる際には町を焼き払う奇策で、ナポレオン軍のモスクワ常駐を阻止した。ロジスティクスを支えられず、撤退を決めた同軍を冬将軍が襲い、ナポレオン凋落のきっかけとなった(1812)。ナポレオン戦争後に開催されたウィーン会議では、ロシアの領土拡大を認めさせ、ポーランドフィンランドベッサラビア黒海沿岸部)を得た(1915)。
 日本史との関係でいえば、通商関係樹立を求めて、長崎にレザノフを遣(や)ったのもこの皇帝である(1804)。このころのロシアの領土拡大は極東を越え北米大陸にまで及んでいた。アラスカを領土化(18世紀半ば)して以来、同地の開発と経営は、露米会社に委ねられたが、アラスカ開発のためには安定的な食糧確保が課題だった。日本と貿易できれば、その懸案も消え開拓に弾みがつくはずであった。しかし徳川幕府の拒否で、ロシア帝国のアラスカ開発の夢は潰えた。レザノフの対幕府交渉が成就していれば、ロシアはアメリカにアラスアを売却(1867)しなくても済んだかもしれない。
 ロシア史に燦然(さんぜん)と輝くこの皇帝が突然に世を去ったのは1825年12月1日のことである。皇帝は病弱の皇后の療養をかねてロシア南部アゾフ海沿岸の町タガンログに滞在していたが、腸チフスに冒(おか)され急死した(47歳)。棺(ひつぎ)は2カ月後の首都サンクトペテルブルクに戻ったが、皇帝の遺体を見たものはほとんどいなかった。少ない目撃者は皇帝とは違うようだと訝(いぶか)ったが、容貌の違いは腐敗が理由だろうとされた。棺はペトルパウェル大聖堂に納められた。
 不思議な聖職者と筆跡鑑定
 皇帝の死から11年経った1836年、怪しい男(ロシア正教僧)が西シベリアの町クラスノウフィムスク(モスクワの東1,450km)に現れた。フェオドール・クズミーチと名乗るばかりで、出自は一切語らなかった。無宿人として扱われたクズミーチは、トムスク(東にさらに2,000km)に移され、流刑者共同体の蒸留酒(じょうりゅうしゅ)工場で5年間働いた。解放されると再び流浪の旅に出た。
 15年後にようやく、トムスクの東370kmにある寒村クラスナヤ・レチカに居を定めた。年老いたクズミーチの後頭部に少しばかり残る髪も、長く伸ばした髭も、雪のように白かった。そこに純白の僧衣をまとって説経する姿は、村人をたちまち魅了した。
 気が利いた説経に加えて『見てきたように』サンクトペテルブルクの宮廷生活や1812年の戦いの模様を語った。ヨーロッパの地理に詳しくフランス語も流暢(りゅうちょう)に操った。それが村人の尊崇の理由であった。信者の一人が建ててくれたあばら家での質素な生活であったが、そこに時折得体の知れない者が訪れ、村人を怪しませた。
 1864年、クズミーチは、クラスナヤ・レチカの村で過去を隠し通して死んだ。
 死後、クズミーチはアレキサンドル1世だったのではなかったかとの噂が広がった。『皇帝は父殺しの罪悪感に苛(さいな)まれ、神に許し得ようと聖職の道に入りたかった。そのために死を装って遁世(とんせい)したのではなかったか』と囁(ささや)かれた。皇帝の父パーヴェル1世は、廷臣の特権排除や、外国旅行の規制(フランス革命思想の伝播を嫌った)などで宮廷貴族に嫌われていた。彼が近衛兵によって暗殺されたのは1801年3月23日のことである。息子アレキサンドル1世が、西洋社会で忌(い)み嫌われる『王殺し、父殺し』に関わっていたことは確かだった。
 噂は、ロマノフ王朝関係者にも伝わった。アレキサンドル3世(曽孫)はクズミーチの肖像画を執務室に飾り、その子ニコライ2世は墓所を訪れている。2人も同一人物説を信じていたようだ。アレキサンドル1世とクズミーチの筆跡は、素人目には瓜二つである。2015年、ロシア筆跡鑑定協会会長(スヴェトラーノ・セミョノーヴァ)が科学的鑑定を実施し、同一人物の筆跡であると断定した。
 ロシア政府は、埋葬されたアレキサンドル1世とされる遺体のDNA鑑定を許していないが、ロシア正教会は前向きである。」
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 ロシアは、アラスカ開発の為に日本との交易を望んでいたが、徳川幕府の無理解で失敗しアラスカを失い、アメリカ大陸植民地化が頓挫した。
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 徳川幕府はロシアとの戦争に備えて東北諸藩に蝦夷地や北方領土への派兵を命じてロシアを退け鎖国日本を守った、その結果に、無自覚に、間接的に、アメリカをロシアの侵略や植民地支配から救った。
 日本人の蝦夷地や北方領土に住むエゾ・アイヌ人への扱いが変わっていった。
 つまり、アイヌ人は日本の味方かロシアの味方か、植民地主義帝国主義の世界情勢はどっち付かずの曖昧な中立を許さなかった。
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 日本危機との情報を知った日本人による過激な攘夷熱が、日本全国で起き始めた。
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 現代日本の高学歴な知的エリートと進歩的インテリは、地球規模の地政学・戦争学・植民地学・人類侵略史などの知識が乏しい為に、日本の歴史はおろか世界の歴史さえも正しく理解できない。
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 文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件(ロシア語: Инцидент Хвостова)とも呼ばれる。

 文化元年(1804年)、これを受けて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し、半年にわたって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至り、また、日本への報復を計画し、樺太択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させた。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフは、文化3年(1806年)には樺太松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。幕府は新設された松前奉行を司令官に、弘前藩南部藩庄内藩久保田藩から約3,000名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護にあたった。しかし、これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍に撤退を命令した。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩の警護藩士も撤収を開始した。なお、この一連の事件では、日本側に、利尻島で襲われた幕府の船から石火矢(大砲の一種)が奪われたという記録が残っている。
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 もし、ロシア帝国がアラスカ開発に成功し北アメリカ大陸に植民地を獲得して各地に要害都市・軍港都市を建設していたら、後のハリマンの世界一周鉄道計画において中国・満州を必要としなかった。
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 元寇を命じたフビライ皇帝も露寇事件を起こしたロシア帝国アレクサンドル1世も、日本に望んだのは戦争ではなく交易であった。
 ロシア帝国の日本との交易は、ピョートル1世からの悲願であった。
 モンゴル人は、大陸遊牧民族として足が地に着かない底なしの海を恐れ、泳げないモンゴル兵は海に落ちれば確実に死ぬ舟戦を苦手としたからである。
 極寒に閉ざされるロシア帝国は、暖かい地方や結氷しない海への領土拡大が宿命であったが、シベリア・カムチャッカ半島及び北米・アラスカに領土を拡大したのは陸軍的行動であって海軍的行動ではなく、その為にカムチャッカには治安目的の小部隊と数隻の軍艦が常駐するだけで日本と戦争するほどの兵力ではなかった。
 西洋と中華は、日本を世界の7大帝国の一つとして好戦的な武士集団(職業軍人組織)の軍事力を恐れ警戒していた。
 平和的な交易を求めてきた元・モンゴルとロシア帝国と戦争になったかといえば、排他的鎖国状態にあった日本側に国際情勢への分析力・理解力がなかった事が主たる原因であったが、それ以上に元・モンゴルやロシア帝国は自国に有利な交易をする為に武力を匂わせた軍事的威圧を伴っていたからである。
 元・モンゴルやロシア帝国使節と応対したのが、現代日本のように柔軟な発想で金儲け・利に聡い商人(企業家)であれば軍事的威圧を無視して交易を受け入れたが、名誉・体面を病的にこだわる武士であった為に強国・大国意識でごり押ししてくる相手に嫌悪し意固地となり臍を曲げ反発し拒絶した。
 日本の、商人は戦争を嫌うが、武士は戦争を好んだ。
 徳川幕府が、ロシアとの交易で警戒したのはキリスト教による宗教侵略、つまり中世キリスト教会の悪夢であった。
 そして、日本国内で水戸藩吉田松陰ら勤皇派による尊皇攘夷運動が起きた。
 現代の日本人には「攘夷」の本当の意味が理解できない、右翼・右派・ネットウヨクや左翼・左派・ネットサハに関係なく、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者にそれが言える。
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 徳川幕府田沼意次の革新的外交交易政策を踏襲し、1804年にロシア皇帝アレクサンドル1世の交易要望を受け入れ開国していたら、近代的天皇制度国家・軍国主義国家は誕生せず、その後の戦争、日清戦争から太平洋戦争までの全ての戦争は起きなかったろうし、共産主義者によるロシア革命は起きず、ロシア正教ロシア帝国は滅亡せず、反宗教無神論ソ連コミンテルン中国共産党日本共産党・国際的共産主義勢力もなかったかもしれない。
 そして、アメリカはアラスカをロシアから購入して領土にはでず、北米大陸にロシアが存在し現代とは違う姿になり、当然、アメリカが現代の大国のように発展できたかどうかは判らない。
 良い悪いは別として、いつの時代でも日本の決断と行動が地球規模で世界・世界史を動かしていた。
 が、現代の日本と昔の日本は全くの別の日本である。
 つまり、紀州(和歌山)の地方下級武士から成り上がった下賤の田沼意次を正しく評価しないマルクス主義史観・キリスト教史観に毒されたリベラル的日本の歴史は無意味どころか、正しい視野・思考を身に付けるべき青少年にとって有害である。
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 ロシアによるアメリカ大陸の植民地化
 ロシアによるアメリカ大陸の植民地化(ロシアによるアメリカたいりくのしょくみんちか、英: Russian colonization of the Americas)は、ロシア帝国が主に北アメリカ大陸太平洋岸の領有権を主張した1732年から1867年まで行われた。ロシアは北アメリカの天然資源の交易(特に毛皮交易)を行い、これを海路および陸路を通じてロシアに運ぶために、遠征隊を後援し、植民事業を維持した。併せて開拓地や防衛のための前進基地を維持した。植民地は主に今日のアラスカ州に設立され、ハワイ州カリフォルニア州北部に達した者もいた。しかし1867年、アメリカ合衆国がロシアのツァーリからの申し出を受け容れ、アラスカのロシア植民地を720万ドルで購入した。アラスカ購入と言われる。これによって北アメリカにおけるロシア帝国の植民地経営は終わった。

交易会社
 詳細は「露米会社」を参照
 ヨーロッパ諸国の中でロシア帝国は、海岸遠征や領土獲得のための植民を国家が支援しなかった数少ない帝国だった。アメリカ大陸における活動を後援するために初めて国家が保護した交易会社は、グリゴリー・シェリホフとイワン・ラリノビッチ・ゴリコフによるシェリホフ・ゴリコフ会社だった。1780年代には他にも多くの会社がロシア領アメリカで活動した。シェリホフはロシア政府に排他的支配権を請願したが、1788年にエカチェリーナ2世は既に占領した地域のみの独占権を認める決断をした。他の交易業者はそれ以外のどこでも自由に競合することができた。エカチェリーナ2世の決断は1788年9月28日に皇帝宣言として発布された。
 シェリホフ・ゴリコフ会社が露米会社(ロシア・アメリカ会社)の基礎となった。その認証は新ツァーリのパーヴェル1世による1799年宣言で行われ、これによればアリューシャン列島と北緯55度線より北の北アメリカ本土のロシア領アメリカにおける独占的交易権を与えていた。露米会社はロシア初の共同持ち株会社であり、ロシア帝国商務省の直接管轄下に入った。シェリホフ・ゴリコフ会社以来、アラスカ交易はイルクーツクを本拠とするシベリアの商人達が担っており、彼らが露米会社の当初の主要な株主であったが、間もなくサンクトペテルブルクを地盤とするロシア貴族がこれに替わった。露米会社は現在のアラスカ州ハワイ州およびカリフォルニア州に開拓地を建設した。
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 ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 露:ニコラーィ・ペトローヴィチ・レザーノフ, ロシア語: Никола́й Петро́вич Реза́нов, 1764年4月8日(ユリウス暦3月28日) - 1807年3月13日)は、ロシア帝国の外交官。極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。
 露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)を設立したほか、クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海(1803年)を後援し、自ら隊長として日本まで同行した。この日本来航(1804年、文化元年)はアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節としてのものである。露日辞書のほか多くの著書は、自身も会員だったサンクトペテルブルクロシア科学アカデミーの図書館に保存されている。彼は40代で死んだが、その早い死はロシアおよびアメリカ大陸の運命に大きな影響を与えた。
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 露米会社(ろべいかいしゃ。Russian-American Company、ロシア語: Российско-американская компания)は、極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的とした、ロシア帝国の国策会社・勅許会社である。1799年、パーヴェル1世から、官僚・外交官のニコライ・レザノフへの勅許により成立した。

 露米会社の経営
 露米会社の経営は最初から厳しく、食糧難で入植地は崩壊寸前となり会社は大きな損失を出した。レザノフはアラスカの維持のためにはまず日本との交易が必要と考え、自らペテルブルクから長崎へ来航したが不調に終わった。半年を長崎で待った後、彼はカムチャツカ経由でアラスカに向かった。レザノフは現地の規律を立て直し、食糧難解決のために今度は南方のスペイン領アルタ・カリフォルニアへ向かい食料調達と交易確立を図ったが、彼の死によりスペインとロシアの条約締結はならなかった。
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 世界の窓
 アラスカ/アラスカ買収
 1741年にベーリングが到達してロシア領となる。1867年、アレクサンドル2世の時、アメリカに売却した。19世紀末に金鉱発見。1959年、州となる。
 ベーリングのアラスカ到達
 アメリカ大陸の西北端に位置するアラスカは、現在はアメリカ合衆国の州であるが、かつてはロシア領であった。ロシアのピョートル1世の命令によってシベリアの奥地を探検し、1728年にベーリング海峡を発見したベーリングが、大帝の死後の二度目の探検で、アリューシャン列島を東に進み、1741年に北米大陸の北西部に上陸した(ただしベーリングは帰途に死去した)。その地にはまだイギリス人もフランス人も到達しておらず、ロシア領アラスカとした。その後、アメリカ合衆国が独立したが、それは東部十三州に限られ、当然アラスカまでには及んでいない。
 その後、ロシアは1799年にロシア・アメリカ会社を設立し、さらにアメリカ大陸西岸を南下して入植地を拡げようとした。それは、太平洋方面に領土を拡張しつつあったアメリカ合衆国にとって一つの脅威となった。1823年にモンロー大統領はモンロー教書を発して、ヨーロッパ諸国のアメリカ大陸への干渉を排除しようとした背景の一つは、ロシアを含むウィーン体制下のヨーロッパの神聖同盟が新大陸に進出してくることを警戒したことが挙げられる。
 アラスカ売却
 しかし19世紀中ごろになり、ロシアはクリミア戦争に敗れたアレクサンドル2世は近代化改革に迫られたため財政難に陥り、自国領であったアラスカをアメリカへの売却を申し出た。交渉が成立し、1867年3月30日に売却されたが、その価格はわずかに720万ドルであったという。南北戦争後の国土統一を進めていたアメリカ合衆国(リンカンは暗殺されていたので大統領はジョンソン)にとっては好条件の取り引きとなった。
 州に昇格
 その後、19世紀末から20世紀初頭にかけてアラスカでも金鉱が発見され、ロシアは大いに悔やむこととなった。アラスカではさらに石油・天然ガスなどの豊富な地下資源が発見され、重要度を増していった。さらに冷戦時代には対ソ戦略でも重要な位置にあったため、その自然環境の過酷さから人口は少なかったものの、1959年にアメリカ合衆国の49番目の州に昇格した。
 アラスカ州にある北米大陸最高峰のマッキンリーは、第25代大統領となったマッキンリーに因む名であるが、2015年8月31日に、アラスカ先住民の呼称である「偉大なもの」を意味する「デナリ」に改称された。
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 ウィキペディア
 ロシア領アメリカ(ロシアりょうアメリカ、ロシア語: Русская Америка, Russkaya Amerika)は、ロシア帝国が1733年から1867年まで北米地域に領有していた領土を指す。
 首府はノヴォ・アルハンゲリスク(現在のアメリカ合衆国アラスカ州シトカ)に置かれていた。現在は主にアメリカ合衆国アラスカ州となっている地域とハワイ州となる地区の3つの砦に及んでいる。
 ロシア帝国が公式に植民地として成立させたのは、独占権を持つ露米会社の設立を宣言するとともにロシア正教会に一部土地の所有権を認めた1799年勅令だった。19世紀にはそれらの所有権の多くは放棄されたが、1867年にロシア帝国は残りの所有権をアメリカ合衆国に720万USドル(現在の価値で1億3,200万USドル)にて売却(アラスカ購入)した。
 ロシア人によるアラスカ「発見」
 ロシアにおいてアラスカに初めて到達したヨーロッパ人の記録が残っているのは、セミョン・デジニョフが1648年にシベリア北東部のコリマ川河口から出帆し北極海を航海、ユーラシア大陸の東端を回航しアナディリ川まで辿り着いた記録である。一部の船が船団を離れアラスカに上陸したと言う伝承もあるが、確証はない。デジニョフの発見は中央政府に報告されておらず、シベリアは北アメリカ大陸と地続きなのかそうでないかは、この時点でまだ解明されていない疑問であった。
 1725年、ロシア皇帝ピョートル1世は再度探索を指示した。1741年6月、第2次カムチャツカ遠征(1733-1743)の一部としてヴィトゥス・ベーリング(聖ピョートル号)とアレクセイ・チリコフ(聖パーヴェル号)がカムチャツカ半島のペトロパブロフスクから出帆した。それぞれすぐに2隊に分かれたが、そのまま東方で航海し続けた 。7月15日にチリコフは、おそらく現在のアラスカ南東端のプリンスオブウェールズ島に当たると思われる土地を「発見」。船員をロングボートで着岸させ、北アメリカ北西海岸に初めて上陸したヨーロッパ人となった。 翌7月16日にはベーリングと聖ピョートル号船員はアラスカのセイントイライアス山を見つけ、その後進路を西方のロシア方面に戻した。チリコフと聖パーヴェル号も10月にはアラスカ「発見」のニュースをロシアへ持ち帰った。
 11月にベーリングは現在のベーリング島で座礁。聖ピョートル号も強風で破壊され遭難、そのままそこで病死した。厳しい冬季を乗り越えた生存者は船の破片から造船し、1742年8月に島を出てカムチャツカに生還したため彼らのアラスカ「発見」のニュースが伝わった。彼らが持ち帰った高品質のラッコ毛皮の存在が、ロシアのアラスカへの入植の意欲を高めた。
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 アラスカ購入(英語: Alaska Purchase)またはアラスカの売却(ロシア語: продажа Аляски)とは、1867年にアメリカ合衆国ロシア帝国の両政府間で行われた取引であり、その結果としてロシアの植民地であったアラスカ(ロシア領アメリカ)をアメリカ合衆国が買い取ることになった。
 購入への経緯
 ロシア人は18世紀末から、毛皮獣の狩猟や交易のために露米会社を設立して北アメリカ大陸太平洋岸一帯に進出しており、一部はカリフォルニア州にまで達していた。しかしロシアが実効支配していたのは沿岸部にとどまったことから英米系の毛皮商人も進出したが、露米会社は生活物資の補給と毛皮の納品をシベリア経由で行う必要があったため彼らとの競争において不利であり、また皮獣の枯渇が進み、経営に行き詰まるようになった。さらに、1853年から1856年にかけてのクリミア戦争では、ブリティッシュ・コロンビア植民地からイギリスに侵攻された場合のアラスカ防衛の困難が認識されるようになった。加えて、そのクリミア戦争の敗北後に国家財政が逼迫するようになった。そのため、ロシアはアラスカを売却することにしたが、イギリスに売却した場合はシベリア極東部がイギリスの軍事的脅威に晒されるため、アメリカ合衆国を取引の相手に選んだ。
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 アラスカの歴史
 アメリカ合衆国の一部としてのアラスカの歴史は1867年に始まるが、 この地域の歴史は旧石器時代 (紀元前12,000年頃) にまで遡ることができるとされている。一番早く住み着いたのはベーリング地峡を渡り、アラスカ西部に辿り着いたアジア人のグループである。 コロンブスの新大陸発見以前にアメリカにいた先住民のうち、ほとんどではないにしても多くがこの地峡を渡ってアメリカにやって来た。ロシアの探検家を通じてヨーロッパとの接触が始まる頃には、この地域にはイヌイット等の様々な先住民が住んでいた。
 アラスカについての文書に残る歴史のほとんどはヨーロッパによる植民にまで遡る。ロシア海軍の聖ピョートル号に乗ったデンマークの探検家 ヴィトゥス・ベーリングがアラスカを「発見」したと記録されているが、先に発見したのは聖パーヴェル号に乗ったアレクセイ・チリコフであった。彼は1741年7月15日、現在のシトカ市で陸地を発見した。ロシア・アメリカ会社はすぐにカワウソの狩りを開始し、アラスカ沿岸の殖民の支援を始めたが、高い船賃がネックになって経営はうまくいかなかった。
 1867年4月9日、アメリ国務長官のウィリアム・スワードが720万ドル(2005年現在の価値で9000万ドル)でアラスカを購入した。1958年7月7日、大統領ドワイト・D・アイゼンハワーはアラスカを連邦に加えることを認めるアラスカ州法にサインし、1959年1月3日、アラスカは連邦の49番目の州となった。
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🌈79)80)─1─日本家族の原型は中世の核家族であった。~No.136No.137No.138No.139 ⑯ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2021年8月21日 朝日新聞「読書
 『中世は核家族だったのか 民衆の暮らしと生き方』
 西谷正浩〈著〉 吉川弘文館
 疫病や災害が夫婦の結合強めた
 評・戸邊秀明
 核家族と中世。奇妙な組み合わせに感じるのは、中世の特徴を家(いえ)制度の成立と見る通説が前提にあるからだ。平等な分割相続が、家名や家産を長男が独占する単独相続へと変わり、特に女子は排除された。この傾向は、貴族や武士の間で南北朝時代を画期に進み、戦国時代で民衆へ達する。
 だがこの説明では、大半の時期で抜け落ちてしまう。史料の欠落を打開するため、著者は歴史人口学や気候学、集落遺跡の発掘・復原(ふくげん)等の最新の知見を、社会経済史の蓄積と融合させる。すると、成人した子供はみな生家を出て夫婦で独立した世帯を営むという『核家族規範』が浮かびあがる。
 きっかけは、古代末期の疫病や自然災害の多発だった。崩壊した共同体から放り出された民衆は、夫婦間の結合を分業で強めて危機を乗り切る。鎌倉時代の有力農民である名主(みょうしゅ)層でも、非親族を含めた複数の世帯を抱えながら、住宅から食事・家計まで別々で、決して大家族ではない。名主の地位も不安定で、小百姓と身分差はなかった。
 ところが中世末期、地侍(じざむらい)になった有力農民が、系譜や由緒を創って身分上昇を狙う。武家に倣(なら)って家の永続を図り、やがて世襲制の庄屋となる。ただし親子2世帯同居の直系家族が、全階層で一般化するのは近世も後半。中世の家族形態は、それほど長く持続した。
 本書の明快さは、家族の変貌を、農業経営や村落の身分秩序の長期的な変化と結びつけ、中世社会の全体に有機的に位置づけた点にある。実家を出ながら結婚まで母親の世話になる『母懸(ははがかり)』の若い男性の存在など、犯罪や裁判の荘園文書から村の意外な慣習を引き出す史料捌(さば)きも興味深い。
 生存戦略として培われた家族の形。この『中世人の貴重な体験』は、核家族の規範さえ動揺し、当時と同じく『家筋(いえすじ)』に無関心な『祖先なき者』となった私たちにとり、未来を占う想像力の幅を広げてくれる。」
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 中世・近世を生きた日本人は、中世型核家族を生きる為に「神仏排除の儒教」ではなく「神仏混合の仏教」を選び、取り入れた儒教朱子学儒教(正統派儒教)ではなく論語儒教諸派儒教)であった。
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 核家族という家族形態は、古代から一般的であったのが中世で完成し、江戸時代の近世後半に大家族が普及するまで続き、明治の近代化で消えたが、個人を尊重する現代で復活した。
 つまり、日本の家庭とは核家族が主流で、「家族だから面倒を見る」はあり得なかった。
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中世は核家族だったのか (歴史文化ライブラリー 524)
核家族の解体と単家族の誕生
「一人で生きる」が当たり前になる社会
「ただ一人」生きる思想 ――ヨーロッパ思想の源流から (ちくま新書)
ひとりで生きる 大人の流儀9
斎藤一人 明るい未来の作り方
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 一つの屋根の下で数世代が同居するという大家族生活は、江戸後期から昭和時代までの短期間に出現した特殊な現象であった。
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 徳川幕府は、子供を多く生んで育てる子宝夫婦と老親の面倒を見る親孝行を称賛して報奨金を与えた。
 貧しい家庭では、必要な食い扶持・食べ物・食糧を確保する為に、胎児の流産、乳幼児を殺し、増えた子供を人買いに売り飛ばす、そして病気や老衰で動けない・働けなくなった老親は口減らしとして「うば捨て山」に捨てた。
 江戸時代までの日本は、命を命と思わない残酷なブラック社会で、その冷酷・非情が各地に陰険・陰湿な因襲として伝わっている。
 その証拠が、水子供養、怨霊・怨讐・お化け・幽霊・妖怪・物の怪などの百物語である。
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 頻発する自然災害・疫病・飢餓そして絶える事がない戦乱の時代には人の移動が激しく、その為に重視されたのは変更不能な生家・出自などによる血筋=貴種で、実力・能力・才能で変更可能な身分・地位・階級は重要ではなかった。
 つまり、自然災害・疫病・飢餓、戦乱の地獄世界では、名前ばかりの個人的な身分・地位・階級は役に立たず、生き残るには非親族の地縁共同体(忠誠心)か家の血縁共同体(家族愛)の集団主義的団結しかなかった。
 多くの面で、日本と中国・朝鮮とは違っていた。
 中国・朝鮮は、公・忠より私・孝を優先する一族・家族中心の宗族主義であった。
 日本は、在来の神々と渡来の仏を敬い、個人の私・孝より集団の公・忠を優先していた。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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➰5)─1─日本軍が隠した真実。戦争神経症の日本人兵士は戦中も戦後も精神科病院に隔離。~No.19No.20No.21 ③ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本人は、死を覚悟した武士ではなく死を恐怖する庶民(百姓や町人)の子孫である。
 戦争神経症は、職業軍人である武士ではなく志願兵か強制徴兵された庶民に起きやすかった。
 庶民である日本人には武士道や士道は無関係であり、武士・サムライの「死ぬ事と見つけたり」という精神主義を持っていなかったし、座禅的精神修業は無意味であり理解不能であった。
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 NHK
 【独自入手】太平洋戦争で精神疾患日本兵の追跡調査資料
 2021年8月19日 19時06分
 太平洋戦争などで精神疾患となった元日本兵100人余りについて、戦後、追跡調査した資料をNHKが独自に入手しました。資料には症状の原因となった戦場での過酷な体験や戦後も差別を受けた実態が記されています。
   ・   ・   ・   
 NHK クローズアップ現代
 2021年8月19日(木)
 シリーズ 終わらない戦争② 封印された心の傷 “戦争神経症”兵士の追跡調査
先の大戦中、存在すら隠された精神疾患発症の日本兵たち。彼らはその後どう生きたのか。戦後、密かに行われていた追跡調査が初めて開示された。調査をしたのは目黒克己医師(当時30)。元兵士たちの症状や暮らしの追跡から見えてきたのは、病に苦しみ続け孤独に生きる者、困窮に喘ぐ者など壮絶な「戦後」だった。番組では、元兵士の遺族らを独自に取材。戦場の狂気は兵士の心をどう蝕み、人生をどう変えたのか。知らなかった家族の受け止めは。いまも終わらない「兵士たちの戦後史」に迫る。
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 2021/08/19 NHK総合クローズアップ現代+
 シリーズ・終わらない戦争・封印された心の傷“戦争神経症”兵士の追跡調査
 過酷な経験はどれほど人の心をむしばむのか。
 歩行が困難になったり、激しいけいれんに襲われる日本兵の映像を紹介。
 戦地でのストレスなどが原因で発症する戦争神経症と呼ばれた精神疾患
 日本陸軍はこうした精神疾患兵士のための専門施設国府陸軍病院を設け、治療研究にあたった。
 戦線拡大に伴い、患者は増加。
 昭和20年までに入院した人だけでも1万を超えた。
 実際の患者数ははるかに多いとみられているが、戦争神経症皇軍の恥とした日本軍。
戦時中はその存在を否定しその結果、兵士たちの実態は戦後も長らく社会から見えないものになっていった。
 兵士たちに戦地で何があったのか、戦後をどのように生きたのか。
 ことし元兵士たちを追跡調査した極秘資料が初めて開示された。
 精神科医・目黒克己は戦時中の精神疾患兵士のカルテをもとに書面や対面で104人の 追跡調査を実施。
 調査の過程では戦場での残虐行為も浮かび上がってきた。
 当時の上司からは一切、口外してはならないと命じられた。
 開示された資料をもとに元兵士の遺族たちを取材。
 見えてきたのは心をむしばまれたまま亡くなった元兵士たちの晩年の姿。
 初めてその苦悩を知ることになった遺族たちの葛藤。
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 YAHOO!JAPANニュース
 「ワシは人殺しだ…」戦争体験者が流した涙、その理由とは
 2020/8/31(月) 11:48配信
 戦場に、敵はいなかった。そこにいたのは、人だった。第二次世界大戦を兵士として体験した男性が、思わずこぼしたある涙について、描いた漫画があります。Twitterにアップされたのは、1枚の作品。1700近くリツイートされるなど拡散し、「言葉にならない」などとコメントが寄せられています。【BuzzFeed Japan / 籏智 広太】
 【写真】「戦争神経症」に関する元日本兵のカルテ
 小さい頃、祖父の友人が酔っ払ったときのことだった。
 「おったのは、人やったわ…」
 この漫画を描いたのは、趣味で日常漫画を描き、Twitterにアップしているというこぐれさん(@kogure38)。このエピソードは小さい頃の記憶ですが、「たまたま祖父の写真を見て、思い出した」ことだったといいます。
 祖父の小学校の先輩だったという友人。大正の終わりごろの生まれで、よく家に飲みに来ては、「ずっと噂話をしながら笑っているような人」でした。
 そんな人が、思わず流した涙は、小さかったこぐれさんに強烈な印象を残しました。
 「大人の男性があんな風に泣くのを当時初めてみたこともあり、鮮烈に残っている記憶です。戦争体験は祖父くらいの年になっても決して風化することがないんだなと思いました」
 多くの日本兵が苦しんだ「戦時PTSD
 南太平洋の戦場を行進する日本軍(1942年1月撮影)
 戦争が終わっても、長年にわたり、祖父の友人のなかに潜んでいた「人を殺してしまった」というトラウマーー。
 こうした「戦時PTSD」(心的外傷後ストレス障害)に悩まされていた元兵士たちは少なくありません。
 敗戦直後までに入退院した日本陸軍の兵士約2万9200人のうち、その半分にあたる約1万450人が、さまざまな精神疾患に苦しんだという研究結果もあるほどです。
 原因には、敵だけではなく民間人、時には子どもを殺してしまったという加害の体験や、悲惨な戦場の記憶があるとみられています(当時のカルテによる)。
 1964年に施行された戦傷病者特別援護法に基づく共同通信のまとめによると、最多の1978年度には、1107人の元日本軍関係者が精神疾患の治療をしていました。終戦から30年以上経っていたにも、かかわらず。
 「忘れてはいけないこと」
 漫画には「祖父は戦争の話を絶対にしなかった」とも記されています。
 「祖父自身は戦争の話はしてくれませんでしたが、一度だけ現地で久々にお腹いっぱい食べた食事がとても美味しかった、というような話をしていました。どんな環境でもお腹が空くのが不思議だったというような話でした」
 そのうえで、こぐれさんはこう語りました。
 「私のように戦争を知らない世代は、実際に体験した人に比べてそれがどんなものなのかを実感することは難しい。でも、実際に涙を流していたあの人の記憶は、忘れてはいけないことのひとつだと思っています」
 「あの一瞬以外にもどれだけのものを抱えてるんだろうと……本当に恐ろしいです。わたしはもう戦争を知らない世代ですが、二度とあんな涙を見たくないと思う反面、あんな涙を流した人がいることを忘れてはいけないと思いました」
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 好書好日
 「戦争とトラウマ」書評 傷病兵士の還送の難
 評者: 保阪正康 / 朝⽇新聞掲載:2018年03月04日
 アジア・太平洋戦争期に軍部の関心を集めた戦争神経症。恐怖を言語化することが憚られた社会で、患者はどのような処遇を受けたのか。様々な医療アーカイブズや医師への聞き取りから、…
 戦争とトラウマ 不可視化された日本兵の戦争神経症 [著]中村江里
 戦争神経症に対する研究は、現在も充分(じゅうぶん)に行われていない。戦後の精神医学界でも無視されたテーマであった。本書は、この分野にひそむ問題を整理し、戦争の悲劇は時空を超えて存在すると訴えている。
 戦時下では「戦争神経症の存在は注意深く国民の目から隠されていた」。精神疾患による皇軍兵士の抗命や逃亡、命令拒否などが、伝染病の如(ごと)く軍内に広まるのを恐れていたためだ。精神疾患の兵は、差別され排除された。
 本書はデータを引用して詳細な分析を試みている。精神疾患の診察にあたった国府台(こうのだい)陸軍病院の、1937年12月から45年11月までの入院患者8002人の発病地は中国大陸が多く、次いで国内、「満州」で、太平洋・東南アジア地域からの患者は10%に満たない。患者移送(還送)の難しさや途中の戦死も多いためだ。
 従来の研究は戦場と銃後が中心だったが、その間の還送の研究が必要だと著者は説く。注目すべき視点だ。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「戦争神経症」の解説
 戦争神経症 せんそうしんけいしょう
 戦時の軍隊内,特に前線の戦闘部隊で起る神経症。ヒステリー反応が過半を占める。戦争神経症に対しては,心理的に破綻をきたしやすい兵士のタイプを考えるよりも,どのような状況がどの程度持続したら心理的な破綻が起るのかという発想に基づいて,休暇の与え方や部隊の交代などを工夫することが大切とされている。戦場において起る急性戦闘反応 (食欲不振,不眠,錯乱,失神など) のほかに,一般生活に戻ってから起る遅発性の反応 (悪夢,無感動など) もある。
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 日刊サイゾー
 隠蔽された日本兵精神障害【1】
 なぜ“復員”できなかったのか? 戦中も戦後も精神科病院に隔離…PTSDになった日本兵の末路
 2020/01/08 12:12
 文=須藤輝
 社会 歴史 医療 戦争 PTSD 第二次世界大戦 精神病院
2 018年8月に放送されたNHKETV特集『隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~』は視聴者に大きな衝撃を与え、何度かアンコール放送された。
――戦中、多数の日本兵が「戦争神経症」を発症し、軍の病院に“収容”されていた――。昨年、NHKのドキュメンタリー番組がその実態に迫り、大きな話題となったが、なぜこの事実は長らく明るみに出なかったのか? 精神を病んだ兵士が戦中・戦後に置かれた境遇を見ていくと、背後に巨大な問題があった。
 ◇ ◇ ◇
 2018年8月に放送されたNHKETV特集『隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~』は視聴者に大きな衝撃を与え、何度かアンコール放送された。
 2018年8月、NHKでドキュメンタリー番組『隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~』が放送された。日中戦争~太平洋戦争期に、精神障害を負った兵士が送られた国府陸軍病院(千葉県市川市)に保管されていた8002人の病床日誌(カルテ)を分析し、日本兵の戦時トラウマを明らかにしたことで反響を呼んだ。
 同番組に協力・出演した歴史学者・中村江里氏の著書『戦争とトラウマ 不可視化された日本兵の戦争神経症』(吉川弘文館)によれば、戦争と精神障害の問題は、第一次世界大戦の欧米諸国における「シェル(砲弾)ショック」「戦争神経症」から広く知られるようになったという。その後、ベトナム戦争帰還兵の自殺やアルコール中毒などの増加が社会問題化したことで、「心的外傷後ストレス障害PTSD)」という診断名が誕生した。一方、日本で「PTSD」や「トラウマ」という言葉が流布し始めたのは、95年の阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件がきっかけだといわれている。
 日本で戦争神経症は長きにわたり“見えない問題”として扱われたわけだが、第1次大戦後の陸軍はシェルショックの存在を認識していた。しかし、特に満州事変以降、天皇の軍隊に心を病むような脆弱な兵士はいるはずがないという“皇軍”意識の高まりもあり、陸軍は「日本軍に精神障害兵士は一人もいない」としたのだ。一方で日中戦争が始まった直後の1937年秋、精神障害兵士の専門治療機関として国府陸軍病院を開設し、秘密裏に戦争神経症の研究を続けた。
 国府台病院には37年12月~45年11月に1万人を超える兵士が入院し、その中には現在でいうPTSDに該当する患者もいた。だが、「当時はそのような考え方はなく、個人の弱さが原因になっていると考えられていた」と中村氏は番組内で発言。また、手足のけいれんを起こすヒステリーの症状も多く見られたが、「軍医たちは、ヒステリーのネガティブなイメージを避けるために、あえて『臓躁病』という言葉を使った」(中村氏)という。
 かくして日本兵の戦争神経症は隠蔽され、終戦後、国府台病院のカルテも陸軍から焼却命令が出ていた。しかし、ある軍医が密かに持ち出したカルテをドラム缶に入れて庭に埋めたことで、焼却を免れた。そのカルテには、過酷な戦場で心をむしばまれていく兵士たちの姿が記録されている。
 例えば日中戦争でもっとも多くの日本兵精神障害を発症したのは、中国・河北省だった。同地では広大な地域を占領統治するには兵力不足だった日本軍と、山間部の村々を拠点に勢力を拡大する中国共産党八路軍との緊張関係が継続。中国兵は民間人(農民)と同じ服装で、中には少年兵もいた。これを日本兵は討伐しなければならなかったのだ。
 ある兵士のカルテには、「六人ばかりの支那人を殺したが その中 十二歳の子供を突き殺し可哀想だなと思ったこと いつまでも頭にこびりつき 病変の起こる前には何だかそれが出て来る様な感がする」と記されていた。地方の農村から徴兵された若者が中国に連れて行かれ、突然「人を殺せ」と命令されるのだから、そのストレスは計り知れない。
 41年に太平洋戦争が始まると、国府台病院へ送られる兵士の数も急増。日本軍の拠点だったガダルカナル島では、空襲によるシェルショックに見舞われる兵士が多発し、63万人が送られたフィリピンでは多くの兵士がマラリアの感染から精神疾患を併発した。
 中国でも山西省八路軍がゲリラ戦を展開し、日本軍は劣勢に立たされていた。いつ襲われるかもしれない恐怖と夜通し歩き続ける行軍に日本兵は追い詰められ、自ら小銃を口にくわえ、引き金を引く者も。また、ある補充兵のカルテには、「次第に幻視幻聴 著明になり〈中略〉突然『聖徳太子が掃除をしろと言われた』と言い掃除を始めることあり」と、現在でいう統合失調症の症状も見られた。
 戦闘行動による恐怖や不安、消耗が戦争神経症を発症させたが、それ以外に、日本兵に特有の発症の仕方がある。『日本帝国陸軍精神障害兵士』(不二出版)の編著者で、国府陸軍病院のカルテを30年にわたり研究してきた埼玉大学名誉教授・清水寛氏によれば、それは「日本軍の訓練や上官からの私的制裁」であり、カルテにもその証拠が数多く記録されているという。さらにカルテには、本来なら徴兵を免除されるはずの知的障害者約500人の記録も残されていた。清水氏は番組内でこう述べている。
 「戦争が長期化、激化し、戦局が悪化していく中で大量の兵員を強制的に召集し、半数近くを中国大陸の戦場へ送り込んだ。軍隊での過酷な兵業に就く中でさまざまな身体的な疾病や精神的な障害も併発した」
 病院にいる戦傷病者に恩給が支給される法律
 終戦後も、精神障害兵士の多くが国立の療養所で生活を続けることになり、引き取り手のいない精神障害兵士は“未復員”と呼ばれた。85年まで約1000人が精神病の治療を必要とし、その半数以上が入院していた。戦後50年を経た95年に至っても253人が入院し、191人が入院外で療養。18年現在、6人が治療を続け、うち3人は入院中である。
 なぜ、彼らは復員(軍務を解かれ帰郷すること)できなかったのか? 『隠されたトラウマ』にも出演し、ソーシャルワーカーとして国立武蔵療養所(現・国立精神・神経医療研究センター/東京都小平市)に26年間勤めた日本社会事業大学大学院教授の古屋龍太氏は、こう話す。
 「国立武蔵療養所は日中戦争の激化を背景に、40年12月に開設されました(当時は傷痍軍人武蔵療養所。戦後、日本軍の解体に伴い改称)。入院患者の大多数は国府陸軍病院からの転送患者で、40~45年に953名の患者が収容され、もっとも入院者数が多かったのは44年12月の417名。彼らの8割近くが精神分裂病統合失調症)と診断されていました。私が入職した82年には、約50人の未復員の方々が入院されていました」
 古屋氏を含む武蔵療養所の職員は、彼らの診療に当たる一方で、症状の軽い患者の社会復帰活動も積極的に行っていた。
 「当時、小平にも新興住宅ができていたので、郷里には帰れなくとも、アパートで単身生活をしていただくために、今でいうアウトリーチ(療養所からアパートへの訪問)やデイケア(日中は療養所で過ごしてもらう)という形で支援をしていました」(古屋氏、以下同)
 しかし、やはり彼らを“復員”させることは非常に困難だった。その原因のひとつが、家族・親族からの反対である。
 「未復員の方々は軍人として、戦傷病者特別援護法という法律に基づいて入院しており、軍人恩給が支給されます。病院内にいる限り、入院されているご本人はそのお金をほとんど使う機会もありませんから、ご家族に管理していただきます。しかし退院すれば、恩給はご本人の大切な生活費になります。残念なことですが、入院中の恩給がすべて家族によって消費されてしまい、ご本人の退院時には預金残高がゼロということもありました」
精神疾患の未復員は故郷から拒絶された
 また、未復員の人たちは、故郷では“英霊”扱いになっているケースもあるという。要するに、「勇敢に戦って死んだことになっているのに、実は東京で精神科病院に入れられていたことが今さら周りに知られては困る」と、故郷の家族・親族から拒絶されてしまうのだ。
 「当時は精神疾患自体に対する偏見が現在の比ではなく、ハンセン病結核以上に忌み嫌われる存在だったんです。この国では戦後一貫して、国策として精神障害者精神科病院に長期隔離収容すべきという方針が示されていました。80年代前半はまだ精神衛生法の時代だったため、自傷他害の疑いがあり精神鑑定によって入院させられる措置入院か、家族など保護者の同意に基づいて入院させる同意入院の2つの入院形態しかありませんでした」
 “同意入院”といっても、そこに本人の同意はない。すなわち、患者の100%が強制入院だったのだ。この法律の観点から見ると、戦傷病者は措置入院ではなく同意入院であり、家族が「入院させておいてくれ」と言えば、本人が退院したくてもできないことが多かった。
 「しかし、84年に宇都宮病院事件という、精神科病院の職員による患者のリンチ殺人が発覚します。この事件が国連の人権委員会でも討議され、日本の精神科医療は国際的な批判を浴びました。これを受けて厚生省(当時)も法改正に着手せざるを得なくなり、87年に施行された精神保健法の下、初めて任意入院という、本人の同意(インフォームド・コンセント)に基づく入院制度ができました」
 任意入院制度ができたことで、精神科病院の了承を得られれば任意退院も可能になった。だが、戦特法下にある戦傷病者に関しては、また別の事情が絡んでくる。それは、「戦争=国家の責任で精神疾患を発症した患者を途中で放り出すとは何事だ」という批判だ。事実、古屋氏によれば、厚生省に対してそういった訴えを起こす家族・親族もいたという。
 「確かに、入院している限り未復員の方々は最低限のケアは受けられます。ただ、病院の中で暮らさせることが国の責任をまっとうすることなのか。むしろ、退院できる方は地域で暮らし、そのための支援を受けるのが当たり前でしょう。しかし、日本で精神障害者を地域や在宅でケアをするという具体的な施策が打ち出されたのは00年で、国が本格的に退院促進・地域移行に動き出したのは03年以降。それから15年以上たちますが、残念ながら目立った成果はありません」
 海外派遣後に自殺も……自衛隊メンタルヘルス
 NHKで放送された『隠されたトラウマ』を通して、確かに日本の精神障害兵士に注目が集まった。それ自体は好ましいことではあるが、「やはり遅すぎた」というのが古屋氏の率直な感想だ。
 「未復員の方々は、国家に人生を壊されたばかりか、日本の精神科医療政策の中で、残された人生の時間までも奪われた。しかも、残念ながらそのほとんどが亡くなってしまった段階で、ようやく日の目を見たわけです。さらに言えば、彼らと同様に超長期入院を強いられている精神障害者の方は、現在も数多くいます。11年以降の統計では精神科病棟で亡くなる方が年間2万人を超えており、1日に50人以上の方が入院中に亡くなっているという現実は何も変わっていない」
 この国の実態として、一度入ったらほぼ出られない精神科病院もいまだに多い。
 「退院できる方はたくさんいます。ソーシャルワーカーという福祉職から見れば、問題は患者さんの病状ではなく、むしろ患者さんが地域で暮らせる環境を整えられないことです。医療制度的にも問題があって、要は精神科以外の診療科だと入院期間が長くなるほど診療報酬の点数が減り、病院としては赤字になるのに、精神科の場合は病床さえ埋まっていれば最低限の経営ができてしまう。長期間ベッドを埋めてくれる患者さんが固定資産化している状況です」
 精神科病院は経営的にうまみのある患者を手放そうとしないし、家族も「入院させておいてくれ」と言い、地域で支援する体制も不十分。その間、精神障害者は社会から隔離され続ける。このような事態は、ほかの先進国からすると考えられないと古屋氏は指摘する。
 「『隠されたトラウマ』でも思わず言ってしまいましたが、日本だからこういうことが起きているんです。例えばアメリカでPTSDの問題に注目が集まったのは、国民がベトナム帰還兵のケアに懸命に取り組んだから。一方、日本は臭いものにふたをするという体質で、なによりも、精神障害者の方々それぞれに人権があるということに非常に鈍感ですよね」
 ことは戦傷病者だけの問題だけでなく、日本の精神科医療全体の問題でもある。それを踏まえた上で、ようやく日の目を見た日本兵のトラウマの記録から得られる教訓はあるのか?
 「教訓を得ようとするならば、まず自衛隊員のメンタルヘルスの状況をきちんと統計で出すこと。例えば15年の政府答弁で、海外派遣された自衛官のうち54名が帰国後に自殺していたことが明らかになりました。その主たる原因はPTSDうつ病だと思うのですが、情報が開示されない以上、検証すらできません。だから、とにかく事実を隠さないでほしい。統合失調症は約100人にひとりが発症しますし、うつ病なども含む精神障害は現在も増え続けています。それが『自衛隊の中にはひとりもいません』などということはあり得ないでしょう」
 現在も政府による公文書の改ざんや隠蔽がたびたび疑われるこの国にとって、情報の開示はもっともハードルが高いように思える。しかし、それができなければ、同じ過ちを繰り返しかねない。(月刊サイゾー9月号『新・戦争論』より)
 最終更新:2020/01/08 12:12
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 日経ビジネス
 飢餓、自殺強要、私的制裁--戦闘どころではなかった旧日本軍
 2019.8.14
 森 永輔
 日経ビジネス シニアエディター
 映画「この世界の片隅に」(2016年公開)が8月3日、NHKによって地上波放送で初めて放映された。こうの史代さんのマンガを原作とする劇場版アニメだ。主人公は、すずさん。絵を描くのが好きな18歳の女性だ。広島から呉に嫁ぎ、戦争の時代を生きる(関連記事「『この世界の片隅に』は、一次資料の塊だ」)。アジア・太平洋戦争中の、普通の人の暮らしを淡々と描いたことが共感を呼んだ。
 一方、アジア・太平洋戦争中の、戦地における兵士の実態を、数字に基づき客観的に描写したのが、吉田裕・一橋大学大学院特任教授の著書『日本軍兵士』だ。「戦闘」の場面はほとんど登場しない。描くのは、重い荷物を背負っての行軍、食料不足による栄養失調、私的制裁という暴力、兵士の逃亡・自殺・奔敵、戦争神経症に苦しむ様子--。同書の記述からは、軍が兵士をヒトとして遇そうとした跡を感じることはできない。加えて、第1次世界大戦から主流となった「総力戦」*を戦う態勢ができていなかった事実が随所に垣間見られる。

:軍隊だけでなく、国の総力を挙げて行う戦争。軍需物資を生産する産業力やそれを支える財政力、兵士の動員を支えるコミュニティーの力などが問われる

 なぜ、このような戦い方をしたのか。終戦記念日 を迎えたのを機に考える。吉田特任教授に話を聞いた。
 (聞き手 森 永輔)
 吉田さんはご著書『日本軍兵士』の中で衝撃的な数字を紹介しています。
 支那駐屯歩兵第一連隊の部隊史を見てみよう 。(中略)日中戦争以降の全戦没者は、「戦没者名簿」によれば、2625人である。このうち(中略)1944年以降の戦没者は、敗戦後の死者も含めて戦死者=533人、戦病死者=1475人、合計2008人である。(後略)(支那駐屯歩兵第一連隊史)(出所:『日本軍兵士』)
 この部隊の戦没者のうち約76%が終戦前の約1年間に集中しています。しかも、その73%が「戦病死者」。つまり「戦闘」ではなく、戦地における日々の生活の中で亡くなった。敗戦色が濃厚になるにつれ、兵士たちは戦闘どころではなく、生きることに必死だった様子がうかがわれます。
 戦病死の中には、「餓死」が大きなウエイトを占めていました。
 日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数はすでに述べたように約230万人だが、餓死に関する藤原彰の先駆的研究は、このうち栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)に達すると推定している*。(『餓死した英霊たち』)(出所:『日本軍兵士』)

:諸説あり

 飢餓が激しくなると、食糧を求めて、日本軍兵士が日本軍兵士を襲う事態まで発生しました。
 飢餓がさらに深刻になると、食糧強奪のための殺害、あるいは、人肉食のための殺害まで横行するようになった。(中略)元陸軍軍医中尉の山田淳一は、日本軍の第1の敵は米軍、第2の敵はフィリピン人のゲリラ部隊、そして第3の敵は「われわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」として、その第3の敵について次のように説明している。
 彼等は戦局がますます不利となり、食料がいよいよ窮乏を告げるに及んで、戦意を喪失して厭戦的となり守地を離脱していったのである。しかも、自らは食料収集の体力を未だ残しながらも、労せずして友軍他部隊の食料の窃盗、横領、強奪を敢えてし、遂には殺人強盗、甚だしきに至っては屍肉さえも食らうに至った不逞、非人道的な一部の日本兵だった。(前掲、『比島派遣一軍医の奮戦記』)(出所:『日本軍兵士』)
 負傷兵は自殺を強要される
 この後の質問の前提にある日本軍兵士の悲惨な事態を読者の皆さんと共有するため、もう少し、引用を続けます。
 兵士たちは飢餓に苦しむだけでなく、自殺を強要されたり、命令によって殺害されたりすることもありました。以下に説明する行為は「処置」 と呼ばれました。
 (前略)戦闘に敗れ戦線が急速に崩壊したときなどに、捕虜になるのを防止するため、自力で後退することのできない多数の傷病兵を軍医や衛生兵などが殺害する、あるいは彼らに自殺を促すことが常態化していったのである。
 その最初の事例は、ガダルカナル島の戦いだろう。(中略)撤収作戦を実施して撤収は成功する。しかし、このとき、動くことのできない傷病兵の殺害が行われた。(中略)
 (中略)視察するため、ブーゲンビル島エレベンタ泊地に到着していた参謀次長が、東京あて発信した報告電の一節に、次のような箇所がある。
 当初より「ガ」島上陸総兵力の約30%は収容可能見込にして特別のものを除きては、ほとんど全部撤収しある状況なり
 (中略)
 単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇コウ錠[強い毒性を持つ殺菌剤]2錠宛を分配す
 これが撤収にあたっての患者処置の鉄則だったのである。
 (『ガダルカナル作戦の考察(1)』)
 つまり、すでに、7割の兵士が戦死・戦病死(その多くは餓死)し、3割の兵士が生存しているが、そのうち身動きのできない傷病兵は昇コウ錠で自殺させた上で、単独歩行の可能な者だけを撤退させる方針である。(出所:『日本軍兵士』)
 第1次大戦時に修正できなかった精神主義
 食糧が不足し餓死と背中合わせ。戦闘で負傷すれば、自殺を強要される。こうした“踏んだり蹴ったり”の環境では、戦闘どころではありません。戦争はもちろんしないに越したことはありません。しかし、仮にしなければならないとするなら、兵士をヒトとして遇し、十分な食糧と休息を与えるべきだったのではないでしょうか。
 なぜ、アジア・太平洋戦争では、そんな態勢が作れなかったのでしょう。日清・日露というそれ以前の戦争では、兵士をヒトとして遇していたのでしょうか。
 吉田 裕(よしだ・ゆたか)
 一橋大学大学院特任教授
 専門は日本近現代軍事史、日本近現代政治史。1954年生まれ。1977年に東京教育大学を卒業、1983年に一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。一橋大学社会学部助手、助教授を経て、96年から教授。主な著書に『昭和天皇終戦史』『日本人の戦争観』『アジア・太平洋戦争』など(写真:加藤 康、以下同)。
 吉田:アジア・太平洋戦争の時ほど極端ではありませんが、日本軍に独特の精神主義が存在していました。典型は、歩兵による白兵突撃です。銃の先に銃剣を付け突撃し攻撃路を開く、というやり方。その背景には、「精神力で敵を圧倒する」という精神主義がありました。
 日露戦争後、こうした考え方が軍内に広まっていきます。例えば、陸軍は歩兵操典などの典範令(教則本)を大改正して、ドイツ製の翻訳から、独自のものに改めました。内容的には、日本古来の伝統、精神を重視するものにした。例えば夜襲を重視しています。
 日露戦争当時の軍は、日露戦争は白兵突撃によって勝ったと認識していたのですか。司馬遼太郎さんが同戦争を描いた小説『坂の上の雲』の影響かもしれませんが、「二〇三高地の戦いにおける白兵戦は愚かな作戦だった」という印象を持っていました。乃木希典・第三軍司令官は、効果が小さいにもかかわらず、犠牲の多い、白兵突撃を繰り返した、と。
 吉田:事実はともかく、「白兵戦によって勝った」「日本精神によって勝った」という“神話”を作ってしまったのです。
 本来なら、その後に起きた第1次世界大戦を研究する中で、こうした精神主義を修正すべきでした。しかし、それができなかった。
 例えば、歩兵による白兵突撃主義を取ったのは、日本軍だけではありません。欧州諸国の軍も同様でした。派手な軍服を着て、横一列に並んで突撃していったのです。しかし、第1次世界大戦を戦う中で挫折した。機関銃と戦車の登場が契機でした。
 日本軍は、第1次世界大戦中の欧州の状況を詳しく研究しました。しかし、研究するのと参加するのとでは話が違います。欧州戦に参加しなかった日本軍は、第1次世界大戦をリアリティーをもって感じることができなかったのでしょう。
 部下による反抗恐れ私的制裁を容認
兵士たちは餓死や処置を覚悟しなければならないだけでなく、私的制裁にも苦しめられました。私的制裁を苦にして、逃亡、奔敵(敵側に逃亡すること)、自殺に至る兵士が多数いました。
 初年兵教育係りの助手を命じられたある陸軍上等兵による、初年兵への執拗な私的制裁によって、彼の班に属する初年兵28人のほとんどが「全治数日間を要する顔面打撲傷」を負った。このため、私的制裁を恐れた初年兵の一人が、自傷による離隊を決意して自分自身に向けて小銃を発砲したところ、弾丸がそれて他の初年兵に命中し、その初年兵が死亡する事件が起こった。(『陸軍軍法会議判例類集1』)(出所:『日本軍兵士』)
 なんとも悲惨な話です。なぜ、私的制裁を取り締まることができなかったのでしょう。
 吉田:当時は、徹底的にいじめ、痛めつけることで、強い兵士をつくることができると考えられていました。この考えから抜け出すことができなかったのです。
 加えて、私的制裁が古参兵にとってガス抜きの役割を果たしていたことが挙げられます。兵士たちは劣悪な待遇の下に置かれています。この鬱屈とした激情が上官に向かって爆発すると、軍としては困る。実際、上官に逆らう対上官犯 は戦争が進むにつれて増えていきました。これを、単に規制するだけでは、火に油を注ぐことになりかねません。そこで、「下」に向けて発散するのを容認する傾向がありました。
 鬱屈とした激情を、「下」だけでなく「外」に向かって発散するのを容認する面もありました。
 そうした教育の戦場における総仕上げが、「刺突」訓練だった。初年兵や戦場経験を持たない補充兵などに、中国人の農民や捕虜を小銃に装着した銃剣で突き殺させる訓練である。
 藤田茂は、1938年末から39年にかけて、騎兵第二八連隊長として、連隊の将校全員に、「兵を戦場に慣れしむるためには殺人が早い方法である。すなわち度胸試しである。これには俘虜(捕虜のこと)を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるから、なるべく早くこの機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」、「これには銃殺より刺殺が効果的である」と訓示したと回想している。(『侵略の証言』)(出所:『日本軍兵士』)
 軍刑法に私的制裁の禁止条項なし
 軍法会議は機能していなかったのですか。
 吉田:陸軍や海軍の刑法には、私的制裁を禁止する条項がありませんでした。
 陸軍刑法に「陵虐の罪」の規定があります。しかし、これは、兵士を裸にして木にくくりつけるなど非常に極端な行為を対象にするもので、日常的に起こる私的制裁を対象にするものではありませんでした。
 取り締まるとすれば、一般の刑法の「暴行及び傷害の罪等」を適用する。
 確かに、初年兵28人に「全治数日間を要する顔面打撲傷」を与えた陸軍上等兵は刑法の傷害罪で懲役6カ月の有罪判決を受けています。この事件は初年兵の一人が自傷を試みたことによって発覚しました。
 かつて見た、「ア・フュー・グッドメン」という映画を思い出しました。トム・クルーズ氏が主演で、軍に勤める法務官。海軍の基地で、ジャック・ニコルソン氏演じる司令官が「コードR」(規律を乱す者への暴力的制裁)を命じて、若い兵士を死に至らしめる。法務官が法廷で大ばくちを打って、司令官を有罪に持ち込む、というストーリーです。この「コードR」に相当するものが、当時の日本の軍刑法には存在しなかったのですね。
 吉田:軍法会議に関する研究は実は進んでいないのです。法務省が資料を保管し、公開してこなかったのが一因です。今は、国立公文書館に移管されたようですが。二・二六事件をめぐる軍法会議の資料が閲覧できるようになったのは敗戦後50年もたってからのことです。これから新たな研究が出てくるかもしれません。
 (後編に続く。8月15日公開予定)
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 庶民にとって、領主が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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戦争とトラウマ
日本の長い戦後――敗戦の記憶・トラウマはどう語り継がれているか
日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 (中公新書)

🕯139)─1─『平家物語』から読み解く、中世の人々が本気で怖れた「地獄堕ち」。~No.297No.298 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2021年8月19日 MicrosoftNews AERA dot.「『平家物語』から読み解く 中世の人々が本気で怖れた「地獄堕ち」
 © AERA dot. 提供 『春日権現験記(模写)』国立国会図書館蔵 明治3年写(原本は鎌倉時代に制作)/地獄の様子を描いた場面。右手前に、釜で煮えられている亡者、その側には鬼に舌を抜かれている亡者、後ろには鬼に口を開けられ、煮えて溶けた銅を飲まされようとしてる亡者がみえる。左に描かれているのは、邪淫の罪で地獄に堕ちた亡者。美女を追いかけて樹を登るが枝葉が剣に変わり切り裂かれてしまい、ようやく頂上まで登ると今度は美女は樹の下にいる、という責め苦が繰り返される姿を描いている
 死後、遺族が執り行う法要が死者に下される審判に大きな影響を及ぼすのだとしたら、家族や親しい人のいない死者は誰にも供養されず、厳しい審理を受け、減刑もされずただ結審を待つだけということになってしまう。情状酌量もないまま、いわれのない罪で地獄に堕ちてしまうこともあるかもしれない。
 幼少時から閻魔王の存在に興味をもち、地獄について研究してきた国文学者の地獄に詳しい星瑞穂さんが、著書『ようこそ地獄、奇妙な地獄』(朝日選書)で解き明かした「閻魔王」の正体に「死後のスケジュール」の意味や成り立ち。ここでは、人々が死後の「地獄堕ち」をどれほど怖れていたか、『平家物語』からひもといていきたい。
  *  *  *
 『平家物語』より、俊寛(しゅんかん)僧都にまつわる逸話を引用しよう。俊寛は、平家打倒の陰謀をめぐらした罪によって、鬼界島へと流罪になった。彼は許されることなく、島で無念のうちに病死するのだが、その寵童である有王丸(ありおうまる)が駆けつけて最期を看取った。嘆き悲しむ有王丸は次のように言う。
 「やがて後世の御供(おとも)仕(つかまつ)るべう候(さうら)へども、此世(このよ)には姫御前(ひめごぜん)ばかりこそ御渡り候へ、後世訪(とぶら)ひ参らすべき人も候はず。しばしながらへて御菩提(ぼだい)訪ひ参らせ候はん」
 【現代語訳】
 (私も一緒に)このまま後世へお供するべきですが(筆者注:自分も死んで、生まれ変わって来世まで仕えることを指す)、この世にはお姫様(同:俊寛の娘)こそいらっしゃるものの、そのほかには供養をしてくれる人もいらっしゃいません。しばらく生きながらえて、お弔い申し上げましょう。(平家物語 巻三 僧都死去)

 王丸はまもなく都へ帰り、俊寛の娘にその死を伝え、娘も有王丸もともに出家して俊寛の後世を弔う。「後世を弔う」というのは、中世文学には頻繁に登場する言葉で、死者のより良い来世を願って、供養を行うことをいう。
 より良い来世というのは、つまるところ極楽往生を願い、地獄をはじめとする三悪趣(さんあくしゅ/三悪道)に堕ちないよう祈ることだ。十王信仰の側面からいえば、十王への減刑のお願いということになる。
 俊寛への仕えを果たすため殉死も覚悟したほど、忠義の厚い有王丸さえ、死をためらう原因――それは俊寛の「後世を弔う」人物が、俊寛の娘のほかにいないこと。つまりは主立った身内や、有力な家臣、後ろ盾がいなかったのだろう。
 物語は平家絶頂の折が舞台で、平家に刃向かった俊寛を大々的に供養することも憚られたはずで、そんな時代に娘一人が遺されるのは、確かにあまりにも心細い。有王丸は自分こそ俊寛の「後世」を弔おうと、命をながらえた。
 実は『平家物語』にはこうした場面が数多くある。時に死さえ覚悟した人々の気持ちをも翻させてしまう怖れ――それは、「後世を弔う」親族や知人がいないことだったのだ。
 『平家物語』に登場する木曽義仲(きそよしなか/源頼朝義経とはいとこに当たる源氏の武将)には、樋口次郎兼光(ひぐちじろうかねみつ)という忠実な家臣がいた。兄弟同然に育った乳母子(義仲を養育した乳母の子)で、平家打倒のため命運をともにしてきた仲間である。
 義仲らは破竹の快進撃で平家を都落ちさせるものの、時の上皇であった後白河院(ごしらかわいん)(1127~92)と対立し、ついにはその要請を受けた源義経らの軍勢によって都を追われ、義仲はとうとう粟津(現在の滋賀県大津市南部)で討たれた。一方、樋口は児玉党(こだまとう)という軍勢によって生け捕りにされるのであるが、このとき彼は次のような言葉で、投降を説得されている。
 「日来(ひごろ)は木曾殿の御内(みうち)に今井、樋口とて聞え給ひしかども、今は木曾殿うたれさせ給ひぬ。なにか苦しかるべき。我(われら)等が中へ降人(かうにん)になり給へ。勲功(くんこう)の賞(しやう)に申しかへて、命ばかりたすけ奉(たてまつ)らん。出家入道をもして、後世(ごせ)をとぶらひ参らせ給へ」
 【現代語訳】
 いつも木曽殿のお身内には、今井(筆者注:義仲の乳母子の今井兼平(かねひら)のことで、樋口の弟)、樋口といって有名でいらっしゃいましたが、今はもう木曽殿はお討たれになってしまいました。何も差し支えはありますまい。どうか我々に降参してください。今度の手柄で恩賞を受ける代わりに、あなたの命をお助けしましょう。出家入道でもして、木曽殿の後世を弔ってさしあげなさい。(平家物語 巻九 樋口被討罰)

 これを聞いた樋口は言われたとおりに生け捕りとなる。物語はこの樋口の振る舞いについて「きこゆるつはものなれども(名高い強い武将だったが)」とわざわざ断っている。つまり、樋口は怖じ気づいたわけでもなければ、義仲に忠誠心がなかったわけでもない。すでに義仲は討たれ、戦う理由もなくなり、そこに「後世をとぶらひ参らせ給へ」の一言が、樋口の降参の決定打になったということだ。
 討ち死にを覚悟していたであろう樋口さえ、主君の「後世」が気がかりで、武士としては屈辱的ともいえる生け捕りの道を選ぶのだ。それほど「後世を弔う」ということが重要視されていたのである。
 なお物語は延々と、家臣たちが討ち取られていくところを描いていく。そして義仲を弔うために投降したはずの樋口もまた、義仲の死から一一日後、後白河院の意向により処刑されてしまう。
 「後世(来世)こそ、極楽浄土に生まれ変わりたい、少なくとも地獄に堕ちたくない」――そんなふうに考えていた人々にとって、この展開はあまりにも悲惨に聞こえたことだろう。義仲は「後世を弔う」はずの家臣たちを次々と失うことによって、来世さえ期待できない孤独な末路を迎えたのである。人を殺したという罪を背負い(義仲のみならず武士の宿命である)、家臣からの供養もなく中陰を彷徨よい、十王の裁きを待つ。これは中世の人々にとって、最も怖れていた死のあり方だった。
 なお、この最期があまりにもショッキングだったのか、あるいは義仲に同情的な人物がいたのか、『平家物語』の異本(伝承の過程で内容や構成に異同を生じた本)には、義仲に仕えた女武者である巴御前(ともえごぜん)が生きながらえて、91歳で極楽往生を遂げるまで、義仲を弔い続けたとする内容のものもある。
 樋口でも今井でもなく、巴御前が生き残るという展開には理由がある。実は「後世を弔う」のは、遺された女性に任された務めでもあったからだ。
 同じく『平家物語』より、建礼門院(けんれいもんいん/清盛の娘、安徳天皇の母)の言葉を引用しよう。彼女は平家滅亡ののち京都・大原(おおはら)に隠棲するが、そこを訪ねてきた後白河院に対して、源平合戦の顛末を、生きながらにして六道の苦しみを味わったと回想する。そして母の二位尼(清盛の妻時子)の遺言を次のように語る。
 「男(おのこ)のいきのこらむ事は、千万が一つもありがたし。設(たと)ひ又遠きゆかりは、おのづからいき残りたりといふとも、我等が後世をとぶらはん事もありがたし。昔より女はころさぬならひなれば、いかにもしてながらへて、主上(しゅしゃう)の後世をもとぶらひ参らせ、我等が後生(ごしょう)をもたすけ給へ」
 【現代語訳】
 「(平家の)男が生き残ることは、千にひとつもないでしょう。また遠い縁者はたまたま助かったとしても、私たちの後世を弔ってくれるなどということはないでしょう。昔から女は殺さないのが習いですから、どうにか生き延びて、主上(筆者注:安徳天皇のこと)の後世を弔って差し上げて、また私たちの来世のことも祈ってください」(平家物語 灌頂巻 六道之沙汰)

 物語によれば、平家一門のほとんどが討たれ、処刑され、清盛に近しい親族で生き延びたのは娘の建礼門院だけだった。ほか一門の公(きんだち)達の妻たちは自害もしているが、なんとか生き残った女性たぼ出家している。
 非戦闘員である女性は、基本的には殺されることはない。遺された彼女たちに与えられた使命は、亡くなった父や夫の「後世を弔う」ことだった。亡くなってしまった本人たちはもう仏道修行に励むことはできないので、遺された女性たちが出家して、故人のために徳を積もうとしたのである。特に武士の妻の場合には、殺生(せっしょう)という仏教が最も強く戒める罪を犯した夫を、堕地獄から救わなければならなかった。
 一族のうち誰か一人でも生き延びなければ――中世の戦乱の時代、一族の血脈を繋ぐことも重要だったが、武士たちにとっては自分を供養してくれる人を「この世」に遺しておくことが、堕地獄を免れる手段のひとつとして重要だった。堕地獄を怖れるあまり、供養する人物の確保は脅迫的な観念に近かったことが様々な逸話から見てとれる。この供養の手厚さによって、十王の裁断が変わるからだ。
 『平家物語』の引用が続いたが、こうした考え方が見えるのは『平家物語』に限らない。中世文学においてはあまりに定番の表現で、むしろ陳腐ですらある。そして大概の場合、女性の存在が大きな鍵となっていた。
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⛩86)─1─靖国神社に反対する国際的反天皇反日勢力。中国共産党。韓国・北朝鮮。ロシア。〜No.189No.190 ⑯ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 靖国神社には、人道貢献や平和貢献を行ったA級戦犯達が祀られている。
   ・   ・   ・   
 靖国神社には、中国・中国共産党ソ連・ロシア人共産主義兵士に虐殺された罪なき哀れな日本人犠牲者が祀られている。
   ・   ・   ・   
 世界は、戦争犯罪国家日本の人道貢献や平和貢献を否定している、まして戦争犯罪者として見せしめ的縛り首で殺したA級戦犯達の善行など認めはしない。
 つまり、世界正義の為にA級戦犯ヒトラー並みの極悪非道な凶悪犯罪者でなければならない。
   ・   ・   ・   
 ホロコーストを行ったヒトラーと同罪は、昭和天皇とされている。
 世界で、親ユダヤ・人種差別反対・避戦平和主義の昭和天皇を正しく評価する国・組織・団体と人間は誰もいない。
 多くの日本人も、昭和天皇が嫌いである。
 A級戦犯達の人道貢献や平和貢献は、昭和天皇の御稜威・大御心と八紘一宇の精神の発露である。
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 人道貢献や平和貢献を象徴する軍旗「旭日旗」は、人種差別を象徴するナチ党旗「ハーケンク・ロイツ」と同じ戦犯旗とされている。
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 靖国神社を、目の仇にする勢力は国内外にごまんといるが、守ろうとするのは僅かな日本民族のみで、孤立無援で圧倒的に不利な状況にある。
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 2013年12月27日 日本経済新聞「ロシア外務省「遺憾の意」表明 首相靖国参拝
 【モスクワ=石川陽平】ロシア外務省公式代表のルカシェビッチ情報局長は26日、安倍晋三首相の靖国神社参拝について「遺憾の意を呼び起こさざるをえない」とのコメントを発表した。「世界で広く受け入れられているものとは異なる偏った第2次世界大戦の結果に関する評価」を日本社会に押しつけようとする勢力の試みが強まっているとも指摘した。」
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 2021年8月15日18:35 産経新聞「中国、靖国参拝に「強烈な不満」を表明
 「終戦の日」に靖国神社を参拝した安倍晋三前首相=15日午前、東京都千代田区(萩原悠久人撮影)
【北京=三塚聖平】菅義偉首相が終戦の日の15日に靖国神社玉串料を奉納し、閣僚の一部や安倍晋三前首相が参拝したことを受け、中国外務省は15日、「日本の侵略の歴史に対する誤った態度を反映している」と反発する報道官談話を発表した。既に外交ルートを通じて日本側に厳正な申し入れを行い、「強烈な不満と断固とした反対」を表明したと明らかにした。
 中国外務省は、靖国神社に関する日本側の動きに対し「歴史的な正義への冒涜(ぼうとく)であり、中国を含むアジアの被害国人民の感情を深刻に傷つける」と非難した。
 また、在日本中国大使館も15日に発表した報道官談話で、靖国神社について「日本の軍国主義が対外侵略戦争を発動した精神的な道具であり象徴だ」と主張。その上で「日本は歴史の教訓を深く汲み取り、侵略の歴史を適切に正視、反省するよう求める」と強調した。」
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 8月17日11:40 産経新聞「中露、靖国対応で協力確認 外相が電話会談
 終戦の日を迎え、靖国神社を参拝する人たち=15日午前、東京・九段北
 中国の王毅国務委員兼外相とロシアのラブロフ外相は16日電話会談し、靖国神社菅義偉(すが・よしひで)首相が玉串料を奉納し、閣僚らが相次ぎ参拝したことを受け、歴史問題で協力して対応する方針を確認した。中国外務省が17日発表した。
 王氏は「中露は協力し、歴史を改竄(かいざん)するたくらみを阻止する必要がある」と呼び掛けた。ラブロフ氏も「歴史を黒塗りするいかなる動きにも反対すべきだ」と応じたという。
 王氏は日本の一部の政治家が歴史の潮流に逆行しているとして「国際正義への挑戦だ。平和を愛する国と人にとっては許せないことで、強く非難する」と強調した。軍国主義の行動を美化する動きに反対し、侵略の歴史を覆すことは絶対に許さないとも指摘。「共に人類の尊厳を守り、侵略者の悪行を非難すべきだ」と訴えた。(共同)」
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 8月17日17:22 産経新聞靖国参拝「正義への挑発」 中国、露と協力
 中国の王毅国務委員兼外相(共同)
 【北京=三塚聖平】中国外務省は17日、王毅(おう・き)国務委員兼外相が16日にロシアのラブロフ外相と電話会談し、菅義偉(すが・よしひで)首相が靖国神社玉串料を奉納し、閣僚の一部や安倍晋三前首相が参拝したことについて「国際的な正義への挑発だ」と批判したと発表した。歴史問題について中露両国で協力して対処していく方針を確認した。
 王氏は「第二次大戦の主要戦勝国である中露が協力して歴史の真相を守り抜き、軍国主義を粉飾や美化する行いに反対し、歴史を歪曲(わいきょく)するたくらみを制止しなければならない」とロシア側に呼び掛けた。
 中国側の発表によると、ラブロフ氏は「両国は協力を引き続き強化し、記念活動を共同で行い、歴史を汚すいかなる勢力にも反対すべきだ」と応じた。」
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 2014年5月19日 DIAMNOND online「“恐怖の大王”プーチンが日米関係を変えた
日米vs中ロの新パラダイムをどう読むべきか
 北野幸伯:国際関係アナリスト
 国際・中国 ロシアから見た「正義」 “反逆者”プーチンの挑戦
 突如好転した日米関係
 日本から遠く離れたウクライナ。その異国の地で勃発した事件が、日本の将来を大きく変えたと言えば、読者の皆さんは驚くだろうか?
 昨年末から今年2月にかけて、日米関係は最悪だった。きっかけは、安倍総理が昨年12月26日、バイデン米副大統領の要請を無視する形で「靖国神社参拝」を強行したことだ。米国大使館、そして国務省は、靖国参拝に「失望した」と声明を発表。「ニューヨーク・タイムズ」「ワシントン・ポスト」「ウォール・ストリート・ジャーナル」など有力紙が、相次いで安倍総理を非難する記事を配信した。
 安倍、そして日本バッシングはその後もおさまらず、新年2月半ばになっても「ブルームバーグ」が「日本への懲罰」を呼びかけるなど、緊迫した状態がつづいていた。
 ところが、4月にオバマ大統領が訪日した時、ムードは全く変わっていた。TPPでは合意にいたらなかったものの、25日に発表された「日米共同声明」には、「尖閣諸島は、日米安保の適用対象である」ことが明記された。これは、「尖閣諸島は『固有の領土』『核心的利益』」と宣言している中国への強力な牽制となる。
 米中は、年末年始にかけて、「反安倍」「反日」で共闘体制にあった。それが、今では逆に、日米が「反中」で一体化している。いったい、何が日米関係を変えたのか?そこには“恐怖の大王”プーチンの存在があった。
 世界で孤立していた日本
 「なんだか、大げさだな~」と思われた方もいるだろう。日本では、「靖国参拝に反対しているのは、中国、韓国だけ」と報道されていたのだから。しかし、本当にそうなのだろうか?
 国際世論を甘くみると破滅することを、日本は第2次世界大戦で思い知らされている。だから、世界が靖国参拝についてどのような反応をしたか、色をつけずに知っておく必要がある。少々長くなるが、世界各国の反応を整理してみよう。
 以下は、安倍総理靖国参拝以降の動きだ。
・2013年12月26日、安倍総理靖国参拝について、米国大使館が「失望した」と声明を発表。
アメリ国務省も「失望した」と、同様の声明を発表。
・英「ファイナンシャル・タイムズ」(電子版)は、安倍総理が「右翼の大義実現」に動き出したとの見方を示す。
欧州連合EU)のアシュトン外相は、(参拝について)「日本と近隣諸国との緊張緩和に建設的ではない」と批判。
・ロシア外務省は、「このような行動には、遺憾の意を抱かざるを得ない」「国際世論と異なる偏った第2次大戦の評価を日本社会に押し付ける一部勢力の試みが強まっている」と声明。
・台湾外交部は、「歴史を忘れず、日本政府と政治家は史実を正視して歴史の教訓を心に刻み、近隣国や国民感情を傷つけるような行為をしてはならない」と厳しく批判。
・12月27日、米「ニューヨーク・タイムズ」、社説「日本の危険なナショナリズム」を掲載。
・12月28日、米「ワシントン・ポスト」は、「挑発的な行為であり、安倍首相の国際的な立場と日本の安全をさらに弱める」と批判。
・同日、オーストラリア有力紙「オーストラリアン」は、社説で「日本のオウンゴール」「自ら招いた外交的失点」と指摘。
・12月30日、米「ウォール・ストリート・ジャーナル」、「安倍首相の靖国参拝は日本の軍国主義復活という幻影を自国の軍事力拡張の口実に使ってきた中国指導部への贈り物だ」。(つまり、「日本で軍国主義が復活している」という、中国の主張の信憑性を裏付けた)
・同日、ロシアのラブロフ外相は、「ロシアの立場は中国と完全に一致する」「誤った歴史観を正すよう促す」と語る。
 これらを見ると、「反対なのは中国、韓国だけ」という日本国内での報道のされ方は、かなり強引であったことがわかる。実際には、中韓に加え、米国、イギリス、EU、オーストラリア、ロシア、親日の台湾まで、靖国参拝を批判していたのだ。そして、この問題は長期化し、「日本はますます孤立化していく」兆候を見せていた。
 たとえば、「ブルームバーグ」は2014年2月19日、「日本のナショナリスト的愚行、米国は強い語調で叱責を」という社説を掲載している。何が書いてあったのか、抜粋してみよう。
 <悪いことに、日本は米国から支持を受けて当然と思っているようだ。バイデン米副大統領が事前に自制を求めていたにもかかわらず、安倍首相は靖国参拝を断行した。非公開の場でのこの対話の内容はその後、戦略的に漏えいされた。恐らく、安倍首相の尊大な態度を白日の下にさらすためだろう>
 米国の本音は、「属国の長が、宗主国No.2の要求を無視するとは、なんと尊大な!」ということなのだろう。
 <米国は反論すべきだ。それも通常より強い言葉で切り返すべきだ。4月のオバマ大統領のアジア訪問は、中国政府の外交的冒険主義を容認しないことをあらためて表明する良い機会であると同時に、安倍首相の挑発がアジアの安定を脅かし、日米同盟に害を及ぼしていることをはっきりと伝えるチャンスだ>(同上)
 要するに、「オバマは4月に日本に行ったら、『ガツン』といってやれ!」と主張しているのだ。
 <日本が何十年もかけて築いてきた責任ある民主国家として受ける国際社会からの善意を、安倍首相は理由もなく損ないつつある。
 首相が自分でそれに気づかないのなら、米国そして日本国民が分からせてあげられるだろう>(同上)
 つまり、「尊大な」安倍総理が悔い改めないのであれば、米国が「わからせてあげよう!」。これは、一種の脅迫ですらある。
 日本人としてはいろいろ言いたいこともあるが、話が長くなるので、黙っておこう。ここでは、「日米関係が2月の時点で、最悪だったこと」を理解していただきたい。ちなみに「ブルームバーグ」は、経営者、投資家、ビジネスマンなどが読者層のきわめてマジメな媒体である。つまり、この記事は、「エリート、富裕層に、強い反日ムードがひろがっていた」ことを示しており、深刻だ。
 3月に起こった世界的大事件
 「ブルームバーグ」の記事からもわかるように2月半ばから後半にかけて、日米関係は最悪だった。しかし、4月23日にオバマが日本にきたときには状況は一転、両国関係はよくなっていた。
 ということは、2月末から4月に何かが起こり、日米関係に変化が生じたことになる。何が起こったのか?
 そう、プーチン・ロシア大統領による「クリミア併合」である。プーチンは3月1日、「クリミアのロシア系住民を守る」という名目で、「軍事介入する」と発表。3月16日、ウクライナ・クリミア自治共和国で、住民投票が実施され、96%以上が「ロシアへの併合」を支持。3月18日、プーチンは、クリミア共和国とセヴァストポリ市の併合を宣言する。
プーチンのあまりの大胆さと迅速さに、全世界が驚愕した。ロシアは、これで米国最大の敵になった。
 我が国の安倍総理と、プーチンを比較してほしい。安倍総理は、「靖国に行った」が、プーチンは「クリミアを併合した」のだ。米国から見た脅威度において、二人は「不良小学生」と「マフィアの親分」ほどの差がある。
 「敵の敵は味方」という。かつて米国と共産ソ連は、お互いを「最大の敵」と認めていた。ところが、ヒトラーが登場すると、両国はあっさり手を握り、ナチスドイツを叩きつぶしたのだ。今の日本と米国の関係も同じ。バイデン副大統領に大恥をかかせた安倍総理は問題だが、プーチンの方が大問題。だから、米国は安倍ジャパンとの和解に踏み切ったのだ。
 中国もタジタジした米国の豹変
 ロシアが日米共通の敵になったことはわかる。しかし、中国はどうだろう?「尖閣日米安保の適用範囲」と日米共同声明に記されたことと、プーチンはどういう関係があるのだろうか?
 実をいうと、プーチン・ロシアは、世界で孤立しないために、中国に接近している。3月18日の演説で、プーチンは、「クリミアへの我々のアプローチを理解してくれた国々には感謝したい。まず中国だ。中国の政権は、ウクライナとクリミア周辺の歴史的、政治的な側面をすべて検討してくれた」と述べた。
 実際、中国はロシアをサポートしている。まず、米国主導の対ロシア制裁に参加していない。そして、ロシアからの原油・ガス輸入を増やそうとしている。現在ロシア最大の顧客である欧州は、ロシアへの「資源依存度」を減らす意向を示している。だから、中国の存在は、ロシアにとってありがたい。
 一方、覇権を狙う中国にとって、超反米の「ロシア」は捨てがたいパートナー。そして、ウクライナ危機で欧米とロシアの関係が悪化することは、「原油」「天然ガス」価格を「値切る」好機でもある。そう、中ロは「利」によって結びついている。
 この二国を米国から見るとどうだろうか?「中国は、我が国の要請を無視して、対ロシア制裁に加わらない。そればかりか、原油天然ガス輸入を増やし、ロシア経済を救おうとしている」となる。だから、中国は、プーチンと「同じ穴のムジナ」なのだ。
日本はどうするべきか?
 さて、このような世界情勢の中で、日本はどうすべきなのだろうか?安倍総理は米国の強い要請によって、しぶしぶ「対ロシア制裁」に同調している。同時に、「ロシアとの関係を損ないたくない」という配慮も見える。
 これは正しい方向である。ただし、「動機」はいただけない。総理は、「私の代で、領土問題を解決する」と意気込んでいる。だからロシアに対し、強硬にならない。しかしこういう態度は、プーチンに歓迎されないだろう。「ロシア制裁はしますが、ゆるく行きます。だから島返してね!」というのは、「下心」が見え見えすぎる。
 もちろん、プーチンが日本の“配慮”に謝意を表することもなかった。日本は、「なぜロシアとの協力が必要なのか?」をはっきり自覚しておく必要がある。
尖閣をめぐって、日本と中国が戦争になったとしよう。日米関係がしっかりしていて、「日米 対 中国」の戦いになれば、圧勝できるだろう。しかし、「日米 対 中ロ」ならどうだろうか?どちらが勝つかわからない。もし米国が日本を裏切り、「日本 対 中ロ」の戦いになれば、日本に勝ち目は1%もない。
 結局日本は、ロシアが「尖閣有事」の際、最低でも「中立」でいてくれるよう、中ロを分裂させなければならないのだ。
北方領土は、もちろん返してもらうことが必要である。しかし、今はあまり欲を出さず、ロシアとの関係を損なわないよう、繊細な言動が必要なのである。日本は、同盟国・米国の要求を無視することはできない。だが、ロシアと水面下の交流を密に行い、「良好な関係を維持したい」という日本の意志を伝えつづけることが必要である。」
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✨62)─1─立花隆『天皇と東大』。大日本帝国を滅ぼした元凶は国学者流の狂信的国体論。〜No.232 (51) 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2021年9月号 WiLL「立花隆天皇と東大』から『犯人捜し』の歴史観
 日本だけが極端に愚かで異常な国家だったのか──安易な責任追及に『知の巨人』の知的怠惰を見たり!
 岩田温
 奇妙な違和感
 読んでいて、まったく参考にならないわっけではない。冷静に分析してみて、出鱈目を書き連ねているわけでもない。特定の政治的イデオロギーに冒されているために偏向しているというわけでもなかろう。だが、どこか釈然としない──。半藤一利保阪正康加藤陽子といった面々の著作を読むと、奇妙な違和感を覚える。
 ……
 私の違和感はここに起因する。保阪に限らず、左右のイデオロギーを超越しているかのように語る人々が呆(あき)れるほどおかしいのは、常に戦争の原因を日本国内に探そうと躍起になっているからである。無論、日本に開戦の原因が皆無であったと主張したいわけではない。だが、戦争とは相手のあることであり、国内ばかりで開戦責任を問うことには無理があると言いたいのである。なぜ、戦争の当事者であるアメリカの責任は追及されないのか。常に悪事は日本から始まるとする物の見方そのものが視野狭窄ではないのか。
 膨大な知識はあれど
 立花隆に抱く違和感もこれと同じである。『知の巨人』とも称される立花は、圧倒的な知識量を有し、その執筆分野は多岐にわたっている。田中角栄内閣退陣の引き金になったとも評される『田中角栄研究』から『宇宙からの帰還』に至るまで、その領域の広さ、知的探求の深さは他のジャーナリスト、学者の追随を許さない。圧倒的な知的水準を誇る人物であったことは間違いないだろう。だが、彼の根本的な歴史観、政治観には違和感を覚えずにはいられない。
 一体、立花隆の主著とは何だろうかと考えてみると。その人の立場によって随分と異なってくるだろう。『日本共産党の研究』だと考える人もいるはずだ。確かにこの著作は今読んでみても面白い。日本共産党の論理を読み解く際に、彼らのパンフレットの表面的な美辞麗句から読み解くのではなく、立花は組織論に注目する。レーニンが主張し続けた『前衛』と称するごく少数の知識人からなるグループが全体を指導していくという組織。この組織論に注目しながら日本共産党の歴史を分析する立花の論考には圧倒的な説得力がある。ジャーナリストとして日本共産党の歴史を追うだけではなく、レーニンその他の共産主義運動の指導者の著作も丹念に読み解く姿勢も大いに好感が持てる。
 だが、私は立花隆の主著は『天皇と東大』だと考える。『文藝春秋』で7年にわたって連載した大部分の著作だが、連載当時の目的から徐々に逸脱し、長大な近現代史になったというのも興味深い。当初、立花は東大論を展開していたのだが、次第に天皇と東大を通じて日本の近現代史を語る形になっていった。立花自身、この連載で何を読み解こうとしたのかを語っている。
 『敗戦後の時代、日本は一時ドン底まで落ち込んでから、また這い上がってうるという悪戦苦闘をしばらくつづけねばならなかった。その間日本の生活水準はいまの発展途上国の遅れた方の国のそれと同じような水準で、先進国の生活などというものは夢のまた夢だった。それが私たちの少年時代だった。
 そういう世代であったればこそ、私は子供のときから、日本はどうしてこんな国になってしまったのか、なぜこんな失敗をしてしまったのかを、最大の疑問として生きてきた』
 自身の『最大の疑問』である『日本はどうしてこんな国になってしまったのか、なぜこんな大失敗をしてしまったのか』を解き明かそうと全精力を注ぎ込んで書き上げたのだから、『天皇と東大』を彼の主著とするのは、私の偏見に基づく独断とはいえないだろう。
 『天皇と東大』は、他のジャーナリストが書き上げた呆れるような近現代史とは一線を画す本格的な著作である。だが、結局のところ立花も日本国内において『日本をこんな国にした』犯人を追及するに躍起で、国際情勢の中で近代日本を冷静に見つめる視点を欠く。半藤一利保阪正康のレベルを圧倒的に上回る知識量を誇りながら、彼らと同じ大日本帝国の歩みを眺めている。
 ファナティック国体論
 立花は大日本帝国が瓦解した原因を、明治の啓蒙思想家であり、東京大学の総長を務めた加藤弘之の著作の絶版事件にまで遡(さかのぼ)る。明治14年、加藤が絶版にしたのは『国体新論』『真政大意』。『国体新論』は加藤による国学者たちに対する徹底的な批判の書であり、舌鋒鋭く国学者たちを斬り捨てている。
 『本邦において、国学者流と唱うる輩の論説は、真理に背反(はいはん)することはなはだしく、実に厭(いと)うべきもの多し。(中略)およそ本邦に生まれたる人民はひたすら天皇の御心をもって心となし、天皇の御事とさえあれば、善悪邪正を論ぜず、ただ甘んじて勅命のままに遵従(じゅんじゅう)するを真誠(しんせい)の臣道(しんどう)なりと説き、これらの姿をもって、わが国体と目し、もって本邦の万国に卓越するゆえんなりというにいたれり。その見の陋劣(ろうれつ)なる、その説の野鄙(やひ)なる、実に笑うべきものというべし』
 国学者たちの論ずる天皇論は真理に反したものであり、天皇の意志のままに生きればよいなどということが『真誠の臣道』というのはあり得ない。国学者たちは出鱈目なことを論ずるなと説いているわけである。
 加藤の主張を立花は手放しで絶賛する。
 『見事な議論である。実際、その後の歴史の展開を見ると、ここにある国学者流の国体論をさらにファナティックにした議論に国民が全部取られてしまい、心の自由を失い、心の奴隷となってしまったとき、日本という国は衰退どころか、事実上滅びたのである』
 だが、立花の絶賛する『国体新論』を加藤は絶版にしてしまう。『謬見(びゅうけん)妄説往々少なからず、為に後進に甚だ害あるを覚え』たのが原因だと加藤本人は述べているが、実際には右派からの批判をかわすための言論撤回であった。島津久光の側近、海江田信義は、『「国体新論」排斥の建言書』を太政大臣三条実美らに提出し、加藤を『逆賊』扱いした。それはまるで刺殺せんばかりの勢いであったため、怯(おび)えた加藤が著作を絶版にしたのである。暴力を示唆する脅迫に思想が破れたということだ。加藤の論理を否定した天皇礼讃の心情的な右派勢力こそが大日本帝国を滅ぼした元凶であるというのが立花の結論なのである。
 要するに『天皇と東大』は、大日本帝国が滅びた原因をファナティックな国体論に求める。全ての原因は天皇をファナティックなまでに尊崇した異常な国体論にあったという結論になっているのだ。
 特攻隊はテロリストなのか
 少々長くなるが、重要な点であるため、立花自身が大日本帝国について論じている箇所を引用してみよう。
 『最近、北朝鮮という国家の異様な政治体制がさかんに報じられているが、明治時代後半から昭和時代前期(1945年以前)までの日本は、あれ以上に異様な国家だった。金日成はほとんど神格化されているとはいえ、まだ「将軍さま」、「首領さま」であって神様ではない。誰も彼を神様とは呼ばないし、礼拝もしない。しかしかつての日本では、天皇は現人神とされ、神として礼拝されていたのである。国民は、子供の頃から、天皇は神の末裔であると教えこまれ、ことあるごとに儀礼的礼拝が強制されたから、あの戦争でも、多くの兵士が天皇陛下万歳を叫びながら天皇のために惜しげもなく命を捧げたのである。イスラム教徒が、ジハード(聖戦)が宣せられると、この戦争でアラーのために戦って死ねば天国に行けると信じて、平気で命を捨てるようなものである』
 天皇を現人神とした大日本帝国北朝鮮以上に異常な国家であった。だから、イスラム教徒がジハードの際に命を捨てるように、神である天皇のために日本兵たちは命を惜しげもなく捨てていった──そう立花は主張する。9・11自爆テロに手を染めたテロリストと特攻隊との類似性についても次のように述べている。
 『彼ら(引用者注・特攻隊)が実際に敵艦に突っ込んでいくとき、どんな気持ちだったのだろうか。9月12日、テレビが繰り返し、繰り返し映し出す、貿易センタービルに突っ込んでいく飛行機の姿を見ているうちに、私はふとあのビルが特攻機が突っ込んでいった戦艦のブリッジのように見えてきて、そんなことを思った。衝突の瞬間、あの飛行機の操縦席にのっていたイスラム過激派の連中にも、自分たちが悪をなしているという意識は全くなかったにちがいない。むしろ自分はいま神の腕の中に飛び込みつつあると思って、一種の法悦境(ほうえつきょう)にひたっていたのではないか。
 宗教の恐ろしさはここにある。その信仰の内と外では、正義と悪が全く逆転してしまうのである』(『自爆テロの研究』『文藝春秋』2001年11月号)
 『宗教の恐ろしさはここにある』と強調しているが、読み方によっては大日本帝国天皇を中心とする一種の宗教国家であったと批判しているとも考えられる。熱烈な信仰のために自縛すらいとわない狂信的な国家、それが大日本帝国であったというわけである。
 日本特殊論の罠
 ここまでの引用から、立花の主張は明らかであろう。明治維新以来、大日本帝国では『国体』という言葉で全ての思考が麻痺させられるいうな状態に向かって突き進んでいった。そして最後的には現在の北朝鮮よりも異常な国家となり果て、狂信的な特攻隊まで生み出すような戦争に突っ込んでいったというのである。
 ……
 そして、戦後レジームの根幹である日本国憲法の素晴らしさを理解できい政治家は『愚かである』とも説く。
 『この自明の理(引用者注・日本国憲法の素晴らしさ)が見えない政治家は愚かである。この自明の理が見えずに改憲を叫ぶ政治家は最大限に愚かである。金の卵を産む鵞鳥(がちょう)の腹を裂いて殺してしまう農夫と同じように愚かである』
 膨大な資料を駆使しながら大日本帝国の盛衰を描き出そうとする立花だが、結論があまりにも陳腐ではないか。結局のところ、立花も大日本帝国が瓦解していった原因を大日本帝国内部にのみ求めている。
 日本の中に戦争に至る原因がなかったなどと主張するつもりはないし、立花の説くようにファナティックとしか形容できないような愛国談義、天皇礼讃論が存在したのは事実である。これらの点について我々が謙虚に反省すべきというのは当然のことだ。しかし、他国の悪意や裏切りを全てなかったかのように論じるのも誤りである。日本だけが極端に愚かで異常な国家で、一方的に戦争になだれ込んでいったなどということはあり得ない。なぜ、他国の意思を探ろうとせず、自国だけに戦争の原因を求めようとするのか。そこに知的怠惰が存在しないだろうか。
 『万邦無比』を謳(うた)い、日本だけが特殊で優れた国家であると主張していた夜郎自大を徹底的に批判するのはよい。だが、他国の意思がまるで存在せず、日本の意思のみで開戦に至るというのも日本特殊論の一種ではないか。我々の論理や意思があり、相手国にも相手国の論理や意思がある。それらがぶつかり合ってこそ戦争に至るのが当然だが、なぜか日本にのみ原因を求める議論が横行し、立花もこれに同調している。まさに視野狭窄だ。
 愛情が感じられない
 立花の一連の著作を読みながら何よりも感じたのは、我が国の歴史を振り返る際に愛情や愛惜(あいせき)の念が見えないということだ。あたかも犯罪の被害者が加害者の過去を暴きたてるようとするかのような視線には共感することができなかった。例えば、日本は北朝鮮以上に異様な国家だったという表現は俗耳に入りやすい表現だろう。だが、大日本帝国天皇は自らの享楽的の生活を保持するために、大多数の国民を飢餓に追いやったのだろうか。何の罪もない他国民を一方的に拉致して恥じないような国家であったのか。少し想像力を働かせただけで北朝鮮とはまるで違う国家であることは明らかなはずなのに、立花は大日本帝国北朝鮮以上に異常な国家であったと罵倒する。そこには先人に対する敬意や、同胞としての愛情の念を感じることができない。
 特攻隊とテロリストを同一視するような議論も乱暴である。確かに外形的に自爆攻撃をしているという点から、両者を同一視する人が多いのも事実だ。だが、これとて少々考えてみればまるで異質のものであることは明らかである。特攻隊は敵と味方に分かれた戦争の中で、敵を狙った作戦にほかならない。これに体して自爆テロは、平時に民間人を狙いうちする行為である。
 ……平和に暮らす市民の生命を突如、冷酷に奪い去る行為と戦場での行為を同一視することに無理があるのだ。
 ……
 日本人としての常識
 歴史を振り返る際に愛惜の念が欠落していることを、立花は客観性を担保するために重要であると考えるのかもしれない。だが、それでは真に重要な物事が見えなくなることもある。
 『天皇と東大』では、『国体』という言葉を蛇蝎の如く嫌われ、いかにも天皇の存在こそが日本を誤らせた根本原因だと言いたげである。だが、立花が忘れている重要な視点は、他ならぬ天皇を見る視点にある。すなわち、極東の一国家がなぜ、急速な近代化を成し遂げることができたのかを考えてみた際、我が国の天皇の存在が極めて大きかったと気付かずにはいられない。日本を一つの近代国家とする際の核となったのが天皇の存在であるからだ。後年、天皇に関する狂信的な言説が飛び交うようになったのも事実だが、天皇の存在なしに日本が近代国民国家として独立を守り続けることが可能であったのか。
 我が国ではナショナリズムを忌避する人々が多いが、ネーションが成員に与える『我々』意識を育てることは難しい。かつてベネディクト・アンダーソンが、ネーションを『想像の共同体』であると喝破したことがあった。このとき、左派『リベラル』系の知識人たちは、『国家などただの創造の共同体にしか過ぎない』と否定的に受け止めた。しかし、その共同体の成員に『我々』意識を持たせることは非常に困難なことである点に彼らは目を向けようとはしなかった。人々が自らの帰属意識を抱き、我々を同胞だと想像できるネーションをつくり上げる困難には無頓着であった。ドイツではドイツ語が核としたネーションの成立が目指され、フランスではフランス革命の記憶が国民の紐帯(ちゅうたい)となった。この紐帯を歴史の中に探し当て、強調することによって近代国民国家は成立していくのだ。アフリカではヨーロッパ諸国が極めて恣意的に国境線を引いたために、民族分布と国境がバラバラになっている。結果、ネーションの成員意識が育つことなく、国内の部族意識が強固である。アフリカ諸国で民主主義が機能しないことが多いのは、民主主義によって最大部族が自分たちの部族を中心として政治を行うためである。部族主義を緩やかにネーションの成員としての意識へと変更させなければ民主主義が機能しない。
 立花はなぜ日本はこような状況に陥ったのかを探りだそうと近現代史を書き上げた。夥(おびただ)しい資料に基づいた彼の歴史叙述(じょじゅつ)から学べることは少なくない。だが、なぜ日本は近代化に成功したのかを十分に語っていない。仮に大日本帝国を滅ぼしたのが『国体』意識であるとするならば、急速な近代化を成功させた要因も『国体』意識にあったのだ。表裏をともに見つめる視点を欠いていては一方的な歴史しか見えてこない。
 祖国の歴史を振り返る際、敬意や感謝の念を抱くことは常識的な態度といってよい。どれほど客観的であろうと努力しても、人間の認識は主観から逃れることはできない。当然、歴史叙述は自らの主観の上に成立する。
 確かに、祖国に対する愛情に溺れるあまり事実を事実と認識出来ないような歴史叙述は論外だ。しかし、祖国を呪詛(じゅそ)し、敵意を剥き出しにしながら歴史を振り返ると、逆に目が曇ってしまうということもあるはずだ。『なぜ失敗したのか』を問うことは重要なことだろう。だが、失敗の原因は常に日本にあるとの偏見は公平な歴史を成立させない。また、日本の成功について目を閉ざす姿勢からも公平な歴史は生まれてこない。
 愛情を持ちながらも、公平に祖国の歴史を振り返る。そんな歴史を読みたいのだが、立花の著作からは肝心の日本に対する愛惜の念を微塵も感じとることができない。大著を再読し、改めて学び直した点は多い。だが、立花隆に対する感謝の念よりも違和感が私の心の中には残り続けている。 
 そんな時に改めて読み返してみたいと思い出したのが、渡部昇一の昭和史だった。渡部は立花に反論するかのように書いている。
 『当時の日本人は十分に賢明ではなかったかも知れないが決して一億総狂気といったものではなかった』(『「時代」を見抜く力』」
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天皇と東大(1) 大日本帝国の誕生 (文春文庫)
天皇と東大(2) 激突する右翼と左翼 (文春文庫)
天皇と東大(3) 特攻と玉砕 (文春文庫)
天皇と東大(4) 大日本帝国の死と再生 (文春文庫)
天皇と東大 大日本帝国の生と死 上
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 日本は、古代から昭和前期(1945年8月15日まで)まで、助けてくれる友好国や援軍を出してくれる同盟国を持っていなかった。
 日本人にとって、中国人や朝鮮人は敵であって友人・親友・戦友そして知人でもなかった。
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 日本の近代化は、江戸時代後期にロシアの日本侵略とキリスト教の宗教侵略が出現し、国学尊皇攘夷派が天皇中心の国體滅亡の危機感と恐怖して始めた軍国主義運動であった。
 つまり、嘉永6(1853)年のペリー黒船艦隊来航よりはるか以前の、田沼意次松平定信林子平最上徳内近藤重蔵間宮林蔵らの時代の話である。
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 ロシアの侵略は、日本領蝦夷地・北方領土対馬の強奪が目的であった。
 そのカギを握っていたのが、アイヌ人であった。
 アイヌ人が、日本の味方して防衛戦争に加わるのか、ロシアに味方して侵略戦争に参加するかであった。
 朝鮮は、ロシアに味方してロシアの日本侵略に加担した。
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 近代的天皇制度・狂信的国體論・近代的軍国主義運動から生まれたのが大日本帝国憲法統帥権軍人勅諭教育勅語・その他であり、その狂信的祖国防衛意識を完全否定して作られたのが現代のキリスト教マルクス主義日本国憲法平和憲法である。
 極東の弱小国日本は、軍事力で天皇・国・民を守る為に急いで死を恐れない兵士をつくった。
 つまり、日本の近代国家とは、創生民族国家として国際法に基ずく正当性国家間戦争に勝利する為であった。
 近代化に成功した日本と、自力で近代化できなかった中国や朝鮮、そしてアジア・中東・アフリカなどの諸国・諸地域・諸民族と違っていたのはこの点である。
 それが、日本特殊論の正体である。
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 明治の近代化まで、日本にはアイデンティティはなく、国名としての日本はあっても実態としての日本国はなく、名も無き民はいても日本民族や日本人はいなかった。
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 命を捨てた国学尊皇攘夷派とは、貧しい下級武士や地方の郷士、身分低い庶民(百姓や町人)、差別された賤民・部落民・芸能の民・異形の民・異能の民・その他、つまり学のない(教養・学識が乏しい)下層民・下級民などであった。
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 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力はない。
 特に、高学歴な知的エリートや進歩的インテリにその傾向が強い。
 現代の日本人は、架空に近い時代小説・時代劇が好きだが、事実に近い歴史小説・歴史劇が嫌いである。
 つまり、自分が好きな物語を真実として残し、好まない物語は如何に事実であっても排除している。
 歴史の権威は前者から生まれ、多数派は主流として支持し、少数派は傍流として反論する。
 歴史教科書の記述は、歴史の権威が決める。
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 日本の歴史は、反天皇反民族反日本である。
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 ロシアの日本侵略は日露戦争で粉砕したが、新たに反天皇反日本のソ連コミンテルン中国共産党などの国際マルクス主義勢力が日本侵略の意志を継ぎ、ソ連崩壊後は現ロシアが日本領北方領土4島を不法占領し、中国共産党尖閣諸島・沖縄、沖ノ鳥島、北海道を強奪するべく狙っている。
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 スターリンは、日露戦争の復讐戦として日本・満州への侵略と、日本への報復として日本領であった北海道、北方領土、千島列島、南樺太の強奪を命じた。
 ロシア人共産主義兵士は、逃げ惑う日本人の女性・子供・老人を虐殺しながら日本に向かって進撃していた。
 日本は、ロシアとキリスト教ソ連共産主義を恐れていた。
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 現代のロシアは、日本の祖国防衛軍国主義を犯罪行為と否定し、国際法違反の北方領土4島占領を正当化している。
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 キリスト教の宗教侵略とは、中世キリスト教会・ローマ教皇が神の御名で容認した白人キリスト教徒に対する「非キリスト教徒日本人の奴隷交易」である。
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 日本人共産主義テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、親ユダヤ、人種差別反対そして平和貢献や人道貢献を行った昭和天皇を惨殺する為につけ狙っていた。
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 現代日本の歴史は、絶対的価値観に基ずく善悪二元論で昔の日本を一刀両断的に明確に裁断し、日本を「完全な悪」と決め付け、その根源的原因を近代天皇であるとして歴代天皇と皇后が行った偉業を否定して歴史の闇に葬った。
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 日本人には、いい事をした日本人もいれば、悪い事をした日本人もいたし、傍観して何もしなかった日本人もいた、同調圧力・場の空気に流された行動した日本人もいたし、何もしたくなくて責任を放棄して逃げた日本人もいた。
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 現代の日本は、戦争をしないと同時に人助けもしない。
 その証拠に、中国共産党ウイグルチベット内モンゴル・その他で行っている少数民族へのジェノサイドに対して批判・非難しないどころか一言も言及しない。
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 近代皇室の天皇と皇后は、世界の如何なる皇帝・女帝、国王・女王に比べても恥じないような、遜色のない平和貢献や人道貢献を行い、明治以降に蓄えた皇室の私有財産は国内外で困窮する人々を救う為に使われていた。
 皇室が作った私有財産は、国民から重税で搾取したわけではなく、国外で軍事力で暴力的に強奪したわけではない。
 が、現代日本の反天皇勢力は天皇・皇族・皇室を「税金泥棒」と告発している。
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 日本民族は、天皇を中心とした「国體」を命を捨てて、玉砕してでも護ろうとしてきた。
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 戦前の日本は、戦争で人を殺すという戦争犯罪を行ったが、戦場で人を助ける人道貢献も行っていた。
 昭和天皇は、親ユダヤ派としてヒトラーから逃げてきたポーランドユダヤ人難民の保護を切望し、人道貢献として人種差別に反対し、平和主義者として戦争を避け、戦争が勃発すれば早期に停戦するよう平和貢献を行い、そして原爆は非人道的大量虐殺兵器として研究・開発に猛反対した。
 東条英機松井石根A級戦犯は、保護したユダヤ人難民を上海ゲットーに強制収容し、同盟国ナチス・ドイツや反ユダヤ派日本人等が企んでいた上海ホロコースト計画を阻止して、敗戦まで守り通し、敗戦後には国際法東京裁判の判決に従ってリンチ的見せしめの縛り首で処刑された。
 日本民族は、病死した松岡洋右と処刑された東条英機戦争犯罪者を靖国神社の神として祀った。
 昭和天皇東条英機松岡洋右松井石根A級戦犯が、ナチス・ドイツの外圧を撥ね付けて、世界から救済を拒絶されていた嫌われ者のユダヤ人難民を保護したのは、皇道主義=大家族主義に基づく八紘一宇の心であった。
 が、マルクス主義共産主義の左翼・左派・ネットサハと反天皇反民族反日本の日本人、そして中国・韓国は、A級戦犯が祀られている靖国神社を否定し、閣僚が靖国神社を参拝する事に猛反対している。
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 日本天皇・日本国・日本民族が歴史的偉業として平和貢献や人道貢献を行ったのは、世界から一等国・一流国・先進国と認められたいという打算からであり、名誉・体面・誇りという自己満足からである。
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