🕯139)─1─『平家物語』から読み解く、中世の人々が本気で怖れた「地獄堕ち」。~No.297No.298 

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 2021年8月19日 MicrosoftNews AERA dot.「『平家物語』から読み解く 中世の人々が本気で怖れた「地獄堕ち」
 © AERA dot. 提供 『春日権現験記(模写)』国立国会図書館蔵 明治3年写(原本は鎌倉時代に制作)/地獄の様子を描いた場面。右手前に、釜で煮えられている亡者、その側には鬼に舌を抜かれている亡者、後ろには鬼に口を開けられ、煮えて溶けた銅を飲まされようとしてる亡者がみえる。左に描かれているのは、邪淫の罪で地獄に堕ちた亡者。美女を追いかけて樹を登るが枝葉が剣に変わり切り裂かれてしまい、ようやく頂上まで登ると今度は美女は樹の下にいる、という責め苦が繰り返される姿を描いている
 死後、遺族が執り行う法要が死者に下される審判に大きな影響を及ぼすのだとしたら、家族や親しい人のいない死者は誰にも供養されず、厳しい審理を受け、減刑もされずただ結審を待つだけということになってしまう。情状酌量もないまま、いわれのない罪で地獄に堕ちてしまうこともあるかもしれない。
 幼少時から閻魔王の存在に興味をもち、地獄について研究してきた国文学者の地獄に詳しい星瑞穂さんが、著書『ようこそ地獄、奇妙な地獄』(朝日選書)で解き明かした「閻魔王」の正体に「死後のスケジュール」の意味や成り立ち。ここでは、人々が死後の「地獄堕ち」をどれほど怖れていたか、『平家物語』からひもといていきたい。
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 『平家物語』より、俊寛(しゅんかん)僧都にまつわる逸話を引用しよう。俊寛は、平家打倒の陰謀をめぐらした罪によって、鬼界島へと流罪になった。彼は許されることなく、島で無念のうちに病死するのだが、その寵童である有王丸(ありおうまる)が駆けつけて最期を看取った。嘆き悲しむ有王丸は次のように言う。
 「やがて後世の御供(おとも)仕(つかまつ)るべう候(さうら)へども、此世(このよ)には姫御前(ひめごぜん)ばかりこそ御渡り候へ、後世訪(とぶら)ひ参らすべき人も候はず。しばしながらへて御菩提(ぼだい)訪ひ参らせ候はん」
 【現代語訳】
 (私も一緒に)このまま後世へお供するべきですが(筆者注:自分も死んで、生まれ変わって来世まで仕えることを指す)、この世にはお姫様(同:俊寛の娘)こそいらっしゃるものの、そのほかには供養をしてくれる人もいらっしゃいません。しばらく生きながらえて、お弔い申し上げましょう。(平家物語 巻三 僧都死去)

 王丸はまもなく都へ帰り、俊寛の娘にその死を伝え、娘も有王丸もともに出家して俊寛の後世を弔う。「後世を弔う」というのは、中世文学には頻繁に登場する言葉で、死者のより良い来世を願って、供養を行うことをいう。
 より良い来世というのは、つまるところ極楽往生を願い、地獄をはじめとする三悪趣(さんあくしゅ/三悪道)に堕ちないよう祈ることだ。十王信仰の側面からいえば、十王への減刑のお願いということになる。
 俊寛への仕えを果たすため殉死も覚悟したほど、忠義の厚い有王丸さえ、死をためらう原因――それは俊寛の「後世を弔う」人物が、俊寛の娘のほかにいないこと。つまりは主立った身内や、有力な家臣、後ろ盾がいなかったのだろう。
 物語は平家絶頂の折が舞台で、平家に刃向かった俊寛を大々的に供養することも憚られたはずで、そんな時代に娘一人が遺されるのは、確かにあまりにも心細い。有王丸は自分こそ俊寛の「後世」を弔おうと、命をながらえた。
 実は『平家物語』にはこうした場面が数多くある。時に死さえ覚悟した人々の気持ちをも翻させてしまう怖れ――それは、「後世を弔う」親族や知人がいないことだったのだ。
 『平家物語』に登場する木曽義仲(きそよしなか/源頼朝義経とはいとこに当たる源氏の武将)には、樋口次郎兼光(ひぐちじろうかねみつ)という忠実な家臣がいた。兄弟同然に育った乳母子(義仲を養育した乳母の子)で、平家打倒のため命運をともにしてきた仲間である。
 義仲らは破竹の快進撃で平家を都落ちさせるものの、時の上皇であった後白河院(ごしらかわいん)(1127~92)と対立し、ついにはその要請を受けた源義経らの軍勢によって都を追われ、義仲はとうとう粟津(現在の滋賀県大津市南部)で討たれた。一方、樋口は児玉党(こだまとう)という軍勢によって生け捕りにされるのであるが、このとき彼は次のような言葉で、投降を説得されている。
 「日来(ひごろ)は木曾殿の御内(みうち)に今井、樋口とて聞え給ひしかども、今は木曾殿うたれさせ給ひぬ。なにか苦しかるべき。我(われら)等が中へ降人(かうにん)になり給へ。勲功(くんこう)の賞(しやう)に申しかへて、命ばかりたすけ奉(たてまつ)らん。出家入道をもして、後世(ごせ)をとぶらひ参らせ給へ」
 【現代語訳】
 いつも木曽殿のお身内には、今井(筆者注:義仲の乳母子の今井兼平(かねひら)のことで、樋口の弟)、樋口といって有名でいらっしゃいましたが、今はもう木曽殿はお討たれになってしまいました。何も差し支えはありますまい。どうか我々に降参してください。今度の手柄で恩賞を受ける代わりに、あなたの命をお助けしましょう。出家入道でもして、木曽殿の後世を弔ってさしあげなさい。(平家物語 巻九 樋口被討罰)

 これを聞いた樋口は言われたとおりに生け捕りとなる。物語はこの樋口の振る舞いについて「きこゆるつはものなれども(名高い強い武将だったが)」とわざわざ断っている。つまり、樋口は怖じ気づいたわけでもなければ、義仲に忠誠心がなかったわけでもない。すでに義仲は討たれ、戦う理由もなくなり、そこに「後世をとぶらひ参らせ給へ」の一言が、樋口の降参の決定打になったということだ。
 討ち死にを覚悟していたであろう樋口さえ、主君の「後世」が気がかりで、武士としては屈辱的ともいえる生け捕りの道を選ぶのだ。それほど「後世を弔う」ということが重要視されていたのである。
 なお物語は延々と、家臣たちが討ち取られていくところを描いていく。そして義仲を弔うために投降したはずの樋口もまた、義仲の死から一一日後、後白河院の意向により処刑されてしまう。
 「後世(来世)こそ、極楽浄土に生まれ変わりたい、少なくとも地獄に堕ちたくない」――そんなふうに考えていた人々にとって、この展開はあまりにも悲惨に聞こえたことだろう。義仲は「後世を弔う」はずの家臣たちを次々と失うことによって、来世さえ期待できない孤独な末路を迎えたのである。人を殺したという罪を背負い(義仲のみならず武士の宿命である)、家臣からの供養もなく中陰を彷徨よい、十王の裁きを待つ。これは中世の人々にとって、最も怖れていた死のあり方だった。
 なお、この最期があまりにもショッキングだったのか、あるいは義仲に同情的な人物がいたのか、『平家物語』の異本(伝承の過程で内容や構成に異同を生じた本)には、義仲に仕えた女武者である巴御前(ともえごぜん)が生きながらえて、91歳で極楽往生を遂げるまで、義仲を弔い続けたとする内容のものもある。
 樋口でも今井でもなく、巴御前が生き残るという展開には理由がある。実は「後世を弔う」のは、遺された女性に任された務めでもあったからだ。
 同じく『平家物語』より、建礼門院(けんれいもんいん/清盛の娘、安徳天皇の母)の言葉を引用しよう。彼女は平家滅亡ののち京都・大原(おおはら)に隠棲するが、そこを訪ねてきた後白河院に対して、源平合戦の顛末を、生きながらにして六道の苦しみを味わったと回想する。そして母の二位尼(清盛の妻時子)の遺言を次のように語る。
 「男(おのこ)のいきのこらむ事は、千万が一つもありがたし。設(たと)ひ又遠きゆかりは、おのづからいき残りたりといふとも、我等が後世をとぶらはん事もありがたし。昔より女はころさぬならひなれば、いかにもしてながらへて、主上(しゅしゃう)の後世をもとぶらひ参らせ、我等が後生(ごしょう)をもたすけ給へ」
 【現代語訳】
 「(平家の)男が生き残ることは、千にひとつもないでしょう。また遠い縁者はたまたま助かったとしても、私たちの後世を弔ってくれるなどということはないでしょう。昔から女は殺さないのが習いですから、どうにか生き延びて、主上(筆者注:安徳天皇のこと)の後世を弔って差し上げて、また私たちの来世のことも祈ってください」(平家物語 灌頂巻 六道之沙汰)

 物語によれば、平家一門のほとんどが討たれ、処刑され、清盛に近しい親族で生き延びたのは娘の建礼門院だけだった。ほか一門の公(きんだち)達の妻たちは自害もしているが、なんとか生き残った女性たぼ出家している。
 非戦闘員である女性は、基本的には殺されることはない。遺された彼女たちに与えられた使命は、亡くなった父や夫の「後世を弔う」ことだった。亡くなってしまった本人たちはもう仏道修行に励むことはできないので、遺された女性たちが出家して、故人のために徳を積もうとしたのである。特に武士の妻の場合には、殺生(せっしょう)という仏教が最も強く戒める罪を犯した夫を、堕地獄から救わなければならなかった。
 一族のうち誰か一人でも生き延びなければ――中世の戦乱の時代、一族の血脈を繋ぐことも重要だったが、武士たちにとっては自分を供養してくれる人を「この世」に遺しておくことが、堕地獄を免れる手段のひとつとして重要だった。堕地獄を怖れるあまり、供養する人物の確保は脅迫的な観念に近かったことが様々な逸話から見てとれる。この供養の手厚さによって、十王の裁断が変わるからだ。
 『平家物語』の引用が続いたが、こうした考え方が見えるのは『平家物語』に限らない。中世文学においてはあまりに定番の表現で、むしろ陳腐ですらある。そして大概の場合、女性の存在が大きな鍵となっていた。
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