🏞86)─1─文化露寇。徳川幕府はロシアのアラスカ開発とアメリカ大陸植民地支配計画を潰した。〜No.360No.361 ㉚ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 文化露寇のロシアも元寇フビライも、日本に求めたのは戦争ではなく平和的な交易であった。
 戦争になった原因は、国境を開放して開国し国交を正常化させ自由なヒトの交流と制限のないモノとカネの交易を求めたロシアとモンゴルの要請を、「国是・祖法・前例で拒否し日本列島=国=ムラの殻に閉じこもろうとした」排他的な百姓気質(農耕生産地が命)の日本にあった。
 日本人農耕民の危機感とは、「日本の国土・村の土地・祖先の田畑が外国人に奪われる」であった。
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 2021年9月号 Voice「歴史論争  渡辺惣樹
 アレキサンドル1世の『遁世』
 ロシア史に輝く名君
 アレキサンドル1世(1777年生)といわれても、この人物を知る読者は少ないに違いない。しかしロシア史においては名君である。治世中(在位:1801~25)には、ナポレオン率いる常勝軍の領土内侵攻を許しながらも、モスクワを逃げる際には町を焼き払う奇策で、ナポレオン軍のモスクワ常駐を阻止した。ロジスティクスを支えられず、撤退を決めた同軍を冬将軍が襲い、ナポレオン凋落のきっかけとなった(1812)。ナポレオン戦争後に開催されたウィーン会議では、ロシアの領土拡大を認めさせ、ポーランドフィンランドベッサラビア黒海沿岸部)を得た(1915)。
 日本史との関係でいえば、通商関係樹立を求めて、長崎にレザノフを遣(や)ったのもこの皇帝である(1804)。このころのロシアの領土拡大は極東を越え北米大陸にまで及んでいた。アラスカを領土化(18世紀半ば)して以来、同地の開発と経営は、露米会社に委ねられたが、アラスカ開発のためには安定的な食糧確保が課題だった。日本と貿易できれば、その懸案も消え開拓に弾みがつくはずであった。しかし徳川幕府の拒否で、ロシア帝国のアラスカ開発の夢は潰えた。レザノフの対幕府交渉が成就していれば、ロシアはアメリカにアラスアを売却(1867)しなくても済んだかもしれない。
 ロシア史に燦然(さんぜん)と輝くこの皇帝が突然に世を去ったのは1825年12月1日のことである。皇帝は病弱の皇后の療養をかねてロシア南部アゾフ海沿岸の町タガンログに滞在していたが、腸チフスに冒(おか)され急死した(47歳)。棺(ひつぎ)は2カ月後の首都サンクトペテルブルクに戻ったが、皇帝の遺体を見たものはほとんどいなかった。少ない目撃者は皇帝とは違うようだと訝(いぶか)ったが、容貌の違いは腐敗が理由だろうとされた。棺はペトルパウェル大聖堂に納められた。
 不思議な聖職者と筆跡鑑定
 皇帝の死から11年経った1836年、怪しい男(ロシア正教僧)が西シベリアの町クラスノウフィムスク(モスクワの東1,450km)に現れた。フェオドール・クズミーチと名乗るばかりで、出自は一切語らなかった。無宿人として扱われたクズミーチは、トムスク(東にさらに2,000km)に移され、流刑者共同体の蒸留酒(じょうりゅうしゅ)工場で5年間働いた。解放されると再び流浪の旅に出た。
 15年後にようやく、トムスクの東370kmにある寒村クラスナヤ・レチカに居を定めた。年老いたクズミーチの後頭部に少しばかり残る髪も、長く伸ばした髭も、雪のように白かった。そこに純白の僧衣をまとって説経する姿は、村人をたちまち魅了した。
 気が利いた説経に加えて『見てきたように』サンクトペテルブルクの宮廷生活や1812年の戦いの模様を語った。ヨーロッパの地理に詳しくフランス語も流暢(りゅうちょう)に操った。それが村人の尊崇の理由であった。信者の一人が建ててくれたあばら家での質素な生活であったが、そこに時折得体の知れない者が訪れ、村人を怪しませた。
 1864年、クズミーチは、クラスナヤ・レチカの村で過去を隠し通して死んだ。
 死後、クズミーチはアレキサンドル1世だったのではなかったかとの噂が広がった。『皇帝は父殺しの罪悪感に苛(さいな)まれ、神に許し得ようと聖職の道に入りたかった。そのために死を装って遁世(とんせい)したのではなかったか』と囁(ささや)かれた。皇帝の父パーヴェル1世は、廷臣の特権排除や、外国旅行の規制(フランス革命思想の伝播を嫌った)などで宮廷貴族に嫌われていた。彼が近衛兵によって暗殺されたのは1801年3月23日のことである。息子アレキサンドル1世が、西洋社会で忌(い)み嫌われる『王殺し、父殺し』に関わっていたことは確かだった。
 噂は、ロマノフ王朝関係者にも伝わった。アレキサンドル3世(曽孫)はクズミーチの肖像画を執務室に飾り、その子ニコライ2世は墓所を訪れている。2人も同一人物説を信じていたようだ。アレキサンドル1世とクズミーチの筆跡は、素人目には瓜二つである。2015年、ロシア筆跡鑑定協会会長(スヴェトラーノ・セミョノーヴァ)が科学的鑑定を実施し、同一人物の筆跡であると断定した。
 ロシア政府は、埋葬されたアレキサンドル1世とされる遺体のDNA鑑定を許していないが、ロシア正教会は前向きである。」
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 ロシアは、アラスカ開発の為に日本との交易を望んでいたが、徳川幕府の無理解で失敗しアラスカを失い、アメリカ大陸植民地化が頓挫した。
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 徳川幕府はロシアとの戦争に備えて東北諸藩に蝦夷地や北方領土への派兵を命じてロシアを退け鎖国日本を守った、その結果に、無自覚に、間接的に、アメリカをロシアの侵略や植民地支配から救った。
 日本人の蝦夷地や北方領土に住むエゾ・アイヌ人への扱いが変わっていった。
 つまり、アイヌ人は日本の味方かロシアの味方か、植民地主義帝国主義の世界情勢はどっち付かずの曖昧な中立を許さなかった。
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 日本危機との情報を知った日本人による過激な攘夷熱が、日本全国で起き始めた。
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 現代日本の高学歴な知的エリートと進歩的インテリは、地球規模の地政学・戦争学・植民地学・人類侵略史などの知識が乏しい為に、日本の歴史はおろか世界の歴史さえも正しく理解できない。
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 文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件(ロシア語: Инцидент Хвостова)とも呼ばれる。

 文化元年(1804年)、これを受けて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し、半年にわたって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至り、また、日本への報復を計画し、樺太択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させた。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフは、文化3年(1806年)には樺太松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。幕府は新設された松前奉行を司令官に、弘前藩南部藩庄内藩久保田藩から約3,000名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護にあたった。しかし、これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍に撤退を命令した。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩の警護藩士も撤収を開始した。なお、この一連の事件では、日本側に、利尻島で襲われた幕府の船から石火矢(大砲の一種)が奪われたという記録が残っている。
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 もし、ロシア帝国がアラスカ開発に成功し北アメリカ大陸に植民地を獲得して各地に要害都市・軍港都市を建設していたら、後のハリマンの世界一周鉄道計画において中国・満州を必要としなかった。
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 元寇を命じたフビライ皇帝も露寇事件を起こしたロシア帝国アレクサンドル1世も、日本に望んだのは戦争ではなく交易であった。
 ロシア帝国の日本との交易は、ピョートル1世からの悲願であった。
 モンゴル人は、大陸遊牧民族として足が地に着かない底なしの海を恐れ、泳げないモンゴル兵は海に落ちれば確実に死ぬ舟戦を苦手としたからである。
 極寒に閉ざされるロシア帝国は、暖かい地方や結氷しない海への領土拡大が宿命であったが、シベリア・カムチャッカ半島及び北米・アラスカに領土を拡大したのは陸軍的行動であって海軍的行動ではなく、その為にカムチャッカには治安目的の小部隊と数隻の軍艦が常駐するだけで日本と戦争するほどの兵力ではなかった。
 西洋と中華は、日本を世界の7大帝国の一つとして好戦的な武士集団(職業軍人組織)の軍事力を恐れ警戒していた。
 平和的な交易を求めてきた元・モンゴルとロシア帝国と戦争になったかといえば、排他的鎖国状態にあった日本側に国際情勢への分析力・理解力がなかった事が主たる原因であったが、それ以上に元・モンゴルやロシア帝国は自国に有利な交易をする為に武力を匂わせた軍事的威圧を伴っていたからである。
 元・モンゴルやロシア帝国使節と応対したのが、現代日本のように柔軟な発想で金儲け・利に聡い商人(企業家)であれば軍事的威圧を無視して交易を受け入れたが、名誉・体面を病的にこだわる武士であった為に強国・大国意識でごり押ししてくる相手に嫌悪し意固地となり臍を曲げ反発し拒絶した。
 日本の、商人は戦争を嫌うが、武士は戦争を好んだ。
 徳川幕府が、ロシアとの交易で警戒したのはキリスト教による宗教侵略、つまり中世キリスト教会の悪夢であった。
 そして、日本国内で水戸藩吉田松陰ら勤皇派による尊皇攘夷運動が起きた。
 現代の日本人には「攘夷」の本当の意味が理解できない、右翼・右派・ネットウヨクや左翼・左派・ネットサハに関係なく、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者にそれが言える。
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 徳川幕府田沼意次の革新的外交交易政策を踏襲し、1804年にロシア皇帝アレクサンドル1世の交易要望を受け入れ開国していたら、近代的天皇制度国家・軍国主義国家は誕生せず、その後の戦争、日清戦争から太平洋戦争までの全ての戦争は起きなかったろうし、共産主義者によるロシア革命は起きず、ロシア正教ロシア帝国は滅亡せず、反宗教無神論ソ連コミンテルン中国共産党日本共産党・国際的共産主義勢力もなかったかもしれない。
 そして、アメリカはアラスカをロシアから購入して領土にはでず、北米大陸にロシアが存在し現代とは違う姿になり、当然、アメリカが現代の大国のように発展できたかどうかは判らない。
 良い悪いは別として、いつの時代でも日本の決断と行動が地球規模で世界・世界史を動かしていた。
 が、現代の日本と昔の日本は全くの別の日本である。
 つまり、紀州(和歌山)の地方下級武士から成り上がった下賤の田沼意次を正しく評価しないマルクス主義史観・キリスト教史観に毒されたリベラル的日本の歴史は無意味どころか、正しい視野・思考を身に付けるべき青少年にとって有害である。
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 ロシアによるアメリカ大陸の植民地化
 ロシアによるアメリカ大陸の植民地化(ロシアによるアメリカたいりくのしょくみんちか、英: Russian colonization of the Americas)は、ロシア帝国が主に北アメリカ大陸太平洋岸の領有権を主張した1732年から1867年まで行われた。ロシアは北アメリカの天然資源の交易(特に毛皮交易)を行い、これを海路および陸路を通じてロシアに運ぶために、遠征隊を後援し、植民事業を維持した。併せて開拓地や防衛のための前進基地を維持した。植民地は主に今日のアラスカ州に設立され、ハワイ州カリフォルニア州北部に達した者もいた。しかし1867年、アメリカ合衆国がロシアのツァーリからの申し出を受け容れ、アラスカのロシア植民地を720万ドルで購入した。アラスカ購入と言われる。これによって北アメリカにおけるロシア帝国の植民地経営は終わった。

交易会社
 詳細は「露米会社」を参照
 ヨーロッパ諸国の中でロシア帝国は、海岸遠征や領土獲得のための植民を国家が支援しなかった数少ない帝国だった。アメリカ大陸における活動を後援するために初めて国家が保護した交易会社は、グリゴリー・シェリホフとイワン・ラリノビッチ・ゴリコフによるシェリホフ・ゴリコフ会社だった。1780年代には他にも多くの会社がロシア領アメリカで活動した。シェリホフはロシア政府に排他的支配権を請願したが、1788年にエカチェリーナ2世は既に占領した地域のみの独占権を認める決断をした。他の交易業者はそれ以外のどこでも自由に競合することができた。エカチェリーナ2世の決断は1788年9月28日に皇帝宣言として発布された。
 シェリホフ・ゴリコフ会社が露米会社(ロシア・アメリカ会社)の基礎となった。その認証は新ツァーリのパーヴェル1世による1799年宣言で行われ、これによればアリューシャン列島と北緯55度線より北の北アメリカ本土のロシア領アメリカにおける独占的交易権を与えていた。露米会社はロシア初の共同持ち株会社であり、ロシア帝国商務省の直接管轄下に入った。シェリホフ・ゴリコフ会社以来、アラスカ交易はイルクーツクを本拠とするシベリアの商人達が担っており、彼らが露米会社の当初の主要な株主であったが、間もなくサンクトペテルブルクを地盤とするロシア貴族がこれに替わった。露米会社は現在のアラスカ州ハワイ州およびカリフォルニア州に開拓地を建設した。
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 ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 露:ニコラーィ・ペトローヴィチ・レザーノフ, ロシア語: Никола́й Петро́вич Реза́нов, 1764年4月8日(ユリウス暦3月28日) - 1807年3月13日)は、ロシア帝国の外交官。極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。
 露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)を設立したほか、クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海(1803年)を後援し、自ら隊長として日本まで同行した。この日本来航(1804年、文化元年)はアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節としてのものである。露日辞書のほか多くの著書は、自身も会員だったサンクトペテルブルクロシア科学アカデミーの図書館に保存されている。彼は40代で死んだが、その早い死はロシアおよびアメリカ大陸の運命に大きな影響を与えた。
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 露米会社(ろべいかいしゃ。Russian-American Company、ロシア語: Российско-американская компания)は、極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的とした、ロシア帝国の国策会社・勅許会社である。1799年、パーヴェル1世から、官僚・外交官のニコライ・レザノフへの勅許により成立した。

 露米会社の経営
 露米会社の経営は最初から厳しく、食糧難で入植地は崩壊寸前となり会社は大きな損失を出した。レザノフはアラスカの維持のためにはまず日本との交易が必要と考え、自らペテルブルクから長崎へ来航したが不調に終わった。半年を長崎で待った後、彼はカムチャツカ経由でアラスカに向かった。レザノフは現地の規律を立て直し、食糧難解決のために今度は南方のスペイン領アルタ・カリフォルニアへ向かい食料調達と交易確立を図ったが、彼の死によりスペインとロシアの条約締結はならなかった。
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 世界の窓
 アラスカ/アラスカ買収
 1741年にベーリングが到達してロシア領となる。1867年、アレクサンドル2世の時、アメリカに売却した。19世紀末に金鉱発見。1959年、州となる。
 ベーリングのアラスカ到達
 アメリカ大陸の西北端に位置するアラスカは、現在はアメリカ合衆国の州であるが、かつてはロシア領であった。ロシアのピョートル1世の命令によってシベリアの奥地を探検し、1728年にベーリング海峡を発見したベーリングが、大帝の死後の二度目の探検で、アリューシャン列島を東に進み、1741年に北米大陸の北西部に上陸した(ただしベーリングは帰途に死去した)。その地にはまだイギリス人もフランス人も到達しておらず、ロシア領アラスカとした。その後、アメリカ合衆国が独立したが、それは東部十三州に限られ、当然アラスカまでには及んでいない。
 その後、ロシアは1799年にロシア・アメリカ会社を設立し、さらにアメリカ大陸西岸を南下して入植地を拡げようとした。それは、太平洋方面に領土を拡張しつつあったアメリカ合衆国にとって一つの脅威となった。1823年にモンロー大統領はモンロー教書を発して、ヨーロッパ諸国のアメリカ大陸への干渉を排除しようとした背景の一つは、ロシアを含むウィーン体制下のヨーロッパの神聖同盟が新大陸に進出してくることを警戒したことが挙げられる。
 アラスカ売却
 しかし19世紀中ごろになり、ロシアはクリミア戦争に敗れたアレクサンドル2世は近代化改革に迫られたため財政難に陥り、自国領であったアラスカをアメリカへの売却を申し出た。交渉が成立し、1867年3月30日に売却されたが、その価格はわずかに720万ドルであったという。南北戦争後の国土統一を進めていたアメリカ合衆国(リンカンは暗殺されていたので大統領はジョンソン)にとっては好条件の取り引きとなった。
 州に昇格
 その後、19世紀末から20世紀初頭にかけてアラスカでも金鉱が発見され、ロシアは大いに悔やむこととなった。アラスカではさらに石油・天然ガスなどの豊富な地下資源が発見され、重要度を増していった。さらに冷戦時代には対ソ戦略でも重要な位置にあったため、その自然環境の過酷さから人口は少なかったものの、1959年にアメリカ合衆国の49番目の州に昇格した。
 アラスカ州にある北米大陸最高峰のマッキンリーは、第25代大統領となったマッキンリーに因む名であるが、2015年8月31日に、アラスカ先住民の呼称である「偉大なもの」を意味する「デナリ」に改称された。
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 ロシア領アメリカ(ロシアりょうアメリカ、ロシア語: Русская Америка, Russkaya Amerika)は、ロシア帝国が1733年から1867年まで北米地域に領有していた領土を指す。
 首府はノヴォ・アルハンゲリスク(現在のアメリカ合衆国アラスカ州シトカ)に置かれていた。現在は主にアメリカ合衆国アラスカ州となっている地域とハワイ州となる地区の3つの砦に及んでいる。
 ロシア帝国が公式に植民地として成立させたのは、独占権を持つ露米会社の設立を宣言するとともにロシア正教会に一部土地の所有権を認めた1799年勅令だった。19世紀にはそれらの所有権の多くは放棄されたが、1867年にロシア帝国は残りの所有権をアメリカ合衆国に720万USドル(現在の価値で1億3,200万USドル)にて売却(アラスカ購入)した。
 ロシア人によるアラスカ「発見」
 ロシアにおいてアラスカに初めて到達したヨーロッパ人の記録が残っているのは、セミョン・デジニョフが1648年にシベリア北東部のコリマ川河口から出帆し北極海を航海、ユーラシア大陸の東端を回航しアナディリ川まで辿り着いた記録である。一部の船が船団を離れアラスカに上陸したと言う伝承もあるが、確証はない。デジニョフの発見は中央政府に報告されておらず、シベリアは北アメリカ大陸と地続きなのかそうでないかは、この時点でまだ解明されていない疑問であった。
 1725年、ロシア皇帝ピョートル1世は再度探索を指示した。1741年6月、第2次カムチャツカ遠征(1733-1743)の一部としてヴィトゥス・ベーリング(聖ピョートル号)とアレクセイ・チリコフ(聖パーヴェル号)がカムチャツカ半島のペトロパブロフスクから出帆した。それぞれすぐに2隊に分かれたが、そのまま東方で航海し続けた 。7月15日にチリコフは、おそらく現在のアラスカ南東端のプリンスオブウェールズ島に当たると思われる土地を「発見」。船員をロングボートで着岸させ、北アメリカ北西海岸に初めて上陸したヨーロッパ人となった。 翌7月16日にはベーリングと聖ピョートル号船員はアラスカのセイントイライアス山を見つけ、その後進路を西方のロシア方面に戻した。チリコフと聖パーヴェル号も10月にはアラスカ「発見」のニュースをロシアへ持ち帰った。
 11月にベーリングは現在のベーリング島で座礁。聖ピョートル号も強風で破壊され遭難、そのままそこで病死した。厳しい冬季を乗り越えた生存者は船の破片から造船し、1742年8月に島を出てカムチャツカに生還したため彼らのアラスカ「発見」のニュースが伝わった。彼らが持ち帰った高品質のラッコ毛皮の存在が、ロシアのアラスカへの入植の意欲を高めた。
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 アラスカ購入(英語: Alaska Purchase)またはアラスカの売却(ロシア語: продажа Аляски)とは、1867年にアメリカ合衆国ロシア帝国の両政府間で行われた取引であり、その結果としてロシアの植民地であったアラスカ(ロシア領アメリカ)をアメリカ合衆国が買い取ることになった。
 購入への経緯
 ロシア人は18世紀末から、毛皮獣の狩猟や交易のために露米会社を設立して北アメリカ大陸太平洋岸一帯に進出しており、一部はカリフォルニア州にまで達していた。しかしロシアが実効支配していたのは沿岸部にとどまったことから英米系の毛皮商人も進出したが、露米会社は生活物資の補給と毛皮の納品をシベリア経由で行う必要があったため彼らとの競争において不利であり、また皮獣の枯渇が進み、経営に行き詰まるようになった。さらに、1853年から1856年にかけてのクリミア戦争では、ブリティッシュ・コロンビア植民地からイギリスに侵攻された場合のアラスカ防衛の困難が認識されるようになった。加えて、そのクリミア戦争の敗北後に国家財政が逼迫するようになった。そのため、ロシアはアラスカを売却することにしたが、イギリスに売却した場合はシベリア極東部がイギリスの軍事的脅威に晒されるため、アメリカ合衆国を取引の相手に選んだ。
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 アラスカの歴史
 アメリカ合衆国の一部としてのアラスカの歴史は1867年に始まるが、 この地域の歴史は旧石器時代 (紀元前12,000年頃) にまで遡ることができるとされている。一番早く住み着いたのはベーリング地峡を渡り、アラスカ西部に辿り着いたアジア人のグループである。 コロンブスの新大陸発見以前にアメリカにいた先住民のうち、ほとんどではないにしても多くがこの地峡を渡ってアメリカにやって来た。ロシアの探検家を通じてヨーロッパとの接触が始まる頃には、この地域にはイヌイット等の様々な先住民が住んでいた。
 アラスカについての文書に残る歴史のほとんどはヨーロッパによる植民にまで遡る。ロシア海軍の聖ピョートル号に乗ったデンマークの探検家 ヴィトゥス・ベーリングがアラスカを「発見」したと記録されているが、先に発見したのは聖パーヴェル号に乗ったアレクセイ・チリコフであった。彼は1741年7月15日、現在のシトカ市で陸地を発見した。ロシア・アメリカ会社はすぐにカワウソの狩りを開始し、アラスカ沿岸の殖民の支援を始めたが、高い船賃がネックになって経営はうまくいかなかった。
 1867年4月9日、アメリ国務長官のウィリアム・スワードが720万ドル(2005年現在の価値で9000万ドル)でアラスカを購入した。1958年7月7日、大統領ドワイト・D・アイゼンハワーはアラスカを連邦に加えることを認めるアラスカ州法にサインし、1959年1月3日、アラスカは連邦の49番目の州となった。
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