🕯125)─2・C─ヤマト王権に従わなかった人々の蔑称・「土蜘蛛」。~No.269 

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 2021年2月8日 YAHOO!JAPANニュース「虫けらのように扱われ、惨殺… ヤマト王権に従わなかった人々の蔑称・「土蜘蛛」
 鬼滅の戦史⑩
 藤井勝彦
 身丈が短く、手足が長かったという葛城の先住民の実像
 「源頼光の四天王土蜘蛛退治」一勇齋國芳筆/東京都立中央図書館
 『鬼滅の刃』に登場する鬼の中でも、特に奇怪な姿で登場するのが、那田蜘蛛山(なだぐもやま)に住む鬼一家の父である。顔そのものが蜘蛛という異形の姿で、父とはいえ、その実、末っ子の累(るい)に知性まで奪われて操られるという、悲しい運命に生きる鬼であった。また、累の兄は、胴体が蜘蛛という、これまた異形の鬼。姉に至っては、掌から繰り出す繭で獲物を仕止めて溶かして食べるという恐ろしさであった。一家の前世がどのようなものであったのかについてはあまり語られていないが、累自身、家族が元の姿に戻ることを嫌ったというから、幸せとはほど遠いものだったに違いない。
 それはともあれ、虫としての蜘蛛は、容姿の醜さもあって、古今を問わず忌避(きひ)される存在であったと思われるが、歴史を振り返ってみれば、生身の人間でありながらも、まるで虫けら(蜘蛛)のごとく蔑まれた者たちがいたことも事実である。
 実は、日本最古の歴史書とされる『古事記』や『日本書紀』に、土蜘蛛と呼ばれた不運な民のことが記されているのだ。ヤマト王権の黎明期の動向を記したとされる「神武天皇紀」や「景行天皇紀」「神功皇后紀」などに、その名が頻繁に登場する。天孫族(てんそんぞく)なる王権の支配者たちが各地を制覇するにあたって、まつろわぬ土族ばかりか、山中の窟などにひっそりと住まう民までこう呼び捨て、無慈悲な殺戮(さつりく)を繰り返したのである。
 大和国の高尾張邑(たかおわりむら・奈良県葛城市)をはじめ、碩田国(おおきたのくに・大分県)の鼠の石窟、直入県の禰疑野(ねぎの・大分県竹田市)、高来県の玉杵名邑(たまきなむら・熊本県玉名郡)等々、枚挙にいとまがないほど、その居処が記されている。いずれの民も、王権に従わなければ有無を言わさず殺されたわけだから、襲われた方としては、恨んでも恨みきれない思いがあったはずである。
 南方からやってきた縄文人
 ちなみに、前述の「神武天皇紀」に記された高尾張邑とは、葛城山(かつらぎさん)の麓に広がる地域であるが、そこに住む人たちのことを、「身丈が短く、手足が長かった」と記している。おまけに「侏儒に似ている」とも。この侏儒(しゅじゅ)とは、中国の歴史書魏志倭人伝」にも国名として登場する名で、倭国の南4千里にあったという。
 一説によれば、種子島のことと見られているが、それが正しいとすれば、葛城に住む人たちも、種子島同様、南方からやってきた人たちであったことがわかる。温暖な南の地(おそらく中国南方及びそれ以南)からやってきた縄文人も、身丈が低く手足が長かったと推測されているところからすれば、土蜘蛛と呼ばれた葛城の先住民も、この縄文人の特色をそのまま受け継いだ人たちだったのかもしれない。同地に鎮座する葛城一言主神社の境内に、彼らが埋められたという土蜘蛛塚なるものがあるが、幸せに暮らしていた彼らの怨念が渦巻いているような気がしてならない…というのは、考えすぎだろうか。
 「土蜘蛛退治」一勇齋國芳筆/国立国会図書館
 時を経るにつれておぞましい妖怪に進化
 さて、ここからは生身の人間ではなく、鬼(妖怪)としての土蜘蛛のお話である。史実として無念のうちに惨殺されてしまった人たちが鬼として生まれ変わったのかどうかは定かではないが、中世に流布された説話集や戯曲などに、鬼としての土蜘蛛(つちぐも)が登場する。代表的なのが、『平家物語』の「剣巻」である。そこでは、土蜘蛛ならぬ山蜘蛛の名で登場。全長4尺(約1.2m)もの巨大な蜘蛛の姿で現れる。日本を魔界にしようと暴れまくったということからすれば、王権に従おうとしなかった史実としての土蜘蛛のことを、王権側の視点から派手に書き換えたと見られなくもない。
 ともあれ、この妖怪退治にあたったのが、藤原道長などに仕えた源頼光(よりみつ)であった。頼光といえば、酒呑童子(しゅてんどうじ)退治でも活躍した武人。この勇猛な武人が、あろうことか、熱病に冒されて、ひと月も寝込んだという。床に伏していると、どこからともなく身長7尺(約2.1m)もの怪僧が現れて、頼光を縄で絡めとろうとしたとか。頼光がこれに気付いて、名刀・膝丸で斬りつけたものの、素早く逃げられてしまった。残された血痕をたどったところが、北野天満宮裏手の塚であった。早速これを掘り進むや、前述の巨大な蜘蛛が潜んでいたというわけである。頼光がこれを串刺しにして河原に晒すや、病もすっかり回復したとのことであった。
 ちなみにこの説話は、後世尾ひれが付いて、見上げるばかりの巨大な蜘蛛として語られるようになる。さらには、蜘蛛の首を刎(は)ねたところ、腹の中から何と1990個もの死者の首が転がり出たというばかりか、脇腹からも数えきれないほどの子蜘蛛が這い出してきたとの凄まじい話として語られるようになっていった。
 このように、時代が経るにつれて、その奇怪さが増していくものの、元をたどれば、単なる善良な民であったのではないかと思えてくるのだ。『鬼滅の刃』に登場する鬼たちも、もしかしたら元をたどれば、そんな人たちだったのかもしれない。体制に飲み込まれることを良しとせず、ただひっそりと暮らしていたかっただけなのに、蔑まれた挙句、命まで奪われてしまう。何とも、非情としか言いようのない話なのである。
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 ウィキペディア
 土蜘蛛/土雲(つちぐも)は、上古の日本においてヤマト王権・大王(天皇)に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。各地に存在しており、単一の勢力の名ではない。また同様の存在は国栖(くず)八握脛、八束脛(やつかはぎ)大蜘蛛(おおぐも)とも呼ばれる。「つか」は長さを示す単位であり、八束脛はすねが長いという意味である。
 近世以後は、蜘蛛のすがたの妖怪であると広くみなされるようになった。
 土蜘蛛は古代、ヤマト王権側から異族視されていており、『日本書紀』や各国の風土記などでは「狼の性、梟の情」を持ち強暴であり、山野に石窟(いわむろ)・土窟・堡塁を築いて住み、朝命に従わず誅滅される存在として表現されている。「神武紀」では土蜘蛛を「身短くして手足長し、侏儒(ひきひと)と相にたり」と形容し、『越後国風土記』の逸文では「脛の長さは八掬、力多く太だ強し」と表現するなど、異形の存在として描写している場合が多い 。
 蜘蛛と称され表記もされるが、上述のような経緯もあり、生物として存在している「ツチグモ」とは直接の関係は本来無い。海外の熱帯地方に生息する大型の地表徘徊性蜘蛛であるオオツチグモ科(Theraphosidae)は、「つちぐも」に因んで和名が付けられているがその命名は近代に入ってからであり、直接的には無関係である。
史料に見える土蜘蛛
 「つちぐも」は、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑・豪族・賊魁などに対する蔑称として用いられていた。『古事記』神武紀、『日本書紀』神武・景行・神功の3紀に「都知久母(つちぐも)」や「土蜘蛛」の名が見られ[5]、陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など、各国の伝説を書き出させた風土記でも「古老曰く」「昔」などの書き出しで伝説として語られている[3]。 『常陸国風土記』などでは、国栖(くず)と都知久母(つちぐも)とは同じ意味であるということが記されている。史料の上での登場は神武天皇の時代以後で、『古事記』『日本書紀』に記されている神話の時代には登場していない。
 具体的な人名が挙げられている土蜘蛛(「土蜘蛛」と明記されてはいないが同様の土着勢力を含む)の分布領域は、常陸国7か所・豊後国6箇所・肥前国12か所・陸奥国2か所・日向国1か所にわたり、九州・東北・関東と各地に点在している。その首長名と思われる名前が45あり、そのうちには名前に「女」(め)や「姫・媛」(ひめ)などが使われている点から女性首長であろうと見られる土蜘蛛も14名いる。
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