・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2024年5月11日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「農民らの維新や「女乞食」の逸話…思想史家・渡辺京二さん未完の絶筆「小さきものの近代2」
2022年に92歳で亡くなった熊本市の思想史家、渡辺京二さんの未完の絶筆となる『小さきものの近代 2』(弦書房)が刊行された。日本の近代を、欧米諸国と並ぶ国民国家を樹立したという史観からではなく、この時代を生きた一人ひとりにとっての明治維新や近代を描き出そうとした。
【写真】渡辺さんの自宅の机。亡くなる前日まで執筆していた
広く集めた日記類や書簡集などを分析し、幕末から大逆事件(1910年)までを目指し、地元紙に連載。1巻が22年に出版された。
今回刊行された2巻では、農民、町人の立場で尊皇攘夷運動に参加した「草莽」と呼ばれた人たちや、明治初期に放火の暴動を起こした農民、維新の立役者でありながら西南戦争(1877年)で敗れた西郷隆盛らに目を向けている。
老衰で亡くなる直前に書かれた章は、大正期のある小説家で農村研究者の体験を紹介している。
彼は村人たちに唾を吐きかけられている「女乞食」をかばう。立派なことをしたつもりだったが、後日、彼女から「誰もいたずらをしなくなったが、物もくれなくなった」と非難される。彼女は差別的な扱いを受けることで、村に生きる場所を得ていたのだ。渡辺はこの逸話を通じ、近代的な人権意識では測れない、農村の共同体意識を浮き彫りにする。
長女の山田梨佐さん(65)は、「父は近代という激動の歴史に翻弄された人間を『小さきもの』と呼んで心を寄せていた。そこには自身をも投影していたように思う」と話している。
・ ・ ・
マルクス主義者やキリスト教徒のリベラル左派やエセ保守の人権擁護や差別反対では、日本民族の歴史・風土は理解できない。
何故なら、彼らには数万年前からの民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力が欠如し、自分が信じたい真実のみ見て正しいと確信して起きた事実と今ある現実を見ようとしないからである。
学校でおこなわれている歴史教育は、当時生きていた日本人の物語を語っていないために無味乾燥で殺伐としている。
・ ・ ・
朝日新聞デジタル記事
年寄りを置き去り…「事実」の口ぶりに鳥肌 姨捨山伝説
有料記事
寺尾康行2020年2月3日 15時00分
「姥捨山伝説」の彫刻に目をやる渡辺裕二さん=高知県内
姨捨山伝説を「聞き書き」
江戸時代に松山と高知を結んだ土佐街道を歩き、食糧難だった戦前戦後の四国山地の庶民の暮らしを記録に残す――。日本民話の会会員でフリーライターの渡辺裕二さん(64)=松山市=は、今しかできない「聞き書き」をライフワークにしている。34歳で始めて、もう30年になるという。
昨年暮れ、愛用の「ジープ」で松山を出発。国道33号を一路、高知県内の山あいの町へ向かった。仁淀川を見下ろす高台の集落。地元の総代の男性に案内してもらい、鞘(さや)堂で覆われた神社本殿の彫刻を見学した。
戦記物や鶴亀の縁起物の彫刻に交じり、「姥捨山(うばすてやま)伝説」の一場面を描いた彫刻があった。おじいさんを運んだ畚(ふご)(負い台)を手にした息子が父親に向かって「今度親を捨てる時にこの畚がいるので持って帰る」と話している場面だそうだ。お宮に姥捨山伝説の彫刻があることに驚きつつ、「後世に伝えたいという村人の強い意思を感じた」。
旧土佐街道踏破の一人旅を始めて1年ほどした1990年ごろ、県境の美川村(現久万高原町)のあぜ道でのこと。長話をした帰り際、当時92歳の老婆がこう言った。「この谷の先に姥捨山というのがあらや。昔はそこへ年寄りを置き去りにしたもんじゃ」――。
「昔話という口調ではなく…
この記事は有料記事です。残り1200文字有料会員になると続きをお読みいただけます。
・ ・ ・
ウィキペディア
うばすてやま(姥捨て山)は、棄老伝説に材をとった民話。大きく「枝折り型」と「難題型」、それらの複合型に分けられる。法令、口減らしなどのために高齢の親を山に捨てることとなった息子と、その親の物語である。
物語の種類
難題型
ある国の殿様が、年老いて働けなくなった者は役に立たないから山に捨てよという非情なお触れを出す。ある家でもお触れに逆らえず、息子は泣く泣く老親を山に捨てようとするが、結局捨てることができず、密かに家の床下にかくまって世話をする。しばらくの後、殿様が隣の国からいくつかの難題を持ちかけられ、解けなければこの国を攻め滅ぼすと脅されるが、息子はそれらの難題を老親の知恵によって見事に解いてみせる。隣の国は驚いて、このような知恵者がいる国を攻めるのは危険だと考え、攻め込むのをあきらめる。老人のすばらしい知恵のおかげで国を救われたことを知った殿様は、老人を役に立たないものと見なす間違った考えを改め、息子と老親にたくさんの褒美を与えると共に、お触れを撤回し、その後は老人を大切にするようになった。
枝折り型
山に老いた親を捨てるために背負っていく際に、親が道すがら小枝を折っている(あるいは糠を撒いていく)のを見た息子が何故かと尋ねると、「お前が帰るときに迷わないようにするためだ」と答える。自分が捨てられるという状況にあっても子を思う親心に打たれ、息子は親を連れ帰る。
他に、年老いた親を捨てに行く際に子供も連れて行くが、担いできたもっこごと親を捨てようとする。すると、子供から「おっ父を捨てるときに使うから、もっこは持って帰ろう」と言われ、親を捨てる非道さに気付き(あるいは我が身に置き換えて恐怖を思い知ったため)姥捨てをやめるという内容のものがあり、同様の物語は中国やヨーロッパ、アフリカなど広範囲に分布している。枝折り型のあとに難題型が続く複合型、また数は少ないが、嫁にそそのかされた息子により一度は山に捨てられるが、知恵により鬼から宝を巻き上げ財を成し、猿真似をした嫁は命を落とすという嫁姑の対立がテーマになっているものもある。
備考
姥捨ての実際については、はっきりしたことは分かっていない。少なくとも古代から現代に至るまで、姥捨てやそれに類する法令などが日本国内にあったという公的記録はないが、民間伝承や姥捨て由来の地名が各地に残っている。
物語としては、親子の深い情愛、隣国が出す難題の奇抜さ、それをいとも簡単に解決してしまう老人の知恵のすばらしさなどが主題となっている。難題型の物語はインドの雑宝蔵教などに起源があり、アジアでもヨーロッパでも古くから語られているが、平安時代の枕草子には「蟻通明神の縁起」という名による「複合型」の完成された形での記述があり、日本でもかなり古い時代に成立した物語であることがうかがえる。
ちなみに、話に登場する難題の中でも比較的よく知られたものと、その答えを下に記す。
根元も先も全く同じ太さに加工されている木の棒のどちらが根元でどちらが先かを当ててみよ。
(答え:木の棒を水面に浮かべると、根元と先では重さが違うため、棒は少し傾く。下を向いた方が根元で、上を向いた方が先。)
灰で作った縄を持って来い。
(答え:縄に火をつけて戸板の上で燃やせば、簡単に灰の縄ができるから、それを戸板に乗せたまま持って行けばよい。)
複雑な形に曲がりくねった玉の穴に糸を通せ。
(答え:竹筒の一方の口に蜂蜜を塗り、糸を結び付けた蟻を反対側の口から入れると、蟻は蜂蜜の匂いにつられて穴を通り抜けるため、糸を通すことができる。)
姿も色も大きさも全く同じ親子の馬のうち、どちらが親でどちらが子かを当ててみよ。
(答え:二頭の馬の前に、餌(えさ)を入れた一つの桶を置くと、親馬は子馬に先に食べさせる。)
叩かなくても鳴る太鼓を持って来い。
(答え:太鼓の皮をはがして、生きている蜂の群れを太鼓の中に入れ、皮を張り直す。太鼓の中で蜂が飛び回ると、太鼓に張ってある皮にぶつかって音が出る。)
なお、「叩かなくても鳴る太鼓」を見て驚いた隣の国の殿様が、中の仕組みを見ようとして太鼓の皮をはがすと、太鼓の中から蜂の群れが飛び出してきて殿様を刺しまくり、隣の国の殿様はさんざんな目にあったというオチの付いた話もある。
一方で、姥捨て伝説の一部にはその信憑性を疑われるものも存在する。
長野県の冠着山は俗称を「姨捨山」といい深沢七郎が『楢山節考』で姥捨て伝説を結び付けた。しかし、日本思想史学者の古田武彦は地元の放光院長楽寺への現地調査の結果などからこの地に姥捨て伝説はなかったと結論付けている。
・ ・ ・