⛩38)─3─国史『日本書紀』の記録に残る残虐な雄略天皇。〜No.85 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 国史日本書紀は、美しい日本・有徳帝と醜い日本・残虐帝を包み隠さず記述している。
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 数千年続く126代の天皇の中で、残虐天皇ととして記録に残っている天皇は第21代雄略天皇と第25代武烈天皇である。
 雄略天皇に似た中国皇帝は、明国の名君・永楽帝である。
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 狂気に仕立てられた帝は、第51代平城天皇、第57代陽成天皇、第63代冷泉天皇、第65代花山天皇の4人である。
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 ウィキペディア
 雄略天皇 (ゆうりゃくてんのう、418年?〈允恭天皇7年12月〉 - 479年?〈雄略天皇23年8月7日〉は、日本の第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。『日本書紀』での名は大泊瀬幼武天皇。考古学的に実在がほぼ確定している古墳時代天皇
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 日本伝承大鑑
 葛城一言主神社【かつらぎひとことぬしじんじゃ】
 葛城の地は大和朝廷の黎明期における中心地であったとされる。いわゆる“欠史八代”と呼ばれる綏靖~開化天皇までの時代 には宮が置かれていたとされる。また葛城一族は武内宿禰を祖として鴨・蘇我・巨勢氏などの有力豪族に分かれていった。いわゆる古代日本史の大きな鍵を握るエリアなのである。
 この葛城一族の神とされるのが【一言主神】である。ところがこの神様はかなり出自が怪しいのである。一言主神は雄略天皇との遭遇という有名なエピソードで初めて登場する。しかもこのエピソードは不思議な変遷を辿るのである。
 『古事記』によると、葛城山雄略天皇は自分たちと全く同じ格好の集団と出会う。そしてその相手が「悪いことも一言、善いことも一言で言い放つ神。葛城の一言主の大神である」と名乗ると、天皇は恐れおののき、供の者の衣服まで差し出したという。
 ところが、『日本書紀』になると、雄略天皇一言主神はその場で意気投合し、大いに狩りを楽しんだことになる。天皇と神とが対等の立場で描かれることになる。
 さらに『続日本紀』に至っては、雄略天皇は事もあろうに、無礼があったとして一言主神を土佐へ流刑に処したのである(ここまで遠くに流刑となった神は他にはいない)。
 ではなぜここまでこの神に対する天皇の態度が変貌したのだろうか。古代の最大勢力を保っていた葛城氏が滅びるのは、雄略天皇の時代である。天皇による武力制圧である。その事実を神話ではあるが、大仰に書ける環境が整ったというのが真実である。
 <用語解説>
欠史八代
 綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化の2~9代の天皇は、実在していなかったという古代史の説。初代神武と10代崇神の和名が同じであることなどから多く支持されている。逆にこれらの天皇は葛城地方にあった王朝に属し、崇神以降とは一線を画する政権であったとする実在説もある。
一言主
 神代の記述には現れず、雄略天皇の事項で初めて登場する神。扱いが粗略になっていく展開は、上に書いたままである。さらに『日本霊異記』では、醜い顔の神であり、役行者に使役される身分にまで貶められている。
おそらくこの一言主神は事代主命と同じ神であると推測される。『古事記』において事代主は大国主命の息子として国津神のサイドに組み込まれてしまったため、葛城氏系の祖神を新たに創出する必要性があって登場したのであろう。
現在では、一言であればどんな願いでも叶えてくれる神として信仰を集めている。総本社がこの葛城一言主神社となる。
◆『続日本紀
 延暦16年(797年)に完成。『日本書紀』に続く勅撰史書。この時代には葛城系の貴族は賀茂氏を除きほとんどが没落しており、代わって三輪系(崇神天皇後の政権エリア)の藤原氏が台頭している。このあたりの政治的な権力バランスが、一言主の扱いに影響していると言える。
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 西日本出版社
 わかる日本書紀③ 慈愛と残虐の帝
 著者 監修 村田右富実(関西大学教授)
 文 村上ナッツ
 マンガ つだゆみ
 定価 1,400円(税抜)
 発行年月日 2020年4月30日
 判型 四六判並製 304ページ
 ISBN 978-4-908443-34-3
 Cコード 0095
 刷り 1刷
 内容紹介
 予備知識なしに読むことのできる、はじめての『日本書紀』、第3巻目です。
日本書紀』とは、当時の日本が大唐帝国に、対等に付き合うべき国だと認めてもらうために、歴史を書き連ねた正史です。
 第3巻では、大和朝廷は拡大し律令制を整えていきます。しかし、朝鮮半島での外交戦略では失策が。 仏教伝来直前の日本、世はめまぐるしく動いていきます。
 ♦あらすじ♦
 【㉑雄略紀→㉒清寧紀→㉓顕宗紀→㉔仁賢紀→㉕武烈紀→㉖継体紀→㉗安閑紀→㉘宣化紀】
 安康天皇の死の知らせに、末弟・大泊瀬(おおはつせ)皇子は兄を疑い殺害。眉輪王と円(つぶらの)大臣を焼き殺し、皇位継承者候補の従兄・市辺押磐皇子(いちのへのおしわのみこ)を狩りに誘い射殺し、二十一代雄略天皇となりました。
 残虐性と有徳の両面が語られ、朝鮮三国との関係も描かれます。 その皇子・二十二代清寧天皇は御子を残さずに崩御履中天皇の皇子・市辺押磐皇子の遺子・弘計王(をけのみこ) と億計王(おけのみこ)が針間国で見つかり二十三代顕宗天皇、二十四代仁賢天皇となります 。
 仁賢天皇の皇子・二十五代武烈天皇は、残虐な暴君として描かれます。武烈天皇には皇子がなく、応神天皇の五代目の子孫が越の国から迎えられ二十六代継体天皇となります。任那(みまな)の 四県を百済(くだら)に割譲。大和朝廷朝鮮半島に繰返し出兵。北九州の豪族たちは筑紫君磐井のもとに結束し大規模な反乱を起こしますが平定され、かえって律令国家体制が整いました。
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 『わかる日本書紀』シリーズ一覧
・1巻…【神代~第13代成務天皇
・2巻…【第14代仲哀天皇~第20代安康天皇
●3巻…【第21代雄略天皇~第28代宣化天皇
・4巻…【第29代欽明天皇~第33代推古天皇
 以下続刊
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 2020年2月21日 exciteニュース Japaaan「大悪天皇と呼ばれた「雄略天皇」の残虐ぶりがすさまじい。両目が飛び出るほどの恐怖…
 大悪天皇と呼ばれた「雄略天皇」の残虐ぶりがすさまじい。両目が飛び出るほどの恐怖…
 第21代天皇雄略天皇は、「大悪天皇(はなはだあしき てんのう)」と呼ばれるほど残虐な天皇だったと伝わっています。その人となりは、「自分の心だけに従って、間違えて人を殺していた」と日本書紀に書かれるくらいなので、かなりヒドかったのでしょう。
記紀が伝える雄略天皇の残虐ぶり
 初期のころの天皇は、その実在性が定かではありません。しかし、雄略天皇は「倭の五王」の一人だという説があることから、実在していた天皇ではないかとされています。※「倭の五王」とは、中国史書に記された倭国の五人の王を指す
 大悪天皇と呼ばれた「雄略天皇」の残虐ぶりがすさまじい。両目が...の画像はこちら >>
 雄略天皇Wikipediaより)
 日本書紀には、「天皇は自分の心が正しいとしており、誤りで人を殺すことが多く、天下の人々は誹謗して「大悪天皇」と言っていた」とあります。
 天皇、以心爲師、誤殺人衆、天下誹謗言「太惡天皇也。」
 ※日本書紀より
 先代の安康天皇あんこう てんのう)が後継者を決めずに亡くなったことで、後継者争いが起こります。野心に燃える雄略天皇は、同母兄の八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を生き埋めにして殺害。
 しかも、立ったままの八釣白彦皇子を埋めていくと、腰まで埋まったところで両目が飛び出て死んでしまったと古事記が伝えているのです。
 掘穴而隨立埋者、至埋腰時、兩目走拔而死。
 ※古事記より
 両目が飛び出るほどの恐怖を感じたのでしょう。想像しただけでかなり迫力がありますね。さらに、同じく同母兄の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)も焼き殺しています。
 兄たちを殺害した雄略天皇の勢いは止まりません。同母兄を始末したあとに狙うのは従兄弟です。
 市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)を狩りに誘い出し、猪を撃つ振りをして皇子を射殺しました。
 皇子が死んでしまい、嘆き悲しんだ皇子の従者も殺害した雄略天皇は、晴れて天皇の座を得たのです。
■浮気相手を始末するときも容赦がない
 天皇になった雄略天皇は、百済からやってきた池津媛を妃にしようとしていました。しかし、池津媛は石河楯という人物と密通していたことが発覚。身内にさえ残虐な殺し方をする雄略天皇が、浮気など許すはずがありません。
 大悪天皇と呼ばれた「雄略天皇」の残虐ぶりがすさまじい。両目が飛び出るほどの恐怖…
 猪狩りをする雄略天皇Wikipediaより)
 浮気を知った雄略天皇を、日本書紀では「大怒」と描写しています。
 よほどの怒りだったのでしょうね。
 百濟・池津媛、違天皇將幸、婬於石河楯。舊本云「石河股合首祖、楯。」天皇大怒、詔大伴室屋大連、使來目部、張夫婦四支於木、置假庪上、以火燒死。
 ※日本書紀より
 雄略天皇大伴室屋大連という部下に命じて、2人のもとに来目部を遣わせます。池津媛と石河楯は両手足を木に縛られたうえ、床に置いて焼き殺されたのです。
 このように、残虐な行いが日本書紀古事記に書かれている雄略天皇
 すべてが史実だったのかどうかはわかりません。ですが、このようなエピソードが残っていることからも、気性の激しい性格だったのでしょうね。
 参考サイト
 古事記全文検索
 日本書紀全文検索
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 日本書紀を読んでみた(その2 )
~ 雄略天皇は悪いだけでなく、女性関係もあった~
 さて、今回は雄略天皇の話になるのだが、ご存知の方も多いと思うがこの天皇陛下は中々「荒っぽい」人であった。分かり易く言えば暴君で、私が学生の頃はこの人を取り上げて「天皇も悪いことをしていたのだ」と言い募る人がいた。
 ところが、そんなことをいう人たちは口をそろえて「『古事記』や『日本書紀』に書いてあることなど信用できない」とも言っていたわけで、はて、ではその「信用できない」本に書いてある雄略天皇の話をなぜ信用するのか訊いてみたら、これまたみなさんが口をそろえて「屁理屈を言うな」と激怒されたのであった。
 まあ、その程度の人たちだったのだろう。
 で、『日本書紀』というのは決して天皇について良いことばかりは書いていない。悪い事と言うか、結構リアリズムである。正確には「政治的リアリズム」かもだが。つまり、要するに、「世の中は綺麗ごとだけで動いているのではない」ということを丁寧に書いている。
 さて雄略天皇だが、『日本書紀』の「雄略天皇紀」は冒頭、いきなり眉輪王による安康天皇の暗殺から始まっている。中々血生臭いのだな。
 この暗殺を受けて雄略さんはまず同母兄の八釣白彦皇子を詰問した。多分「お前がやったんかーっ!」とぶちかましたのだろう。そして八釣白彦皇子を殺してしまった! いやいや、雄略さん、そらアカンのとちゃいまっか。
 次にこれまた同母兄の坂合黒彦皇子を詰問、さらに眉輪王を問い詰めて自白を引き出す。そして、これはヤバイと思ったのか、坂合黒彦皇子と眉輪王は逃げ出して円大臣の屋敷に駆け込んだ。もちろん、雄略さんは兵を動員して円大臣の屋敷を包囲する。
 こらアカン、と思った円大臣は娘と領地を差し出して降伏を申し出たのだが、雄略さんはそれを認めず、屋敷に火を放ったのでみんな焼け死んでしまった。
 さらに安康天皇市辺押磐皇子に位を譲りたかったらしいが、これに不満な雄略さんは市辺押磐皇子を狩りに誘い出すと、殺害。しかもその死体を切り刻み、馬の飼葉桶に入れて土の中に埋めてしまったという。
 雄略さんは自分の兄弟を皆殺しにして即位したのだな。
 即位してからも大変である。
 かねてより宮中に入れたかった(お妾さんにしたかった?)百済の池津媛が石川楯と密通している(って、普通の恋愛ではないのか?)というので激怒した雄略さんは、この2人を磔にして焼き殺した。
 前回紹介した仁徳さんも同じようなことをやっていたが、やはり為政者と女性問題というのは切っても切り離せないものなのかもしれない。
 雄略さんの女性関係というと、一夜を共にしただけの女性が子供を産んだので、雄略さんはおかしいと疑った。そこで目大連が
 「一宵に幾廻喚ししや」
 と訊けば、雄略さんは
 「七廻喚しき」
 と答えている。
 これって、「一晩で何回セックスしましたか」と訊かれて「7回」と答えているのではないのか。目大連さんも「一晩中そんなことしてたら子供もできる」と呆れ返ったわけだな。
 昔から「英雄色を好む」と言うが、武闘派の人は女性関係も盛んなのである。
(来週はもっと凄い話になるかも)
 【言っておきたい古都がある・422】
 谷口年史(たにぐち・としふみ)
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 2020年11月22日 日本人のこころ 26
 大阪・奈良―雄略天皇日本書紀
 (APTF『真の家庭』247号[2019年5月]より)
 ジャーナリスト 高嶋 久
 『古事記』と『日本書紀
 皇太子が天皇に即位され、令和の時代が始まりました。元号は紀元前2世紀、中国・前漢武帝の時代から始まり、中国文化の影響下にあるベトナムや朝鮮にも広がりましたが、現在も使われているのは日本だけです。中国では清の滅亡とともに廃止され、以後、西暦が使われています。
 日本では645年に最初の元号「大化」が制定されました。同年、中臣鎌足中大兄皇子らが蘇我氏を滅ぼした「乙巳の変」が起こり、即位した孝徳天皇が定めたものです。
 これまで『古事記』に沿って日本の古代史を述べてきましたが、今回はもう一つの歴史書日本書紀』を取り上げます。『日本書紀』も『古事記』と同じ681年に天武天皇の命により編纂が始まり、720年に舎人親王(とねりしんのう)によって元正天皇(げんしょうてんのう)に献上されました。『古事記』が主に国内向けに日本式の漢文で書かれたのに対して、『日本書紀』は当時の先進国だった中国に向け、正式な漢文で書かれたものです。両書を合わせて『記紀』と呼ばれています。
 内容については、『古事記』が神武天皇が生まれるまでの神話が中心なのに対して、『日本書紀』は中国に天皇による日本統治を認めさせるため、神代から持統天皇までの天皇の記録が中心になっています。印象としては、『古事記』が物語的で面白く読めるのに対して、『日本書紀』は淡泊な記述です。
 今回は第21代の雄略天皇(5世紀末、允恭天皇7年~雄略天皇23年)を取り上げます。その理由は、物証によって実在が確認できる最古の天皇だからです。もっとも、当時は大王(おおきみ)で、まだ天皇の称号は使われていませんでした。
 埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)や、熊本県玉名郡和水町(なごみまち)の江田船山古墳(えたふなやまこふん)出土の銀象嵌銘鉄刀(ぎんぞうがんめいてっとう)に刻まれた「獲加多支鹵大王」を『古事記』や『日本書紀』に記された雄略の実名である「ワカタケル」と解する説が有力です。また古代中国の『宋書』や『梁書』に記された「倭の五王」中の「武」にも比定されることから、5世紀末に在位していた天皇と推測されています。
 稲荷山古墳の鉄剣は埼玉県行田市にある埼玉県立さきたま史跡の博物館に保管されていて、同博物館でレプリカを見ることができます。江田船山古墳の鉄刀は東京国立博物館に保管されています。
▲猪狩りをする雄略天皇ウィキペディアより)
 豪族連合から統一王権へ
 雄略天皇の時期は、ヤマト王権の勢力が強くなり、大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)制や財政機構を整え、関東までその力が及びました。雄略天皇は古代の天皇の中でも気性が荒く乱暴で、些細な罪で臣下を処刑することも多く、『日本書紀』では「朝に見ゆるものは夕べに殺され、夕べに見ゆるものは朝に殺され」とか、「天下そしりて大悪天皇ともうす」と書かれています。他方、有徳天皇という異名もあります。葛城山一言主神(ひとことぬしのかみ)と出会った雄略が一緒に猟を楽しみ、帰りは高取川まで送られたので、その豪胆さに感嘆した人たちが、口々に「有徳天皇」と讃えたというのです。そんな側面もあったのかもしれません。
 雄略の暴政に対して地方豪族が反乱を起こしましたが、全て鎮圧されています。彼らにとってはまさに「大悪天皇」でしょう。それまでの倭国は各地の有力豪族による連合体でしたが、専制的な雄略の登場により大王による全国支配が確立され、大王を中心とする中央集権体制が始まったと思われます。もっとも、全国と言っても東は関東までです。
 雄略天皇は第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の第5皇子として生まれました。第20代安康天皇は同母兄で、安康は皇后の連れ子である眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺されたとされます。大泊瀬皇子(おおはつせのみこ/即位前の雄略)は兄たちを殺し、さらに従兄弟たちも謀殺して競争相手を一掃し、大王位に就きます。古代においてはこうした兄弟間での争いはよくありました。
 雄略天皇は有力豪族を屈服させ、大王による専制支配を確立しようとしました。大王家の外戚として権勢を振るっていた葛城氏の族長を殺害し、最大の地域豪族であった吉備氏に対しても反乱鎮圧の名目で軍を送って討伐し、吉備氏を弱体化させました。考古学的にも、雄略が在位していた5世紀末頃より、地方豪族の首長墓から大型の前方後円墳が姿を消していることから、ヤマト王権の支配が地方にも及び始めたとされています。
 『記紀』によると、対外関係では、倭国軍が高句麗を破り、新羅に攻め込みますが、将軍が戦死したので敗走しました。その後、高句麗倭国と友好関係にあった百済を攻め滅ぼしたので、任那の一部を百済に与えて復興させています。479年に百済の三斤王(さんきんおう)が亡くなると、倭国に来ていた昆支王(こんきおう)の次子末多王(またおう)に筑紫の兵500人をつけて帰国させ、東城王(とうじょうおう)として即位させています。
 その他、中国から機織りの部族を招来し、また分散していた秦氏を統率して養蚕業を奨励するなど、渡来人技術者を重用しました。また、渡来系の書記2人を使者として大陸に2回派遣しています。雄略天皇の御陵は大阪府羽曳野市にある島泉丸山古墳(しまいずみまるやまこふん)とされています。
 このように、古代の日本は大陸や半島の政治情勢の影響を強く受けながら、天皇を中心とする統一政権を次第に確立し、中国・朝鮮から先進的な文化や技術を受け入れ、国づくりを進めてきたのです。
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