⛩13)─1─古事記。男性神・伊耶那岐命が男系父系Y染色体神話の原初である。~No.24No.25 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 天地開闢と共に高天原に最初に現れた神は、造化三神で、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神タカミムスビノカミ)、次に神産巣日神カミムスビノカミ)である。
 造化三神から他の多くの神々が次々と生まれてきた。
 最後に現れた神は、男性神伊耶那岐命と(イザナギノミコト=イザナギ)と女性神・伊耶那美命(イザナミノミコト=イザナミ)の夫婦神である。
 日本列島を創ったのが男性神伊耶那岐命と女性神・伊耶那美命である。
 伊耶那岐命が、左目を清めると天照大御神アマテラスオオミカミ)、右目を清めると月読尊(ツクヨミノミコト)、鼻を清めると須佐之男命(スサノオノミコト)が生まれた。
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 女性神、伊耶那美命と天照大御神
 男性神伊耶那岐命と月読尊と須佐之男命。
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 現天皇家・皇室の正統性は、天照大御神の直系子孫という特殊な血統・血筋と特別の皇統・家系であって、憲法・法律ではない。
 天皇に必要なのは、神話の正統性であって憲法の正当性ではない。
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 三貴子(みはしらのうずのみこ、さんきし)とは『古事記』で黄泉の国から帰ってきた伊邪那岐命イザナギ)が黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちた三柱の神々のことである。イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたところからこの名が生まれた。三貴神(さんきしん)とも呼ばれる。
 天照大御神 - イザナギの左目から生まれたとされる女神(本来は男神だったとする説もある)。太陽神。
 月読命 - イザナギの右目から生まれたとされる神(性別は記載していないが、男神とされることが多い)。夜を統べる月神
 須佐之男命 - イザナギの鼻から生まれたとされる男神。海原の神。
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 日本神話は、男系父系Y染色体神話であって女系母系X染色体物語ではない。
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 東京新聞
 【東京新聞フォーラム】
 「よみがえる古代の大和 古事記1300年のツボ」
 2012年9月9日
 東京新聞奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所主催の東京新聞フォーラム「よみがえる古代の大和 古事記1300年のツボ」が8月18日、東京都墨田区横網江戸東京博物館で開かれた。和田萃(あつむ)京都教育大学名誉教授が基調講演で「古事記の楽しい読み方」や「魅力」などを紹介した後、菅谷文則・橿原考古学研究所所長の司会で、和田氏に加えマンガ家の里中満智子さん、今尾文昭・橿原考古学研究所附属博物館学芸課長の3人のパネリストが意見を交換。パネル討論では考古学からみた古事記や、歴史的背景、成り立ちから「原文が書かれたのは木簡、それとも紙?」など興味深い話も取り上げられ、400人を超す聴衆は熱心に聴き入っていた。
 【主催者あいさつ】仙石誠・東京新聞代表
 「古事記」は、もともと口承で伝わってきた歴史を文字化したもので、極めて人間的な神様がいっぱい出てきます。古代国家が成立した千三百年前、当時の為政者がこの歴史書を編纂したこと自体、なかなかのものです。
 東京新聞も、後世に残る時代の記録をつくるため、今の世の中の出来事、皆さんが考えていることを正確に伝える努力をしています。本日のフォーラムもその活動の一環です。
 たっぷりと「古事記」の世界に浸ってください。

 【基調講演】「現代語訳から 親しみやすく」和田萃
 ことしは「古事記」が撰録(せんろく)されて千三百年というおめでたい佳節(かせつ)に当たり、奈良県や各市町村では、いろんな特別展を計画されています。
 最初に、「古事記」の読み方をお教えします。原文や読み下し文を読む前に、現代語訳を読む。一時間もかからずに内容が全部わかります。その後、日本神話の部分とか、八俣大蛇(やまたのおろち)の話とか、関心を持たれたところを深く読み込んだり、現地を訪ねたりされると、非常によくわかるのです。
 元明天皇の命令で「古事記」を筆録した太安万侶(おおのやすまろ)さんは、多臣品治(おおのおみほむじ)の子どもで、安万侶さんとその後一、二代だけ「太」という字を使っています。品治は大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)が信頼する家臣の一人で、壬申(じんしん)の乱の最大の功労者だったことが、後に安万侶さんの「古事記」の筆録に結びつきました。
 「古事記」には偽書説もありましたが、安万侶さんのお墓が見つかり、墓誌も発見された。また、「古事記」では「万葉集」より古い万葉仮名を使っていることがわかり、現在は安万侶さんが「古事記」を筆録したことは確かとされています。
 多氏(おおのし)は神武天皇の子である神八井耳命(かむやいみみのみこと)の直系子孫で、安万侶さんは十五代目に当たります。安万侶さんは文人だけでなく、武人としても名をはせた人でした。
 次に、「古事記」と「日本書紀」を比べると、「古事記」は非常に完成度が高く、文学性も豊かです。「日本書紀」はいろんな史料を提示しているのですが、歴史研究者から見ると、素朴な形から複雑な物語へどう変わっていったかということがよく分析できます。
 「古事記」と「日本書紀」は、帝紀(ていき)と旧辞(きゅうじ)を共通して使用しています。帝紀天皇の系譜、事蹟(じせき)を書いたもの、旧辞はいろんな伝承、物語、それに伴う歌謡です。「日本書紀」はそれに加えて、歴代天皇や各豪族、社寺の史料なども使っていますから、「古事記」は全三巻ですが、「日本書紀」は十倍の全三十巻あります。
 また、「古事記」は推古天皇のところで終わっています。編纂(へんさん)された和銅五(七一二)年から見れば、百二十年前の古代史に当たる歴史書です。「日本書紀」は七二〇年に完成しましたが、その二十三年前の持統天皇文武天皇に位を譲った日で終わっていますから、古代史から現代史まですべてを含んでいます。
 「古事記」の序文には、壬申の乱の後、天武天皇稗田阿礼(ひえだのあれ)を相手に帝紀旧辞の削偽定實(さくぎじょうじつ)(偽りを削り、真実を定める)を行ったという記事があります。これは「古事記」を考える一番のポイントです。
 稗田阿礼は非常に聡明(そうめい)で、目で字を追っていくと、おのずからその読み方が口をついて出る。聞いたことはいつまでも記憶している。それで天武天皇がみずから語りかけて、帝紀旧辞を誦習(しょうしゅう)(よみ習うこと)させた。これは丸暗記でなくて、既に記録にまとめられたものの読み方、時代背景などを習い覚えたという意味です。何が偽りで、何が真実か、天武天皇の高度な政治判断によって決められ、「古事記」が完成度の高い神話になったということが非常に重要です。
 京都教育大学名誉教授・和田萃氏 わだ あつむ 1944年、中国東北部(旧満州国遼陽市)生まれ。72年京都大学大学院(国史学専攻)博士課程修了。京都大学文学部助手をへて、京都教育大学へ、88年に教授。日本古代史を専攻し、日本古代の思想や文化、木簡などを研究。著書に「大系 日本の歴史2古墳の時代」「日本古代の儀礼と祭祀・信仰」など。

 【冒頭スピーチ】「農耕 全て恵みのもと」里中満智子
 私は、小学校6年生のころ、少年少女向けの「古事記物語」を初めて読みました。おもしろかったんですが、排せつ物の話がたくさん出てくる。
 戦いで負けたほうが苦し紛れに脱糞(だっぷん)するとか、豊穣(ほうじょう)の女神のような方が亡くなると、体のありとあらゆるところから、いろんな植物が生まれる。これがすべて食物のもととなるのですが、書かなくていい場所まで全部書いてある。子ども心に、農耕の中で捨てるものは何もない、すべてが恵みのもとであるということかなと思いました。
 「日本書紀」は歴史書であり、「古事記」は民族の物語です。日本と百済(くだら)は、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐と新羅(しらぎ)の連合軍に負け、百済は滅びました。日本は確固たる独立性を保たねばならなかった。それでつくったのが歴史書律令制度、機能する都の3点セットです。物語性が豊かで、私たちのアイデンティティー(自己の存在を認知させること)となるのが「古事記」、外交文書・国の独立性の根拠を示すものが「日本書紀」だと思います。
 マンガ家・里中満智子氏 さとなか まちこ 1948年大阪生まれ。64年(高校2年生)に「ピアの肖像」で第1回講談社新人漫画賞を受賞しプロデビュー。持統天皇を主人公にした全21巻の長編マンガ「天上の虹」で知られるように古代史にも精通。2010年度文化庁長官表彰。日本漫画家協会常務理事。大阪芸術大学キャラクター造形学科教授。

 【冒頭スピーチ】「本居宣長のころ流行」菅谷文則氏
 太安万侶の墓は、春日山の奥にあります。出てきた墓誌橿原考古学研究所附属博物館で展示しています。邸跡は平城宮の東にありますが、具体的な位置はわかっていない。
 稗田阿礼がどこにいたかは全くわかりません。奈良県大和郡山市に稗田という町があります。私は若いとき、そこをだいぶ発掘調査したんですが、わからなかった。
 明治の後半から天岩戸(あまのいわと)神話は日食だと盛んに言われました。私は昭和32年の日食を覚えていて、そんなに真っ暗にならない、違うと言い続けていました。
 鎌倉時代神道では、伊勢神宮の外宮の山の頂上にある巨大な横穴式石室を、天岩屋だとしておりました。
 「古事記」研究がブームになったのは、本居宣長(もとおりのりなが)のころが1回目で、現在の「古事記」研究の基本です。
 2回目は明治20~30年ごろ、市町村合併を強力にやって、新しい町名を記紀にある地名からとりました。3回目は昭和15年の紀元2600年の祝賀の時、現在が4回目です。

 【パネル討論】「歴史源泉 いざなう」
 菅谷文則さん(奈良県橿原考古学研究所所長) 最初に今尾さんから一言。
 今尾文昭さん(奈良県橿原考古学研究所附属博物館学芸課長) 「古事記」は天地開闢(てんちかいびゃく)より始めて推古天皇の御世(みよ)に終わる、非常に歴史観の明確な書物です。
 では、推古以前と以降でどのように変わるのか。推古の後は舒明(じょめい)天皇で、考古学から見て非常に新しい遺跡を提供しています。先年の発掘調査で明らかになった百済大寺は舒明みずからの勅願で、隣には宮殿をつくる。左右対称に整然とお寺と宮殿を配置するというのは、多分、舒明が最初でしょう。奈良県桜井市の段ノ塚古墳が舒明天皇陵とされていますが、何と平面形は八角形で、日本列島の古墳文化の中で最後に登場する墳形です。
 菅谷さん 「古事記」の人物イメージは。
 里中満智子さん(マンガ家) 「万葉集」に残された歌などを読んで、イメージしてくるものはあるのですが、基本的には私自身が描ける顔に限られます。四苦八苦しながら描いています。ただ、ビジュアル的にイメージがつかめると、流れがわかりやすくなります。人物配置とか出来事でも、こういう顔の人がこういう振る舞い方をしてとイメージすることで、理解が深まるような気がします。
 菅谷さん 「古事記」は、天武天皇がこういうものをつくろうと思ったときにつくらずに、二代置いて三代目の元明天皇のときにできる。なぜすぐに文字にしなかったのでしょうか。
 和田萃さん(京都教育大学名誉教授) 天武紀十年三月に天武天皇川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人の人々に(天皇系図を中心とした)帝紀および、(神話や伝承などの古い時代の出来事を記した)旧辞を定めさせたという記事がある。このときの人たちは、天武十二、三年にほかのポストに移っているので、この事業は三年くらいの間のものと考えられます。恐らくその段階である程度まとめられたものをもとに、天武天皇が削偽定實し、稗田阿礼が誦習したのだろうと思います。
 橿考研(奈良県橿原考古学研究所)の飛鳥京跡の百四次調査で、天武十年のこの事業に符合した木簡が出土しています。将来的にはあの辺から天武朝にかかわる大量の木簡が出るのではないか、飛鳥での木簡の状況から、天武朝における歴史の編纂事業はかなりつかめるのではないか。
 菅谷さん 推古朝につくられた国の歴史が「古事記」等に反映しているかどうか。大化の改新で焼けたことになっていますが、内容は皆さん知っていたわけですね。
 今尾さん 歴史書は、出来事については前代から引き続いていますから、反映はしているんだろうと思います。壬申(じんしん)の乱という、皇統がどちらに傾いてしまうかもわからない状況を実体験した持統や天武は、皇統をしっかりと受け継がせていくために歴史編纂をした。また、自分の皇統につながる人を皇祖として整える作業が必要で、そのために時間がかかったと思います。
 菅谷さん 「古事記」の理解を深めるためには、何を研究したらいいでしょうか。
 和田さん 「古事記」の神話伝承を明治になって初めて絵に描いたのは青木繁です。日本神話を具体的に人々に知らしめた。功績は高く評価されると思います。
 里中さん 私も、今、「古事記」を描いておりまして、来年一月一日発売予定ですが、本当に青木繁の絵はすばらしい。特に「わだつみのいろこの宮」はギリシャ神話のような描き方で、後で本を読んだときに、あっ、このシーンなんだと、すごく理解が深まるんです。
 政治的なことや考古学的なことは諸説があるでしょうが、自分たちの民族の神話を持つことで、自分たちの先祖がこれをよしとしたという価値観を読み取れます。何が事実か調べようもない部分はあっても、真実はあると思います。
 今尾さん 「古事記」の中に出てくる出来事を実際の考古遺物に置きかえることも必要だとは思いますが、「古事記」は編纂物ですから、編纂者の意図を念頭に置かないといけないだろうと思います。
 菅谷さん 今、学校でも(古事記を)「こじき」と習いますが、本居宣長は「ふることふみ」と呼んでいます。
 和田さん 正しくは「ふることふみ」で、古い時代のこと、あるいは歴史を編纂した書物という意味です。「日本書紀」も、最初完成したときは「日本紀」で、「日本書紀」とされたのは天平十(七三八)年ごろからです。日本の歴史書という意味で「やまとのふみ」です。
 菅谷さん 「古事記」は最初、何に書かれていたのでしょうか。われわれは「古事記」ができてから四百年ほど後のものしか見てない。その間どんな形で伝わったかが大事だと思うのです。
 里中さん 昔から竹簡とか木簡に字を書いて、それを正式なものにするときはきちんとした和紙に書いていた。正倉院に納められた物の中にも巻物はたくさんあります。最終的な完成品は巻物の形ではなかったかと思います。
 和田さん 「古事記」は紙に書かれていたことは間違いないと思います。正倉院に大宝二(七〇二)年の美濃国の戸籍がありますが、それは全部紙に書いておりますし、その後に「古事記」(七一二年)が世に出たわけですから、紙に書かれていた。平安時代になると紙すきが非常に盛んになって、紙が大量に生産されるようになるのですが、奈良時代はどこで紙をつくっていたのか。正倉院文書あるいは東大寺文書は、経典の裏の白紙に書いております。
 菅谷さん きょうのまとめとして、「日本書紀」「古事記」の二つの歴史書は、編纂の目標・目的が少し違うらしい。そして、「日本書紀」はともかく、「古事記」は紙に書かれて巻物の形であったらしい。そういうことを知るためにも、考古学の資料も見ていただいたら大変ありがたいと思います。

 橿原考古学研究所附属博物館学芸課長・今尾文昭氏 いまお ふみあき 1955年兵庫県生まれ。同志社大学文学部卒業。78年から奈良県橿原考古学研究所勤務。博士(文学)。著作に「古墳文化の成立と社会」「律令期陵墓の成立と都城」など。専門は日本考古学、古墳時代、地域史。
 橿原考古学研究所所長・菅谷文則氏 すがや ふみのり 1942年奈良県生まれ。68年から奈良県橿原考古学研究所に勤務。95年から2008年まで滋賀県立大学教授。同名誉教授。この間中国で北周の発掘調査を行うなど、シルクロードの考古学を研究。09年から現職。今年4月から7月に、東京新聞夕刊に「絹の道 文化考」を連載した。
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 日本赤十字社「日本の神話 古事記 
 日本の神話を読んだことはありますか?
 子どもも大人も、楽しく日本の神話を読んでみましょう!
 2018.1.13 神話を訪ねて 第14回  大神神社 をアップしました。
 東日本大震災で犠牲となられた方のご冥福を心よりお祈りいたします
 また被災地の一日も早い復興を応援いたします
 アマテラスオオミカミスサノオノミコトヤマタノオロチ(八岐大蛇)、オオクニヌシヤマトタケル、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)...みなさんは、日本の神話に登場する人物などの名前を一度は、聞いたことがあるでしょう。でも、神話の本(古事記こじき)を実際に読んだことがある人は少ないと思います。
 私が、子どもの頃(昭和40年代)は、まだ本屋さんでは、日本の神話の絵本がたくさん売っていました。「因幡(いなば)の白兎(うさぎ)」の話は、特に印象に残っています。ところが、最近は、(お子さんをお持ちの大人の方はご存知かと思いますが、)東京のかなり大きな書店でも、日本の神話の絵本などほとんど見かけることはありません。日本の昔話の絵本もかなり少なくなっていて、幼児の絵本といえば、ミッキーマウスファインディング・ニモといったディズニーのものや指輪物語など西欧の物語本がほとんどです。
 世界では、グローバリゼーションといって、英語が事実上の国際語となり、アメリカを中心とした世界的な経済市場の自由化が進められています。世界中の国々にアメリカの商品(コカコーラ、マクドナルド、スターバックスコーヒー)や文化(ハリウッド映画、ディズニーランド)が広がって来ているのです。またコンピュータやインターネットの技術などもアメリカの独占場となっています。
 したがって、グローバリゼーションとは、「世界の人々の生活スタイルの均一化(アメリカ化)」を促進しているともいえます。これから日本の将来をになう子どもたちは、イヤでも、こうした国際化社会の中で生きていかざるをえません。今よりももっと外国人との交流や外国の文化に接する機会は多くなっていくことでしょう。英語やインターネットをしっかり勉強しなくてはなりませんね。しかし、現在のようなアメリカ化をすることがよいことだとは思いません。アメリカ化するのが、国際化では決してありません。国際化とは、世界がひとつの国になるということではありません。民族や文化が違う人々が、その違いを尊重しつつ、戦争のない平和な社会を作って行くことが、本当の意味の国際化だと思います。
 みなさんが、将来、仕事で外国に住んだり、日本に来る外国人と友だちになったりする機会はますます増えてくるでしょう。外国人の友だちとお互いの国の文化について話をするときに、日本人であるみなさんが、自分たちの国の神話について何も知らないとすれば、それはとても恥ずかしいことです。ヨーロッパやアメリカの西欧文明は、キリスト教という宗教がその母体となって進歩してきたものです。西欧の文明を理解するには、キリスト教の歴史を学ばなければなりません。それと同じように、日本文化を理解する上で、日本の神話の知識は不可欠です。
 このサイトは、日本の若い人たちに日本の神話を楽しく読んでもらおうという目的で作りました。それでは素朴で大らかですばらしき古事記の世界へみなさんをご案内いたしましょう!」
 第1章 神々の出現
 昔むかし、この世界で最初に天に現れましたのは、アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)という神様でした。次に、タカミムスビノカミ(高御産巣日神)とカミムスビノカミ(神産巣日神)という神様が出現なさいました。この三柱(みはしら。※神様の数は、「柱」で数えます。)の神様は、そのお姿を地上には、直接現しませんでした。
 その次に、日本の国がまだ海に浮かぶ脂のごとく、くらげのようにただよっていた時に葦(あし)の芽が萌え上がるように現れたのは、ウマシアシカビヒコジノカミ(宇摩志阿斯訶備比古遅神)とアメノトコタチ(天之常立神)という神様でした。これらの五柱の神様は、コトアマツカミ(別天つ神)といって、それぞれ独身(ひとりみ)で現れた天の神様たちです。
 その後、クニノトコタチノカミ(国之常立神)とトヨクモノカミ(豊雲野神)の二柱の神様が独身で現れました。その次からは、ご夫婦の神として五組の神々が現れました。そのうちの最後に現れましたのは、イザナギの神と(伊耶那岐命イザナギノミコト)とイザナミの女神(イザナミノミコト=伊耶那美命)のご夫婦の神様です。(以上、クニノトコタチの神からイザナミの女神までを「神代七代(かみよななよ)」といいます。※ご夫婦の神は、二柱で一代です。)

 第2章 日本列島の誕生(1) 国生み
 ある時、天の神様たちは、イザナギノミコトとイザナミノミコトに「この海の中にふわふわと漂っている国をしっかりと固めて完成させてほしい。」とおっしゃって、天にあるりっぱな矛(ほこ)をお授けになられました。
 そこで、イザナギノミコトとイザナミノミコトは、天からつながっている浮桟橋(うきさんばし)までやって来て、矛を降ろして、下界の海水をゴロゴロと掻き回してから、引き上げてみました。その時に、矛の先からしたたる海水が重なってできたのがオノゴロ島(大阪湾内の島?)です。
 イザナギノミコトとイザナミノミコトは、その島に天から降り立って、天の神聖な大きな柱をお立てになり、その柱を中心として大きな御殿を作られました。そして、イザナギノミコトは、妻のイザナミノミコトにお尋ねになりました。
「あなたの身体はどのようになっていますか?」
 「私の身体は、すっかり美しく出来上がっていますが、一カ所だけ出来きれていないところがあります。」
 とイザナミノミコトがお答えになられると、
 「ほう、私の身体もよく出来上がっているが、一カ所だけ出来き過ぎたところがあります。では、私のからだの出来すぎたところをあなたの身体の出来きれないところに刺して、塞いで、この国を生みたいと思うのだが、どうだろうか?」
 「それがよろしいでしょう。」
イザナミノミコトもおっしゃいましたので、イザナギノミコトは、
 「では、私とあなたはこの天の御柱(あめのみはしら)を回って出会い、男女の交わりをいたしましょう。私は、右から回るので、あなたは、左から回ってみてください。」
と約束されてから、お回りになったときに、妻が先に
 「まあ、本当にすてきな男性ですね。」
 とおしゃって、その次に夫が、
 「やあ、本当に美しい女性ですね。」
 とおっしゃいました。それぞれが言い終わった後に、イザナギノミコトは、
 「どうも女が先に言うのはしっくりとこない。」
とおっしゃいましたが、ともかく暗い場所で子をお生みになりました。しかし、この子はとても醜くい子であったので、葦の船に乗せて流してしまわれました。次に淡島(あわしま。四国の阿波地方=現在の徳島県を指す)をお生みになりましたが、これも子どもとはみなされませんでした。

 第6章 黄泉返りと禊ぎ(よみがえりとみそぎ)
 こうしてイザナギノミコトは、やっと黄泉の国から地上へ戻られました。(このことから、日本語の「よみがえる=蘇る・蘇る」は、「黄泉の国から返る」という意味が元になっているのす。)
 イザナギノミコトは、「わたしは、とても汚く穢(けが)れた醜(みにく)い国へ行ってしまったので、みそぎ(禊ぎ)をしなければならない。」がおっしゃって、九州の日向(ひゅうが=現在の宮崎県北部)の「橘の小門の阿波岐原(たちばなのおどのあはきはら)」にお出ましになり、みそぎをなさいました。その時に、身につけていたもの(杖・帯・袋・衣服・袴・冠・腕輪)を投げ捨てする時に十二柱の神々※が出現しました。
 ※衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)、道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)、時量師神(ときはかしのかみ)、和豆良比能宇斯神(わずらいのうしのかみ)、道俣神(ちまたのかみ)、飽咋之宇斯神(あきぐいのうしのかみ)、奥疎神(おきさかるのかみ)、奥津那芸佐?古神(おきつなぎさびこのかみ)、奥津甲斐弁羅神(おきつかいべらのかみ)、辺疎神(へさかるのかみ)、辺津那芸佐?古神(へつなぎさびこのかみ)、辺津甲斐弁羅神(へつかいべらのかみ)
 そして、イザナギノミコトは、「上流の方は水の流れが速く、下流はおそい。」とおっしゃられて、海の真ん中で身体(からだ)をお洗いになった時に、十柱の神々がお生まれになりました。
 最初の二柱の神は、黄泉の国にいたときの汚れたものから生まれた神(禍の神)で、ヤソマガツヒノカミ(八十禍津日神)とオオマガツヒノカミ(大禍津日神)です。
 次に生まれた三柱の神は、黄泉の国で取り憑いた禍(わざわい)を取り除くときに生まれた神で、カミナオビノカミ(神直?神)、オオナオビノカミ(大直?神)、イズノメ(伊豆能売)です。
 次に生まれた六柱の神は、いずれも海の神です。
 海の底で身体を洗われた時に生まれたソコツワタツミノカミ(底津綿津見神)とソコツツオノミコト(底筒男命
 海中で身体を洗われた時に生まれたナカツワタツミノカミ(中津綿津見神)とナカツツオノミコト(中筒男命
 海面で身体を洗われた時に生まれたウエツワタツミノカミ(上津綿津見神)とウエツツノオノミコト(上筒男命)
 以上のうち三柱のワタツミノカミ(綿津見神)は、安曇氏(あずみうじ)たちの祖先の神です。
 また、ソコツツ、ナカツツ、ウエツツの三柱の神は、住吉神社に祭られている神です。
 最後にうまれた三柱の神々は、左の目をお洗いになった時に出現したアマテラスオオミカミ天照大御神)、右の目をお洗いになった時に出現したツクヨミノミコト(月読命)、鼻をお洗いになった時に出現したスサノオノミコト須佐之男命)です。
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 古事記
 現代語譯 古事記
 稗田の阿禮、太の安萬侶
 武田祐吉
 古事記 上の卷 序文がついています
 序文
 過去の時代(序文の第一段)
 ――古事記の成立の前提として、本文に記されている過去のことについて、まずわれわれが、傳えごとによつて過去のことを知ることを述べ、續いて歴代の天皇がこれによつて徳教を正したことを述べる。太の安萬侶によつて代表される古人が、古事記
 内容をどのように考えていたかがあきらかにされる。古事記成立の思想的根據である。
 ――わたくし安萬侶(やすまろ)が申しあげます。
 宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからし天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、禊(みそぎ)をして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。
 ほんとにそうです。神々が賢木(さかき)の枝に玉をかけ、スサノヲの命が玉を噛んで吐いたことがあつてから、代々の天皇が續き、天照らす大神が劒をお噛みになり、スサノヲの命が大蛇を斬つたことがあつてから、多くの神々が繁殖しました。神々が天のヤスの川の川原で會議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノヲの命が、出雲の國のイザサの小濱で大國主の神に領土を讓るようにと談判されてから國内をしずかにされました。これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、神武天皇がヤマトの國におでましになりました。この天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。そこで崇神天皇は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。成務天皇は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、允恭天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。

 古事記の企畫(序文の第二段)
 ――前半は天武天皇の御事蹟と徳行について述べる。後半、古來の傳えごとに關心をもたれ、これをもつて國家經營の基本であるとなし、これを正して稗田の阿禮をして誦み習わしめられたが、まだ書物とするに至らなかつたことを記す。
 ――飛鳥(あすか)の清原(きよみはら)の大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入つて衣服を變えてお隱れになり、人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。そこで軍に使つた牛馬を休ませ、なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、歌い舞つて都におとどまりになりました。そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになりました。その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。陰と陽との二つの氣性の正しいのに乘じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。
 ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」と仰せられました。その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。

 古事記の成立(序文の第三段)
 ――はじめに元明天皇の徳をたたえ、その命令によつて稗田の阿禮の誦み習つたものを記したことを述べる。特に文章を書くにあたつての苦心が述べられている。そうして記事の範圍、およびこれを三卷に分けたことを述べて終る。
 ――謹んで思いまするに、今上天皇陛下(元明天皇)は、帝位におつきになつて堂々とましまし、天地人の萬物に通じて人民を正しくお育てになります。皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにも及んでいます。太陽は中天に昇つて光を増し、雲は散つて晴れわたります。二つの枝が一つになり、一本の莖から二本の穗が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。國境を越えて知らない國から奉ります物は、お倉にからになる月がありません。お名まえは夏の禹王(うおう)よりも高く聞え御徳は殷(いん)の湯王(とうおう)よりもまさつているというべきであります。そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。
 しかしながら古代にありましては、言葉も内容も共に素朴でありまして、文章に作り、句を組織しようと致しましても、文字に書き現わすことが困難であります。文字を訓で讀むように書けば、その言葉が思いつきませんでしようし、そうかと言つて字音で讀むように書けばたいへん長くなります。そこで今、一句の中に音讀訓讀の文字を交えて使い、時によつては一つの事を記すのに全く訓讀の文字ばかりで書きもしました。言葉やわけのわかりにくいのは註を加えてはつきりさせ、意味のとり易いのは別に註を加えません。またクサカという姓に日下と書き、タラシという名まえに帶の字を使うなど、こういう類は、もとのままにして改めません。大體書きました事は、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアヘズの命までを上卷とし、神武天皇から應神天皇までを中卷とし、仁徳天皇から推古天皇までを下卷としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上いたします。わたくし安萬侶、謹みかしこまつて申しあげます。
 和銅五年正月二十八日
 正五位の上勳五等 太の朝臣安萬侶

一、イザナギの命とイザナミの命
 天地のはじめ
 ――世界のはじめにまず神々の出現したことを説く。これらの神名には、それぞれ意味があつて、その順次に出現することによつて世界ができてゆくことを述べる。特に最初の三神は、抽象的概念の表現として重視される。日本の神話のうちもつとも思想的な部分である。
 ――昔、この世界の一番始めの時に、天で御出現になつた神樣は、お名をアメノミナカヌシの神といいました。次の神樣はタカミムスビの神、次の神樣はカムムスビの神、この御(お)三方(かた)は皆お獨で御出現になつて、やがて形をお隱しなさいました。次に國ができたてで水に浮いた脂のようであり、水母(くらげ)のようにふわふわ漂つている時に、泥の中から葦(あし)が芽(め)を出して來るような勢いの物によつて御出現になつた神樣は、ウマシアシカビヒコヂの神といい、次にアメノトコタチの神といいました。この方々(かたがた)も皆お獨で御出現になつて形をお隱しになりました。
 以上の五神は、特別の天の神樣です。
 それから次々に現われ出た神樣は、クニノトコタチの神、トヨクモノの神、ウヒヂニの神、スヒヂニの女神、ツノグヒの神、イクグヒの女神、オホトノヂの神、オホトノベの女神、オモダルの神、アヤカシコネの女神、それからイザナギの神とイザナミの女神とでした。このクニノトコタチの神からイザナミの神までを神代七代と申します。そのうち始めの御二方(おふたかた)はお獨立(ひとりだ)ちであり、ウヒヂニの神から以下は御二方で一代でありました。
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